様々な思想


思想とはもの思うことの言いである
   

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手袋をさがす 向田邦子
 二十二歳の時だったと思いますが、私はひと冬を手袋なしですごしたことがあります。 
 その頃、私は四谷にある教育映画をつくる会社につとめていました。月給は高いとはいえませんが、身のまわりを整えるくらいのことは出来た筈です。にもかかわらず手袋をしなかったのは、気に入ったのが見つからなかったためでした。 
 あの頃は、今よりもずっと寒かったような気がします。戦争が終わって間もなくで、栄養状態も悪かったせいでしょう。今のように暖房も行きとどいてはおらず、駅も乗物もひどい寒さでした。人はみな厚着をした上に分厚いオーバーを着こみ、手袋をはめていました。今でこそ、手袋なし、コートなしはかえっていきでカッコいいとされますが、当時は衣食住も貧しかったせいでしょう、それはそのままお金がない、惨めなことのサンプルでした。 
 私は、惨めったらしく見えるのは嫌でしたから、ポケットに手を突っ込んだり、こすり合わせて息を吐きかけたりなどせず、冷たくなんかないわ、私はわざとこうやっているのよ、というふうにことさら颯爽さっそうと歩いていましたが、手袋のない私の手はカサカサに乾き、いつも冷たくかじかんでいました。
 今ふりかえってみて、一体どんな手袋が欲しくてあんなやせ我慢をしていたのか全く思い出せないのがおかしいのですが、とにかく気に入らないものをはめるくらいなら、はめないほうが気持ちいい、と考えていたようです。
 まわりは、はじめは冗談だと考えていたようです。ところが私が風邪をひくに及んで、とうとうあきれかえり、母は本気で私を叱りました。
 「バカバカしいことはやめてちょうだいよ。大事になったらどうするの」
 私は手袋のせいで風邪をひいたのではないと頑張りました。そうなるとこっちも意地で、熱があるのに一日も休まず通いました。その頃になると、私がいつ手袋を買うか、まわりの人間が気にするようになりましたから、私は嫌でもあとへ引けない気持ちになっていました。
 そんなある日。
 会社の上司で、私に目をかけてくれた人が、残業にことよせて私に忠告をしてくださったのです。当時三十五、六だったその人は、自腹を切って五目そばを二つ取り、少し離れた自分の席で、湯気の立つおそばをすすりながらこう言いました。
 「君のいまやっていることは、ひょっとしたら手袋だけの問題ではないかもしれないねえ」
 「男ならいい。だが女はいけない。そんなことでは女の幸せを取り逃がすよ」
 素直にハイ、という気持と、そういえない気持がありました。その晩、私は電車に乗らず、自分の気持ちに納得がゆく答えが出るまで自分のうちに向かってどこまでも歩いてみようと決めました。当時、井の頭線の久我山に住んでいましたので、四谷駅をあとに電車通りを信濃町方向に歩きだしました。おそばで暖まった手袋のない指先はすぐ冷たくかじかんできました。
 私は子供の頃から、ぜいたくで虚栄心の強い子供でした。いいもの好きで、ないものねだりのところもありました。ほどほどで満足するということがなく、もっと探せば、もっといいものが手に入るのではないか、とキョロキョロしているところがありました。玩具でもセーターでも、数は少なくてもいいから、いいものをとねだって、子供のくせに生意気をいう、と大人たちのひんしゅくを買ったのも憶えています。
 おまけに、子どものくせに、自分のそういう高のぞみを、ひそかに自慢するところがあってーひとくちにいえば鼻持ちならない嫌な子供だったと思います。爪をかむ癖と高のぞみは、はたちを過ぎても直らず、ますます深みに入ってゆく感じがありました。考えてみますと、私の爪をかむ癖も、フロイト学説によりますと、欲求不満が原因とかで、のぞむものが手に入らない苛々いらいらからきていることに間違いはなさそうです。十七、八歳の頃、気持ちを静めようと本を読んでいて、気がついたら、本の上にポタポタと血が落ちたことがありました。
 たしかに、私は苛立っていました。
 社員十人ほどの小さな会社でしたが、カメラマン、画家、音楽家もいて、学校では学べなかったさまざまなものを私に与えてくれました。社長夫妻も私を可愛がってくれ、生まれた娘に私と同じ名前をつけるということもあったりしてーつまり、はた目からみると若い娘の結婚前の職場としては、不平不満をいうのはぜいたくとうつったことでしょう。
 私は若く健康でした。親兄弟にも恵まれ、暮らしにも事欠いたことはありません。つきあっていた男の友達もあり、二つ三つの縁談もありました。今考えれば男としても人間としても立派な人たちばかりで、あの中の誰と結婚していたとしても私は、いわゆる世間なみの幸せは手に出来たに違いありません。
 にもかかわらず、私は毎日が本当にたのしくありませんでした。
 私は何をしたいのか。
 私は何に向いているのか。
 なにをどうしたらいいのか、どうしたらさしあたって不満は消えるのか、それさえもはっきりしないままに、ただ漠然と、今のままではいやだ、何かしっくりしない、と身に過ぎる見果てぬ夢と、爪先立ちしてもなお手のとどかない現実に腹を立てていたのです。たしかに手袋は手袋だけのことではありませんでした。
 我ながら、何というイヤな性格だろうと思いました。
 このままでは、私の一生は不平不満の連続だろうな、と思いました。
 そういえば父にも言われたことがありました。
 「若いうちはまだいい。自然の可愛げがあるから、まわりも許してくれる。だが、年をとってその気性では、自分が苦労するぞ」
 これは本気で反省しなくてはならない。
 やり直すならいまだ。
 今晩、この瞬間だ。
 私は四谷の裏通りを歩いていました。夕餉の匂いにまじって赤ちゃんのなき声、ラジオの音、そしてお風呂を落としたのでしょうか、妙に人恋しい湯垢の匂いがどぶから立ちのぼってきました。こういう暮らしのどこが、なにが不満なのだ。十人並みの容貌と才能なら、それにふさわしく、ほどほどのところにつとめ、相手をえらび、上を見る代わり下と前を向いて歩きだせば、私にもきっとほどほどの幸せはくるに違いないと思いました。そうすることが、長女である私の結婚を待っている両親にも親孝行というものです。
 しかし、結局のところ私は、このままゆこう。そう決めたのです。
 ないものねだりの高のぞみが私のイヤな性格なら、とことん、そのイヤなところとつきあってみよう。そう決めたのです。二つ三つの頃からはたちを過ぎるその当時まで、親や先生たちにも注意され、多少は自分でも変えようとしてみたにもかかわらず変わらないのは、それこそ死に至る病ではないだろうか。
 今ここで妥協をして、手頃な手袋で我慢をしたところで、結局は気に入らなければはめないのです。
 気に入ったフリをしてみたところで、それは自分自身への安っぽい迎合の芝居に過ぎません。本心の不満に変わりはないのです。いえ、かえって、不満をかくしていかにも楽しそうに振舞っているようにみせかけるなど、二重三重の嘘をつくことになると思いました。 
 お恥ずかしいはなしですが、私は極めて現実的な欲望の強い人間です。いいものを着たい、おいしいものを食べたい。いい絵が欲しい。黒い猫が欲しいとなったら、どうしても欲しいのです。それが手に入るまで不平不満を鳴らしつづけるのです。
 若い時分は、さすがに自分のこの欠点を恥ずかしいと思い、もっと志を高く「精神」で生きようとしたものです。ところが、私は、物の本で読む偉い人の精神構造に比べて、造りが下世話にできているのでしょう。衣食住が自分なりの好みで満ち足りていないと、精神までいじけてさもしくなってしまう人間なのです。このイヤな自分をどうしたらよいか、このことも考えました。
 そしてー私は決めたのです。
 反省するのをやめにしようーと。
 私はヘンに完全主義者のくせに、身を責めて努力するのをおっくうがるところがあります。要領がいいので、その場その場で、いともお手軽に反省してしまうのです。本心からすまないことをした、思わないくせに、謝ったほうが身のため、まわりのためと思うとアッサリと謝り、自分のとった行動を反省して、こんどは反省したことで、罪業消滅したと錯覚して、そのことに何の罪悪感ももたず、一日たてば反省したことすら忘れてしまって、また同じあやまちを繰り返していたのです。
 これでは、良心をうぬぼれ鏡にうつして、自分の見栄っぱりな心におべっかをつかっているのと同じではありませんか。毎日毎日の精神の出納簿の、小さな帳尻はあってはいるものの、さて「一生」という大きな単位で見ると、何の変わりはなく、むしろ、私は毎日反省しています、という自己満足だけだ残るのではないか、と思ったからです。
 本当に心の底から反省して、その結果も実行にうつしている人もいるでしょう。しかし、私の反省は、ただのお座なりの反省だったのです。
 それくらいなら、中途半端な気休めの反省なんかしないぞ、と居直ることにしようと思ったのです。魂の底からの反省、誰も見ていなくても、暗闇の中にいても、恥ずかしさに体がふるえてくるような悔恨がなくて、何の反省でしょうか。日記に反省したとき記しただけで、眠る前の、就眠儀式のための反省など、偽善以外の何ものでもない、と思ったのです。
 私は「清貧」という言葉が嫌いです。
 それと「謙遜」ということばも好きになれません。
 私のまわりに、この言葉を美しいと感じさせる人間がいなかったこともあります。少しきつい言い方になりますが、私の感じを率直に申しますと、
 清貧はやせがまん、
 謙遜はおごりと偽善に見えてならないのです。
 清貧よりは、欲ばりのほうが性にあっていますし、へりくだりながら、どこかで認めてもらいたいという感じをチラチラさせ、私は人間が出来ているでしょう、というヘンに行き届いたものを匂わせられると、もうそれだけで嫌気がさして、いっそ見栄も外聞もなくお金が欲しい、地位も欲しい、私は英語ができるのよ、と正直に言う友人のほうが好きでした。
 結局、この晩、私は渋谷駅まで歩いて井の頭線に乗ったのですが、電車の中で、こう決めました。あしたから、今まで、私は自分の性格の中で、ああいやだ、これだけは直さなくてはいけないぞと思っていることをためしにみんなやってみよう。
 その翌朝から、新聞の就職欄に目を通しました。そして朝日新聞の女子求人欄の「編集部員求ム」の広告に応募してパスしました。もと勤めていた四谷の勤め先のほうではすぐやめては困る、ということだったので、少しの間昼は日本橋、夜は四谷の会社へ残務整理に通いました。
 ここで、私は洋画専門の映画雑誌の編集をやりながら、二十二年間の「NEVER」を一度に取り戻したのです
 ぜいたく好きだと叱られて、ほどほどのもので我慢することもやめました、三か月間のサラリーをたった一枚のアメリカ製の水着に替えたのもこの頃です。もちろんもともと安いサラリーですから、お茶も飲まず、お弁当をぶら下げて通い、洋服の新潮もすべてあきらめてのぜいたくでした。
 アメリカの雑誌でみた黒い、何の飾りもない競技用のエラスチック製のワンピースの水着で、真っ青な海で泳ぎたい。この欲望をかなえるための、人からみればバカバカしい三か月間の貧乏暮しは、少しも苦にならず、むしろ、爽やかだったことを覚えています。この水着は十年間夏ごとに使い、どうしても欲しいとせがむ水泳自慢の友人にゆずって、そのあとずい分役に立った筈です。
 欲しいものを手に入れるためには、我慢や苦痛がともなう。しかし自分我がままを矯めないでやっているのだから、不平不満も言いわけもなく、精神衛生上大変にいいことを発見したといえます。
 水着は一例ですが、映画雑誌の編集の仕事をしながら、私のないものねだりと高のぞみはますます強くなっていったようです。
 他人のつくった映画を紹介したり、批評家の批評をのせる仕事にあきたらなくなって、自分でも何かを作ってみようと帽子の個人レッスンに一年ほど通ったこともありました。 
 ふとしたことがきっかけでラジオのディスク・ジョッキーの原稿を書く仕事をしたのも二十代の終わりでした。今まで活字の世界にいて、音楽は趣味だったのですが、この二つが一つになって、活字が音になって自由に飛びはねる面白さに三年ばかりは、ほかにわき見もしないで、、一生懸命にやりました。この仕事にも馴れ一回五分という制約に少し物足りなくて、いつもの癖の不満とと高のぞみがそろそろ頭をもたげかける頃、週刊誌のルポライターの仕事がとびこんできました。
 ひと頃、私は、朝九時から出版社に行き、昼まで一生懸命にデスクワークをして、昼食もそこそこに試写を一本見て、朝日新聞社の地下の有料喫茶室(一時間いくら)へゆき、ラジオの原稿を書き、夜は築地ある週刊誌の編集部へ顔をだし、夜は近所の旅館にカンヅメになって十二時まで原稿を書く、という生活をしたことがあります。
 その頃、あまりのあわただしさに、一体、私は何をしているのだろう、と我ながらおかしくなって、銀座四丁目の交差点のところを、笑いながら渡っていて、友人に見とがめられ、
 「何がおかしいのか」
 と真顔で聞かれたことがありました。
 もっとおもしろいことはないか。
 もっと、もっとー好奇心だけで、あとはおなかをすかせた狼のようにうろうろと歩き廻った二十代でした。
 何しろ、身から出たサビで、三つの会社から月給をもらっていたこともあり、うっかりすると眠る間もろくにありませんでしたが、そんな緊張感がよかったのか、幸い病気もせず、あとは、水が納まるところに納まって川になるように(自分ではそんな感じでした)勤めもやめ、ラジオもやめ、自分としては一番面白そうなテレビドラマ一本にしぼって、今七年になります。
 二十二歳の冬のあの晩ー。
 もしも私が一パイの五目そばをふるまわれなかったら、そしてあたたかい忠告をもらわなかったら。私は、あんなにムキになって自分のイヤな性格のことを考えたりしなかったと思います。何しろ、私ときたら、観念や抽象よりも至って現実的な人間でだからです。
 結果としては、あのときの上司の忠告は裏目に出たようです。
 考えてみると、あの上司のことばは、今の私を予言していたことになります。四十を半ば過ぎたというのに結婚もせずテレビドラマ作家という安定性のない虚業についている私です。
 しかも、今なお、これでよし、という満足もなく、もっとどこかに面白いことがあるんじゃないだろうか、私には、もっと別の、なにかがあるのではないだろうか、と、あきらめ悪くジタバタしているのですから。
 これは、七、八年前ですが、石川達三さんの作品中の一節に、こういう意味のことばがありました。正確ではないかもしれませんが、
 「現代では、往生際の悪い女を悪女という」
 名言だなと思いました。
 この間、子供の頃のアルバムをみて発見しました。私には、ニッコリ笑った、子どもらしい可愛らしい写真は一枚もないのです。
 女のくせに、ケンカ腰で写真屋さんをにらみつけているか、ふくれているかのどちらかです。そして、いまだに「何かを探している」ような、据わりの悪い顔をしています。
 もしもあのとき、高のぞみでないものねだりの自分のイヤな性格を反省して、ほどほどのしあわせを感謝し、日々平安をうたがわずに生きてきたなら、私は一体、どういう顔で、どういう半生を送ったことでしょうか。
 神ならぬ身ですから、これだけは判りません。
 しかし、生まれ変わりでもしない限り、精神の整形手術は無理なのではないでしょうか。
 私は、それこそ我ながら一番イヤなところですが、自己愛とうぬぼれの強さから、自身の欠点を直すのがいやさに、ここを精神の分母にしてやれと、居直りました。
 そのプラス面を、形の上だけでいえば、ささやかながら、女として自活しているということでしょう。そして、世間相場からいえば、未だ定まる夫も子供もなく、死ぬときは一人という身の上です。これを幸福とみるか不幸とみるかは、人さまざまでしょう。私自身、どちらかと聞かれても、答えようがありません。
 ただ、これだけはいえます。
 自分の気性から考えて、あのときー二十二歳のあの晩、かりそめに妥協していたら、やはりその私は自分の生き方に不平不満をもったのではないかー。
 いまの私にも不満はあります。
 年と共に、用心深くずるくなっている自分への腹立ち。心ははやっても体のついてゆかない苛立ち。
 音楽も学びたい、語学もおぼえたい、とお題目にとなえながら、地道な努力をしない怠けものの自分に対する軽蔑ー。
 そして、貧しい才能のひけ目。
 でもたったひとつ私の財産といえるのは、いまだに「手袋をさがしている」ということなのです。
 どんな手袋がほしいのか。
 それは私にも判りません。
 なにしろ、私ときたら、いまだに、これ一冊あれば無人島にいってもあきない、といえる本にもめぐりあわず、これさえあればほかのレコードはいらないという音も知らずーそれは生涯の伴侶たる男性にもあてはまるのです。
 多分私は、ないものねだりをしているのでしょう。一生足を棒にしても手に入らない、これは、ドン・キホーテの風車のようなものでしょう。でも、この頃、私は、この年で、まだ合う手袋がなくキョロキョロして、上を見たりまわりを見たりしながら、運命の神さまになるべくゴマもすらず、少しっばかりけんか腰で、もう少し、欲しいものをさがして歩く、人生のバタ屋のよう生き方を、少し誇りにも思っているのです。
 私の書いてきたことは、ひとりよがりの自己弁護だということも判っています。ただ、私は、若い時に、純粋のあまり、あまりムキになって己を反省するあまり、個性のある枝をーそれはしばしば、長所より短所という形であらわれるように思いますー 矯めてしまうのではないか、ということを、私自身の逆説的自慢バナシを通じて、お話してみたかったのです。
PHP増刊号 昭和51年7月号 向田邦子全集より 文藝春秋

向田邦子のものが面白くて、あれこれ読んでいるうち、すっかり向田邦子のファンになった。先日は住んでいたマンションを見てきた。まだそのまま残っていたが、建て替え予定の建築計画が掲示されていた。「手袋をさがす」は漱石の「私の個人主義」が想起され全文を引用させていただいた。まさに向田邦子版「私の個人主義」である。 管理人

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公開日2023年6月24日