様々な思想


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日本人の「私」

基本的には、身体の一部は自分ではないという考え方は、実は日本の伝統的思考ではありません。西洋人の考え方です。
ここまで述べたとおり、「自分」「私」についてのとらえかたがそもそも日本人と西洋人では異なる。西洋人のように「私」の単位が個人で、その個人というのは意識という部分であるという考え方は、日本人にはなかったように思います。
自分固有の魂があって、それが身体に間借りをしているだけというのは西洋的な考え方です。こういう考え方は日本の哲学者の書いた本には調べた限りでは見当たりませんでした。
おそらく「自分に合った仕事」「自分探し」というようなことをいう人は、どこかで西洋近代哲学的な「私」の概念を取り入れているのでしょう。しかし日本の世間自体はそれとは別の成り立ちをしているから困るのです。まず「自分」ありきで、その「自分」に合った仕事を探すのか。それとも世間、社会に仕事があって、そこに自分をはめ込んでいくのか。日本は後者のシステムで来たはずなのです。
そういう意味では三代目として家業を継いだ小泉首相も伝統的に日本人だといっていい。日本人が「私」という言葉を「自己」いう意味にしたのは明治以降です。そこで日本の「私」と西洋の「個人」が混同されてしまったのです。英語でいうプライバシー(私事)と西洋の「個人」が混同されてしまったのです。英語でいうインディビジュアル(個人)というまったく別の言葉が日本語では「私」という同じ言葉で表されるようになったのです。
昔の日本での公私の別というのは、それこそ「公」は社会であって「私」とは「家」のことでした。もっと簡単に言えば、「公」というのは天皇家のことでした。天皇家と「俺の家」が「公」と「私」だったのです。その「私」という言葉に明治以降は西洋の「個人」という意味も加えてしまった。それで混乱が生じた。
実際にその言葉の定義通りに何もかもが西洋流になれば別に問題はなかったのです。しかし、どれだけ「私」とは「個人」のことだと国語政策で、言葉上の定義をしたところで、世間なんてそういうことでは動きません。言葉をごまかしたって世間なんてそういうことでは動きません。言葉をごまかしたって社会がそのとおりに変わるわけではないからです。それで、「私」の問題が尾を引いている。
日本人が「自分とは何か」というようなことで一々悩む必要はないのです。本来はそんなことは意識しなくてもわかっているはずです。
仏教は「無我」の必要性を説いてきました。それは、自分がどうだなどと無駄なことを考える暇があったら、他のことでも考えろということです。 

『超バカの壁』養老猛司著 新潮新書 2006年1月

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公開日2022年1月26日