今月の言葉抄 2008年5月

私は、私と私の環境である。

私は、私と私の環境である。そしてもしこの環境を救わないなら、私をも救えない。Benefac loco illi quo natus es(生まれし 場所に祝福あれ)と聖書も言っている。プラトン学派でも、すべての文化のモットーとして次の言葉をうたっている。「外観を 救え」。すなわち現象を救えという意味である。われわれの周囲にあるものの意味をさぐれということだ。(「読者に・・・」より)

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いったい、何本の木があれば森になるのだろう?そしていくつの家で町となるのか?ポワティエの百姓の歌うところによれば、
家々の高さが
町を見るのを妨げる
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「樹々は森を見せてくれない」という言葉を繰り返すとき、おそらく、その厳密な意味は理解されていない。この言葉を もってしようとする哄笑は、たぶん、その針を、それを言う人に向け直す。
樹々は森を見せてくれないが、しかしそのおかげで、実際に森が存在するのである。眼に見える樹々の役目は、自分たち以外の 樹を見えなくすることであり、現前する風景が、眼に見えぬ他の風景を隠すのだということにはっきり気づくとき、初めてわれわれは 森の中にいることを感じるのである。
不可視性、隠れてあること、これはたんに否定的な性質ではなく、かえって積極的な性質、すなわちある物に注ぎこまれると、 その物を変容させ、そこから新しい物を作り出す性質なのだ。そのような意味から、さきほどの格言からも明らかなように、 文字通りに森を見ようとすることは馬鹿げている。森は、それ自身としては隠れたものである。
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ある人々は、あるものの深遠さを認めることを拒むが、それは表面的なものと同じような仕方で深層のものも現われることを 要求するからである。彼らは明澄さにもさまざまな種類があることを認めず、ただうわべに特有な明澄さに注目する。彼らは、表面の 背後に隠れていること、表面の背後で脈打ちながら、ただそれを通してだけ自己を現すことが深遠なものの本質であることに気づかない のである。(「予備的な思索」より)
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われわれは生を受けてわずかのあいだに、もう自分たちの牢獄の境界に触れてしまう。長くてもせいぜい三十年もすれば、 われわれは自分たちの可能性がどこまでゆれ動くか、その限界を知ってしまう。こうしてわれわれは現実的なものを把握する わけだが、それはつまり自分たちの両足をつないでいる鎖の長さを計ったということなのだ。そして次のように言う。 「これが人生なのか。これっぽちのものなのか。いつも同じことを際限なく繰り返す閉じた輪のようなものなのか」と。 ここに、すべての人にとって危険な瞬間がある。(「第一の思索」より)

『ドン・キホーテをめぐる思索』ホセ・オルテガ・イ・ガセット著 佐々木孝訳 未来社 1987年6月


「私は、私と私の環境である」とはオルテガ(1883年〜1955年)の解説をよむと必ず紹介されている有名な言明である。 それがどういう文脈のなかで語られたかを確認するために『ドン・キホーテをめぐる思索』を読んだ。それは特に重要な文脈 ということではなく、ここに引用した通りポツリと置かれた文脈で、これが語られた節の全部である。しかしこれはオルテガの 思想を端的に言い表わしているので、有名になったのだろう。オルテガには豊かな思索と洞察があり、『ドン・キホーテをめぐる思索』 は1914年(31歳)に出版された最初期の本である。すでに独自の哲学者である。次の表現もこれと関連がある。

われわれだれもは、半分はかれがまさにあるところのもので、もう半分はかれの生きている環境なのだ。(『哲学 とは何か?』1930年の市民向け講演より)
(管理人)
更新2008年5月23日