今月の言葉抄 2006年12月

信仰について

小林秀雄
小林秀雄

「宗教は人類を救い得るか」という問題に関して意見を求められたが、私にはそんな大問題に答える資格はないと思う。そんな風に訊ねられると、私はただ困却するばかりです。徒に大袈裟な問題だと感ずるばかりです。

万人が考える通りに考えることは可能だし、さういう考え方が一番有力でもあるが、信仰という事になると、めいめいが、めいめいの流儀で信仰する他はなく、又そうであるからこそ考えるという事に対して信ずるという行為があるのであろう。こんな簡単な事が、徹底的に腹に這入っていないから、宗教問題がいつまでたっても埒があかないのだと思われます。

「宗教は人類を救い得るか」という風に訊ねられる代わりに「君は信仰を持っているか」と聞かれれば、私は言下に信仰を持っていると答えるでしょう。「君の信仰は君を救い得るか」と言われれば、それは解からぬと答える他はない。私は私自身を信じている。という事は、何も私自身が優れた人間だと考えているという意味ではない。自分で自分が信じられないという様な言葉が意味をなさぬという意味であります。本当に自分が信じられなければ、一日も生きていられる筈はないが、やっぱり生きていて、そんな事を言いたがる人が多いというのも、何事につけ意志というものを放棄するのはまことにやすい事だからである。生きようとする意志を放棄すれば進んで死ぬ事さえ出来ない。ただ生きている様な気がしている状態に落ち入る。まことにやすい事です。

例えば、私は何かを欲する、欲する様な気がしているのではたまらぬ。欲することが必然的に行為を生む様に欲する。つまり自分自身を信じているから欲する様に欲する。自分自身が先ず信じられるから、私は考え始める。そういう自覚を、いつも燃やしていなければならぬ必要を私は感じている。放って置けば火は消えるからだ。信仰は、私を救うか。私はこの自覚を不断に救い出すという事に努力しているだけである。

後は、努力の深浅があるだけだ。他人には通じ様のない、自分自身にもはっきりしない努力の方法というものがあるだけだ。あらゆる宗教に秘儀があるというのも、其処から来るのでしょう。私は宗教的偉人の誰にも見られる、驚くべき自己放棄について、よく考える。あれはきっと奇跡なんかではないでしょう。彼等の清らかな姿は、私にこういう事を考えさせる、自己はどんなに沢山の自己でないものから成り立っているか、本当に内的なものを知った人の眼には、どれほど莫大なものが外的なものと映るか、それが恐らく魂という言葉の意味だ、と。神は人類から隠れているかどうかわからない。併し私の魂が私に隠れて存する事を疑う事が出来ぬ。富とか権力とかいう外的証拠を信用しないという事なら、そんなに難しい事ではないだろうが、知識も正義も、いや愛や平和さえ、外的証拠に支えられている限り、一切信用する事が出来ないという処まで行く事は、何と難しい業だろう。懐疑派とは臆病な否定派に過ぎますまい。以上、御約束による早急な御返事、お答えになっておらぬ点は、御諒承ください。(1950年)

(信仰について)から
『小林秀雄全集第八巻 ゴッホの手紙』(新潮社 昭和38年)小林秀雄著

現代かなづかいに改めました。(管理人)

更新2006年12月12日