様々な思想


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ウェイリー源氏の衝撃

ウェイリーが『源氏物語』のすばらしさを発見するのは、謡曲『葵上』『野宮』『半蔀』『須磨源氏』『松風』などを読み、さらに一歩を進めてその出典である『源氏物語』そのものについてあたった時だった。1921年12月の『ニューステイツマン』誌に "An introspective romance" という一文を寄稿し、『源氏物語』の妙趣を「末摘花」のエピソードにふれることによって紹介した。その内容は後にプルーストにふれる際に述べるが、そのころ翻訳の仕事にとりかかったのだろうか。
ウェイリーの『源氏物語』英訳は1925年から1933年まで、足掛け9年かけて六分冊で刊行された。日本歴でいうと大正十四年から昭和八年にかけてである。第一分冊が出た時、『タイムズ』の文芸付録はこう書いた。

日本の傑作である。・・・この第一分冊の驚嘆すべき美しさ・・・この中に忘れ去られた一文明がありありとよみがえる。その完成度を凌駕するのはただ西洋の作家の中でも最大の作家のみであろう。このアレンジメントの美しさを凌駕する作品は世界のいずこにも見出しがたいのではあるまいか。

ロンドンのジョージ・アレン・アンド・アンウィン社からウェイリー訳『源氏物語』が刊行されたことで、日本文学は世界文学のセンター・コートへデビューした。西洋は平安朝の文明を『源氏物語』の中に垣間見て驚嘆したのである。翌1926年、第二分冊 The Sacred Tree 『賢木』が出た時、『オブザーバー』紙は次のように書いた。ちなみにウェイリーは第二分冊の初めにきた『賢木』の巻の名もって第二分冊全体の題とした。
私どもは第一分冊と同様の感嘆と驚異のセンセーションに魅了される思いを禁じえない。・・・紫式部は彼女が用いる道具を自分で作り出したといってもいい。その道具をおよそ間違うことを知らぬ技で用いている。この一事だけでもこの書物を驚嘆するに足りるものだ。

作品を見事にコントロールして書いている著者の芸術的手腕に書評者は舌をまいた。『タイムズ』文芸付録は1926年3月18日、こう書いた。
明らかに世界の大小説の一つである。ウェイリー氏の翻訳の巧みさと優雅さは疑うべくもない。この第二分冊の散文は絶え間ない楽しみである。

ジェーン・オースティンやプルーストの名前が比較に呼び出されるばかりか、ウェイリー源氏の紫式部の文体はバージニア・ウルフの文体を思わせる、とまで評された。世間は原作者と翻訳者への賛辞を惜しまなかった。『サタデー・レヴュー』はこう褒めている。
美の感覚がいたるところに存在している。これが紫式部の小説の大きな楽しみである。・・・小説家として驚くほどの才覚の持ち主である。彼女の共感が作中人物に及ばなくなる、などということは絶えてない。筆づかいは確かで狂いがない。デリケートで間違うことはおよそないのである。・・・ウェイリー氏の翻訳はその言語の妙といい、正確で美しいことといい、すばらしいものである。

第三分冊 A Wreath of Cloud 『薄雲』が出た時、『デイリー・エクスプレス』の書評者は、日本語が読めたわけでもなかろうが、翻訳者の技量を次のように称えた。
前に出た二分冊を読むという幸運にまだ恵まれていない人にとって、この第三分冊の美しさめくるめくものとなるだろう。ウェイリー氏はその美しさにおいて古典的といえるものを英語に訳出した。・・・これは原作の天才の刻印がそのまま押されている数少ない英語翻訳作品の一つである。

作中の『モダーン・ ヴォイス』については六條御息所の物の怪について語る際に話題とするが、1928年の第四分冊 Blue Trousers 『藤袴』刊行の後に『イーブニング・スタンダード』は次のように述べた。
美しさという点でも真実らしいとい点でもただただ驚くばかりである。しかも感情においても技法においても、きわめてモダーンである。昨日書かれた作品だといってもおかしくない。

・・・
第四分冊が出て主人公の源氏が亡くなり、それから四年間分冊が出なかったのだから、周囲が心配するのも無理はなかった。1932年、第五分冊 The Lady of the Boat 『浮舟』が出た。『デイリー・テレグラフ』に女流作家で批評家のレベッカ・ウェストが紫式部を西洋作家と比較してこう述べっている。
『源氏物語』を知ることは人生への喜びを加える点において、シェイクスピアであるとかジェイン・オースティンであるとかプルーストであるとかを知ることと同様である。

1933年、ついに最終の第六分冊 The Bridge of Dreams 『夢浮橋』が出た時、アメリカの批評家ジョン・カーターは『サタデー・レヴュー・オブ・リテラチャー』6月24日号に「薫り高きページ」という題の書評を揚げ、ウェイリー英訳『源氏物語』を次のように位置づけた。
ウェイリー氏の翻訳は英文学に対する貢献として考えられるべきである。 Tale of Genji はわれわれの時代のもっとも卓越した書物の一冊という位置を占めている。

ウェイリーの『源氏物語』はロンドンばかりか太西洋の向こでもこのような喝采の中で迎えられた。しかもここに引いたのは数ある書評のほんのごく一部にしか過ぎない。長い間眠らされていた『源氏物語』はウェイリーの手で目を覚まし。西洋世界によみがえった。「あなたでしたの、王子様。ずいぶんお待ちしましたわ」。ウェイリーはペローの童話『眠れる森の美女』からその言葉をフランス語で引いて翻訳初版の巻頭に揚げた。そこには訳者の自負の気持ちも秘められていたのだが、このエピグラフは後の版からは消えてしまった。
・・・1905年生まれのC・P・スノーは1976年になって自分の青春時代を回想してこう言っている。
1920年代後期、イギリスのたいがいの文学青年は『源氏物語』の魅力に捉われていた。アーサー・ウェイリーの六冊本は強烈な審美的体験だった。
 
『アーサー・ウェイリー「源氏物語」の翻訳者』 平川祐弘著 白水社

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公開日2022年2月14日