今月の言葉抄 2007年7月

人間は楽しみのために生きているのではない

私たちがほんとうに考察しなければならないのは、つぎの第四のグループです。そのグループの人たちは、要するに、さらに生きていく意味、そもそも生きる意味がまったく信じられないという理由で自殺しようとします。こういう動機でなされる自殺は、ふつう、決算自殺とよばれます。どのケースでも、いってみれば人生のマイナスの決算を引き出したので、自殺するのです。そういう人は、決算をして、借り方と貸し方をくらべます。人生が自分から借りたままになっているものと、自分が人生でまだ到達できると思っているものと突き合わせます。そして、そこでマイナスの決算が引き出されるので、自殺する気になるのです。そこで、この決算を吟味することにしましょう。
ふつう、貸し方には、すべての悲しみと痛みがおかれます。借り方には、これまで恵まれなかったすべてのしあわせがおかれます。けれども、この決算は、根本から間違っています。というのは、よくいわれることですが、人間は「楽しみのためにいきているのではない」からです。そして、このことは、存在と当為のどちらの意味でもほんとうなのです。つまり人間は、じっさい楽しみのために生きているのではないし、また、楽しみのために生きてはならないのです。そのことが自分で実感できない人は、ロシアのある心理学者の書物を手にするとよいでしょう。その心理学者は、以前、ふつうの人が、日常生活のなかで、快感よりずっとたくさんの不快感を体験することを実証しました。というわけで、はじめから、楽しみのために生きることはまったく不可能だといえましょう。しかしまた、楽しみのために生きる必要もありません。楽しみのために生きることは、そもそも割に合わないことなのです。
思い浮かべてみることにしましょう。ある男が、死刑の判決を受け、処刑の数時間前に、最後の食事の献立を好きなように考えていいといわれたとします。看守が独房に入ってきて、男の望みをたずね、いろんなおいしい食べものの提供を申し出ます。けれどもこの男は、どんな申し出もはねつけます。この男にしてみれば、ほんの数時間後に死体となる運命のこの有機体の胃のなかに、おいしい食べものをつめこもうとつめこむまいと、まったくどうでもいいことなのです。いまならまだ、まさにこの有機体の大脳の神経細胞に快感が起こることも可能です。けれども、その快感も、二時間たてばすべての神経細胞が永遠に滅んでしまっているだろうという状況を考えると無意味なのです。
けれども、すべての生は、死に面しています。そして、この男が考えていることが正しいとすると、すべての人の一生も無意味だということになります。もし、私たちが、できるかぎり大きな楽しみを求め、楽しみを得ることだけを追求しほかになにも追及しないのなら、楽しみそれ自体は、生きている意味を与えることができるようなものではありません。ですから、楽しみがないからといって、生きる意味はなくなりはしないのです。そのことを、さっそくいま確認してみましょう。
自殺を図った後、命が助かったある男が、ある日、私に話してくれました。それによると、その男は、自分の頭を撃ち抜くために、車で町の外へ出ようと思いました。もう夜もだいぶふけていたので、市電に乗ることができず、タクシーに乗らなければなりませんでした。そのとき、彼は、タクシーに乗るためによけいなお金を使いたくないとためらったのです。とうとう、彼は、死ぬ直前にまだそんなふうにためらう余裕があったことに、笑みを禁じえませんでした。死に直面してお金をけちるなんて、自殺を決意したこの男には、馬鹿馬鹿しいことにしか思えませんでした。
こうしたすべてのこと、人間が楽しみを求めたりお金にとらわれたりすることによってしあわせな生活を得ようとする迷いからこのように目覚めることを、タゴールはある詩の中で見事に表現しています。彼はつぎのように歌っています。
私は眠り夢みる
生きることがよろこびだったらと
私は目覚め気づく
生きることは義務だと
私は働く―すると ごらん
義務はよろこびだった
この詩を引用することで、これからの考察を進めていく方向をもすでに指し示したことになります。
そういうわけで、生きるということは、ある意味で義務であり、たったひとつの重大な責務なのです。たしかに人生にはまたよろこびもありますが、そのよろこびを得ようと努めることはできません。よろこびそのものを「欲する」ことはできません。よろこびはおのずと湧くものなのです。帰結が出てくるように、おのずと湧くものなのです。しあわせは、けっして目標ではないし、目標であってもならないし、さらに目標であることもできません。それは結果にすぎないのです。しあわせとは、タゴールの詩で義務といわれているものを果たした結果なのです。この「義務」については、のちになんらかの仕方でもっと立ち入って明らかにするよう努めるつもりです。いずれにしましても、しあわせというものは思いがけず手に入るものにすぎず、けっして追い求められないものであるわけですから、しあわせを得ようとすれば、いつも失敗することになるのです。
その点、キエルケゴールは、賢明なたとえをのべた人でした。彼によれば、しあわせへの扉は、「外に向かって」開くのです。つまり、しきりにしあわせを追い求める人、しあわせへの扉を無理やり押そうとしている人には、まさにそれは閉ざされているのです。
・・・
ここでまたおわかりいただけたでしょう。 私たちが『生きる意味があるのか』と問うのは、はじめから誤っているのです。つまり、私たちは、生きる意味を問うてはならないのです。人生こそが問いを出し私たちに問いを提起しているからです。私たちは問われている存在なのです。私たちは、人生がたえずそのときそのときに出す問い、「人生の問い」に答えなければならない、答えを出さなければならない存在なのです。生きること自体、問われていることにほかなりません。私たちが生きていくことは答えることにほかなりません。そしてそれは、生きていることに責任を担うことです。
こう考えると、おそれるものはものはもうなにもありません。どのような未来もこわくはありません。未来がないように思われても、こわくはありません。もう、現在がすべてであり、その現在は、人生が私たちに出すいつまでも新しい問いを含んでいるからです。すべてはもう、そのつど私たちにどんなことが期待されているかにかかっているのです。その際、どんな未来が私たちを待ちうけているかは、知るよしもありませんし、また知る必要もないのです。(アンダーラインは、管理人)
(「T 生きる意味と価値」から)
『それでも人生にイエスと言う』(春秋社 1993年V.E フランクル著 山田邦男・松田美佳訳) 
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更新2007年7月5日