今月の言葉抄 2006年12月

スランプ

小林秀雄
小林秀雄

野球で、あの選手は、当りが出ているとか、この頃はスランプだとか言う。先日、国鉄の豊田選手と酒を飲んでいて、そのスランプの話になったが、彼は、面白い事を言った。「スランプが無くなれば、名人かな―こいつは何とも言えない。だが、はっきりした事はある。若い選手達が、近頃はスランプだなどとぬかしたら、この馬鹿やろうということになるのさ。」その道の上手にならなければ、スランプの真意は解からない。下手なうちなら、未だ上手になる道はいくらでもある。上手になる工夫をすれば済む事で、話は楽だ。工夫の極まるところ、スランプという得態のしれない病気が現れるとは妙な事である。

どうも困ったものだと豊田選手は述懐する。周りからいろいろと批評されるが、当人には、皆、わかり切った事、言われなくても、知っているし、やってもいる。だが、どういうわけだか当たらない。つまり、どうするんだ、と訊ねたら、よく食って、よく眠って、ただ、待っているんだと答えた。ただ、待っている、成るほどな、と私は相槌を打ったが、これは人ごとではあるまい、とひそかに思った。私はその道の上手でも何でもないが、文学で長年生計を立てて来たのだから、プロはプロである。スランプの何たるかを解しないでは相済まぬ次第であろうか。

一と昔前の芸術家は、好んでインスピレーションという言葉を使ったが、今は、ひどく詰まらぬ言葉に成下がって了った。芸術という極めて意識的な仕事の中に、霊感という漠然とした観念は、はいり込む余地はない。インスピレーションに頼って仕事をするような、分析的意識の未発達な時代は過ぎた、そういう考え方が優勢であるが、芸術に関する考え方が進歩したからと言って、その道の名人上手になり易くなったわけではない。そんな事には決してならないのが面白い。私達は、昔の人の使った言葉を、勝手に当世風に使いたがる。インスピレーションという言葉も、今日のような詰まらぬ意味で、昔使われていたとは限らない。人間がこんな言葉を発明する必要があったのも、凡そ芸事は思案の外という、その道の苦労人の鋭い意識によったのであろう。

野球は言うまでもなく、高度に肉体に関わる芸である。肉体というものは、自分のものでありながら、どうしてこうも自分の言う事を聞かぬものか、スポーツの魅力は、その苦労から出てくる。今日の文学の世界では、観察だとか批判だとか思想だとかいう言葉がしきりに使われ、そういうものに文学が宰領されているとも見えるが、文学の纏ったそういう現代的な意匠に圧倒されずに、文学の正体を見るなら、文学もスポーツもそう違った事をやっているわけではなし、その基本的な魅力も、同じ性質の苦労から発している。では、文学者にとって、その肉体とは何か。自分の所有であり、自分に意に従うものと見えながら、実は決してそうではない肉体とは何だろう。それは、彼が使っている言葉というものだ。そう直ちに返答が出来るようになれば、文学者も一人前と言える。プロと言えるだろう。

私の職業は、批評であるから、仕事は、どうしても分析とか判断とかに主としてかかずらう。従って、こちらの合理的意識に、言葉は常に追従するという考えから逃れることが難しかった。その点で、詩人や小説家に比べて、成育が、余程遅れたと自分は思っている。だが、やがては思い知る時が来た。書くとは、分析する事でも判断する事でもない。言わば、言葉という球を正確に打とうとバットを振ることだ、と。私は野球選手ではないから、今はスランプだとは言わない。しかし、勝負に生きる選手の言うスランプという言葉が、勝負を知らぬ文学の仕事の上に類推されれば、スランプは私の常態だと言うだろう。職業には職業の慣れというものがあるので、その慣れによって、意識の整備の為に、精神を集中するという事は、私にはさして難儀なことではない。さて、そういう事が出来た後には何をすればよいか。ただ、待つのである。何処かしらから着想が現れ、それが言葉を整え、私の意識に何かを命ずる。私は、昔の人のように、陳腐なインスピレーションを待っている。若い時には、その意味も解からず使っていた天分という言葉も、今はほぼ理解できる。はっきりしたところ、自分の天分は、かなり低級なものだ、とこだわりなく言うことが出来る。

(スランプ)から
『考えるヒント』(文藝春秋新社 昭和40年)小林秀雄著

現代かなづかいに改めました。(管理人)

更新2006年12月12日