今月の言葉抄 2006年6月

自我主張を自己主張とはきちがえている

自分の国の人間は、集団の力では日本人に負けるが、個人で比較すれば日本人以上の能力をもっている―外国人の中でも、とくに韓国人と中国人はそう思っているようだ。また、韓国、中華経済圏、東南アジア諸国に出ている日本人ビジネスマンたちにあっても、現地の人々について「個人的な力量からいったら日本人より上だ」という印象がかなり一般的なものとしてあるように感じられた。

かっての私もそう思っていた。でも、よく考えてみればこれはおかしなことではないのか。弱い個人が何人集まったところで、強い集団をつくるには自ずから限界がある。それはスポーツのチームを見たって歴然としていることではないか。したがって「個人では弱いが集団では強い日本人」という言い方は、どこか間違っているのである。

問題となっている強弱は、およそ表面に出た自己主張の強弱、押し出しの強さと弱さであり、その場その場でどちらの主張が上位の見かけをとるかというところで、日本人の劣位が印象づけられていることが多い。先に述べた韓国人女性人の二つのケースなどはその典型である。いってみれば、日本人はどこか「負けるが勝ち」という態度や姿勢をとるところがあるのだ。

そして、外国人にはあまり気づかれていないことだが、日本人が「負けるが勝ち」という位置に立つ場合は、私の経験からすれば、相手の自己主張の内容の大半が「わがまま」と感じられているときなのである。日本的な言い方をすれば「泣く子と地頭には勝てぬ」ということになる。ようするに、身勝手に自分の力を振りかざす者には負けをきめこむのが一番だ、という考え方である。

「個人では弱い日本人」という説が流布するのは、ひとつにはそういう日本人の姿勢や態度が顕著に見られるからだと思う。

韓国人や中国人を雇う日本企業の責任者の多くは、「強い自己主張をもつことはとてもいいことだし、われわれも学ばなくてはならないと思いますが、そのために集団的な作業で協調できないのは困りますね」と、その点が大きなネックになっていると主張する。しかし私は、韓国人や中国人に強いのは自己主張というよりは、”自我主張”というべきものだと思う。逆にいえば、日本人が強く押し出そうとしないのは自己主張なのではなく自我主張なのである。

そう考えると、「個人では弱いが集団では強い日本人」という矛盾した通説は、よく説明することができるように思う。つまり、「個人が弱いと見えるのは、自我を強く押し出すことを嫌い抑えることをよしとしているからだ、だから他人と協調することができて集団の力を強く発揮できるのだ」と。

韓国人や中国人には、自己と自我とがよく区別されておらず、自我を強く主張することが自己主張だと思っているきらいがある。それに対して日本人は、どこか「無我」を理想として追求しようとするところがあり、そのため我執がしゅうはことのほか卑しい態度と感じられている。近年、日本人のあいだに醸成されつつある「嫌韓」なるものの正体も、韓国人の強い自己主張に対する嫌悪の情だと思う。

自己と自我とはどこが違うのかは難しい問題だが、個人の優れた主張とは多くの人々を感心させる主張であることは間違いない。一般的な主張では見えてこなかった点を指摘してくれたり、一般的な主張を一歩進めて新しい地平を開いてくれるような個人の主張が優れた自己主張といえる。そうだとすれば、一般性の革新へと向かう個人の主張を自己主張(個人の強さ)とよぶべきなのである。

私にとって「強い自己主張」と思えるものは、一般性の革新へ向かおうとする強い意志を感じさせる個人の主張である。個人の力量とか能力とかは、本来そこにかかわるものであるはずなのだ。それが日本人に弱いとはとうてい思えないし、韓国人や中国人が日本以上に強いとはとうてい思えない。

(「外国人が口をそろえて語る日本人に対するある印象」から)
『日本が嫌いな日本人へ』(PHP研究所 1998年)呉 善花(お そんふぁ)著
更新2006年6月21日