今月の言葉抄 2008年3月

悟りに試験はない

試験とはつらいものだ。「昔、アフリカのある部族では、ライオン一頭しとめて初めて大人の仲間に入れてもらえた」という話を 聞いたことがあるが、これなども試験の一種だろう。今の子供たちはライオンと闘わなくてよいので幸せだが、若いときの試験結果 でその後の人生が左右されるのは切ないものだ。

ただ最近は、成人になった後で進路変更する機会も増えてきたから、試験を「選別の手段」と見るより、「能力の到達レベル を判定するシステム」と思ったほうがよい。そういう目で見ると、試験というのは大変親切な制度である。自分では分からない、 自分の能力程度を、まわりの専門家たちが手間ひまかけて判定してくれるのだ。それがまた励みになって上に昇っていける。 ありがたい話だ。
しかしである、人がそうやって上へ上へと向上していった先にあるのは、試験のない孤高の世界だ。どんな領域でも、先端まで 行き着けば、もはや評価してくれる人はいなくなる。自分のレベルはどのくらいで、この先なにをすべきか、誰もなにも教えてくれない。 自分で判断するしかない。それが最先端を行くということの意味である。
仏教の最終目標は「悟り」だが、それは言ってみれば、「生きることの最先端」である。それがどういう境地で、どうなったら 悟ったことになるのか、まわりに判定してくれる人はいない。だから仏教には、「悟りの判断基準」などというものはない。 悟った人だけが悟ったと分かるのである。曖昧な言葉に聞こえるかもしれないが、客観的な基準を決めないところがよい。基準があると、 とたんに「悟り」がただの試験問題になる。

人のためではない、自分のために歩んできた道の、最後の仕上げに他人の試験問題を受けて何になろう。「納得のいく一生を送りたい」 と思うなら、最後の試験官は自分自身に決まっている。自分が納得する以外に、合格などありえないのである。

『日々是修行』佐々木閑(花園大学教授) 2008年1月13日朝日新聞夕刊より


「生きることの最先端」とは面白い表現である。その悟りに判断基準がない、というのも面白い。 そうなると師家の立場はどうなるのだろう。基本的に不要だということだろうか。 「悟った人だけが悟ったと分かるのである」とは・・・。(管理人)

更新2008年3月13日