今月の言葉抄 2006年10月

ありきたりな意見

50年前、私は15歳の少年で、ミシシッピー川の土手沿いのミズリー風の村に住んでいた頃、一人の友だちがいた。彼の生活圏には親しく出入りしていたのだが、それは母が禁じていたからだった。彼は陽気で、ずうずうしくもあり、言葉は辛らつで、実に愉快な若い黒人すなわち奴隷であって、毎日主人の木材の積荷の上で、私ひとりの聴衆を相手に説教をするのであった。村の牧師たちの説教壇上の調子の真似をするのだが、それもすばらしい熱意と雄弁さでもって、実にうまくやるのであった。私には、そんな彼が驚異そのものであった。合衆国最高の説教者だと思っていたし、いつの日か評判が広まるだろうと信じていた。しかしそんなことは起こらなかった、天の報酬の配分において、彼は無視されたのである。世の中はそんなものだ。

木材を切るために、彼は時々説教を中断しなければならなかったが、木を切るのは見せかけだけで、それを口でやっていたのである、のこぎりが金切り声をたてて木を切る調子を、そっくり真似していたのである。しかしそれはうまくいった、主人が仕事の進捗状況を見にくる必要をなくしたのだから。私は彼の説教を、家の裏側の物置小屋の窓を大きく開けて聞いていた。彼の説教のひとつはこんな具合だった。

「なにでパンを稼いでいるか言ってみろ、そしたら俺はそん奴がどんな意見を持っているか当てやろう」

私は決してこれを忘れないだろう。それは深く私に刻印された。私の母によって。記憶にではなく、ほかの部分に。私がすっかり聞きほれていて、警戒していなかった隙間に、母は部屋にそっと忍び込んできて私をガツンとやったのである。黒人哲学者の考えは、人は自主独立な存在ではなく、パンとバターに差し障りのある見解をもつことはないということだ。もし成功したければ、多数派につかなければならない、政治とか宗教のような重要問題については、多数の隣人たちと一緒に考え感じなければならない、さもないと社会的立場や仕事上で損害をこうむることになる。人はありきたりの意見に甘んじなければならない・・少なくとも表面上は。自分の意見を、他人の意見から得なければならない、自分で考えてはいけない、自分独自の意見を持ってはいけない。

ジェリーは大筋で正しかったと思うが、ただもっと推し進めても良かっただろうと思う。

1 人は、損得計算と下心によって、その地域の多数派の意見に同調する、というのは彼の考えだ。たしかにそうだが、そればかりではないだろう。

2 自分独自の意見、つまり独創的な意見、それは助言を必要としない知性をもち、外部の影響を受けない法廷のような部屋で、関連する諸事実の詳細な分析を通して、頭の中で冷静に考え抜かれた意見がある、というのも彼の考えだ。そのような意見はいつかどこかで生まれるだろうが、掴まえて、箱詰めにし、博物館送りなる前に、するりと逃げてしまうだろう。

思うに、衣装の流行や作法や文学や宗教やその他われわれの注目や関心を引く分野に現れたどんな事柄対しても、冷静に考え抜かれたそして自主独立に下された判決というものは、非常に稀なものである、そんなものが存在すればの話であるが。

新しい衣装が現れる―例えばフレアの付いたフープスカート―通行人はショックを受ける、そして冷ややかな笑い。6ヵ月後にはみんなが受け入れる、そのファッションは定着し、今は賞賛される、誰も笑わない。世論は以前は憤慨していたが、今は受け入れている、そして楽しんでいる。何故だろう。その時の憤慨は、考え抜かれたものだったのか。受容は考え抜かれた結果だったのか。いや違う。同調しようとする本能がそうさせたのだ。同調しようとするのは、われわれの性(さが)だ、ほとんどの人が抵抗することのできない力だ。その権威は何なのか。自己承認への先天的な要求だ。われわれすべてがそれに頭を下げる、例外はない。フープスカートをはくことを徹頭徹尾拒否する女性もこの法則に支配され、そしてその奴隷になる、彼女はそのスカートをはかなければ自分自身の承認を得ることができないのだ、彼女はどうしても自分自身の承認を得なければならない、そうせざるを得ないのだ。しかし通常われわれの自己承認は、ほかでもないただひとつの点にその源がある、すなわち他人が承認してくれる、このことである。大きな影響力のある人は、どんな種類の新奇なドレスをも着ることができる、そして世間一般は間もなくそれを受け入れる、それに同調しようとする、まず第一に権威というあの曖昧な何かに屈服しようとする自然な本能によって、第二に多数派に付こうとする人間的な本能によって、そして承認を得るのである。女王が最初にフープスカートをはく、その結果は周知のとおりだ。誰かが最初にブルマーをはく、結果は周知のとおりだ。もしイヴが前評判とともにやって来て、再びあの奇妙な格好で現れたら、さて何が起こるか、周知のとおりだ。まずもってひどく困惑するだろうが。

フープスカートは流行しそしてすたれる。誰もそのことを考えない。ある女性が流行の服を着なくなる、隣の人がそれに気づく、そして同調する、これが次の女性に影響する、そして次から次へと波及し、今はこのスカートは世間から完全に消えてしまっている、どうしてこうなったのか、何故なのか、誰も気にしない。また流行るだろう、やがて時がくればまた現れるだろう。

20年前イングランドで、ディナーパーティのそれぞれの食卓には、6個から8個のワイングラスが並べられ、全部のグラスが使われた、手がつけられなかったり空っぽのグラスはなかった、今は3個か4個のグラスが並ぶが、平均的な客が使うのは控えめにせいぜい2個位だ。われわれはこの新しい流行をまだ受け入れていないが、いまにそうなるだろう。われわれはこのことを考え抜いたりしないだろう、単に同調するだけだ、そしてそれが流行る。われわれは観念や習慣や意見を外部の影響から得るのだ、それらを究明したりしない。

テーブルマナーや会社のマナーや路上のマナーなども時とともに変わる、しかしその変化がよく考えられることはない、単に認めそして同調するだけだ。われわれは外部の影響力の創造物だ、通常われわれは考えない、ただ真似るだけだ。われわれは永続する基準を考え出したりしない、基準と思っているのは単なる流行で、すぐ消えてゆく。それらを賞賛はするが、すぐ使うのをやめてしまう。これを文学にも見出す。シェークスピアは基準だ、そして50年前われわれは明らかにシェークスピア風の悲劇をよく書いたものだ、しかし今はもう悲劇は書かれない。われわれの散文の基準は、4分の3世紀前には、装飾的で散漫だったが、誰か知らぬ権威ある者が引き締まって簡潔な方向に変えたのだ、そして議論することもなくそれに同調したのである。歴史小説が突然書かれ、全国に拡がる、誰もがそれを書き、国民は喜ぶ。かって歴史小説は沢山あったが、いま誰も読まない、みんなもそれに同調する、考えもせずに。われわれは今度は他の方法で同調している、なぜなら誰もがそうしているからだ。

外部の影響力は常にわれわれに注ぎ込んでいる、そしてわれわれは常にその命令に従いその判決を受け入れているのだ。スミス家の人々は新しい演劇が好きだ、ジョネシズ家の人々はそれを見に行く、そしてスミス家の判決をそっくり真似るのだ。道徳も宗教も政治も、ほとんど全面的に、周りの影響力や雰囲気から支持者を獲得するのである、詳しく調べたり考えたりしてではなく。人はまずもって、人生のあらゆる瞬間と局面に際して、絶えず自分自身の承認を得なければならない・・・たとえ自己承認の行為を犯したすぐあとでそれを後悔するとしても、再び自己承認を得るために。しかし一般的に言えば、人生という重大事において、自己承認は他人が自分を承認することのなかに源があるのであり、自分で事柄の詳細な検証を行なうことにはないということである。マホメット教徒がマホメット教徒であるのは、彼らがその宗派に生まれ育ったからであり、考え抜いてマホメット教徒であることのしっかりした理由を備えたからではない、われわれは知っている、カトリック教徒はなぜカトリック教徒なのか、長老派の信徒はなぜ長老派の信徒であるのか、バプテスト派の信徒はなぜバプテスト派の信徒なのか、モルモン教徒はなぜモルモン教徒なのか、なぜ盗人は盗人なのか、君主制支持者はなぜ君主制支持者なのか、なぜ共和党員は共和党員で民主党員は民主党員なのか。われわれは知っている、それは仲間同士の交際と仲間同士の同情の故であり、理性的な判断と検証の故ではない。世の中の人間は、仲間同士の交際と仲間同士の同情以外の方法で、道徳や政治や宗教に関する意見を持つことはほとんどない。遠慮なく言わせてもらえば、ありきたりの意見の他は何もない。さらに遠慮なく言わせてもらえば、ありきたりであることが自己承認を意味しているのだ。自己承認とは、大筋では他人から承認されることによって得られるのものだ。その結果は同調である。時に同調は浅ましい商売上の利害がからむ、パンとバターの利害であるが、私はほとんどがそうだと思っているわけではない。私が思うに、大抵無自覚にやっており、計算ずくでやっているわけではない、つまり仲間に良く思われたいそして仲間から積極的な承認と賞賛を得たいという人間の自然な願望から出てくるのである・・・それは一般にたいへん強く執拗で、実際には押さえることができないのであり、そしてその願望が大手を振って歩いてゆく。政治的緊急事態にあっては、おもに二つの亜種の形で、堂々とありきたりの意見が持ち出される、自己利益に源をもつ財布の亜種と、もっと大きな亜種である感情の亜種、すなわち群れの外にいることに耐えられない、嫌われていることに耐えられない、顔をそむけられ冷たくあしらわれることに耐えられない、同僚に良く思われたい、にっこり微笑みかけられたい、歓迎されたい、「奴は時流に乗っている」などの琴線に触れる評判を聞きたい、などなどが感情に訴える。多分馬鹿にしかも程度の高い馬鹿に言われたいのだ、もっと小粒の馬鹿にはその承認が黄金やダイヤモンドに値し、そして栄光と名誉と幸福を授けられ、群れの中で会員資格を与えられる。このような安ピカで派手な儀礼のためには、ほとんどの人間は終生の信条をも通りに捨てる、良心と一緒に。われわれはその有様を見てきた。何百万という事例で。

重要な政治問題を考えていると言う人たちがいる、実際そうだろう、しかし彼らは党とともに考えているのであって、自主独立に考えているわけではない、彼らは関連する資料を読むだろうがしかし反対陣営の資料も読むわけではない、彼らは確信を得るだろうが、それは当面の問題の部分的見解から引き出された結果であって特別な価値のあるものではない。彼らは党に群がり、党とともに感じ、党の承認を得て幸せなのである、そして党が導くところなら彼らはどこへでもついて行く、正義と名誉のためであろうと、また血と泥と半端な道徳の戯言のなかであろうと。

最近の世論調査によると、国民の半数は人生の終わりに救いが待っていると熱烈に信じており、他の半数は破滅が待っていると熱烈に信じている。どちらの側も十分の一の人々がこの問題について意見を持つことになんらかの合理的な理由付けを持っている、なんて信じられるだろうか。私はこの大問題を徹底的に調べたが・・・何も得るものはなかった。国民の半数は高率関税を熱烈に信じており、他の半数はその反対を信じている。このことは究明と検証を意味しているだろうかそれとも単なる感情なのだろうか。後者だろうと私は思う。この問題も深く調べてみたが・・・何の結論にも達しなかった。われわれは誰もがことごとく感情でことを行なうのだ、それを考えた結果と勘違いしている。そこから集団に至りそれを恩寵と考えている。その名を世論という。それは敬われている。それがすべてを決定する。それを神の声と思っている人もいる。

"Corn-pone Opinions" by Mark Twain
『The Best American Essays of the Century』
 (Houghton Miffilin Company 2000)

実に面白いエッセイだと思う。3年ほど前、相鉄沿線で毎週土曜日にやっている「時事英語勉強会」で、私が当番のとき教材に取り上げて読んだのだが、その後なぜか折々にこのエッセイのことが思い出され、Mark Twain の言っていることは本当だなあとの思いが強くなった。人間の有様の本質を皮肉たっぷりにとらえており、これは真理だと言ってもいいのではないかと思うまでになった。悪戦苦闘して翻訳し、今月の言葉抄に掲載する次第です。原文はpaulgraham.comにあります。なお、key word のひとつである comformity を同調と訳したのであるが、本来なら付和雷同という言葉が文脈からいってもっとも適切かなと思う。しかし動詞でも使われているので、お茶を濁してしまった。(管理人)

更新2006年10月15日