今月の言葉抄 2007年12月

誤解は個性

太田 先ほど中沢さんが、日常のささやかなコミュニケーションも誤解だらけと言いましたが、そこにはもう一つ大事なことがあると思うんです。僕が何か話しても、受け止める相手には必ず誤解がある。その誤解をなくそうとやりとりするのがコミュニケーションです。しかし、一方では「誤解をする」ことは、大切なことでもあるんですね。その誤解にこそ、人の個性があると僕は思っているんです。
少し前に僕は、テリー・ギリアムという映画監督と対談しました。ギリアムの『フィッシャー・キング』という作品が好きで、あるシーンについて、「あれはこういう意味ですよね」と彼に聞いた。すると「それは違うよ。おまえの解釈は間違ってるよ」と言われたんです。そこで僕は彼にこう言った。「いや、あなたのほうこそ間違ってる。僕が解釈したことに、あなたがとやかく言う筋合いはないよ」と(笑)。
中沢 やりますね(笑)。
太田 ギリアムにとっては、僕の解釈は誤解かもしれない。でも、その誤解こそが僕の個性なんだし、もっと言えば誤解にこそ意味があると思うんです。芸術作品を見たときに、感動するのは、そこに誤解というギャップがあるからでしょう。作者の意図とは違うところで感動が生まれることはいくらでもあるし、むしろその幅が作品の力であると思う。
僕の中に、誤解をなくしたいと思う一方で、誤解を大事に思う気持ちもあるから、すごく問題が難しくなってきます。
中沢 みんな同じように感動したら、むしろ気持ちが悪いからね。
太田 ありえません。人間がみんな無個性になってしまう。

憲法九条と修道院

太田 僕らお笑いの人間は、面白いか、つまらないかを一つの判断基準にしています。漫才で、芸人がどれだけ頑張ってみせても、人が笑わなければ何の価値もない。面白いのか、つまらないのか、そのお笑いの判断基準でいえば、憲法九条を持っている日本のほうが絶対面白いと思うんです。
無茶な憲法だといわれるけど、無茶なところへ進んでゆくほうが、面白いんです。そんな世界は成立しない、現実的でないといわれようと、あきらめずに無茶に挑戦していくほうが、生きていて面白いじゃんって思う。
憲法九条というのは、ある意味、人間の限界を超える挑戦でしょう。たぶん、人間の限界は、九条の下にあるのかもしれない。それでも挑戦していく意味はあるんじゃないか。いまこの時点では絵空事かもしれないけれど、世界中が、この平和憲法を持てば、一歩進んだ人間になる可能性もある。それなら、この憲法を持って生きていくのは、なかなかいいもんだと思うんです。
僕らが戦うべき相手が何なのかはわからない。人間のつくり出した神という存在かもしれないし、人の心に棲む何かなのかもしれない。その何かが、いつも人間に突きつけてくるわけです。人間はしょせん死んでいくものだ。文明は崩壊していくべきものだと。たとえそうであっても、自分が生まれて、死ぬまでは、挑戦していくほうのベクトルが向いていないと、面白くないと思うんですよ。
中沢 僕と太田さんが通じているところは、そのあたりなんでしょう、でも、面白いか、面白くないかって、僕が言ってはまずいから、言わないようにしてはいるんですが(笑)。
太田 この世に神様がいて、未熟な人間は俺のところまで来れないだろうと言うなら、いや、俺たちはそっちまで行って、越えてやるぞというくらいの人生じゃないと、つまらない。秩序と無秩序、最近はエントロピーといいますが、この社会はエントロピーが増大していくものだという。でも、僕としては、そう思いたくない。人間は、秩序を構築できる生き物であると、少なくとも生きる態度として示したいと思う。その証しが憲法九条だと僕は思っているんです。
中沢 その意味でいうと、憲法九条は修道院みたいなものなんですね修道院というのは、けっこう無茶なことをしているでしょう。普通の人間が暮せない厳しい条件の中で、人間の理想を考えている。修道僧は労働もしないし、そんなもの無駄なような気もしますけれども、人間にとって重要なのは、たとえ無茶な場所であっても、地上にそういう場所がある、ということを、いつも人々に知らせているというところにあるでしょう。普通に考えたらありえないものが、村はずれの丘の上に建っているというだけで、人の心は堕落しないでいられる。そういうものがあったほうが、人間の世界は間違いに陥らないでいられるんでしょう。・・・
そんな空間を我々の世界はもう失ってしまった。日本のお寺も、昔は確かにそういう場所だったわけですけど、お寺の和尚さんは、普通の人がたどりつけないような高い理想を生きている人だと思って、人々はお説教を聞いていた。けれども近代社会は、世俗化でどんどんそういう場所をつぶしてしまったんですね。今はといえば、お寺の和尚さんと話していても、理想とというようなことが話題になるこたがほとんどなくて、息子がどこの大学に入ったとか、入学金がいくらだとか、そんなことばっかり話題になります。知り合いのお坊さんが会いたいというから出かけてみると、議員に立候補するからよろしくとかで、本当にがっかりしちゃう。昔はそうじゃなかった。社会に中に、夢のある場所があるということは、すごく重要なんだと思う。

感受性が鈍くなっている

太田 そのために、僕は、芸人の立場から発信していこうと思っています。でも、何かを実現させるためには、日本や世界中の人たちの感受性が、もっと鋭くならなければいけないと思うんです。何かを見て、聞いて、感動する感受性が鋭くならないと、理想とはどんどんかけ離れていく。しっくりこないと思います。
その意味で言うと、僕も含めてなんですが、今の社会全体が、感受性が鈍くなっている気がするんです。ホリエモンの話も、耐震強度偽装の問題も、彼らが何故あんなことをしてしまうのかと言えば、感受性が鈍いからでしょう。想像力が欠如していますよね。こんな建物をつくたら、住む人間がどうなるかという想像力がまるでない。
中沢 ホリエモンもそうでしたね。最終的に彼が望んだのは、宇宙飛行だったでしょう。ああ、とうとうと思ったけれど、結局ドラえもんを超えなかった。お金の動いていくスピードのほうが、想像力をはるかに上まわっていたから、彼は子供みたいにあたふたするしかなかったんだろうね。
太田 そうです。頭の中で想像できたとしても、そこにリアリティが感じられるかどうかが感受性だと思うんです。僕も、年々、感受性が劣ってきているなと感じます。昔読んだ本を読み返してみても、かってのように感動できなかったり、映画にしても、学生時代にあんなに敏感に読み取れたものが、今見ると、あれっというくらい鈍くなっている。
今、僕には、自分の感受性が落ちてきている危機感が、すごくあるんです。それは危険なことだなとも思う。藤田嗣治の戦争画を、いまだに日本の美術界は封印していますよね。
戦争画を描いた戦犯だと言われ、日本を追われるようにして、戦後フランスに渡った藤田嗣治という人の周辺の事情は知っていたけれど、実際に僕が絵を見たのは、ずいぶん後になってからなんです。藤田が描いた他の絵は見られても、「アッツ島玉砕」などの戦争画は、いまだに展覧会すらできない状態です。初めて画集で見たときは、衝撃的でした。まさに地獄絵と言っていい。
あの絵を、戦争高揚の絵だとして、藤田嗣治を戦犯だと言った人たちの感受性とは、一体何なのだろうと思います。あの絵からは、戦争はも嫌だということしか伝わってこない。なのに、いまだに日本の美術界がそれを封印しているのは、彼を戦犯だと言った人たちと同じ感性だということじゃないですか。美術界の人間ですら、そんな感受性しか持っていない。みんな、感動を忘れてしまっている気がします。若い人たちが自殺サイトで死んでいくのも、この世の中に感動できるものが少ないからなんでしょう。それは、芸人として、僕らが負けているからなんだと思うんです。
テレビを通じて、彼らを感動させられるものを、何ら表現できていない。極論を言えば、僕の芸のなさが、人を死に追いやっているとも言える。だとしたら、自分の感受性を高めて芸を磨くしかないだろう、という結論に行き着くわけです。
中沢 かって、こんな芸人がいただろうか(笑)。
太田 いや、僕自身が思い描く世界と、自分の芸のなさとのジレンマが常にあって・・・。

憲法九条は日本に残された夢

太田 憲法九条は、たった一つ日本に残された夢であり理想であり、拠り所なんですよね。どんなに非難されようと、一貫して他国と戦わない。二度と戦争を起こさないという姿勢を貫き通してきたことに、日本人の誇りはあると思うんです。他国からは、弱気、弱腰とか批判されるけれど、その嘲笑される部分にこそ、誇りを感じていいと思います。

『憲法九条を世界遺産に』(太田光・中沢新一著 集英社2006年)

更新2007年12月21日