今月の言葉抄 2008年6月

神の住所 God's Address 

朝、部屋に入ると、エッシェベルドがすでにきている。
「神父さん、どうされました」
「この脚が痛いんだ」彼は靴とソックスを脱ぎ、赤くはれ上がった脚をみせる、丹毒だ。彼は司祭館のにおいがする、子どものとき ミサの侍者をやっていた頃から憶えている匂いだ、煙草、香料、汗、アルコール、石鹸の匂い。アルコール?まだ9時15分だ。 何があったんだろう。
「ひげそりあとのローションだよ」彼は説明する、ひげそり後にどんな具合にたっぷり顔に塗りつけるか、 念入りにやってみせる。
エッシェベルドが飲んでいる。女のせいか?それとも神か?神だ、と私は思いたい。

参列者が少ないのではないか、気にしながら、私はトゥースの葬儀に行く。葬儀はベッケンシュタイン社が仕切っていた。 棺担ぎの一人は小さすぎる上着を着ている。明らかに、葬儀社は、員数が一人足りないので、彼を公園のベンチか酒場から 引っ張ってきたのだ、合う衣装がないと文句を言う彼に、不謹慎なことはするなと言い聞かせて。いらいらして、 彼は上着のボタンを掛け違えている、それがかえって知的に障害があるように見える。彼の上着は小さすぎるが、何人かの同僚たち のズボンは長すぎて、すそを折り返している。そのうちの一人は、黒いスーツを着ておらず、グレイのズボンと黒い上着を着ており、 それがすごく場違いな感じを与えている。社長は燕尾服をきちんと着ていたが、大げさに膨らましたヘアスタイルをしていたので、 結婚式の方がはるかにふさわしいように見える。要するに、この連中ははめちゃくちゃだ。
ブラム・ホーゲンザイルも来ている。彼はたいへん難儀そうに歩いている。「あいつがわしの骨盤に歯を立てて 食らいついているんだ」彼は私に耳打ちする。「ところで・・・」彼はベッケンッシュタインの連中を、非難の目で見ながら付け加える、 「わしの葬儀にはベッケンシュタインの連中はごめんこうむりたい、できればね。わしのお別れのときは、いささかの品位を求めたい」 彼はにやりとして言う。私は、ミサの後、埋葬まで付き合うかどうか聞いてみる。
「いや、それはちょっとやりすぎだろう。そもそもこれは、わしの葬儀のリハーサルのようなものだからな」
彼は今日はすごく辛らつだ。感動してブラム・ホーゲンザイルに握手を求めて近づいてきたヴァン・イーアンペーレンに、 彼はしわがれ声で言う。「やあ、われわれは葬儀でまた会ったわけだ。してみると、わしはまだ死んでおらんということだ」 ヴァン・イーアンペーレンはこれに度肝をぬかれる。
ブラムの態度の奇妙な点は、どうしてわしを助けてくれないのか、と彼が懇願しているように思えるとき、そして 急いでかれのところに行くと、彼はその人をやり込めてしまうのだ。
会衆は、ミサでグレゴリオ聖歌を歌う、式次第を大幅に省略している。またまた「怒りの日」は歌わない。整然としていない。 「神の子羊」を歌っている時にも人々は三々五々教会に入ってくる。エッセベルドは、出だしは勢いよく説教を始める、 われわれの疑問とするところを次々と列挙してゆく、この永遠の命、そのようなものが本当にあるのか、どうして知ることができよう、 だれもそこから帰ってきたものはいない、おとぎ話か?
彼は一息入れる。われわれはみな期待をこめて彼を見ている、そしてその沈黙のなかで彼は気づいたように思われる、これらの 問いを発することにより、彼は未解決事項をあれこれいじりまわしているだけではなく、一気に全体の織物をずたずたに引き裂いて しまいかねない途上にあるのだと。彼はすばやく逆戻りする、そして前に言ったこととは無関係に、声を張り上げて言う、 神を天に求めるのではなくわれわれ自身になかに求めるべきだ。トゥースが与えそして受けとったすべての愛は無に帰した、 などということがあろうか。「兄弟姉妹たちよ、そんなことは決してありえない」彼は脅している。
さて、そうだろう、しかし生がそのような脅しに注意を払っているのを、私は見たことがない。まして死が。
エッセヴェルトが棺を祝福するために私の横を通り過ぎたとき、香料にまじって、アルコールの匂いがはっきりした。 なぜ彼は飲んでいるのだろう。それが私を悩ませる。彼が聖水を棺に散布しているとき、彼は涙をまいているようだ、 そして私は何年もしていなかった祈りをささげる「神よ、どうか存在していてください、そしてエッセヴェルドのために 何かしてあげてください」

その日遅く、ヴァン・デ・バーグの部屋に入ったとき、彼はいきなり弟からの手紙を私の目の前に突き出した。 チャールズが「自分を破壊する」決心をした、というニュースが届いたとき発作的に書かれた長い手紙だ。不必要に 残酷な調子で書かれたひどい表現が沢山ある。「主の試みから逃げようとしている兄を見るのは恥だ。あなたの馬鹿げた計画は、 両親が主の道について教えてくれたすべてに対するひどい裏切りだ、生においても死においても。鞭を惜しむものは、子を 憎む、しかし子を愛するものは子をよく折檻する。あなたの臆病な気持ちに何の意味があるのか、そんな臆病心で決めて いいのか。主はわれわれを飢えをもって養われる。われわれは、主がわれわれを折檻しようとしている鞭にキスをするべきだ」
こんな調子でもっと沢山のこと、そしてサイン、マーティン。
「鞭にキスをする」には、私は思わず笑ってしまう、なぜなら私はそれでまったく違うことを思い出したから、しかし ヴァン・デ・バーグはこの手紙に心からショックを受ける。
「あなたの弟は、つまり、弟さんの言葉はあなたを不安にさせたのですか・・・わたしたちが話し合ったことについて」 私は自分が不安になり始める。
彼はタイプする「はい」
さらに、私はヴァン・デ・バーグの本棚にある何冊かの本をちらりと見て、かすかな不安を心のなかで押し殺しす、 そこに私は、アイダ・ゲルハルトやクリストファー・イッシャーウッドに並んで、一冊の本を認める、それは麻酔中の人々の 体外離脱の経験について、最後は避けることのできない暗いトンネルを通って、天使のような姿をした者が魂を手招きしたり 追い帰したりすることを書いた本である。本文は、生半可な星占術の見解や死の間際に人々が経験した幻覚の図が沢山載っていて、 その幻覚の図は私が育った50年代のローマカトリックの祈祷書の絵に全くそっくりだった。彼が、自分の最後の部屋で 本当に大事なものとしてこれらの本を手に取っているとするならば、この本がここにあるということが、私を落ち着かない気持ちに させるのである。
そしてこの手紙だ、驚いたことに、彼はまじめに取ったのである。そのようにゆれ動く死の願望には、どうしたらいいのか 私は分からない。 不安になってくる。彼は死にたいのか、それとも死にたくないのか。私は思いたい、わたしたちが全く初めから すべてのことをやり直さなければならない事態にはならないと。彼は私を正視しない。
突然、アイデアがひらめいた。「どうしたらいいか、そうだ、われわれの司教代理、ヘンドリック・ターボルグに頼んでみよう」
彼は叫んでタイプする「はい」、そして私に震える湿った手を差し出す。
ヘンドリックはすぐに彼に会うだろう。彼はまずヴァン・デ・バーグに訊ねることから始めるだろう、「教会に行ったことは ありますか」彼らはすぐ、私がまったく考えもしない提案にたどり着くだろう「一緒に祈ろう、そしてあなたが何をすべきかを 神に訊いてみよう」
現代の宗教、私はそれに対処できない。それについて何を考えたらいいのか思いつかない。誰かが、全くまじめに、 こう言うのを考えてみたまえ、「いいかい、夕方ぼくは少し遅れるよ、まずゼウスにいけにえの儀式をやらなきゃならないんだ」 あなたならどう答えるか。しかしホーマーの章句からは、そうした疑問は起こらない、「お聞きください、銀の弓の主よ、 クリスと聖なるキラの守護神よ、そしてテネドスとスミンサスの強き主よ、もし私があなたを喜ばす神殿を築いたならば、 もし私が雄牛とヤギの脂ののった大腿骨を焼いてあなたに捧げるならば、この私の祈りを聞き入れてください。 あなたの矢でギリシャ人に私の涙の償いをさせてください」
そしてギリシャの陣営は災禍に見舞われる、降り来るアポロの黒い矢に。非常に美しいそして遠い昔。ギリシャ人の世界は当時、 文字通り世界であった。しかし今それを信じる者を想像したまえ。人々がかって信じたものは、われわれが壁にかける 絵のようなものだ。
プルタークから次の章句を取ってみよう、それはプラタイアの戦い(BC497)のエピソードである。ペルシャ戦争のこの 最後の戦いでパウサニアスはギリシャ軍の司令官であった。
パウサニアスは神々にいけにえを捧げた、しかし彼は吉兆を得ることができなかったのでスパルタ軍に指示を 出した、再び彼がいけにえを捧げている間、静かに座り、楯を前の地面に立て、抵抗することなく指示を待てと。そうこうする うちに、ペルシャの騎兵軍は攻撃を始め、そして間もなく矢の射程距離内に来た、そしてスパルタ軍は矢に打たれ始めた。その時、 ギリシャ軍のなかで最も美しく背が高い男として知られていたカリクラテスが矢に打たれた。倒れて死ぬまぎわに、彼ははっきり 言った、ギリシャのために死ぬ覚悟で家を出たからには、自分の死に後悔はしない、敵と一戦も交えずに死んでゆくとしても。 部隊は実に多大な損害をこうむったが、規律はすばらしかった。彼らは攻撃してくる敵に反撃せず、部隊中に矢が放たれ打ち倒されても、 ただ彼らの神と彼らの司令官からの指示を待ったのである。
こうした事態がしばらく続く、そして最初の兵士が殺されても、司祭は次から次へと動物のいけにえを捧げ続ける、 動物の腸を必死になってひっくり返してお告げを探す、内臓のねじれのなかに徴を、肝臓の葉のなかに特別の数を、 神の承認を告げそしてスパルタ軍のために好ましい結果を預言している徴を。
いや、壁の絵どころではない。今、ヴァン・デ・バーグがもし自分の命を終わらせてもいいかどうか神に訊くということは、 羊の肝臓が極めて重要な問題でなにか価値のあるものを私に告げるというのと同じくらい、私には理解不能だ。 これらのことについて私は文字通りに取りすぎるかも知れないが、神の住所を聞きたくなる。ちょっと寄って、ヴァン・デ・バーグ のことのほかにも、神と二三話がしたいことがある。ああ、神の住所を聞くなんて馬鹿げたことだと知っているが、これらすべての 考え方は私の非宗教性の特徴なのだ、そのことをジャアースマは私を音痴かなにかのように思うと言うのだが。
「心配することはないさ」彼は私に請け合うように言う、「 どうあっても、墓場までは行けるさ」
「ジャアースマ、私の問題は墓場まで行けるかどうかではないんだ。そこにすぐ飛び込みたいと願う人々の意味を理解しようと しているんだ」
翌日、ヴァン・デ・バーグ夫人はマーティンの手紙について私に話をする。彼女は、それを不愉快なやり方だと考えている。 「もうつまずいているのに、その足をすくうようなものだわ。チャールズは、病気に向き合い、そして病気を終わりにさせる 望みを受け入れるのに、ずいぶん時間が必要だったのよ。そしてこの手紙、それもよりによってマーティンから来るなんて・・・」 彼女は私に語る、結婚式や家族の集まりのときに、マーティンが少し飲んで、どんな風に彼女から手を離さなかったなど、つまり チャールズのマーティンに対する感情を傷つけたくなかったので、彼女が決して夫に話さなかったことなどを語る。
「彼に話せばよかったと思うわ。そうすれば夫はマーティンにあの手紙をどこに貼り付けてやろうかって言ったと思うわ、 失礼。あまり品のいい言い方ではなかったでしょ。ええ、今となっては何も変えたくないわ。神様と相談して決めればいいのよ」
神の住所について、私はアフリカの話を聞いたことがある、むかし神の小屋と地上との間に橋があった、それで人々は問題が 出たときに、神を訪問していた。訪問者は引きも切らなかった、毎日大勢の人たちが神のまわりに群がった。穀物の不作や、 子どもの病気、逃げた女房や、盗まれた牛など、尽きることのない愚痴に神はうんざりして、ある日橋を壊してしまった。そして 神は言った、これ以降もし神に言いたいことがあれば、祈りと犠牲でするようにと。
われわれにも住所のある神がいた。古代ギリシャでは、神々はオリンポスの山に、海のなかに、地上に住んでいた、そして ユダヤ人は神が燃える柴✽1のなかに現われたと言わなかったか。いみじくもヴァン・ヘト・リーヴィは言っている、 聖書はいかなる解釈にも耐えられる、文字通りの解釈を除いて。しかしそれは文字通り正しいものとして始まったのである、 そしてこの文字に書かれた宗教こそ、私が理解できるものである、ただし私はそれは正しくないと知っているのだが。 私にとって問題は人々が文字通りの解釈をテーブルの上から放り出して、神学を語り始めたことから始まる。神学者たちは 住所のある神々を薄い空気中に雲散霧消させてしまったのである。彼らはこの「原始時代」の宗教を見下している。しかしもし彼らが この問題を取り上げて私の可愛そうな母に説明していたとしたら、彼女はもちろん、ロンドンに行くという意味において、 天国に行きたいとは思わなかっただろうし、次に彼女はそのような天国には興味を示さなかっただろう。もし神学者たちに いま神はどこにいるか訊ねたとしたら、彼らはこんな風に言うだろう、「われわれの同胞の顔のなかに」と。
このことに関し存在論的に話してみよう、そして神とドナルド・ダックを比べてみよう。結構だ、笑いたまえ、しかし とにかく聞いてくれ。私が思うに、これらはある意味において比較しうる実体だ、つまりわれわれの同胞の顔のなかに宿っている と一方の方を言うのなら、もう一方の方は何百万人というアメリカ人ひとりひとりの隣人だと言ってもいいだろう。 これら双方の発言は後から考えて付け加えた説明だ、というのは子どもの頃私はドナルドが大好きだった、 そしてまた私は旧約聖書のイスラエル人としてのみ実際に神にいけにえを捧げることができたのだ。もし今日私が 「神にいけにえを捧げること」の意味を理解したければ、私は神学者のように重箱の隅をつつくようになるか、 社会学的一般法則を作るか、神秘的になるかしかないだろう。そして「現代の宗教」が絶望的に もがいているのはまさにこの苦境のなかにおいてなのだ、いや彼らはどうしたらいいか神に訊いてみると 言うだろう。もし、あの祈りはどうなりましたかと聞いたとすれば、失礼な奴だと彼らは思うだろう。
翌日ヘンドリックは私に告げる、大丈夫だよ。彼はヴァン・デ・バーグと会ったことを言っているのだ。
「大丈夫だって?」
「ああ、彼は何がなされるべきかを知っているよ。彼はいま自分が何を望んでいるか知っているよ」
「そのことで神は何と言った?」
「アントン、よしてくれよ」
「ごめん」ほらね、現代ではこうなんだ。
どこに違いがあるだろう、この「神に訊く」ことと、プルタークのギリシャ人たちがヤギの腸に吉凶を読むことと。
ヴァン・デ・バーグの部屋に入ると、彼は大きくにやりと笑って私を迎える。彼はタイプできない、興奮しすぎているのだ。
「さて、ここにいる誰かさんは、困難を乗り越えたのかな?」私は慎重にいう。彼は思いっきり私の手をつかみ、 耳になにかささやこうとするかのようにして私を押し倒す、そして音をたてて私にキスをする。
「ああ、何もかもはっきりしたんだね」私は確かめる。
「明日の夕方、と言っております」妻が言う。
それは私にとっては不安な眠れない夜を意味する。私は浅い眠りのなかで、いろんな夢に追いかけまわされる。一晩中、私は 養護施設のなかを前かがみになって歩き回っている、致死量の一服をナイフのように歯のあいだにはさみ、決定に至るまでの過程で 手順に間違いがなかったどうか探しながら。私の目の前には、ヴァン・デ・バーグの機械から吐き出された大量の紙があふれ、 その紙には理解不能の落書きがびっちり書き込まれ、それを私は尊厳死の要求だと間違って解釈する。私はやっと彼を探し出し 彼に注射を打つ、がなにも起こらない。彼は期待をこめて私を見つめ続ける。部屋の他の住人たちはいっせいに私に視線を注ぐ。 私はそのいまいましい注射器を手にもったまま、呆然とそこに立ちつくす。そのあと私は、ヴァン・デ・バーグにではなく アリー・ブレームに注射する。私は患者が違うことを知っている、しかしみんなが私をせき立てるのである。私はすべてが間違 いだと感じている。アリーの息子もそれを知っている。私は、彼が肩を震わせてむせび泣いているのを見ている。
次の日の夕方、ヴァン・デ・バーグのところに行くとき、私は理性的には落ち着いている。ちょうど彼の部屋に入るとき、 ターボウが出てきた、それが私に安心感を与える、少なくとも宗教的な面からはパニックは起きない。それでも再びロープのつり橋 に一歩踏み込んだとき、私は緊張し神経質になっている。部屋に入ったとき、すごく大きな犬が陽気に私に飛びついてくる、 短い毛をした黒い犬だ、私はなんという種か正確には知らない、しかし私に限って言えば、純潔種のアヌビス ✽2だ。肝を冷やして、 私は思わず訊く「これも一緒に立ち会うんですか」
ヴァン・デ・バーグは断固として答える「もちろんです」
この日の午後、私は手順ついて彼と話をしていた、そしてもう一度握手をしてからすぐ薬物にかかるということで一致していた、 相手を傷つけまいとの気遣いから、双方とも口からでるのを止められない、そんな普段の挨拶の言葉にこだわって しまうのを避けるためである。
うまくいく。彼の静脈は打ちやすい。注射のすぐあとで、トゥースのかもめが一羽、窓枠におりてきて、すぐまたよろけながら 夕暮れの空に戻っていく、ずっと鳴きながらゆっくり高く高く上昇し、暮れなずむ空に飛んで消えていく。私も彼の妻もいつまでも 鳥のあとを追っている。その間、ヴァン・デ・バーグはわたしたちの間に座っている。死んでいる。私たちは二人ともそれに気づいて驚く。
「あのかもめと一緒に行ったんだわ」彼女は言う。それからもっと声をひそめて、「ああ、もう私には何も残っていない」
看護士の助けをかりて、私たちは彼をベッドに運ぶ。彼女は子どもたちを呼ぶ。私は検死官を呼ぶ、その検死官が来たのは 11時半だ。検死官は遅れたお詫びを言う、書類仕事で忙しいのだ、そして警察の調査官が残る、彼らは何か他の仕事のほうが 似つかわしい。二人とも40前後、太りすぎて動きずらそう、そして怒ったように煙草をふかしガムをかんでいる。礼儀正しさと不作法 の間を行ったり来たりしている。「ここで煙草すっていいか。お前は医師の資格をもっているか。証明できるか。この男を どのくらい前から知っているか。ところでパーキンソン病って何がひどいのか。奥さんもいましたね。彼女は何歳か。待てなかったのか。 彼を見れるか」
われわれは彼を見に上の階へゆく。彼らは肩をすくめ、そして去る。明日私は報告書を提出しなければならない。検死官はすでに 検察官に話をしている。検察官は死体取扱い制限を解除してる、そして埋葬できるように引き渡す。私には、ピラトのあの言葉 ✽3の残響が かすかに聞こえる。

訳者註
✽1燃える柴: 『出エジプト記』3:1-2  「モーセは、しゅうとでありミディアンの祭司であるエトロの羊の群れを飼っていたが、あるとき、その群れを荒れ野の奥へ追って行き、 神の山ホレブに来た。そのとき、柴の間に燃え上がっている炎の中に主の御使いが現れた。彼が見ると、見よ、柴は火に燃えているのに、 柴は燃え尽きない。」 モーセに神が現われる場面。
✽2アヌビス: 古代エジプト神話の冥府の神、死神。 山犬の頭をしている。
✽3ピラトのあの言葉: 『マタイ伝』27:24 「ピラトは、それ以上言っても無駄なばかりか、 かえって騒動が起こりそうなのを見て、水を持って来させ、群衆の前で手を洗って言った。 『この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ。』」 ピラトはローマ帝国の第5代ユダヤ総督、在位A.D.26-36。 ユダヤの長老たちの要求により、不承不承イエスの死刑の許可をだした。


著者のBert Keizerは1947年生まれ、オランダの医師で作家。イングランドのノッティングハム大学で哲学を学び、その後 アムステルダムで医学を習得し、現在は養護施設で医師として働く。Dancing with Mister D: Notes on Life and Death(1995)を 出版し、注目される。本書は著者自らの英訳である。全体が末期医療施設である養護施設の中での出来事でつづられ、 74編のそれぞれ独立した物語より成っているが、全体が一つの物語でもある。ここに訳したのはそのうちの一編である。 なおオランダでは尊厳死は認められている。

著者の神に対する態度は、おそらくヨーロッパに共通した風潮であろうと想像される。そのあたりをよく知りたい思い、 翻訳した。それは「人々がかって信じたものは、われわれが壁にかける絵のようなものだ」という記述に端的に現われている。 それでも著者は、神の存在を意識の隅で気にかけているのである。これはヨーロッパの歴史的残照であろうか。
この文章は、「時事英語勉強会」の学習教材に使いました。(管理人)

更新2008年6月21日-26日