今月の言葉抄 2006年10月

憲法第9条は誰が、なぜ、いかなる意図のもとに発案したのか

戦後史最大の謎―。それは憲法9条である。誰が、なぜ、いかなる意図のもとにこれを発案したのか、いまだに定まらない。

・・・

幣原喜重郎は第二次若槻礼次郎内閣の外相に留任、心胆を砕いたのは対支問題だった。遡ること十七年前の1915年、第一次大戦後のドサクサに乗じて、ときの大隈重信内閣は対支二十一か条の要求を突きつける。日本外交史上に残る汚点・愚行である。幣原はこれの修復作業に奔命する。もっぱら中国への不干渉政策を説いた。
 支那問題とロンドン軍縮条約、これが日本の躓きの石となる。二つながら政争の具とされた。これに処する幣原外交は、もっぱら「軟弱外交」の名で蔑まれた。ほどなくコト志と違って満州事変勃発。関東軍の独断専行だった。これの処理に行き詰まり、若槻内閣は八ヶ月の短命に終わる。幣原は石もて追われるように政界を去る。幣原といえば「軟弱」、その汚名だけが残った。

以来十四年、幣原は多摩川べりに逼塞、失意と不遇のうちに「水底の没人」として世間から忘れ去られる。書き溜めた日録も戦火に焼かれる。ひたすら国が破滅に向かって突き進む様を、切歯扼腕・慨嘆して見守るしかなかった。
 その彼が、焦土と化した国の始末に駆り出される。後継に擬せられた外相・吉田茂が幣原を推し、その担ぎ出しに動く。幣原は固辞する。焼け野原と化した東京から、隠棲の地を鎌倉へ求めて引越し騒ぎの最中、宮内省の役人が来る。
「陛下のお召しです」
 行かないわけにはいかない。荷物をほどき、シワだらけのモーニングに袖を通して参内する。組閣の大命を伺い、幣原は言う。
「外交については多少の経験はございますが、内政についてはまったく自信がございません。老齢でもあり、難局を切り抜ける確信がございません」
「今日の難局に処して、確信のある者が何処にいる、誰もおるまい」
 困惑の表情に、七十三歳の老骨は、「最期の御奉公」を決意する。幣原の名を聞いた記者団の中から声が上がった。
「あれッ、まだ生きていたの?」
 埃を払っての登場だ。一億総懺悔の次は「軟弱」か。それが世人の受け取り方だった。吉田外相はGHQに出かけ、幣原の名を司令官マッカーサーに告げる。
「七十三歳?年寄りだなァ。英語はできるのか?」
 できるどころではない。以後の会見で、シェークスピアを縦横に引く幣原に、マックは驚くことになる。
 敗戦処理はすぐれて「外交」である。占領軍司令官、「太平洋のシーザー」を自他共に任じるマッカーサーと、サシの勝負がここに始まる。

幣原の大仕事は二つ。天皇の「人間宣言」と新憲法の策定である。前者は「現人神」を「象徴」に代える布石となった。後者は世界初の「戦力放棄」を謳う憲法である。言うなら国の大柱二本を建て替えた。

・・・

幣原は憲法改正に着手する胸中を次の一文に残した。伝記『幣原喜重郎』は幣原平和財団が1955年に刊行した(非売品)。以下「幣原伝」とする。要約して引く。 ―終戦の玉音は日本倶楽部で聞いた。「満場愕然として色を失い、万感胸に迫って頭を垂れ、一語を発する者もない。一隅よりすすり泣きが聞こえた。私も思わず手巾で目を蔽った」
 帰途の電車の中、乗客が一人、涙ながらに悲憤慷慨する。
「なぜ今回の戦争に突入しなければならなかったのか、納得できない。政府や軍部は楽観的な報道のみを掲げ、無条件降伏の状況に迫っていたことなど、一言も公表しなかった。国民に目隠しをし、屠殺場に追い込む牛馬と同じ扱いではないか」
 これを聞いて「満車の乗客はことごとく同感の叫び声を揚げた」。この情景を思い出しては「夜半夢平らかなることを得ない」。今回、国政を担当するにつき、この光景が絶えず私を刺激する。
「国民が子々孫々、その総意に反して戦争の渦中に引き込まれることなきよう、憲法の根本的改正によって、国政に対する国民の指導権を強化する外なきことを信じた」
「国民の指導権」とは「主権在民」である。車窓から見る光景は、一面蕭條たる焼け野原だ。幣原は不退転の決意で、知略の限りを尽くすことになる。

1945年12月、ワシントンに動きがある。日本の占領管理につき、関連する十一カ国で極東委員会を設置し、日本の改革案をこれに一任しようとする。メンバーの中には、ヒロヒト断罪を望む複数の、国がいる。なにしろアメリカの世論調査でも、ヒロヒトに何らかの処刑を望む声が七割を占めている。
 気配を察して幣原は、天皇の「人間宣言」を画策する。年末、官邸に籠って沈思黙考「人間宣言」を英文で起草する。外向けのメッセージだ。天皇および要路に諮って46年元日の「宣言」となる。それは内外のヒロヒトへの反感をやや鎮静化するが、なおソ連、オーストラリア、ニュージーランド、フィリピンが鎮まらない。

マックは苦慮している。占領政策上、天皇の利用価値を認め、その存続を思い描いてはいたが、それを非とする勢力が内外にいる。共産党はスターリン憲法に酷似した憲法草案を提出し、天皇制廃止を叫んでいる。これに呼応するものがGHQ内部にすらいる。日本の新しい統治者として、前の統治者・天皇をどうするか。この問題に早く決着をつけたい。マックがなにより嫌ったのは極東委員会で天皇問題が議論されることだった。結果がどう出るか分からない。委員会が発足する前に、これでどうかと試案を示したい。思案の日々が続いていた。
 一方の幣原は、年末の過労が祟って肺炎を起こす。吉田茂がマックからペニシリンをもらい受け、ほどなく全快する。そのお礼に、篠原はマックを訪ねる。46年1月24日正午、会談は3時間におよんだ。問題の密室会議である。

以下、関連の一次史料を引いて、のちに私見を述べる手順とする。戦後日本の機軸・ビックリ条項の発想者は誰か。読者の皆さんも探偵になったつもりで、証拠の史料を眼光紙背に徹して一緒に読んでいただきたい。

さきの「幣原伝」は以下のように記述する。
《そのときの談話の内容をGHQ側から仄聞すると、幣原は日本の国体や、天皇と国民の特殊な関係を述べ、日本はどうしても天皇制でなければ平和に治まらないことを諄々と説き、さらに彼が病中において霊感した所感だといって、
「原子爆弾が出来た今日では、世界の情勢はまったく変わってしまった。だから今後、平和日本を再建するには、戦争を放棄してふたたび戦争をやらぬ決意が必要だ」
 と述べたところ、この幣原の主張は痛くマッカーサー元帥を動かした。それから間もなくマ元帥の、日本天皇制維持の指令が出されたのであった》
「天皇制の存続」と「戦争放棄」、二つながら簡潔に触れている。この記述は「仄聞」した主体が記されていないが、幣原の心事を最もよく知る秘書官・岸倉松によるものだろう。念のため岸の証言。
《そのときの会談の内容に関しては、首相からは何もお話はありませんでしたが、その後GHQ側の人々から聞いたところを総合しますと、首相は、
「こんど病気をしているうちに、いろいろなことを考えたが、原子爆弾のようなものが出来たこんにち、日本はふたたび戦争を起こさないよう、戦争を廃棄する決心をしなければならない」
 ということを衷心から披瀝された。マ元帥も大いに共鳴し、満腔の賛意を表し、その実現方を激励されたということでありました》
 共に「GHQ側からの仄聞」としていて、幣原から聞いたこととはされていない。秘書の心得でもあろうが、幣原の用心、あるいは緘口令でもあろう。それかあらぬか幣原は、のちの50年秋、金森徳次郎(当時・国会図書館長)からの「聞き取り」要請を断っている。金森は懇意した。
「最近、アメリカで日本の政治の再編成というGHQの報告書が出され、ずいぶん機微にわたることも書かれている。日本側でも正確な記録を作っておきたい。あなた御自身しか知らないことが多いから、この際ぜひ話を伺っておきたい」
「いや、そのことをお話しするのはまだ時期が早い」
 幣原は何も語らなかった。金森は「そのうちに(幣原が)急逝し、一切が永遠に疑問のうちに葬り去られることになったのは、遺憾この上もない」としている。

当のマックの回想はどうか。彼は51年4月に解任され、5月、上院の公聴会に出席した。記憶はまだ新しい。そのおりの証言を「幣原伝」は引く。
《彼ら(日本人)は、自分の意思でその憲法の中に戦争放棄の条項を書き込みました。幣原首相はきわめて賢明な老人でした。最近亡くなりましたが、彼が私のところに来て言いました。
「私は長い間、考えた末に信ずるに至りました。唯一の解決策は戦争をなくすことだ。軍人としてのあなたに、この問題を差し出すのは非常に不本意です。なぜなら、あなたがそれを受け入れないものと信じているからです。しかし、私はいまわれわれが起草中の憲法に、このような条項を挿入するように努力したいと思います。」
 そこで私は立ち上がってこの老人と握手し、彼に向かって、
「それこそはおそらく講じ得る最も建設的な措置の一つだと考える」
 と言わないではいられなかった。私は彼に、彼が世界から嘲笑されることは実際あり得ると言いました。ご承知のように、いまはものごとを冷笑的に見る時代ですからね。世界はそれを受け入れまい。嘲笑の的になるだろう。またそうなったのです。それを貫徹するには大きな道義上の気力が必要となるだろう。そのような気力は、窮極においてその方向を維持できなくなるかもしれない、と言いました。しかし私は彼を元気付けました。そして日本人はその(戦争放棄)条項を憲法の中に書き入れたのです。
 そしてその憲法の中で、日本人の一般的感情に訴える条項があったとすれば、それは戦争放棄の条項でした。何世紀もの間、戦争に勝ち、戦いを追求してきた戦闘的な一民族がありました。しかし原子爆弾が彼らに教えた偉大な教訓は理解されました。彼らはそれを実地に適用しようと努めていました》

のちの55年1月、彼の七十五歳の誕生日を祝う会が催された。席上、マックの挨拶にいわく、
《日本人は恐るべき経験によって、未来の戦争が自殺行為であることを知っている唯一の国民である。私は日本人が新憲法を作るに当たってまざまざとこれを思い起こした。島国という限られた地理的条件にあり、二つのイデオロギーの間の、いわば無人地帯にされた日本の国民は、勝者、敗者いずれの側に付こうと、今後またしても戦争に参加すれば、おそらく民族の破滅をもたらすだろうことをよく理解している。当時の賢明な幣原首相は私を訪れ、日本国民は国際的紛争解決の手段として戦争を廃止すべきであると要望した。私がこれに同意すると、彼は私の方に向き直って、言いました。
「世界はわれわれが現実に即さない夢想家だといって、あざけり笑うでしょうが、百年後にはわれわれは預言者といわれるようになるでしょう」》

この年、マックの「回想記」が出版された。『マッカーサー回想記』(朝日新聞社刊)は64年の発行。この「回想記」については、自己顕示欲や記憶違いを挙げて、疑問視される記述もあるが、ともあれ当該部分を虚心坦懐に見ておこう。
《幣原男爵は私の事務所を訪れ、ペニシリンの礼を述べたが、そのあと私は、男爵がなんとなく当惑顔で、何かためらっているらしいのに気がついた。私は男爵に何を気にしているのかと尋ね、それが苦情であれ、何か提議であれ、首相として自分の意見を述べるのに少しも遠慮する必要はないと言ってやった。
 首相は、私の軍人という職業のためにどうもそうしにくいと答えたが、私は軍人だって時折言われるほどカンが鈍くて頑固なのではなく、たいていは心底はやはり人間なのだと述べた。
 首相はそこで、新憲法を書き上げる際に、いわゆる「戦争放棄」条項を含め、その条項では同時に日本は軍事機構を一切持たないことを決めたい、と提案した。そうすれば旧軍部がいつの日かふたたび権力をにぎるような手段を未然に打ち消すことになり、また日本にはふたたび戦争を起こす意志は絶対にないことを世界に納得させるという二重の目的が達せられる、というのが幣原氏の説明だった》
「戦争放棄」を言い出す前に、さきの上院での証言でもそうだが、言い澱んだところに留意されたい。
《首相はさらに、日本は貧しい国で軍備にカネを注ぎ込むような余裕はもともとないのだから、日本に残されている資源は何によらず挙げて経済再建に当てるべきだ、とつけ加えた。
 私は腰が抜けるほど驚いた。長い年月の経験で、私は人を驚かせたり、異常に興奮させたりする事柄にはほとんど不感症になっていたが、この時ばかりは息も止まらんばかりだった。戦争を国際間の紛争解決には時代遅れの手段として廃止することは、私が長年情熱を傾けてきた夢だった。
 現在生きている人で、私ほど戦争と、それがひき起こす破壊を経験した者はおそらく他にあるまい。二十の局地戦、六つの大規模な戦争に加わり、何百という戦場で生き残った老兵として、私は世界中のほとんどあらゆる国の兵士と、時には一緒に、時には向かい合って戦った経験を持ち、原子爆弾の完成で私の戦争を嫌悪する気持ちは当然のことながら最高度に高まっていた。
 私がそういった趣旨ことを語ると、こんどは幣原氏がびっくりした。氏はよほど驚いたらしく、私の事務所を出るときには感きわまるといった風情で、顔を涙でクチャクチャにしながら、私の方を向いて「世界は私たちを非現実的な夢想家と笑いあざけるかもしれない。しかし、百年後には私たちは預言者と呼ばれますよ」と言った》

マックが「腰が抜けるほど驚いた」としたのは、もとより「戦力放棄」の申し出である。戦争放棄の発想は、マックにとっても目新しいものではない。事実、マックが統治したフィリピン憲法にもある。「軍事機構は一切持たない」―戦力を一切放棄する、これに驚いた。一段ハネ上がったビックリ条項である。自衛権は万国共有の自然権である。それすら放棄する?軍人マックの驚きは当然だろう。
 以上、@上院での証言、A誕生祝賀会のスピーチ、そしてB「回想記」―マックによる三つの叙述を見た。ことさら不自然なところは感じられない。いとも自然な物言いと、当方には思える。(続く)

(第二章知略の宰相・幣原喜重郎)から
『昭和の三傑』(集英社インターナショナル 2004年)堤堯著 
更新2006年10月22日