今月の言葉抄 2006年10月

救国の宰相・鈴木貫太郎

1945年4月、すでに戦局は絶望的である。組閣の大命を受けたとき、
「私は一介の武弁。おまけに七十八歳の老いぼれで、このとおり耳も遠くなっておりますし、その儀は余人に・・・」
 固辞する貫太郎(鈴木貫太郎)に天皇は言う。
「耳が遠くてもかまわん。けいの他に人はいない。どうか受けてくれ」
 涙ながらの懇願に貫太郎は大命を受ける。昭和天皇にとって、貫太郎は「父」ともたのむ存在だった。夫人のたか・・女は裕仁ひろひとの養育係だった。だからこそニ・ニ六事件のおり、貫太郎が瀕死ひんしの重傷を負わされたと聞いて天皇は激怒する。「ちんが首を真綿で絞めるがごとき、なんのじょすべきものあらんや」とは、それを言う。
 貫太郎の狙撃そげきに向かったのは安藤輝三あんどうてるぞう大尉だった。身に数発の銃弾を浴びて倒れ伏す貫太郎に、兵長がとどめを刺そうとする。たか女が身を投げてかばい、
「武士の情け、止めだけは・・・」
 安藤は事前に貫太郎を訪ね、その悠揚せまらざる人柄に触れていた。ために止めを制する。このとき九死に一生を得た男が、日本を救うことになる。

昭和天皇にとって、もはや父とも恃む貫太郎一人が頼りだった。大命を受けた夜、長男のはじめに悲壮な面持ちでらしている。
「オレはバドリオになる」
 バドリオはムソリーニ失脚のあと、臨時政府を組織して連合国と和平を結ぶ。日独伊三国同盟からして「裏切り者」である。あえて裏切り者の汚名を着ても、和平に持ち込む決意をこのセリフに込めている。その決意が悟られたとき、徹底抗戦を叫ぶ将校らに当然のこと命をねらわれる。のちに一氏に聞いた。秘書を志願した真意は、父のボディ・ガード、いざとなれば身代わりとなることだったと。
 とりあえず「聖戦貫徹」を叫んで軍部の暴発を抑えながら、この内閣でなんとしても戦争を終わらせる―腹に終戦の決意を秘めて機をうかがう。

貫太郎の執務机の上に、ただひとつ置かれた「老子」にいわく、
「大国を治めるは小鮮しょうせんを煮るがごとし」
 国の経営は、小魚をとろ火で形を崩さぬように煮るがごとく、慎重な手付きを要する。深謀遠慮、腹芸の日々が続く。ソ連に終戦の斡旋あっせんを依頼したのも軍部を慰撫いぶする腹芸の一つ。機を見てアメリカのふところに飛び込む―それが国運回天の要諦と知っている。

首相に就いてほどなく、敵国大統領ルーズベルトが死ぬ。貫太郎はアメリカ国民に向けて哀悼の意を表明する。一方、ヒトラーは「ザマーミロ」と言わんばかりのコメントを発信(十日後に彼も死ぬ)。両者を比べて作家のトーマス・マンは、貫太郎の品位を賞賛した。
「あの東方の国には、騎士道精神がいまだ存在する」

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二発の原爆とソ連の参戦―これを機に、貫太郎は乾坤一擲けんこんいってきの「大芝居」に出る。天皇の「至高の権威」を利した聖断の演出である。ポツダム宣言受諾の可否をめぐり、最高戦争指導者会議の票は三対三に分かれる。首相の一票がコトを決する。首相ごとき(!)が大事を決めても国は動かない。少壮将校らに不穏な動きがある。下手をすれば反乱によって潰される。
 それを知悉ちしつしていつ貫太郎は、天皇に聖断を願う。もとより根回しの上、いわば二人羽織ににんばおりだ。聖断を願い出る態度は鞠躬如きっきゅうじょとしているが、要はギリシャ悲劇の終幕を決する「デウス・エクス・マキーナ」(機械仕掛けの神)としての役割を天皇に与える。

このときの貫太郎は、天皇を超えてそれを利する存在、民族の生存本能を一身に体現する存在、さらにいえば「日本の神」のごとき存在だったといえる。愚図の耄碌爺ィどころか、何百年に一人で出るか出ないか、まさに救国の宰相だった。貫太郎の偉大さを述べて、百万言を費やしてもまだ足りない。

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一昨年の師走、赤坂『佳境亭かきょうてい』の女将おかみ・山上磨智子さんから、こんな電話があった。
「貫太郎さんの額がかかっているですって。見に行かない?」
 当方の貫太郎好きを知っていて、誘ってくれた。いそいそと出かけた。日本橋・浜町の『スコット』。お座敷でフランス料理を出す。シェフの先代は貫太郎の官邸で料理人を勤めた。客が記帳した古い名簿に菊池寛きくちかん谷崎潤一郎たにざきじゅんいちろう大仏次郎おさらぎじろうらの名がある。茶色に変色した新聞の切り抜きがあり、見れば貫太郎夫人・たか女の隣に男がいる。二・二六事件のおり、貫太郎に止めを刺そうとした兵長である。身を投げ出して夫を庇ったたか女と、恩讐おんしゅうを越えて十数年ぶりの再会とある。
 掛け軸に記された貫太郎の能筆は、『慈故能勇』の四文字だけ。され、どう読むのか。出典も定かでない。書きとめて作家の伊佐千尋いさちひろ氏に教えを乞うた。伊佐さんは毎年の賀状に漢詩を刷る。
「たぶん『老子』じゃないかと思うんですが・・・」
さきに記したエピソードを伝えた。翌日、FAXがあった。
「やはり『老子』にあった。ただし最近の本ににはなく、諸橋轍次もろはしてつじ博士の古い本に出ていた」
と添え書きがあり、
「慈あり。ゆえく勇なり。―もっとも穏やかな情けから、大きな勇気が湧いてくる。母の慈愛が好例」
とあった。亡国の危機を救ったのは「父の慈愛」と思える。

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大賢は大愚に似たり。耳の遠い耄碌爺ィ・鈴木貫太郎が、とにもかくにも国の全壊を防いだ。

(第一章救国の宰相・鈴木貫太郎)から
『昭和の三傑』(集英社インターナショナル 2004年)堤尭著 
更新2006年10月20日