今月の言葉抄 2007年5月

A thousand winds

Do not stand at my grave and weep
I am not there, I do not sleep

I am a thousand winds that blow
I am the diamond glints on snow
I am the sunlight on ripened grain
I am the gentle autumn's rain

When you awake in the morning's hush
I am the swift uplifting rush
of quiet birds in circled flight
I am the soft stars that shine at night

Do not stand at my grave and cry
I am not there, I did not die

千の風になって

ぼくの墓にお参りして 泣かないでください
ぼくはそこにはいません 眠ってはいません

たとえばぼくは
千の風になって吹きめぐる
冬の日は雪原をきらめかせる
日の光となって豊かな実りの畑にふりそそぐ
秋の日は優しくふる雨になる

朝の静けさのなかであなたが目覚めるとき
すばやく飛び立つ鳥のように
円を描いてしずかに舞い上がる
夜には輝く星となる

ぼくの墓の前で泣かないでください
ぼくはそこにはいません 死んではいません


今月は、ずっとこの詩のことを考えていた。それでこの詩を暗誦し、訳してみた。出来はどうだろうか。
この詩に関して、初めに読んだエピソードがよかった。アイルランド紛争で、IRAのテロで死んだ若者が、死んだら開けてくださいと言い残していた遺書の中に、この詩があったそうである。父親が葬儀でこの詩を朗読し、メディアが伝えたため、イギリスで評判になった。この若者は生前にどこかで読んで感動し、自分が死んだときのことを考え、父母の悲しみが頭から離れなかったのだろう。残された者を慰めるために、遺書のなかに忍ばせたのだろう、と想像した。なんと優しい気持ちをもった青年だろう。
今月に入って、私が時々読んでいる僧侶のブログでこの詩が話題になった。参加者の大勢は、親仏教派でもあり、この詩に違和感を感じていると、意見を述べている。仏教界でも、一種の危機感をもって、話題になっているそうです。仏教離れのなかで、この詩が世間の人々の空虚な心を満たしているのではないかという意味において。
この詩は、仏教徒ばかりでなく、キリスト者やさらにはイスラム教を信じる人々にも、違和感を与えるだろうと思う。宗教を信じる人々は、死後自分が何処へゆくのか知っている。特定の宗教を信じていない人々は、自分が死後何処へ行くのか、知らない。そこでこの詩が受け入れられる余地があるのだろう。
さて、自分はどうなのか。この詩をどのように考え、また受け入れるのか。
自分は曖昧なままである。基本的には、次の言葉を引用して自分の意見とし、「創世記」という詩にも書いているが、まだ考える余地は残っている。
塵にすぎないお前は塵に返る。(新共同訳 創世記3:19)
You are dust, and to dust you shall return. (Genesis 3:19)
今月になって、ずっと『阿含経』(増谷文雄訳)を読んでいる。仏陀の教えのなかに、なにか新しいヒントがありはしないか、探しているのである。仏教の基本的なあるいは本質的なものを、知らないままではいけないと思っている。もう少し時間がかかりそうだ。だが、次のことははっきりしている。白州次郎のようにかっこよく「葬式無用 戒名不要」とまでは言い切れないのだが、世間一般の人々のように、普段寺に行ったこともないのに、死んで戒名を頂き、僧侶にお経をあげていただくようにはなりたくないのである。自分は今のところ仏教の信者ではないし、死後戒名をもらうような理不尽なことはしたくない。
さて、私はどうなるのであろうか。(管理人)
更新2007年5月19日