様々な思想


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アーサーウェイリーの源氏物語

・・・自分が感じたことをずばずば隠し立てせずに率直に言うところが正宗白鳥の真骨頂で、それで文芸評論家として一家を成した正宗は、自分の自国古典に対する無知無理解を恥じることなくありのままに語っている。

Arthur Waley といふ英人によって翻訳された『源氏物語』を、ポツリポツリと読んでいる。そして、今までになくこの日本最大の古典文学に興味を感じてゐる。私は、学生時代に、「雨夜の品定め」までは、或る国文学者の講義を正式に聴いてゐるし、幾十年かの間いろいろの註釈本によって略々読み通していると云ってもいいのだが、いつも、気力のない、ぬらぬらとした、ピンと胸に響くところのない、退屈な書物だと思ってゐた。ところが、今度英訳で読むに及んで、はじめて物語の道筋がよく分り、作中の男女の行動や心理も理解され、叙事も描写も鮮明になった。専門の国文学者は別として、この名高い『源氏物語』を通読し玩味した者は、純文学者、或いは文学愛好者のうちにも、甚だ稀であろうと思われるが、この英訳を新たに日本文に翻訳したら、世界的名小説として、多くの愛読者を得るかも知れないと推察される。

正宗は英語の読書力が抜群の人である。『神曲』も英訳で読んですばらしい評論を書いているが、彼の『ダンテについて』は出色の出来栄えで、率直に言って日本のイタリヤ文学者であれほどの論を書いた人はいない。その正宗はウェイリーの英訳を読むことで『源氏物語』の魅力を新発見した人として、自己自身に忠実に正直な告白を述べた。「はじめて物語の道筋がよく分り、作中の男女の行動や心理も理解され、叙事も描写も鮮明になった」。この正宗の感触は実は私自身がウェイリー訳『源氏物語』を読んだときの感触そのままである。平均的にいうなら。紫式部の古文に慣れていない日本の大学英米学科の女子学生にとってはもとより、日本の西洋派知識人の多くにとっても、ウェイリーの英文の方がまだ理解しやすいのが実相なのである。それに正宗もいうように、英訳で読むと主語が誰であるかはっきりする。行動や心理もウェイリー訳の方が鮮明に描かれている。
私としては、黄昏の薄明かりで、ぼんやり見てゐた『源氏物語』を、今度太陽も光かーそれほどでなくても、冴えた満月の光で見直したような感じがした。国学の先生に云わしたら、黄昏の世界が本当の源氏の世界であり、文章でも人物でも、朧月夜の朦朧としたところに、日本趣味の妙味があるのかも知れないが、さうすると、この英訳は、ウェイリー氏の創作的翻訳と云ってもいいのだ。森鴎外の『即興詩人』が創作的翻訳として優れているようなものである。ウェイリー氏の文章を読むと、なよなよとした文章が、弾力を帯びて生きている感じがするが、氏は、原文に対して極めて忠実なる態度を採っている。我々今日の日本人には難解な描写を、器物衣装の末に至るまで、洩らさずに移そうとしてゐる。根気のいいことは驚嘆すべきである。

原文に比べると、ウェイリー訳の方が人間関係や感情がはっきりしている。ただしそのために登場人物がやや別人格になっている場合もないわけではない。紫式部の原文の方がウェイリー英訳よりはるかにニュアンスに富むと感じられる箇所ももちろんあるが、逆にウェイリーの英文の方がふくらみを持つ場合もある。正宗は学者的に訳文と原文を「器物衣装の末に至るまで」つきあわせて検討したわけではないのだから、この文芸時評は過褒の気味なしとはしない。しかしとにかくいい点をついている。
私はところどころ両者を比較して読んだ。原文は簡潔であると云える。訳文は言葉数が多いが、これは止むを得ない。・・・『源氏』の訳も、強いて原文通りにしたなら、何のことやら分からないものになっているに極まってゐる。ウェイリー氏は、しかし、決して原文の一語一語を無視しないとともに、説明化してはゐない。原文は簡潔とは云え、頭をチョン斬って、胴体ばかりがふらふらとしてゐるような文章で、読むに歯痒いのであるが、訳文はサクサクと歯切れがいい。糸のもつれのほぐされる 快さがある。

『源氏物語』を初めて読む人が覚える困惑は何に由来するか。正宗は紫式部の省略話法の文章、「頭をチョン斬って、胴体ばかりふらふらしてゐるような文章」が読者を困惑させると言った。卑怯な言い方だが的確な指摘である。新潮社日本古典文学集成本などが読みやすいのは、色刷りの傍註で原文では原文では省略されている主語の人物の指示がされているからで、いうならば斬られた「頭」がまた元通りに据えられているからである。常識人の正宗は原文通りの訳では英語で話が通じるはずがないことを言い、逐語訳したならば「何の事やら分からないものになるに極まってゐる」と述べた。これはいかにも英語の書物を多く読んできた正宗らしい言い分であり、指摘はすこぶる妥当である。
・・・
正宗は日本の『源氏物語』とウェイリーの『源氏物語』の本質的ともいえる相違点を次のように指摘した。
消極的の原文が積極的に翻訳されてゐるところが、甚だ多いが、訳者の筆が自ずからさうなって行くところに、西洋文学と日本の古文学の相違が歴然としてゐる感じがされる。

正宗白鳥は見事な比較研究者コンパラティストである。ウェイリ―の筆にかかると、英語で書かれた登場人物はおのずと英国化する。性格も積極的になる。一例をあげるなら、日本文では静かに涙する女性が英文では声を発して泣くようになる。それは源氏物語の英訳に限らず「泣く」「涙を流す」という動詞を cry に置換えた時に「声をあげて泣く」という感じが強まるからで、英語単語の含意、いわゆるコノテーション、がそうした声をあげる印象を与えてしまうのである。また weep を用いるにしても、たとえば桐壷の更衣が心身ともに弱りはて三歳の源氏を帝のもとに残して宮中を罷りでようとする時「(桐壷帝)よろづの事を泣く泣く契りのたまはすれど、御答もえ聞え給わず」とある。ウエィリーがその一節を (The Emperor)called her by a hundred pretty names and weeping showered upon her a thousand caresses; but she made no answer. と英訳すると、西洋の君主が西洋の姫を愛撫抱擁するかのごとき印象を禁じ得ない。

『アーサー・ウェイリー源氏物語の翻訳者』平川祐弘著 白水社

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公開日2022年2月19日