様々な思想


思想とはもの思うことの言いである
   

HOME      様々な思想目次

向田邦子と上野たま子


私も前の年の秋に新聞の募集広告で試験を受けた一人だが、その時もやはり千人ほどの希望者が集まり、五階にある雄鶏社の入り口から三列になって並び、その列は階段を一階まで下り、通りへ出て、江戸橋の交差点まで達した。会社は慌てて人員整理をし、番号札を配って時間を区切って再度の出直しを求めた。私のときは女三人、男一人が、二次、三次の試験にパスして入社したのだった。
昭和二十七年(1952)年5月21日、22歳の邦子さんは、編集者として雄鶏社の入社試験に合格し、初めて出勤する日を迎えたのである。
大学を卒業してから二年、前の会社(財政文化社。四谷にある教育映画を作る会社。社員十人ほどで、カメラマン、画家、音楽家もいた)で体験した・・・・・・「私は若く健康でした。親兄弟にも恵まれ、暮らしにも事欠いたことはありません。つきあっていた男の友達もあり、(中略)
にもかかわらず、私は毎日が本当にたのしくありませんでした」
向田邦子と私は、20代から30代にかけて『映画ストーリー』(昭和27(1952年)年6月雄鶏社創刊)という映画雑誌の編集部の同僚であった。単に同僚というだけでなく親友といえる間柄であった。その関係は昭和27年から9年間つづいたが、向田邦子はテレビの脚本家へと飛躍し、二人の親友関係は時の流れの中でその密度をうすめていった。・・・
彼女は細かいところに気がつき、人の心をそらさない人だった。人を喜ばすことが好きな人だった。時には戯画化しすぎてて人をしらけさせることもないとはいえなかったが、それはすべて、天性の作家魂のなせる技であったといえるだろう。
・・・・
「今日まで出会った女性の中で、最高にいい女であった・・・、女の私から見ても最高にいい女であった・・・」

『向日葵と黒い帽子 向田邦子の青春・銀座・映画・恋』上田たま子著 KSS出版 1999年1月


親友上田たま子さんの最後のことばを紹介したくて引用しました。 ちなみに、向田邦子の恋人といわれている人が、上田に
電話してきて、会った経緯が書かれている。相手は『映画技術』という雑誌を持っていた。向田邦子が最近自分を遠ざけているので、邦子の様子や近況を親友に聞きに来たのだ。邦子が週末も会社でスキー等に忙しく時間が取れないことを言い訳にしたらしく、邦子はスキーを恋人を遠ざけるための口実に使っていたらしい。
ある時、向田はプロがとったような自分のポーレート写真を上田に見せている。夏と冬の帽子をかぶった写真2枚。上田が相談にあったのは、昭和32年(1957)年の正月はほとんど5週間雪の中ですごしたと、編集後記の記しているから、この頃であったろうと推定される。
上田はこのことを当時は向田に話していない。ただ、帰りがけに、もし何かあったら連絡してほしいと、住所氏名を上田の手帳に記してしている。上田は、七年後になって、その人が亡くなったという風聞を耳にしてから、向田に告げた。「聞いていました。あなたって凄い人だと思ってたわ」と向田から返ってきた。「どうして、凄いの?」「凄いわよ。どうもありがとう」向田は雄鶏社の入社のときから、『映画技術』の雑誌を持っていたと上田が記しているので、雄鶏社に入社以前から四谷の会社(財政教育社)にいた頃から、知っていたのだろう。教育映画を作っていた会社だったので、カメラマンもこの会社にいたはずである。ここで知り合ったのか。 
この本の”K2峰の秘事”の章で、編集者の向田は記録映画「カラコルム」のコマ撮り写真が必要になり、誰にも会わせず、この男性を連れてきてコマ写真を撮ったことが記されている。昭和31年(1956)7月号にのった。腕のいいカメラマンだったようだ。
この書は、向田邦子が才能を開花させるたきっかけとなった雄鶏社時代の、雑誌『映画ストーリー』の編集部で机を並べた同僚であり親友による貴重な証言である。  管理人

HOME     様々な思想目次;

   
公開日2001年9月25日