様々な思想


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向田邦子について
久しぶりに、本を買った。『向田邦子 暮らしの愉しみ』向田邦子 向田和子著 新潮社 2003年6月25日発行
狭いマンションずまいで、もう永くもない老後なので、本などは全部整理してしまって、移ってきているので、物は買わないことにしていた。
最近、向田邦子のものばかりを図書館から借りてきて読んでいる。それも妹さんや弟さん友人知人の書いたものが多く、その方が向田邦子の人柄や魅力がよくわかる。皆、向田邦子をほめちぎっている。誰もかれもが向田邦子が好きなのだ。森繁は、対話の中で、「わたしはあなたに惚れております」と本人に面と向かっていっております、森繁一流の言い方だろうが。多くの知人友人の大人たちも同じ思いを抱いているだろう。
先日は、向田邦子の住んでいた青山のマンションを見に行って、写真に撮ってきた。まだ当時のままの形をとどめていた。懐かしかった。建て替え予定の建築計画が掲示されていた。
わたしは定年前の何年かは、原宿の本社に在籍していて、さいごの仕事になったが、当時神奈川県の淵野辺に青山学院が新しいキャンパスを作っていて、その開校の年(2003年)にそこに設置する郵貯のキャッシュコーナーの設置を請負、その打合せの為に、原宿の本社から、表参道を通って、青山通りに出、青山学院大学庶務部に何度か打ち合わせに通った、懐かしい思い出がある。表参道は、まだ同潤会のアパート(「学生アイス」にでてくる)があって、右手は、ルイビトンなどの高級店の出店が次々に準備中であった。これが噂の表参道か、これが青山学院かなどの感慨を持って歩いた。当時表参道のその突き当たりに向田邦子の住んでいたマンションがあるなど、知らなかった。場所柄相当な高級マンションになっているだろう処である。
向田邦子は、4人兄弟の長女、二歳違いで弟の保雄さん、六歳違いで妹の廸子さん、九歳違いで末の妹和子さんである。長女の邦子は、母の台所仕事をよく手伝い、妹たちの洋服を縫い、編み物をして、長女としての役割を十二分にはたした。和子の通信簿の欄に親に代わって、「やや積極性に欠けるが、やらせれば最後まで責任をもってやりとげる」と書いて、和子はそれを終生覚えていて嬉しかったと述べている。邦子は料理も洋裁もたいそう上手だった。学校で慰問の作文を書かせると、帰省した兵隊さんが自宅までお礼を寄る程であった。文も天性のものがあった。
邦子は父の転勤で、全国に移って住んだが、自分でいうのだが、東京っ子である。やはり東京に住むことは土地勘もあり、邦子にとっては、自然な成り行きだった。渋谷の実践女子大に通うのも、母の祖父の処(港区麻布市兵衛)から通っており、最後に実家に住んだ、父が退職金で買った杉並区本天沼の家を出て、初めて自活して住んだ霞町のアパートは今の西麻布3丁目にあり、その後南青山のマンションに移る。全く東京っ子である。そこで邦子は、自分の生きる流儀を身につけていった。財政文化社の秘書、雄鶏者の「映画ストーリ」編集部、「シナリオライター」集団に参加、など三か所から給料をもらう活躍である。その間、秘書課のスクールに通って英語を習ったり、帽子造りの個人教授に通ったりしている。ものすごいエネルギーある。東京で実に生き生きしている。
すでに人間としての基礎はできていて、あとは社会で生きてゆくだけである。自分流の生き方はどうなのか。それを求めて、住まいもそれに沿って変えている。若い頃、「クロちゃん」とよばれていたのは、上下とも好んで黒の服を着ていた頃で、かなり個性的である。既に自分の好み、自分に何が合うか、という価値基準ができている。 頼りになるお姉さんである。
また向田邦子は、自分の文才について、小さい頃から自信はあったろうが、それほど突出していて、世間に通用するとは思っていなかったようである。
当代の名文家と言われる人たちから、賞賛されている。山口瞳からは、「私よりエッセイも小説もうまい」と言わしめているし、山口は直木賞の選考委員をしていて、自分よりうまい新人のものを読むのは辛い、と言っている。向田邦子を水上勉とともに強く推していた。山本夏彦からは、「向田邦子は突然あらわれて、ほとんど名人である」と言われている。すごいほめ言葉である。こう評されて嬉しかったろう。
向田邦子は読めば読むほど、魅力的な女性です。わたしは、すっかり彼女のファンになった。

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公開日2023年6月19日