往生要集注釈

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尽第四問半   上巻が第四章の半ばで終わっていることを示す。
  「夫」の訓読み。文頭に用いられ、語調を整えたり、話題の導入や論旨展開の着点を示す役割を果たす。「そもそも」「いったい」「さて」などの意味合いを持つ。文頭に用いて、語調を整える。
極楽往生の教行きょうぎょう   阿弥陀仏の極楽に生まれるための教えとその修行とは、この濁りはてた末の代の人々にとって大切な目や足に当たるものである。「極楽(sukhāvatī)」は、「楽あるところ」の意で、阿弥陀仏がわれらを救済するための場として建立した清浄世界。「須摩題しゅまだい」等と音訳し、「安楽・安養」とも訳す。いのちを終えた後、そこに生まれてゆくことを「往生」と言う。「濁世末代」釈尊の滅後、仏法が次第に衰えてゆくと考える歴史観、いわゆる末法思想に基づく歴史観。釈尊の滅後千五百年あるいは 二千年を経過すると、仏法は形骸化し、悟りを得ることができる者はもちろん、正しい修行をすることができる者さえいない「末法」の時代に入ると考えられていた。日本では永承七年(1052)を末法元年とする立場が一般的である。『往生要集』は永観二年(982)秋から翌寛和元年にかけて出筆されているので、やがて来る末法のの時を見据えて、末世相応の仏教として往生極楽の法門を提示したと言えよう。
帰せざる   「帰す」最後はひとつところに落ち着く。帰着する。従う。
顕密の教法   顕教と密教で仏教全体を表す。天台宗は顕教に属ずるが、後に密教を充実させた。これを台密という。密教は空海が唐より持ち帰った。そもそも仏教は、聞く者の素質に応じて理解しやすく説かれるもの、と言われる。ところが『大日教』や『金剛頂教』などの経典に説かれた教えは、秘奥幽妙の法門で、特別な者にしか理解できないと言われる。そのような仏教を「密教」と称して、通常の「顕教」と区別する。
事理の業因   事は具体的な現象としての差別、理は普遍的な真理を注す。ここでは極楽に生まれるためにおこなう、仏の相好(そうごう)や浄土のすがたを観想することが事の業因で、仏を普遍的な真理そのものと捉えて、これと一体となる修行が理である。
予が如き頑魯の者   わたしと同じような、かたくなで愚かなもの。源信の同輩意識と自己反省を語る。
あに   漢文の「豈(あに)」は、反語や詠嘆の表現として使われます。「どうして~だろうか。いやない」の意味になる。
等活   ともに生活するの意。想地獄ともいう。「地獄」は罪の報いを受けて生まれる世界、その生存の仕方、および生きもの。六道の一。
地獄について   伝統的保守的仏教の教義要綱書である『倶舎論』でもこの八種を立てている。ところで、これらの八つの地獄の観念は、人間の空想にもとづいて突然現れたものではない。インド以来極めて長い期間にわたって変化発展した「地獄」の観念にもとづいてつくられたものである。その成長過程を簡単にたどってみよう。(仏教以前における地獄)地獄とは地下にある牢獄の意で、現世に悪行をなした者が、死後その報いを受けるところをいう。日本における地獄の観念は、インド以来のものを受容し、変化・発展させたものなのである。
 インドの宗教文化の最古の所産である『リグ・ヴェーダ』諸讃歌(西紀前1300~前1000年頃)についてみるに、善人であった死者の霊はかって逝きし父祖の通った道によって永遠の光明ある楽土にゆき、そこで自分の血縁のものと再会し父祖(pitarah)とともに喜びにみちた生活を送るという。天国は願望を達することのできる楽しい所であると、リグ・ヴェーダ詩人は考えていた。
 「欲望と願望のかなえられるところ、輝かしきソーマの杯のあるところ、安楽と喜悦のあるところ、- そこでわれを不死となかし」
その楽土は死者の王ヤマ(Yama)の支配する王国であり、最高天にあり、光明・緑蔭・酒肴・歌舞・音楽に恵まれた理想郷である。このような天界の楽土に到達するためには、特に祭祀を実行しなければならぬ。他人に対する布施、特にバラモンに対する布施が賞賛されたが、種々の警戒(vrata)をたもち苦行(tapas)を行うべきであり、また戦場で戦死した勇士も天上の楽土に到達し得ると考えた。他方、悪人の運命については詳しい説明がなく、死後の審判の観念も未だ明確には現れていない。ただ、悪人は恐ろしい無(asat)、非理(anṛta,nirṛta)の深淵の中に堕ちると考えていたが、明確な地獄の観念は説かれていない。かれらはどこまでも現世および来世における生に執着していて、楽しみを享楽しようと願い、未だ厭世的な世界観をいだいていなかった。・・・
 死者の王ヤマは死後の審判者としての性格をますます強めるに至った。そこで恐ろしい神とみなされ、仏教神話においては地獄の審判者と考えられ、「閻魔」と漢訳され、道教の観念も種々混入して、ついにわが国では「嘘をつくと閻魔様に舌を抜かれる」という俗信が成立するに至った。ただし朝鮮の閻魔様はおどけたような顔貌を示していて、それほど恐ろしくない。
 地獄は仏教では重要な観念である。仏教では、サンスクリット語ならびにパーリ語のナラカ(naraka 「奈落」「捺落迦」などと音写する)、またはニラヤ(niraya)を「地獄」と訳している。地下の牢獄の意で、悪人が死後に生まれて、苦しみを受ける場所である。地獄の観念は、当時一般の民衆の間で奉ぜられていたが、それを仏教がとり入れたのである。悪を犯した者が地獄に落ちるということは、仏教の最初期から説かれていた。応報思想が輪廻思想と結びついていたのである。
 インドの諸宗教の説いていた「善因善果、悪因悪果」という因果関係は、現世のことがらに関しては或る程度まで真理である。全面的に真理ということはできないが、或る程度の蓋然性をもって真理であるといえよう。ところで、もしこの因果関係を現世だけに限ることなく、のちの世界まで延長すれば悪の結果としての地獄の存在を当然容認せねばならなくなる。ジャータカや因縁譚が民衆の間に普及し、信奉されるにつれて、地獄はますます実在性をもって信奉されるに至った。
 仏教によると、地獄とは迷える衆生の五つの生存領域(五道または五趣)または六つの生存領域(六道または六趣)の一つであった。原始仏教聖典には、釈尊の語として、(アンダーラインは引用者)
 「ここに五つの生存領域(趣gati)がある。五つとは何であるか。地獄と畜生と餓鬼と人間と神々とである」といい、地獄については、
 「われは、地獄、地獄に至る道、地獄に至る行路を知り、またかって行った行いにしたがって、身体が破壊したのち死後に地獄に生まれることを知っている」
という。他の畜生、餓鬼、人間、神々(諸天についても同様の説明をくりかえし、最後に煩悩を滅ぼしつくして達する解脱の境地、ニルヴァーナ(涅槃)についていう。
 「われは、」ニルヴァーナ、ニルヴァーナに至る行路を知り、またかって行った行いにしたがって、諸々の汚れを滅ぼしたのちに、汚れ無く、心の解脱、知慧の解脱をまのあたり自ら知り体得して達していることを知る」
さらに前掲の文句を敷衍するような説明がなされている。
 「またわたしは、或る一人を、心を以って心をとらえて知るー「この人は、身体が破壊してのち死後に地獄に生まれるように、そのように実践し、行動し、道を進んだ。だからこの人が身体が破壊してのち死後に地獄に生まれて、ただ苦しむのみで激しい苦痛を感受していることを、わたくしは清浄にして超人的な天の眼を以って見る」
或る場合には、五種の生存領域のうちで神々だけを特に詳しく分けて述べている場合もある。
 「地獄よりも畜生がすぐれている。・・・畜生よりは餓鬼の境界がすぐれている。・・・餓鬼の境界よりは人間どもがすぐれている。・・・人間どもよりは四天王がすぐれている・・・四天王よりは三十三天がすぐれている・・・三十三天よりはヤーマ天がすぐれている。・・・ヤーマ天より兜率天がすぐれている。兜率天よりは毛楽天がすぐれている。・・・毛楽天よりは他化自在天がすぐれている。・・・他化自在天よりは梵天の世界がすぐれている」
ただここで注意すべきことは、この文においてヤーマ天はyā mā devā と複数で示されている。ヤーマとよばれる神々の居住する天の或る層には多数の神々がいると考えられていたのである。そうして、もしもヤーマがヤマと何らかの関係があったとすると、ヤーマの天界はは地獄と切り離されているから、ここには『リグ・ヴェーダ』以来の、ヤマの古いイメージが保存されているのである。
 しかしこのように五つにまとめられたのは、原始仏教聖典においてはかなり後のことであり、また「生存領域(趣gati)」とは、もとは神々と人間だけに限られていたのであり、畜生、阿修羅、餓鬼、地獄の四つは、前掲の二つとは区別されて、「くずれ落ちたところ(悪道vinipā ta )と呼ばれていたらしい。ところが後になって、仏教では衆生の輪廻する範囲を地獄・餓鬼・畜生・人間・天上という五つの生存領域(五趣)に分け、或る場合にはそれに阿修羅を加えて六つの生存領域(六道または六趣)とするようになった。五つの生存領域を立てることは、前に指摘したようにすでにパーリ文の原始仏教聖典の中に見られるが、六つの生存領域という観念は、原始仏教聖典の詩句の部分には現れていないようである。それはつまり遅れて成立した観念なのである。しかし後代には、特に日本においては後者のほうが支配的になり、古来「六道輪廻」とか「六道能化の地蔵菩薩」ということばが人々の間で口にされるようになった。・・・
 源信は、地獄を説く場合に、どれどれの経論にもとづいたということを記しているが、経論の文章をそのまま長く引用することをしていない。つまり、かれ自身がこなして書いている・・・・・・・・・のである。多くの経論の文章を引用して浄土を論ずる場合とは非常に異なる。
 源信は主として正法念経(『正法念処経』)にもとづいて地獄を述べている。この経典はサンスクリット原文が残っていない。したがって、サンスクリットなどの原文を引用して対比するという手法がこの場合適用しがたい。ただ伝統説として玄奘訳『倶舎論』における説明を・・・源信が玄奘訳の『倶舎論』を読み、学習していたことは、疑いない。・・・また地獄を体系的に 述べた日本人の著作としては、『往生要集』が最も有名であるから、両者の対比ということは、充分の意義を持っていると考えられる。・・・中村元『往生要集を読む』からp19-p28 (仏典における「地獄」の出典、およびそれについての考察は、『国宝地獄草紙』複製の「解説」(銀河社 昭和48年)中の中村「地獄論」に詳しく述べておいたからここでは省略する、のコメントあり)

 追伸 以上を読んで、私の得たもの理解したものは、①地獄はインド古代から生成し時代とともに変化した時代の産物であること、つまり歴史上の産物であること、②地獄を観念として説明していること以上の2点である。・・・管理人
閻浮提えんぶだい   梵語。わたしたち人間の住んでいる世界。四大州の一。仏教の世界観である須弥山説では、一世界の中心は須弥山という高山で、これを海と山が交互に八周しているとする。この海には四つの大陸があるとし、これを四大州という。『大智度論』
由旬   梵語。距離の単位。一説に約14.4kmとする。実測では、はっきりとは分からない。古代インドの距離の単位。
沙揣しゃだん   砂の塊。
くつ然   たちまち、にわかに。「くつ」未詳。
有情   衆生。含霊がんれいともいう。生存するものの意。こころをもった生きもので、主として人を指す。
四天王天   天界で、この地上に近い六欲天のうち、もっとも近い天。持国・増長・広目・多聞の四天王とその一族が住まう。
下の六   この先ふれる六つの地獄。
四門の外   東西南北にある門。地獄にはこの門の外に、それに付随した小地獄が16あってこれを別処という。他書では増という。
  漢文で「令」の字は、命令する。お達しする。命令して・・・させる。掟。長官。
瓮熟処おうじゅくしょ   かめに入れてぐつぐつ煮る処の意。
狗犬・野干   いぬ、きつね。
骨肉狼藉   食い散らした骨や肉があたりに散乱している。
ばい   ほら貝。
已上   「已上」は漢文の訓読みで「いじょう」と読み、漢文の意味も「以上」という意味。
閻羅えんち   梵語。閻魔羅社(えんまらしゃ 閻魔王の意)。地獄の王。その住所は地獄・餓鬼・畜生などとは別の世界として立てるものがあるが、本書では餓鬼の世界をこの王の住所とする。閻魔王の思想はシナにきて道教などとまじわった結果、五官王、八王、十王などの説が生まれ、とくに裁判官である十王の一として知られている。
異処いしょ   特別の地獄。別処ともいう。
身分しんぶん   身体の部分。
衆合地獄しゅうごうじごく   「衆合」たがいに打ち合うこと。あるいはその群れ。/ 「衆合」は衆多の苦が俱に襲いかかるの意。また一説に、「推圧(重ねて押しつぶす)」の意という。(梯氏)
日の初めて出づる如き者あり。身沈没すること重き石の如き者あり   ある者は日の出の太陽のようにぽっかりと頭を浮かせ、ある者は石のように身を沈めている。(かけはし
端正厳飾たんじょうごんじき   顔だちのととのった、きれいに着飾った。///
所・されて   漢文の「所」は受身の意味、「される」。「我所好書」我が好むところは書なり」返読文字。返って読む。「所」という字は、直後に他動詞を伴い、その目的語(対象)を名詞化する働きがあります。つまりこの文では「所好」の二字で「好むもの(何を好んでいるか)」という意味を表しています。我」はその「所好」の主語ですから「我所好」で「私が好きなもの」、この三字が「書」に対する主語となって、全文の意味は「私が好きなものは書物である。」となります。
異人   「ことひと」と読み、別の人、ほかの人、他人、外国人、異国の人、を意味する。
夜摩天
六欲天のうち、下から三番目の天。夜摩は梵語で、閻魔王とその起源を同じくする。不思議な歓楽につつまれ、争いがなく、そのすぐれていることは//刀利天の比ではないという。
熟蔵   消化器の上部を生蔵といい、下腹部の腸の部分を熟蔵という。
已上   「いじょう」と読み、漢文では「以上」の意味です。
大論   大智度論。
閻羅人   閻魔王の配下の獄卒。
寂静ならざる   どうしてこうも罪人の呵責に狂奔するのか。絶えずに責めるのか。
男の   男色。衆道。
飲酒おんじゅ   五戒・十戒などの一。大乗では飲酒は軽い罪として扱われ、むしろ酒を売ることを重罪とする。小乗でも懺悔すれば許される軽罪。
ちゅう   長さの単位。約46cm。
仏のみもとにおいて、痴を生じ、世・出世事を壊り、解脱を焼くこと如火の如くなるは、いはゆる酒の一法なり   仏の前でも憚らず 人生すべてをぶち壊し 悟りの種さえ焼き尽くす それが酒のおそろしさ(梯)///
生蘇しょうそ芽を出したばかりの若草。   ///
分荼離迦ふんだりか   梵語。正しく花を開いたしろい蓮華のこと。ここは、この蓮華の咲く池のある別処の名。
所依の処   よりどころ、つかまるところ。
四大しだい   地・水・火・風の四。これらを物質を構成する要素。あるいは元素と見た。地は堅さ、水は湿りけ、火は熱さ、風は動きを本性とする。ここに提示された、「身体の様相は変化するが<地・水・火・風>の四元素は不変の実体である」という見解は、「諸行無常・諸法無我(あらゆる現象は常に移り変わり、あらゆる存在は永遠不変の本質をもたない)」を説く仏教と対立する立場であった。
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公開日2024年10月20日