源氏物語 47 総角 あげまき

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原文 現代文



47.1 秋、八の宮の一周忌の準備
あまた年耳馴れたまひにし川風も、この秋はいとはしたなくもの悲しくて、御果ての事いそがせたまふ。おほかたのあるべかしきことどもは、中納言殿、阿闍梨などぞ仕うまつりたまひける。ここには法服の事、経の飾り、こまかなる御扱ひを、人の聞こゆるに従ひて営みたまふも、いとものはかなくあはれに、「かかるよその御後見なからましかば」と見えたり。
みづからも参うでたまひて、今はと脱ぎ捨てたまふほどの御訪らひ、浅からず聞こえたまふ。阿闍梨もここに参れり。名香みようごうの糸ひき乱りて、「かくても経ぬる」など、うち語らひたまふほどなりけり。結び上げたるたたりの、簾のつまより、几帳のほころびに透きて見えければ、そのことと心得て、「わが涙をば玉にぬかなむ」とうち誦じたまへる、伊勢の御もかくこそありけめと、をかしく聞こゆるも、内の人は、聞き知り顔にさしいらへたまはむもつつましくて、「ものとはなしに」とか、「貫之がこの世ながらの別れをだに、心細き筋にひきかけけむも」など、げに古言ぞ、人の心をのぶるたよりなりけるを思ひ出でたまふ。
何年も耳馴れた川風も、この秋は落ち着かず物悲しくて、八の宮の一周忌の法要の準備をさせる。きまった法事の手順については、中納言殿(薫)、阿闍梨などが準備される。姫君たちは、僧衣や、経机の覆いなど、細かなものの用意を、女房たちが教える通りに支度するが、ひどく頼りなげで、「こうした他からの後見がなければ、事が進まなかったろう」と思われた。
薫自身も宇治へ参上し、今日限り脱ぐことになる喪服の挨拶もねんごろにする。阿闍梨も来訪した。名香みようごうの糸が乱れて、「こうして世を過ごす」など、しみじみと語らっている時だった. 糸繰り台が、簾の端の、几帳のほころびから透けて見えたのを、名香みようごうの糸を作っていたのだと推測して、「わたしも同じ悲しみの涙にくれています」と、誦じたので、伊勢の女御もこんな風だったのだろう、趣深く思われるのも、内の姫君たちは、いかにも知ったかぶりで答えるのも、気がひけて、「糸でよるように心細い」とか、貫之が旅路の別れさえ心細い糸にかけて詠んだのを、本当に古歌は人の心を表現するよすがとなるのを思うのだった。2020.10.9◎
47.2 薫、大君に恋心を訴える
御願文作り、経仏供養ぜらるべき心ばへなど書き出でたまへる硯のついでに、客人、
あげまきに長き契りを結びこめ
同じ所に縒りも会はなむ

と書きて、見せたてまつりたまへれば、例の、とうるさけれど、
ぬきもあへずもろき涙の玉の緒に
長き契りをいかが結ばむ

とあれば、「あはずは何を」と、恨めしげに眺めたまふ。
みづからの御上は、かくそこはかとなくもて消ちて恥づかしげなるに、すがすがともえのたまひよらで、宮の御ことをぞまめやかに聞こえたまふ。
「さしも御心に入るまじきことを、かやうの方にすこしすすみたまへる御本性に、聞こえそめたまひけむ負けじ魂にやと、とざまかうざまに、いとよくなむ御けしき見たてまつる。まことにうしろめたくはあるまじげなるを、などかくあながちにしも、もて離れたまふらむ。
世のありさまなど、思し分くまじくは見たてまつらぬを、うたて、遠々しくのみもてなさせたまへば、かばかりうらなく頼みきこゆる心に違ひて、恨めしくなむ。ともかくも思し分くらむさまなどを、さはやかに承りにしがな」
と、いとまめだちて聞こえたまへば、
「違へじの心にてこそは、かうまであやしき世の例なるありさまにて、隔てなくもてなしはべれ。それを思し分かざりけるこそは、浅きことも混ざりたる心地すれ。げに、かかる住まひなどに、心あらむ人は、思ひ残す事、あるまじきを、何事にも後れそめにけるうちに、こののたまふめる筋は、いにしへも、さらにかけて、とあらばかからばなど、行く末のあらましごとに取りまぜて、のたまひ置くこともなかりしかば、なほ、かかるさまにて、世づきたる方を思ひ絶ゆべく思しおきてける、となむ思ひ合はせはべれば、ともかくも聞こえむ方なくて。さるは、すこし世籠もりたるほどにて、深山隠れには心苦しく見えたまふ人の御上を、いとかく朽木にはなし果てずもがなと、人知れず扱はしくおぼえはべれど、いかなるべき世にかあらむ」
と、うち嘆きてもの思ひ乱れたまひけるほどのけはひ、いとあはれげなり。
願文を作って、経典仏像を供養する趣旨の文章など書きだしたついでに、薫は、
「あげまき結びに長い契りを込めて
一緒になりたいものです」
と書いて、見せると、大君はまたうるさいことを、と思い、
「悲しみに沈んでいるもろいわたしの命です。
どうして涙のもろい玉の緒に長いちぎりができましょう」
とあれば、「逢わなくては何の甲斐もない」と恨めし気に沈んでいる。
自分自身のことは、大君が何となく恥ずかし気に話をそらせるので、はっきりと気持ちを伝えられないまま、宮(匂宮)のことをあれこれと話する。
「それほど心にひかれないことでも、この方面では積極的な御本性なので、言い出したので後へは引けないと意地でやっているのか、心配して、あれこれと調べてみました。私の見るところたいそう、本当に心配なさることはありませんのに、なぜよそよそしくして嫌うのですか。
男女の仲をまったく分からないとは思えません、たいそうよそよそしくしていらっしゃるのは、これほどわたしが心底信頼申し上げているのに、恨めしいです。ともかく、お考えの向きを、はっきりお聞きしたいですが」
と真面目に話すれば、
「お気持ちに背くまいとしているからこそ、これ程までに世間があやしいと見るまでにお相手をしているではありませんか。それがお分かりにならないのは、志が浅い気がします。こんな住まいに住んでますと、情趣の分る人は、心から楽しむでしょうが、わたしは何ごとにも気が利かずに育ちましたので、仰るようなことについては、亡き父も、何一つ、こうであればこうせよと、行く末について仰せではなかったので、こうしたく暮らしをして、世間並みに夫を持つことをあきらめるように思っていたのではないか、と思い合わせますので、お答えしようもなくて。しかし将来のある若さで世に籠り、深山に隠れて可哀そうな妹がいます、このまま枯木にさせたくはありません。人知れずは、何とかしたいと思いますがどんな縁がありましょうか」
と嘆いて、思い乱れた気配がしてあわれであった。2020.10.11◎
47.3 薫、弁を呼び出して語る
けざやかにおとなびても、いかでかは賢しがりたまはむと、ことわりにて、例の、古人召し出でてぞ語らひたまふ。
「年ごろは、ただ後の世ざまの心ばへにて進み参りそめしを、もの心細げに思しなるめりし御末のころほひ、この御事どもを、心にまかせてもてなしきこゆべくなむのたまひ契りてしを、思しおきてたてまつりたまひし御ありさまどもには違ひて、御心ばへどもの、いといとあやにくにもの強げなるは、いかに、思しおきつる方の異なるにやと、疑はしきことさへなむ。
おのづから聞き伝へたまふやうもあらむ。いとあやしき本性にて、世の中に心をしむる方なかりつるを、さるべきにてや、かうまでも聞こえ馴れにけむ。世人もやうやう言ひなすやうあべかめるに、同じくは昔の御ことも違へきこえず、我も人も世の常に心とけて聞こえはべらばや、と思ひよるは、つきなかるべきことにても、さやうなる例なくやはある」
などのたまひ続けて、
「宮の御ことをも、かく聞こゆるに、うしろめたくはあらじと、うちとけたまふさまならぬは、うちうちに、さりとも思ほし向けたることのさまあらむ。なほ、いかに、いかに」
とうち眺めつつのたまへば、例の、悪ろびたる女ばらなどは、かかることには、憎きさかしらも言ひまぜて、言よがりなどもすめるを、いとさはあらず、心のうちには、「あらまほしかるべき御ことどもを」と思へど、
すっかり大人びて、保護者面をするのも、もっともだろうと思い、例の老女を召し出して語るのだった。
「今までは、ただ後の世を願う気持ちから参上していましたが、八の宮が何やら心細そうに思っていた晩年に、姫君たちのことを、わたしの考え通りに、後見してくれるよう約束があって、宮の心積もりとは違って、姫君たちの心ばえが、まことにもって困ったことに頑固であるのは、どうしてか、父君の思っていたこととは違うのか、と疑わしく感じております。
お聞きでしょうが、わたしは変わった性分で、世の中に執着がなく、前世の因縁でしょうか、こうまで親しくお付き合いするようになりました。世間もようやく噂するようになりまして、どうせなら父宮のご意志に違わず、わたしも姫君も世間の常のように打ち解けてお付き合いしたい、と思うのは、不似合いでもないでしょう、そのような例はあるでしょう」
などと言い続けて、
「匂宮のことも、わたしがかく心配ない人だと申すのに、気を許す様子がないのは、内々にやはり別の人がいるに違いない。さあ、一体どうなのか」
と物思わし気な風情で言うので、例によって、口さがない女房たちは、このようなことには、出過ぎたおせっかいをして、お追従するのもあるが、弁はまったくそうではなく、心の内では、「願ってもない縁談だ」と思ったが、2020.10.11◎
47.4 薫、弁を呼び出して語る(続き)
†「もとより、かく人に違ひたまへる御癖どもにはべればにや、いかにもいかにも、世の常に何やかやなど、思ひよりたまへる御けしきになむはべらぬ。
かくて、さぶらふこれかれも、年ごろだに、何の頼もしげある木の本の隠ろへもはべらざりき。身を捨てがたく思ふ限りは、ほどほどにつけてまかで散り、昔の古き筋なる人も、多く見たてまつり捨てたるあたりに、まして今は、しばしも立ちとまりがたげにわびはべりて、おはしましし世にこそ、限りありて、かたほならむ御ありさまは、いとほしくもなど、古代なる御うるはしさに、思しもとどこほりつれ
今は、かう、また頼みなき御身どもにて、いかにもいかにも、世になびきたまへらむを、あながちにそしりきこえむ人は、かへりてものの心をも知らず、言ふかひなきことにてこそはあらめ。いかなる人か、いとかくて世をば過ぐし果てたまふべき。
松の葉をすきて勤むる山伏だに、生ける身の捨てがたさによりてこそ、仏の御教へをも、道々別れては行ひなすなれ、などやうの、よからぬことを聞こえ知らせ、若き御心ども乱れたまひぬべきこと多くはべるめれど、たわむべくもものしたまはず、中の宮をなむ、いかで人めかしくも扱ひなしたてまつらむ、と思ひきこえたまふべかめる。
かく山深く訪ねきこえさせたまふめる御心ざしの、年経て見たてまつり馴れたまへるけはひも、疎からず思ひきこえさせたまひ、今はとざまかうざまに、こまかなる筋聞こえ通ひたまふめるに、かの御方を、さやうにおもむけて聞こえたまはば、となむ思すべかめる。
宮の御文などはべるめるは、さらにまめまめしき御ことならじ、とはべるめる」
と聞こゆれば、
「あはれなる御一言を聞きおき、露の世にかかづらはむ限りは、聞こえ通はむの心あれば、いづ方にも見えたてまつらむ、同じことなるべきを、さまではた、思しよるなる、いとうれしきことなれど、心の引く方なむ、かばかり思ひ捨つる世に、なほとまりぬべきものなりければ、改めてさはえ思ひなほすまじくなむ。世の常になよびかなる筋にもあらずや。
ただかやうにもの隔てて、こと残いたるさまならず、さし向ひて、とにかくに定めなき世の物語を、隔てなく聞こえて、つつみたまふ御心の隈残らずもてなしたまはむなむ、兄弟などのさやうに睦ましきほどなるもなくて、いとさうざうしくなむ、世の中の思ふことの、あはれにも、をかしくも、愁はしくも、時につけたるありさまを、心に籠めてのみ過ぐる身なれば、さすがにたつきなくおぼゆるに、疎かるまじく頼みきこゆる。
后の宮、はた、なれなれしく、さやうにそこはかとなき思ひのままなるくだくだしさを、聞こえ触るべきにもあらず。三条の宮は、親と思ひきこゆべきにもあらぬ御若々しさなれど、限りあれば、たやすく馴れきこえさせずかし。その他の女は、すべていと疎くつつましく、恐ろしくおぼえて、心からよるべなく心細きなり。
なほざりのすさびにても、懸想だちたることは、いとまばゆくありつかず、はしたなきこちごちしさにて、まいて心にしめたる方のことは、うち出づることは難くて、怨めしくもいぶせくも思ひきこゆるけしきをだに見えたてまつらぬこそ、我ながら限りなくかたくなしきわざなれ。宮の御ことをも、さりとも悪しざまには聞こえじと、まかせてやは見たまはぬ」
など言ひゐたまへり。老い人、はた、かばかり心細きに、あらまほしげなる御ありさまを、いと切に、さもあらせたてまつらばやと思へど、いづ方も恥づかしげなる御ありさまどもなれば、思ひのままにはえ聞こえず。
(弁が言う)「元来、姫君たちは、このように世間と違った性格の人たちなので、どのようにもあれ、世間並みにどうこうと、結婚についてお考えになってる気色はありません。
こうして仕えている女房たちも、宮在世中も、何の頼りがいのある、木陰もなかった。わが身大事と思うものは皆、それぞれの料簡で去っていったし、昔の古い縁故の人たちも、見限ってしまったこの邸に、まして今は、しばしも留まっていられそうにない、と女房たちが愚痴を言いながら、父宮がご在世の時こそ、譲れないところもあり、不釣り合いな縁組では、お気の毒だなどと、昔気質でためらっておりました。
今はこう、他に頼むべき人もなく、どのような縁組でも成り行き次第で決められても、一途に悪口を言う人は、かえって人の世の苦労も知らず、お話にもならぬことと思います。誰が一体、本当にこんな有様で一生を過ごすことができましょうか。
松の葉を食べて修行する山伏でさえ、生身を捨てがたいので、仏の教えを宗派に分けて修行するのです、などとよからぬことを姫君たちに言って、若い二人を惑わすようなことが多くありますが、志を曲げようともされませんので、中の君をだけでも、人並みに縁組させたい、と思っているのでございます。
こうした山深い所に尋ねて来られる心ざしの、何年も見馴れておりますのも、心を許せる方と大君は思っておりますし、今では何やかやと立ち入ったことを相談されていますが、あの中の君を、あなたがお相手としてお望み申してくださるのであれば、と思っておるようです。
宮(匂宮)の文などは、決して真剣な気持ちからではないと思っております」
と弁が言うので、
†(薫が言う)「父宮の遺言を聞いて、この世に生きている限りは、お付き合いをしたいと決意しており、どなたと一緒になっても、同じことのように思われるでしょうが、大君がそれほどお考えくださっているのは、うれしいのですが、心の引かれる方は、やはり執着が残るものでして、今更思い直すことなどできません。大君への思いは世間並みの色恋沙汰ではありません。
ただこうして物を隔てて、言いたいことも言わずに、差し向かって、何やかと世の出来事を隔てなく、話ができて、大君の方でも、包み隠さず思いをお話下されば、わたしには親しい兄弟もなく、たいそう物足りなく思っております。世間にあって感ずることの、しみじみと悲しくもおもしろくも、嘆かわしくも、その折々の有様を、心に籠めて留めおくのみなので、どうしてよいか分からず、大君には親しくしていただきたい。
后の宮(明石の中宮)には、馴れ馴れしく、そのようにとりとめのないことを思いのままにくだくだしく話もできませんし、三条の宮(女三の宮、母君)、親とも言えぬ若々しさですが、親子の分があり、兄弟のように気軽にもできません。その他の女の方々はみんなとてもなじめず、恐ろしく、心底心細い限りです。
その場限りの戯事でも色恋めいたことは、とても気恥ずかしく、はしたない不器用さで、まして真剣に思いつめている方には、口に出して言うことも難しく、恨めしいともじれったいともその気色だけでも、見ていただけないのは、我ながら融通のきかぬことです。匂宮のことも、そんなに悪く言わないで、わたしに任せてくれませんか」
などと言うのだった。老女の弁は、これ程心細い境遇なのに、理想的な相手なので、心から、二人を夫婦にしたいと思うのだが、どちらも気恥ずかしい様子なので、思ってる通りに申し上げられない。2020.10.13◎
47.5 薫、大君の寝所に迫る
今宵は泊りたまひて、物語などのどやかに聞こえまほしくて、やすらひ暮らしたまひつ。あざやかならず、もの怨みがちなる御けしき、やうやうわりなくなりゆけば、わづらはしくて、うちとけて聞こえたまはむことも、いよいよ苦しけれど、おほかたにてはありがたくあはれなる人の御心なれば、こよなくももてなしがたくて、対面したまふ。
仏のおはする中の戸を開けて、御燈明の火けざやかにかかげさせて、簾に屏風を添へてぞおはする。外にも大殿油参らすれど、「悩ましうて無礼なるを。あらはに」など諌めて、かたはら臥したまへり。御くだものなど、わざとはなくしなして参らせたまへり。
御供の人びとにも、ゆゑゆゑしき肴などして出ださせたまへり。廊めいたる方に集まりて、この御前は人げ遠くもてなして、しめじめと物語聞こえたまふ。うちとくべくもあらぬものから、なつかしげに愛敬づきて、もののたまへるさまの、なのめならず心に入りて、思ひ焦らるるもはかなし。
「かくほどもなきものの隔てばかりを障り所にて、おぼつかなく思ひつつ過ぐす心おそさの、あまりをこがましくもあるかな」と思ひ続けらるれど、つれなくて、おほかたの世の中のことども、あはれにもをかしくも、さまざま聞き所多く語らひきこえたまふ。
内には、「人びと、近く」などのたまひおきつれど、「さしも、もて離れたまはざらなむ」と思ふべかめれば、いとしも護りきこえず、さし退つつ、みな寄り臥して、仏の御燈火もかかぐる人もなし。ものむつかしくて、忍びて人召せど、おどろかず。
「心地のかき乱り、悩ましくはべるを、ためらひて、暁方にもまた聞こえむ」
とて、入りたまひなむとするけしきなり。
「山路分けはべりつる人は、ましていと苦しけれど、かく聞こえ承るに慰めてこそはべれ。うち捨てて入らせたまひなば、いと心細からむ」
とて、屏風をやをら押し開けて入りたまひぬ。いとむくつけくて、半らばかり入りたまへるに、引きとどめられて、いみじくねたく心憂ければ、
「隔てなきとは、かかるをや言ふらむ。めづらかなるわざかな」
と、あはめたまへるさまの、いよいよをかしければ、
「隔てぬ心をさらに思し分かねば、聞こえ知らせむとぞかし。めづらかなりとも、いかなる方に、思しよるにかはあらむ。仏の御前にて誓言も立てはべらむ。うたて、な懼ぢたまひそ。御心破らじと思ひそめてはべれば。人はかくしも推し量り思ふまじかめれど、世に違へる痴者にて過ぐしはべるぞや」
とて、心にくきほどなる火影に、御髪のこぼれかかりたるを、かきやりつつ見たまへば、人の御けはひ、思ふやうに香りをかしげなり。
今宵はここに泊まって、話をゆっくりしたいと思い、ぐずぐず夕方まで過ごした。薫はすっきりとはせず、何やら恨めし気な様子で、大君は処しがたくなってきたので、困ってしまい、打ち解けて話することもいっそうつらくなり、色恋を離れると世にも稀な実のある薫の人柄なので、素っ気ないあしらいもできず、対面するのだった。
仏間との境にある戸を開けて、灯明の火をあかあかとつけさせ、簾に屏風を立ててあった。外にも灯明をつけさせるが、「疲れて、無作法になる。丸見えではないか」などと制して、横になる。果物などが、さりげなく出された。
お供の者にも、気の利いた肴などが、出された。渡殿の方に集まっていて、こちら側の御前には人を遠ざけて、薫はしみじみと話をするのだった。大君は打ち解けた気配は決して示さなかったが、親しく愛嬌があって、話す様子が、ことのほか、薫の気に入って、胸が切なくなるのだった。
「こんな何でもない隔てが邪魔で、思いを遂げられないなんて何という不器用さだろう、何と愚かしいことか」と思い続けるが、平静をよそおい、さし障りのない世間話をあわれにもおかしくも、あれこれと上手に語るのであった。
御簾の内では、女房たちに「近くに」などと仰っていたが、「そんなに、よそよそしくしなくても」と女房たちが思っているので、見張ることもせず、退いて、みな寄り伏していて、仏の灯火をかきたてる人もいない。大君は何やら気づまりで、そっと女房を召されるが、起きて来ない。
「気分が悪く、ひどく苦しいので、少し休んで、暁方にでもまた話をしましょう」
とて、奥へ入ろうとする気配である。
「山路を分け入って来て、苦しいのですが、こうして話をしたり伺ったりするのが慰めです。奥へ引き籠られたらどんなに心細いことでしょう」
と言って、屏風を押し分けて入った。大君は、気味悪く感じて、半ば入ったところを、引きとどめて、ひどく恨めしく情けなく、
「隔てないとは、このようなことなのですか。思いもかけぬなさりよう」
と、たしなめる様子が、いっそう風情があったので、
†「隔てぬわたしの心をお分かりいただけないなら、お教えしましょう。思いがけなく、などとどんな気のまわし方でしょう。仏前で誓ってもいい。嫌ですね。怖がらないでください。あなたの気持ちを損ねることはしません。人はそうは思わないでしょうが、わたしは世にまたとない変わった痴者で通っています」
と言って、ほの暗く奥ゆかしい火影に、髪がこぼれかかっているのを見ると、大君の気配は、思った通り、気品のある美しさであった。2020.10.13◎
47.6 薫、大君をかき口説く
「かく心細くあさましき御住み処に、好いたらむ人は障り所あるまじげなるを、我ならで尋ね来る人もあらましかば、さてや止みなまし。いかに口惜しきわざならまし」と、来し方の心のやすらひさへ、あやふくおぼえたまへど、言ふかひなく憂しと思ひて泣きたまふ御けしきの、いといとほしければ、「かくはあらで、おのづから心ゆるびしたまふ折もありなむ」と思ひわたる。
わりなきやうなるも心苦しくて、さまよくこしらへきこえたまふ。
「かかる御心のほどを思ひよらで、あやしきまで聞こえ馴れにたるを、ゆゆしき袖の色など、見あらはしたまふ心浅さに、みづからの言ふかひなさも思ひ知らるるに、さまざま慰む方なく」
と恨みて、何心もなくやつれたまへる墨染の火影を、いとはしたなくわびしと思ひ惑ひたまへり。
「いとかくしも思さるるやうこそはと、恥づかしきに、聞こえむ方なし。袖の色をひきかけさせたまふはしも、ことわりなれど、ここら御覧じなれぬる心ざしのしるしには、さばかりの忌おくべく、今始めたることめきてやは思さるべき。なかなかなる御わきまへ心になむ」
とて、かの物の音聞きし有明の月影よりはじめて、折々の思ふ心の忍びがたくなりゆくさまを、いと多く聞こえたまふに、「恥づかしくもありけるかな」と疎ましく、「かかる心ばへながらつれなくまめだちたまひけるかな」と、聞きたまふこと多かり。
御かたはらなる短き几帳を、仏の御方にさし隔てて、かりそめに添ひ臥したまへり。名香のいと香ばしく匂ひて、しきみのいとはなやかに薫れるけはひも、人よりはけに仏をも思ひきこえたまへる御心にて、わづらはしく、「墨染の今さらに、折ふし心焦られしたるやうに、あはあはしく、思ひそめしに違ふべければ、かかる忌なからむほどに、この御心にも、さりともすこしたわみたまひなむ」など、せめてのどかに思ひなしたまふ。
秋の夜のけはひは、かからぬ所だに、おのづからあはれ多かるを、まして峰の嵐も籬の虫も、心細げにのみ聞きわたさる。常なき世の御物語に、時々さしいらへたまへるさま、いと見所多くめやすし。いぎたなかりつる人びとは、「かうなりけり」と、けしきとりてみな入りぬ。
宮ののたまひしさまなど思し出づるに、「げに、ながらへば、心の外にかくあるまじきことも見るべきわざにこそは」と、もののみ悲しくて、水の音に流れ添ふ心地したまふ。
「このような心細い邸に、色好みの男なら邪魔になるものはないと思われるのに、わたし以外に尋ねてくる者がいたら、そのままにしておくまい、そうなったらどんなに無念だろう」と、今までの自分の優柔不断さえ、不安におもわれるが、言いようもなく情けないと思って泣くだろう大君の気色を想像すると、お気の毒なので、「このように頑なな態度ではなく、自ずから心が折れる時もあろう」と思うのであった。
無理強いするのも心苦しく、穏やかにとりつくろって話する。
「それほどまでのお気持ちも思いよりませんで、不思議なほど馴れ親しみましたので、縁起でもない喪服の袖の色など、お見せした浅い心遣いに、自分でも言いようがなく思い知り、慰めようもありません」
と恨みがましく言って、何の気持ちの用意もなく、やつれた喪服の火影を、とてもきまり悪くつらいと思い惑うのであった。
「これほどまでに嫌われるのは、恥ずかしく言いようもありません。袖の色を口実にされるのも、もっともですが、長い間ご覧になって承知しておられるわたしの心ざしは、それくらいのことを憚るような、昨日今日はじまったことではありません。分別が過ぎるというものです」
とて、あの琴の音を聞いた、有明の月影から始まって、その時々の秘めがたくなる心の内を、めんめんと訴えるうちに、大君は「そんなことまで見られていたのか」と嫌な思いがして、「こんな下心を持って、真面目な風をしていたのか」と、お聞きになるのだった。
傍らにあった短い几帳を、仏前の隔てにして、薫は形ばかり姫君の側に臥した。名香が香ばしく匂って、しきみが匂う気配がし、薫は、人よりは格別に仏さまを信仰しているので、気が咎めて、「喪中の衣を着ているこの時期に、まるで焦れたように、軽薄にも、自分の本意に反することをなすのは避けよう、喪が明けてこのような憚りがなくなる頃には、大君の気持ちも少しは弛むだろう」などと、努めて気長に考えようとされる。
秋の夜は、自ずからあわれが多いのだが、まして峰の嵐も籬の虫も、心細くのみ聞こえた。無常の世について話をするとき、時々相手になってくれる姫君たちは、とても風情があって、難がない。寝込んでいた女房たちは、「さてはそうだったのか」と気色をよんで皆奥に入っている。
父宮の言っていたことを思い出して、「本当に、生き長らえると、思いのほかの、あってはならない目にも遭うものだ」と大君は悲しくて、宇治川の水音に涙の流れるのを感じた。2020.10.14◎
47.7 実事なく朝を迎える
はかなく明け方になりにけり。御供の人びと起きて声づくり、馬どものいばゆる音も、旅の宿りのあるやうなど人の語るを、思しやられて、をかしく思さる。光見えつる方の障子を押し開けたまひて、空のあはれなるをもろともに見たまふ。女もすこしゐざり出でたまへるに、ほどもなき軒の近さなれば、しのぶの露もやうやう光見えもてゆく。かたみにいと艶なるさま、容貌どもを、
「何とはなくて、ただかやうに月をも花をも、同じ心にもてあそび、はかなき世のありさまを聞こえ合はせてなむ、過ぐさまほしき」
と、いとなつかしきさまして語らひきこえたまへば、やうやう恐ろしさも慰みて、
「かういとはしたなからで、もの隔ててなど聞こえば、真に心の隔てはさらにあるまじくなむ」
といらへたまふ。
明くなりゆき、むら鳥の立ちさまよふ羽風近く聞こゆ。夜深き朝の鐘の音かすかに響く。「今は、いと見苦しきを」と、いとわりなく恥づかしげに思したり。
「ことあり顔に朝露もえ分けはべるまじ。また、人はいかが推し量りきこゆべき。例のやうになだらかにもてなさせたまひて、ただ世に違ひたることにて、今より後も、ただかやうにしなさせたまひてよ。よにうしろめたき心はあらじと思せ。かばかりあながちなる心のほども、あはれと思し知らぬこそかひなけれ」
とて、出でたまはむのけしきもなし。あさましく、かたはならむとて、
「今より後は、さればこそ、もてなしたまはむままにあらむ。今朝は、また聞こゆるに従ひたまへかし」
とて、いとすべなしと思したれば、
「あな、苦しや。暁の別れや。まだ知らぬことにて、げに、惑ひぬべきを」
と嘆きがちなり。鶏も、いづ方にかあらむ、ほのかにおとなふに、京思ひ出でらる。
山里のあはれ知らるる声々に
とりあつめたる朝ぼらけかな

女君、
鳥の音も聞こえぬ山と思ひしを
世の憂きことは訪ね来にけり

障子口まで送りたてまつりたまひて、昨夜入りし戸口より出でて、臥したまへれど、まどろまれず。名残恋しくて、「いとかく思はましかば、月ごろも今まで心のどかならましや」など、帰らむことももの憂くおぼえたまふ。
いつの間にか明け方になった。お供の者たちが声を作り、馬たちがいなないている、旅宿の様子を人が語ているのを想像して、薫は興味深く思う。光が見える方の障子を押し開けて、夜明けの空のあわれな様を二人で見ている。女も少しいざり出たので、いくらもない軒の浅さなので、軒先のしのぶ草露もようやく光があたりはじめた。二人ともとてもなまめかしい姿や顔なのに、
「何とはなしに、ただこうして月も花も、同じ心で楽しみ、はかない世の出来事をお互いに話して過ごしたいものです」
と、やさしく物言いすれば、大君はようやく恐ろしさも消えて安堵の胸をなでおろして、
「こんな風にきまり悪い思いをするのでなしに、物を隔てて話しできれば、真に心の隔てはなくなるでしょう」
と答えるのだった。
明るくなってゆき、群鳥むらとりの飛び立つ羽風が近くに聞こえる。夜深い朝方の鐘の音がかすかに響いてくる。「せめて今のうちに。みっともないので」と困って恥ずかしく思うのだった。
まるでことあり顔に朝露を分けて帰れないでしょう。人はどう思うでしょう。いつものように何気なく振舞って、ただ世間の普通とは異なったお付き合いで、これからこのような付き合いをしてください。決して心配されるような料簡はもちません。こうまで切にお慕いするわたしの心のほども、あわれと思ってください」
と言って、帰るそぶりもない。何たることか、見苦しいと思って、
「今より後は、仰せの通りに致しましょう。今朝は、わたしのお願い通りにしてください」
と言われて、ほとほと困惑しているので、
「ああ、どうしようか、暁の別れか。知らぬことゆえ、本当に困ってしまう」
と嘆きがちだ。鶏もどこで鳴いているのか、ほのかに聞こえるので、京を思い出す。
「山里のあわれを知るさまざまの物音が
集まって朝が来た」
女君、
「鳥の音も聞こえてこない山奥とおもっていましたが、
この世の憂きことは尋ねて来ました」
障子口まで送ってくれて、昨夜入ってきた戸口から出て、臥したが、まんじりともできない。名残り惜しくて、「これほどまでに切なく思うのだったら長い間のんびりともしていられなかったろう」などと、帰るのも物憂い。2020.10.14◎
47.8 大君、妹の中の君を薫にと思う
姫宮は、人の思ふらむことのつつましきに、とみにもうち臥されたまはで、「頼もしき人なくて世を過ぐす身の心憂きを、ある人どもも、よからぬこと何やかやと、次々に従ひつつ言ひ出づめるに、心よりほかのことありぬべき世なめり」と思しめぐらすには、
「この人の御けはひありさまの、疎ましくはあるまじく、故宮も、さやうなる御心ばへあらばと、折々のたまひ思すめりしかど、みづからは、なほかくて過ぐしてむ。我よりはさま容貌も盛りにあたらしげなる中の宮を、人なみなみに見なしたらむこそうれしからめ。人の上になしては、心のいたらむ限り思ひ後見てむ。みづからの上のもてなしは、また誰れかは見扱はむ。
この人の御さまの、なのめにうち紛れたるほどならば、かく見馴れぬる年ごろのしるしに、うちゆるぶ心もありぬべきを、恥づかしげに見えにくきけしきも、なかなかいみじくつつましきに、わが世はかくて過ぐし果ててむ」
と思ひ続けて、音泣きがちに明かしたまへるに、名残いと悩ましければ、中の宮の臥したまへる奥の方に添ひ臥したまふ。
例ならず、人のささめきしけしきもあやしと、この宮は思しつつ寝たまへるに、かくておはしたれば、うれしくて、御衣ひき着せたてまつりたまふに、御移り香の紛るべくもあらず、くゆりかかる心地すれば、宿直人がもて扱ひけむ思ひあはせられて、「まことなるべし」と、いとほしくて、寝ぬるやうにてものものたまはず。
客人は、弁のおもと呼び出でたまひて、こまかに語らひおき、御消息すくすくしく聞こえおきて出でたまひぬ。「総角を戯れにとりなししも、心もて、尋ばかりの隔ても対面しつるとや、この君も思すらむ」と、いみじく恥づかしければ、心地悪しとて、悩み暮らしたまひつ。人びと、
「日は残りなくなりはべりぬ。はかばかしく、はかなきことをだに、また仕うまつる人もなきに、折悪しき御悩みかな」
と聞こゆ。中の宮、組などし果てたまひて、
「心葉など、えこそ思ひよりはべらね」
と、せめて聞こえたまへば、暗くなりぬる紛れに起きたまひて、もろともに結びなどしたまふ。中納言殿より御文あれど、
「今朝よりいと悩ましくなむ」
とて、人伝てにぞ聞こえたまふ。
「さも、見苦しく、若々しくおはす」
と、人びとつぶやききこゆ。
姫君(大君)は、女房たちが何と思っているか恥ずかしくて、すぐにも臥せられず、「頼みにする父母もなくて世を生きる身のつらさもあり、仕える女房たちも、けしからんことを何やかやと次々言い出して、望みもせぬ男と結婚することにもなりかねない」と思いめぐらして、
「この人(薫)の人柄や風采は、嫌ではないし、故父宮も、この人にその気持ちがあれば妻にしていいと、折々に言っていたが、自分はやはり、このまま独り身で過ごそう。自分よりは、顔や姿が今が盛りでこのままでは惜しい気がする中の宮を、人並みに結婚させられたらうれしいのだ。妹のことなら、心からお世話しよう。自分のことは、誰が世話してくれよう。
この人が、ありふれていて、並みの人柄だったら、こうして長年親しんできたことゆえ、受け入れる気もしようが、あまりに立派で近づきがたく、かえってこちらがひどく気がひけるので、自分はこのまま独り身を通そう」
と思い続けて、泣き泣き世を明かしたので、気分も悪く、中の宮の臥している奥の方へ行って添い臥すのだった。
いつになく女房たちがひそひそ噂しあっているのもあやしいと、中の宮は思いながら寝ていたのだが、大宮がこうしているので、うれしく、夜具をかけてさしあげたところ、移り香がまぎれもなく、香ってくるので、宿直人が扱いかねたことを思い合わせて、「本当だ」と、おいたわしく寝たふりをして物も言わない。
薫は、弁を召し出して、こまごまと話し、大君への挨拶はしかつめらしく申し上げて、帰途についた。「総角を戯れにも応じて、その気があるから、尋ばかりの隔てでも、対面したと、中の君は思うだろう」と、ひどく恥ずかしく、気分が悪いと言って一日中臥せっていた。女房たちは、
「法事まであと幾日もありません。頼みになる、ほんのささいなことでも、ご用の務まる人もいないのに、ご病気ですか」
と言う。中の君は、組紐を作って、
「心葉など、手に負えません」
とせがんで頼むので、大君は暗くなってから起き出して、一緒に結びなどをするのだった。中納言(薫)から文があったが、
「今朝から、具合が悪い」
と言って、女房に代筆を頼む。
「そんな、大人気ない」
と女房たちがぶつぶつ言う。2020.10.15◎
47.9 一周忌終り、薫、宇治を訪問
御服など果てて、脱ぎ捨てたまへるにつけても、かた時も後れたてまつらむものと思はざりしを、はかなく過ぎにける月日のほどを思すに、いみじく思ひのほかなる身の憂さと、泣き沈みたまへる御さまども、いと心苦しげなり。
月ごろ黒く馴らはしたまへる御姿、薄鈍にて、いとなまめかしくて、中の宮は、げにいと盛りにて、うつくしげなる匂ひまさりたまへり。御髪など澄ましつくろはせて見たてまつりたまふに、世の物思ひ忘るる心地してめでたければ、人知れず、「近劣りしては思はずやあらむ」と、頼もしくうれしくて、今はまた見譲る人もなくて、親心にかしづきたてて見きこえたまふ。
かの人は、つつみきこえたまひし藤の衣も改めたまへらむ長月も、静心なくて、またおはしたり。「例のやうに聞こえむ」と、また御消息あるに、心あやまりして、わづらはしくおぼゆれば、とかく聞こえすまひて対面したまはず。
「思ひの外に心憂き御心かな。人もいかに思ひはべらむ」
と、御文にて聞こえたまへり。
「今はとて脱ぎはべりしほどの心惑ひに、なかなか沈みはべりてなむ、え聞こえぬ」
とあり。
怨みわびて、例の人召して、よろづにのたまふ。世に知らぬ心細さの慰めには、この君をのみ頼みきこえたる人びとなれば、思ひにかなひたまひて、世の常の住み処に移ろひなどしたまはむを、いとめでたかるべきことに言ひ合はせて、「ただ入れたてまつらむ」と、皆語らひ合はせけり。
喪の期間が終わって、喪服を脱ぎ捨てるにつけて、亡き父宮に先立たれるとは少しも思っていなかったので、はかなく過ぎた一年を思い、思いの外とてもつらいので、泣き沈んでいる姫君たちの様子は、たいそうおいたわしかった。
月ごろ黒い喪服に馴れた姿が、急に鈍色に変わって、すごく女らしく、中の宮は、本当に美しい盛りで、可愛らしかった。中の君の髪を女房たちが洗い整えるのをご覧になるにつけ、この世の憂いを忘れる心地がして、人知れず、「近劣りではないと思う、側で見ても美しい」と、うれしくて、今はほかにお世話を頼む人もなく、まるで親のように面倒を見るのだった。
薫は、遠慮していた喪服が改まると、待ちきれず、宇治に出かけた。「この前のようにお会いしよう」と、文をだして挨拶するが、大君は気分がすぐれず、煩わしく感じて、何やかやと言い逃れて、対面しようとしないのだった。
「思いのほかに冷たいお気持ちですね。女房たちもどう思うだろう」
と、文で申し上げた。
「今日限りと喪服を脱いだ心惑いに、かえって気分がすぐれず、何も申し上げられません」
と返事があった。
薫は恨みあぐねて、例の弁を召し出して、あれこれと話す。世にも稀に心細いこの地で、この君(薫)だけが頼りと思っている女房たちであれば、薫が大君と結婚して、世間並みの住まいに移るのを、たいそう結構なことだと、示し合わせて、「ただ大君の部屋に入れよう」と、皆で語らっている。2020.10.15◎
47.10 大君、妹の中の君に薫を勧める
姫宮、そのけしきをば深く見知りたまはねど、「かく取り分きて人めかしなつけたまふめるに、うちとけて、うしろめたき心もやあらむ。 昔物語にも、心もてやは、とあることもかかることもあめる。うちとくまじき人の心にこそあめれ」と思ひよりたまひて、
「せめて怨み深くは、この君をおし出でむ。劣りざまならむにてだに、さても見そめては、あさはかにはもてなすまじき心なめるを、まして、ほのかにも見そめては、慰みなむ。言に出でては、いかでかは、ふとさることを待ち取る人のあらむ。本意になむあらぬと、うけひくけしきのなかなるは、かたへは人の思はむことを、あいなう浅き方にやなど、つつみたまふならむ」
と思し構ふるを、「けしきだに知らせたまはずは、罪もや得む」と、身をつみていとほしければ、よろづにうち語らひて、
「昔の御おもむけも、世の中をかく心細くて過ぐし果つとも、なかなか人笑へに、かろがろしき心つかふな、などのたまひおきしを、おはせし世の御ほだしにて、行ひの御心を乱りし罪だにいみじかりけむを、今はとて、さばかりのたまひし一言をだに違へじ、と思ひはべれば、心細くなどもことに思はぬを、この人びとの、あやしく心ごはきものに憎むめるこそ、いとわりなけれ。
げに、さのみやうのものと過ぐしたまはむも、明け暮るる月日に添へても、御ことをのみこそ、あたらしく心苦しくかなしきものに思ひきこゆるを、君だに世の常にもてなしたまひて、かかる身のありさまもおもだたしく、慰むばかり見たてまつりなさばや」
と聞こえたまはば、いかに思すにかと、心憂くて、
「一所をのみやは、さて世に果てたまへとは、聞こえたまひけむ。はかばかしくもあらぬ身のうしろめたさは、数添ひたるやうにこそ、思されためりしか。心細き御慰めには、かく朝夕に見たてまつるより、いかなるかたにか」
と、なま恨めしく思ひたまひつれば、げにと、いとほしくて、
「なほ、これかれ、うたてひがひがしきものに言ひ思ふべかめるにつけて、思ひ乱れはべるぞや」
と、言ひさしたまひつ。
姫君(大君)は、女房たちの思惑を深くは知らないが、「こうして格別に手なずけているので、気を許して、油断のならぬ料簡を起こすかもしれない、昔の話にも、自分であれこれ出来たことがあっただろうか、うちとけぬ女房の手引きではないか」と思って、
「薫が恨み深く諦めないなら、この中の君を勧めよう、たとえ見劣りしても、いったん契りを結べば薄情な扱いをする人ではなさそうだし、ましてちょっとでも見たら、慰めを得て気が変わろう。口に出して言えば、承諾しないだろう。本命ではないからと、承知しないのは、ひとつにはこちらの思惑を、勝手に思慮が浅いと思って、遠慮しておいでなのでしょう」
と計画されるが、「これを全く中の君に知らせないないのは、罪を犯すことになる」と、身につまされてかわいそうなので、何やかやと話して、
「亡き父宮のご意向も、世の中をこのように心細く過ごし終わろうとも、なまじ世間の物笑いになるような、軽率なことはするな、と遺言なさったが、在世中にも足手まといになり、勤行専一の御心を乱した罪も大きなものだったのに、今わの際に仰せになった遺言を一言も違えまいと思いますので、心細くはありませんが、この女房たちが、そんなわたしを、ひどい強情者と憎んでいるらしいのは、本当に困ったものです。
でもたしかに、わたしと同じ独身で過ごすお過ごしなさるのも、明け暮れ月日がたてば、あなたの身がお気の毒で惜しく思われますので、あなたは世間並みに結婚してくれれば、このような身のわたしも面目が立つし、親身になってお世話します」
と申し上げると、何とお考えなのか、と情けなくて、
「お姉さまだけ、独り身で生涯を過ごすように父宮は仰ったでしょうか。頼りないわたしへのことを、父宮はいっそう心配しておいででした。寂しい日々を過ごす慰めは、こうして一緒に朝夕過ごすよりほかありましょうか」
と、何となく恨めしそうに思っているので、もっともで不憫に思い、
「でも、誰彼とわたしをおかしな変わり者と言ったり思ったりしているらしいので、何かと心を痛めています」
と言いさしてお止めになった。2020.10.16◎
47.11 薫は帰らず、大君、苦悩す
暮れゆくに、客人まろうどは帰りたまはず。姫宮、いとむつかしと思す。弁参りて、御消息ども聞こえ伝へて、怨みたまふをことわりなるよしを、つぶつぶと聞こゆれば、いらへもしたまはず、うち嘆きて、
「いかにもてなすべき身にかは。一所おはせましかば、ともかくも、さるべき人に扱はれたてまつりて、宿世といふなる方につけて、身を心ともせぬ世なれば、皆例のことにてこそは、人笑へなる咎をも隠すなれ。ある限りの人は年積もり、さかしげにおのがじしは思ひつつ、心をやりて、似つかはしげなることを聞こえ知らすれど、こは、はかばかしきことかは。人めかしからぬ心どもにて、ただ一方に言ふにこそは」
と見たまへば、引き動かしつばかり聞こえあへるも、いと心憂く疎ましくて、動ぜられたまはず。同じ心に何ごとも語らひきこえたまふ中の宮は、かかる筋には、今すこし心も得ずおほどかにて、何とも聞き入れたまはねば、「あやしくもありける身かな」と、ただ奥ざまに向きておはすれば、
「例の色の御衣どもたてまつり替へよ」
など、そそのかしきこえつつ、皆、さる心すべかめるけしきを、あさましく、「げに、何の障り所かはあらむ。ほどもなくて、かかる御住まひのかひなき、山梨の花ぞ」、逃れむ方なかりける。
客人は、かく顕証に、これかれにも口入れさせず、「忍びやかに、いつありけむことともなくもてなしてこそ」と思ひそめたまひけることなれば、
「御心許したまはずは、いつもいつも、かくて過ぐさむ」
と思しのたまふを、この老い人の、おのがじし語らひて、顕証にささめき、さは言へど、深からぬけに、老いひがめるにや、いとほしくぞ見ゆる。
暮れても、客人は帰らなかった。大君は本当に困ったと思う。弁が来て、薫の挨拶を告げるが、恨みがましいのは当然と思う気持ちを、あれこれと言うので、大君は返事もしないでいる、嘆いて、
「どう処したらいいのだろう。両親がどちらかでもおられたら、お守りくださって、宿世にせよ、思い通りにならない世なれば、どうなっても世間によくあることとして、物笑いになっても目立たなくてすむのだ。まわりの女房たちは年寄りで、自分は賢いと思って、いい気になって、似つかわしい夫婦だと言うけれど、これが何の頼もしい話であることか、人並みでない身分の女房たちの考えで、ただ勝手に言っているだけだ」
と思ったので、女房が手を引かんばかりに言うが、とても情けなく思って、動じない。同じ気持ちで何ごとも相談する中の宮は、この方面は、ご存じなくおっとりしているので、どういう意味か分からないので、「わたしは変わった身の上だこと」と、大君はただ奥の方を向いているので、
「常の色の衣に着替えなさいませ」
などと、しきりにお勧めするのだが、皆その気でいるらしい気色なので、あきれて、男が近づくのに「何の邪魔もない、狭くて、こんな住まいでは身を隠すすべもない、山梨の花だ」、身を隠す術もない。
客人は、こうはっきりと、あれこれに口を出させず、「目立たぬように、二人の仲がいつ始まったのかも知れないように」と思っているので、
「姫君が許さなかったら、いつまでもこのままでいよう」
と言うのを、この老女は勝手にそれぞれに話して、大ぴらに語り、そうは言っても、心根は浅く、もうろくしているのか、姫君がお気の毒だった。2020.10.16◎
47.12 大君、弁と相談する
姫宮、思しわづらひて、弁が参れるにのたまふ。
「年ごろも、人に似ぬ御心寄せとのみのたまひわたりしを聞きおき、今となりては、よろづに残りなく頼みきこえて、あやしきまでうちとけにたるを、思ひしに違ふさまなる御心ばへの混じりて、恨みたまふめるこそわりなけれ。世に人めきてあらまほしき身ならば、かかる御ことをも、何かはもて離れても思はまし。
されど、昔より思ひ離れそめたる心にて、いと苦しきを。この君の盛り過ぎたまはむも口惜し。げに、かかる住まひも、ただこの御ゆかりに所狭くのみおぼゆるを、まことに昔を思ひきこえたまふ心ざしならば、同じことに思ひなしたまへかし。身を分けたる心のうちは皆ゆづりて、見たてまつらむ心地なむすべき。なほ、かうやうによろしげに聞こえなされよ」
と、恥ぢらひたるものから、あるべきさまをのたまひ続くれば、いとあはれと見たてまつる。
「さのみこそは、さきざきも御けしきを見たまふれば、いとよく聞こえさすれど、さはえ思ひ改むまじ、兵部卿宮の御恨み、深さまさるめれば、またそなたざまに、いとよく後見きこえむ、となむ聞こえたまふ。それも思ふやうなる御ことどもなり。二所ながらおはしまして、ことさらに、いみじき御心尽くしてかしづききこえさせたまはむに、えしも、かく世にありがたき御ことども、さし集ひたまはざらまし。
かしこけれど、かくいとたつきなげなる御ありさまを見たてまつるに、いかになり果てさせたまはむと、うしろめたく悲しくのみ見たてまつるを、後の御心は知りがたけれど、うつくしくめでたき御宿世どもにこそおはしましけれとなむ、かつがつ思ひきこゆる。
故宮の御遺言違へじと思し召すかたはことわりなれど、それは、さるべき人のおはせず、品ほどならぬことやおはしまさむと思して、戒めきこえさせたまふめりしにこそ。
この殿の、さやうなる心ばへものしたまはましかば、一所をうしろやすく見おきたてまつりて、いかにうれしからましと、折々のたまはせしものを。ほどほどにつけて、思ふ人に後れたまひぬる人は、高きも下れるも、心の外に、あるまじきさまにさすらふたぐひだにこそ多くはべるめれ。
それ皆例のことなめれば、もどき言ふ人もはべらず。まして、かくばかり、ことさらにも作り出でまほしげなる人の御ありさまに、心ざし深くありがたげに聞こえたまふを、あながちにもて離れさせたまうて、思しおきつるやうに、行ひの本意を遂げたまふとも、さりとて雲霞をやは」
など、すべてこと多く申し続くれば、いと憎く心づきなしと思して、ひれ臥したまへり。
大君は、思い煩って、弁が来たので相談する。
「今までも、父宮があの方は格別の好意を寄せられていると仰せられているのを聞いており、父宮亡きあとは、すべてにわたって頼りにしてますが、変に思われるほど打ち解けていて、考えていたのと違う志がおありで、恨みがましいのは困ったこと。わたしが人並みに結婚したいと思っているのなら、こうしたことも、どうしてお断わりするでしょう。
けれど、昔からその気がないので、つらいのです。中の君が美しい盛りを過ぎてしまうのも残念です。本当に、この住まいも、中の君のことを考えますと不都合ですので、もし父宮を敬慕するする志があれば、妹も私も同じと思っていただきたいのです。身こそ二つですが心の内は、中の君に預けて、わたしも一緒に連れ添った気持ちで仕えます。こう申し上げてください」
と恥じらいながらも、希望の趣をこまごまとお話されて、何とあわれなと見るのだった。
「そのような趣は、今までもご意向として承知しておりましたので、よくよく申し上げたのですが、そのように思い直せない、兵部卿宮(匂宮)の恨みはますます深くなるようですから、そちらの方はよくお世話します、と言うばかりです。それも願ってもない結構なことですが、ご両親が健在で大そう熱心に結婚の尽力したとしても、とてもこんな風に滅多な良縁を二つも参りますまい。
恐れ多いですが、このような頼み所のない生活を見ていますと、行く末はどんなことになるのか、たいそう心配でございます。男君の先々の心までは知りませんが、美しくめでたい宿世だったのだと、何はともあれ思っております。
亡き父宮の遺言を違えまいと思うのはごもっともですが、それは、見合ったふさわしい方がいなくて、身分の釣り合わない男と縁組しないか心配されて戒めたのでございます。
この殿(薫)が、結婚したいお気持ちがあるのですから、ひと方は安心できますので、どんなにうれしいだろうと、父君も仰せになっておりました。それぞれの身分に応じて、大事な人に先立たれた人は、身分が高くても低くても、思いのほか、落ちぶれた境遇になってしまうことが多くあります。
それは憂き世の習いですから、非難する人もいないでしょう。まして、わざわざあつらえて作ったような立派な人柄の上に、真心こめて熱心に仰って下さるのを、強いてお断りして、かねてからの出家の本懐を遂げたとしても、雲霞の外の世界に住むわけにもいきません」
などと、熱心に言葉多く申し上げると、たいそう憎らしく感じ、臥したのだった。2020.10.17◎
47.13 大君、中の君を残して逃れる
中の宮も、あいなくいとほしき御けしきかなと、見たてまつりたまひて、もろともに例のやうに大殿籠もりぬ。うしろめたく、いかにもてなさむ、とおぼえたまへど、ことさらめきて、さし籠もり隠ろへたまふべきものの隈だになき御住まひなれば、なよよかにをかしき御衣、上にひき着せたてまつりたまひて、まだけはひ暑きほどなれば、すこしまろび退きて臥したまへり。
弁は、のたまひつるさまを客人に聞こゆ。「いかなれば、いとかくしも世を思ひ離れたまふらむ。聖だちたまへりしあたりにて、常なきものに思ひ知りたまへるにや」と思すに、いとどわが心通ひておぼゆれば、さかしだち憎くもおぼえず。
「さらば、物越などにも、今はあるまじきことに思しなるにこそはあなれ。今宵ばかり、大殿籠もるらむあたりにも、忍びてたばかれ」
とのたまへば、心して、人疾く静めなど、心知れるどちは思ひ構ふ。
宵すこし過ぐるほどに、風の音荒らかにうち吹くに、はかなきさまなる蔀などは、ひしひしと紛るる音に、「人の忍びたまへる振る舞ひは、え聞きつけたまはじ」と思ひて、やをら導き入る。
同じ所に大殿籠もれるを、うしろめたしと思へど、常のことなれば、「ほかほかにともいかが聞こえむ。御けはひをも、たどたどしからず見たてまつり知りたまへらむ」と思ひけるに、うちもまどろみたまはねば、ふと聞きつけたまて、やをら起き出でたまひぬ。いと疾くはひ隠れたまひぬ。
何心もなく寝入りたまへるを、いといとほしく、いかにするわざぞと、胸つぶれて、もろともに隠れなばやと思へど、さもえ立ち返らで、わななくわななく見たまへば、火のほのかなるに、袿姿にて、いと馴れ顔に、几帳の帷を引き上げて入りぬるを、いみじくいとほしく、「いかにおぼえたまはむ」と思ひながら、あやしき壁の面に、屏風を立てたるうしろの、むつかしげなるにゐたまひぬ。
「あらましごとにてだに、つらしと思ひたまへりつるを、まいて、いかにめづらかに思し疎まむ」と、いと心苦しきにも、すべてはかばかしき後見なくて、落ちとまる身どもの悲しきを思ひ続けたまふに、今はとて山に登りたまひし夕べの御さまなど、ただ今の心地して、いみじく恋しく悲しくおぼえたまふ。
中の君も、大君が何かひどくおいたわしい様子だと思いながら、例の通り一緒にお休みになった。大君は、とても気がかりで、弁などが何かをするだろう、と思ったが、ちょうどいい具合に、籠って身を隠す物陰などどこにもない住いなので、中の君にしなやかな美しい衣を上にかけてあげると、まだ暑い時期であったので、自分は少し離れた処に横になった。
弁は、大君が仰せになったことを客人にお伝えした。「どうして、これほどまでに結婚を嫌っておられるのだろう。聖のような生活をしていた父宮の側にいたので、世の無常を知ったのか」と思うと、自分と似ているのを感じて、賢しらぶって嫌な人とも思えない。
「では、大君は物越しにも対面しないつもりなのか。今宵こそ、寝ているところに、こっそり入れるように計ってくれ」
と頼めば、女房を早く寝静まらせるなど、事情を知る者同士は通じる。
宵が少し過ぎたころ、風の音が荒く吹いて、弱い造りの蔀などが、ひしひしと鳴る音に、「人が忍んで入るのは、聞こえないだろう」と思って、そっと導き入れる。
いつも同じ処に寝ているのを、気がかりに思うが、いつものことなので、「今日だけは別々に休みましょう、とはどうして言えよう。薫は。大君の気配は、間違いなく十分ご存じだろう」と思っていて、まんじりともせず目を覚ましていたので、ふと聞きつけて、やおら起き上がった。素早く隠れた。
中の君が何心なく寝入っているのを、気の毒に思い、何をしているのか、と胸がつぶれて、一緒に隠れようとも思うが、引き返さず、恐るおそる見ると、灯火がかすかに照らし、薫は、袿姿で、馴れた様子で、几帳の帷を引き上げて入ったので、中の君がひどくかわいそうで、「どんな気持ちになるだろう」と思いながら、粗壁と屏風の間のむさ苦しい処に、無理して身をひそめた。
「将来の心積もりを話しただけでも、つらいと思っていたのに、まして何とひどいことをするのかと恨むだろう」と、心苦しく、すべてはきちんとした後見がなくて、零落する身の悲しみを思うと、今は山寺に登った時の父宮の夕べの姿が、はっきり目前に浮かんで、つらく恋しく悲しく思うのであった。2020.10.18◎
47.14 薫、相手を中の君と知る
中納言は、独り臥したまへるを、心しけるにやとうれしくて、心ときめきしたまふに、やうやうあらざりけりと見る。「今すこしうつくしくらうたげなるけしきはまさりてや」とおぼゆ。
あさましげにあきれ惑ひたまへるを、「げに、心も知らざりける」と見ゆれば、いといとほしくもあり、またおし返して、隠れたまへらむつらさの、まめやかに心憂くねたければ、これをもよそのものとはえ思ひ放つまじけれど、なほ本意の違はむ、口惜しくて、
「うちつけに浅かりけりともおぼえたてまつらじ。この一ふしは、なほ過ぐして、つひに、宿世逃れずは、こなたざまにならむも、何かは異人のやうにやは」
と思ひ覚まして、例の、をかしくなつかしきさまに語らひて明かしたまひつ。
老い人どもは、しそしつと思ひて、
「中の宮、いづこにかおはしますらむ。あやしきわざかな」
と、たどりあへり。
「さりとも、あるやうあらむ」
など言ふ。
「おほかた例の、見たてまつるに皺のぶる心地して、めでたくあはれに見まほしき御容貌ありさまを、などて、いともて離れては聞こえたまふらむ。何か、これは世の人の言ふめる、恐ろしき神ぞ、憑きたてまつりたらむ」
と、歯はうちすきて、愛敬なげに言ひなす女あり。また、
「あな、まがまがし。なぞのものか憑かせたまはむ。ただ、人に遠くて、生ひ出でさせたまふめれば、かかることにも、つきづきしげにもてなしきこえたまふ人もなくおはしますに、はしたなく思さるるにこそ。今おのづから見たてまつり馴れたまひなば、思ひきこえたまひてむ」
など語らひて、
「とくうちとけて、思ふやうにておはしまさなむ」
と言ふ言ふ寝入りて、いびきなど、かたはらいたくするもあり。
逢ふ人からにもあらぬ秋の夜なれど、ほどもなく明けぬる心地して、いづれと分くべくもあらずなまめかしき御けはひを、人やりならず飽かぬ心地して、
「あひ思せよ。いと心憂くつらき人の御さま、見習ひたまふなよ」
など、後瀬を契りて出でたまふ。我ながらあやしく夢のやうにおぼゆれど、なほつれなき人の御けしき、今一たび見果てむの心に、思ひのどめつつ、例の、出でて臥したまへり。
中納言(薫)は、独りで臥しているのを、そのつもりで気を配ったのだ、とうれしくなり、だんだんと違う、と分かった。「中の君は、大君よりもう少し美しく可愛らしい気色が勝っている」と思うのだった。
中の君が、あまりのことにあきれ惑うのを、「なるほど、事情を知らなかったのだ」と見れば、気の毒であり、また思い返して、どこかに隠れている姉君の情けない仕打ちを心憂く恨めしく思えば、妹君も他人のものにしたくない、と思うけれど、それでも本意ではなく、口惜しく、
「やはり心が浅い思いだったのだと思われたくない。この件は、ともかくやり過ごして、遂には前世の宿世なら、中の君でもなにか異なることがあろう」
気持ちを静めて、いつもの、風情のある柔らかな態度で、話して夜を明かしたのだった。
老いた女房たちは、手ぬかりはないと思って、
「中の君はどこにいるのだろう。おかしなこと」
といぶかるのだった。
「でもどうにかしていられよう」
などと言う。
「いつも拝するだけで、皺がのびる心地がて、ご立派でしみじみ見ていたい容姿ですのに、どうして、素っ気なくお相手申すのでしょう。何か、これは世間の人が言う、大君に恐ろしい神が憑いているのでしょうか」
と歯の抜けた口で、憎らし気な口を聞く女がいる。また、
「まあ、縁起でもない。何で魔物が憑くものですか。ただ、人とお付き合いせずに育ったので、夫婦の道にもそれなりに世話してくれる人もなく、きまり悪く思っているのでしょう。そのうち男君に馴染むようになって、慕うようになりましょう」
など語らって、
「早く仲良くなって、何不自由ない暮らしをするでしょう」
と言うなり寝込んで、いびきなどかく、不作法なものもいた。
逢いたい人と過ごした秋の夜ではないが、いつの間にか明ける心地がして、姉君といずれがいずれとも区別がつかない妹君の優雅な様子なので、自分のせいだが、満たされない気持ちで、
「わたしを好いてください。ひどい姉君の仕打ちを見習ってはいけません」
など、またの逢瀬を約束して、出た。我ながら妖しく夢のような心地がするが、やはり冷たいあの方の心を今一度見届けたい、と胸をさすりながら、今夜も出て臥すのであった。2020.10.18◎
47.15 翌朝、それぞれの思い
弁参りて、
「いとあやしく、中の宮は、いづくにかおはしますらむ」
と言ふを、いと恥づかしく思ひかけぬ御心地に、「いかなりけむことにか」と思ひ臥したまへり。昨日のたまひしことを思し出でて、姫宮をつらしと思ひきこえたまふ。
明けにける光につきてぞ、壁の中のきりぎりす這ひ出でたまへる。思すらむことのいといとほしければ、かたみにものも言はれたまはず。
「ゆかしげなく、心憂くもあるかな。今より後も、心ゆるびすべくもあらぬ世にこそ」
と思ひ乱れたまへり。
弁はあなたに参りて、あさましかりける御心強さを聞きあらはして、「いとあまり深く、人憎かりけること」と、いとほしく思ひほれゐたり。
† 「来し方のつらさは、なほ残りある心地して、よろづに思ひ慰めつるを、今宵なむ、まことに恥づかしく、身も投げつべき心地する。捨てがたく落としおきたてまつりたまへりけむ心苦しさを思ひきこゆる方こそ、また、ひたぶるに、身をもえ思ひ捨つまじけれ。かけかけしき筋は、いづ方にも思ひきこえじ。憂きもつらきも、かたがたに忘られたまふまじくなむ。
宮などの、恥づかしげなく聞こえたまふめるを、同じくは心高く、と思ふ方ぞ異にものしたまふらむ、と心得果てつれば、いとことわりに恥づかしくて。また参りて、人びとに見えたてまつらむこともねたくなむ。よし、かくをこがましき身の上、また人にだに漏らしたまふな」
と、怨じおきて、例よりも急ぎ出でたまひぬ。「誰が御ためもいとほしく」と、ささめきあへり。
弁が来て、
「ほんとおかしいこと。中の宮は、どこにおいでなのでしょう」
と言うのを、中の君は、とても気がひけて、予想もしなかった出来事に茫然とされて、「どういう事情だったのだろう」と思って臥していた。大君が昨日仰っていたことを思い出して、ひどいお方と思うのだった。
明るくなってきた光をたよりに、壁の中から大君すが這い出してきた。何と思っているのかお気の毒なので、互いに物も言わない。
「何と、奥ゆかしくなく情けないことよ、これから先も気を許してはならない」
と大君は思い乱れるのだった。
弁は薫の処に行って、あきれるばかりの大君の気の強さを聞いて、「あまりにも思慮深く、可愛げのないこと」とお気の毒に思うのだった。
「今までのつらさは、まだ望みがある気がして、何かと心を慰めていたのですが、今宵こそ、まことに恥ずかしく、身を投げたい気がする。 亡き父宮が、この世に残していった姉妹のことは、お気持ちを思うと、一途に身を捨てる気になれない。色恋じみた思いは、どちらの方にも持たないようにしよう。悲しさも恨めしさも、どちらにしろ、大君が忘れるとは思えない。
宮(匂宮)などが、遠慮せず文を出すのは、同じくは身分の高い方と、慕う方が思うのでしょう、と心得まして、それもごもっとで、恥ずかしい。また来て、女房たちに会うのも、癪です。よし、こんな馬鹿げたわたしのことは、人に言ってはならぬ」
と、薫は恨みがましく言って、いつもより急いで帰途についた。「どちらにとってもお気の毒なこと」と皆でひそひそ話ている。2020.10.19◎
47.16 薫と大君、和歌を詠み交す
姫君も、「いかにしつることぞ、もしおろかなる心ものしたまはば」と、胸つぶれて心苦しければ、すべて、うちあはぬ人びとのさかしら、憎しと思す。さまざま思ひたまふに、御文あり。例よりはうれしとおぼえたまふも、かつはあやし。秋のけしきも知らず顔に、青き枝の、片枝いと濃く紅葉ぢたるを、
おなじ枝を分きて染めける山姫に
いづれか深き色と問はばや

さばかり怨みつるけしきも、言少なにことそぎて、おし包みたまへるを、「そこはかとなくもてなしてやみなむとなめり」と見たまふも、心騷ぎて見る。
かしかましく、「御返り」と言へば、「聞こえたまへ」と譲らむも、うたておぼえて、さすがに書きにくく思ひ乱れたまふ。
山姫の染むる心はわかねども
移ろふ方や深きなるらむ

ことなしびに書きたまへるが、をかしく見えければ、なほえ怨じ果つまじくおぼゆ。
「身を分けてなど、譲りたまふけしきは、たびたび見えしかど、うけひかぬにわびて構へたまへるなめり。そのかひなく、かくつれなからむもいとほしく、情けなきものに思ひおかれて、いよいよはじめの思ひかなひがたくやあらむ。
とかく言ひ伝へなどすめる老い人の思はむところも軽々しく、とにかくに心を染めけむだに悔しく、かばかりの世の中を思ひ捨てむの心に、みづからもかなはざりけりと、人悪ろく思ひ知らるるを、まして、おしなべたる好き者のまねに、同じあたり返すがへす漕ぎめぐらむ、いと人笑へなる棚無し小舟めきたるべし」
など、夜もすがら思ひ明かしたまひて、まだ有明の空もをかしきほどに、兵部卿宮の御方に参りたまふ。
姫君(大君)も、「どうしよう。もし薫君が愚かな下心を持っていたら」と、胸がつぶれて心苦しければ、すべて、ちぐはぐな女房たちのお節介のせいだと思う。あれこれと思うところに、文があった。いつもよりうれしく思ったが、またおかしなことでもあった。秋の気色も知らぬ顔に、青々とした枝に、片方に濃い紅葉がついたのを、
「一つの枝に分けて染めている山の神に
どちらが深く染まった色か問うてみたい」
あんなにひどく恨んでいたが、言葉少なに、控え目にして、包み文にしてあるので、「昨夜の件はうやむやにしてすませようという積りらしい」と見たが、心騒ぐ。
女房がやかましく、「ご返事を」と催促するので、「中の君に言いなさい」と譲ろうとするのを、気がひけて、何と書いたらものか思い惑う。
「山の神が染め分けた心は分かりませんが、
色変わりした紅葉に深い思いがこもっているのでは」
何でもない風に書いているのが、趣あるように見えたので、恨み尽くせないと思うのだった。
「身は二つでも心はひとつと、中の君に譲ろうとする気色は、たびたび見えたけれど、わたしが承知しないので、昨夜のようなことを企てたのだろう。それを無にして、中の君につれなくするのも、大君に気の毒だし、情のない男に思われては、いよいよ初めの思いも叶わなくなる。
つまるところ、 何かと仲立ちをする老い人の手前も軽率に見えるし、とにかく大君に心を寄せたことから悔しくこんなかりそめの世の中を思い捨てよう決心していたのに、叶わなかったのを、人の手前も恥ずかしく思い知れるを、まして、世間並みの好き者の真似をして、同じところを漕ぎ回る棚無し小舟だと人が笑うだろう」
など夜通し思い明かして、まだ有明の空も風情ある頃に、兵部卿宮(匂宮)の所に参上した。2020.10.19◎
47.17 薫、匂宮を訪問
三条宮焼けにし後は、六条院にぞ移ろひたまへれば、近くては常に参りたまふ。宮も、思すやうなる御心地したまひけり。紛るることなくあらまほしき御住まひに、御前の前栽、他のには似ず、同じ花の姿も、木草のなびきざまも、ことに見なされて、遣水に澄める月の影さへ、絵に描きたるやうなるに、思ひつるもしるく起きおはしましけり。
風につきて吹き来る匂ひの、いとしるくうち薫るに、ふとそれとうち驚かれて、御直衣たてまつり、乱れぬさまに引きつくろひて出でたまふ。
階を昇りも果てず、ついゐたまへれば、「なほ、上に」などものたまはで、高欄によりゐたまひて、世の中の御物語聞こえ交はしたまふ。かのわたりのことをも、もののついでには思し出でて、「よろづに恨みたまふも、わりなしや。みづからの心にだにかなひがたきを」と思ふ思ふ、 「さもおはせなむ」と思ひなるやうのあれば、例よりはまめやかに、あるべきさまなど申したまふ。
明けぐれのほど、あやにくに霧りわたりて、空のけはひ冷やかなるに、月は霧に隔てられて、木の下も暗くなまめきたり。山里のあはれなるありさま思ひ出でたまふにや、
「このころのほどは、かならず後らかしたまふな」
と語らひたまふを、なほ、わづらはしがれば、
女郎花咲ける大野をふせぎつつ
心せばくやしめを結ふらむ

と戯れたまふ。
霧深き朝の原の女郎花
心を寄せて見る人ぞ見る

なべてやは」
など、ねたましきこゆれば、
「あな、かしかまし」と、果て果ては腹立ちたまひぬ。
年ごろかくのたまへど、人の御ありさまをうしろめたく思ひしに、「容貌なども見おとしたまふまじく推し量らるる、心ばせの近劣りするやうもや」などぞ、あやふく思ひわたりしを、「何ごとも口惜しくはものしたまふまじかめり」と思へば、かの、いとほしく、うちうちに思ひたばかりたまふありさまも違ふやうならむも、情けなきやうなるを、さりとて、さはたえ思ひ改むまじくおぼゆれば、譲りきこえて、「いづ方の恨みをも負はじ」など、下に思ひ構ふる心をも知りたまはで、心せばくとりなしたまふもをかしけれど、
「例の、軽らかなる御心ざまに、もの思はせむこそ、心苦しかるべけれ」
など、親方になりて聞こえたまふ。
「よし、見たまへ。かばかり心にとまることなむ、まだなかりつる」
など、いとまめやかにのたまへば、
「かの心どもには、さもやとうちなびきぬべきけしきは見えずなむはべる。仕うまつりにくき宮仕へにこそはべるや」
とて、おはしますべきやうなど、こまかに聞こえ知らせたまふ。
三条の宮が焼けた後は、六条院へ移っていたので、近いのでいつも匂宮邸に来ていた。宮もお望み通りと思っておられた。 雑事に紛れることのない理想的な住まいで、御前の前哉も、他のとは違って、同じ花の色も、草木の枝ぶりも格別おもしろく思われて、遣水に 澄む月の影さえ、絵に描いたようで、薫の思った通り月を見るとて起きていた。
風にのって吹いてくる匂いの、はっきり薫と分かるので、すぐ誰が来たのか分かって、直衣を着て、居住まいを整えた。
階を上りきらないでいると、「どうぞ上へ」とも言わずに、匂宮は高覧に寄りかかったまま、世間話を二人でし始めた。あの宇治の姫のことも、もののついでに思い出して、「何やかやとわたしを恨みなさるのも、困ったものだ。自分の思いも叶わないのに」と思いながら、「そうなってくれればいいのだが」と思惑があるので、いつもより気を入れて、打つべき手を申し上げる。
明け方のほの暗いころで、あいにく霧がかかって、空の気配がひややかだったが、月は霧におおわれて、木の下も暗く風情があった。山里のあわれな様子を思い出して、
「近々のうちに、必ず一緒に連れて行ってください」
宮が言うのを、薫は相変わらず迷惑そうにするので、
「女郎花の咲いている大野を守ろうとして
心狭くもしめ縄を結うのか」
と戯れるのだった。
「霧深い朝の原の女郎花は
心を寄せる人にこそ見えるのです
滅多なことでは逢わせません」
などと口惜しがらせると
「やれうるさい」と本気で怒るのだった。
「年来こう言っているが、中の君の人柄も心配だったが、「顔立ちも宮ががっかりするようでもないし、人柄も思っていた程でもないかもしれない」などと、危なっかしく懸念したのだが、「何ひとつ不足なところはない」と思うので、先夜の、おいたわしくも、大君ひとりで計画したことも叶わぬことになったのも、ひどいことのようだが、そうは言っても、中の君に思い替えることはできないし、中の君を譲って、「どちらからも恨みは買わない」などと、思っているのも知らないで、宮が狭い料簡だと取るのもおかしいが、
「例の癖で、宮が浮気心で、姫君につらい思いをさせるのも、お気の毒だ」
などと親の気持ちになって申し上げるのだった。
「まあよい、見ていてご覧。こんなに心ひかれる女は、今までなかった」
と真顔で言うのだった。
「あちらの人たちは、そのようになびく気色は見えないのです。ですからこれは気骨の折れるご奉仕です」
とて、宇治へ出かける心得など、細かに教えるのだった。2020.10.20◎
47.18 彼岸の果ての日、薫、匂宮を宇治に伴う
二十八日の、彼岸の果てにて、吉き日なりければ、人知れず心づかひして、いみじく忍びて率てたてまつる。后の宮など聞こし召し出でては、かかる御ありきいみじく制しきこえたまへば、いとわづらはしきを、切に思したることなれば、さりげなくともて扱ふも、わりなくなむ。
舟渡りなども所狭ければ、ことことしき御宿りなども、借りたまはず、そのわたりいと近き御庄の人の家に、いと忍びて、宮をば下ろしたてまつりたまひて、おはしぬ。見とがめたてまつるべき人もなけれど、宿直人はわづかに出でてありくにも、けしき知らせじとなるべし。
「例の、中納言殿おはします」とて経営けいめいしあへり。君たちなまわづらはしく聞きたまへど、「移ろふ方異に匂はしおきてしかば」と、姫宮思す。中の宮は、「思ふ方異なめりしかば、さりとも」と思ひながら、心憂かりしのちは、ありしやうに姉宮をも思ひきこえたまはず、心おかれてものしたまふ。
何やかやと御消息のみ聞こえ通ひて、いかなるべきことにかと、人びとも心苦しがる。
宮をば、御馬にて、暗き紛れにおはしまさせたまひて、弁召し出でて、
「ここもとに、ただ一言聞こえさすべきことなむはべるを、思し放つさま見たてまつりてしに、いと恥づかしけれど、ひたや籠もりにては、えやむまじきを、今しばし更かしてを、ありしさまには導きたまひてむや」
など、うらもなく語らひたまへば、「いづ方にも同じことにこそは」など思ひて参りぬ。
八月二十八日の、彼岸の果ての日は吉日で、人知れず、たいそう忍んで薫は匂宮をお連れした。后の宮(明石の中宮)がお耳にされたら、こういうお忍び歩きは、止められるので、まことに厄介だったが、宮が切に望んだので、何気ない振りをするのも並み大抵ではない。
舟で渡るのも大げさなので、ことごとしい宿りなども、借りたりせず、その辺りに近い荘園の管理人の家に、忍んで、宮を下ろしたのだった。見咎る人もなければ、宿直人は外を警護するので、そういう者にも様子を知らせないのだった。
「いつものように、『中納言殿のご入来』と丁重に出迎える。姫君たちは面倒なこととお聞きになるが、「中の君に心移りしたはず」と、大君は思う。中の君は、「お目当ては自分ではない」と思いながらも、あの嫌なことがあってから、以前のようには姉宮を信用することができず、用心していた。
何やかやと、取り次ぎが往来して、どうなることかと、女房たちは心配するのだった。
宮(匂宮)を馬で、闇に紛れて案内して、弁を召し出して、
大君に一言言わねばならないことがある。お嫌いになる様を見ましたので、とても顔向けできないが、このまま籠ったきりでは、すまされないので、今しばらく夜が更けてから、先だってのように案内してくれ」
などと、率直に話をすれば、「姉妹のどちらと縁組しても宮家にとっては同じこと」と思って弁は大君の御前に参じた。2020.10.20◎
47.19 薫、中の君を匂宮にと企む
「さなむ」と聞こゆれば、「さればよ、思ひ移りにけり」と、うれしくて心落ちゐて、かの入りたまふべき道にはあらぬ廂の障子を、いとよくさして、対面したまへり。
「一言聞こえさすべきが、また人聞くばかりののしらむはあやなきを、いささか開けさせたまへ。いといぶせし」
と聞こえさせたまへど、
「いとよく聞こえぬべし」
とて、開けたまはず。「今はと移ろひなむを、ただならじとて言ふべきにや。何かは、例ならぬ対面にもあらず、人憎くいらへで、夜も更かさじ」など思ひて、かばかりも出でたまへるに、障子の中より御袖を捉へて引き寄せて、いみじく怨むれば、「いとうたてもあるわざかな。何に聞き入れつらむ」と、悔しくむつかしけれど、「こしらへて出だしてむ」と思して、異人と思ひわきたまふまじきさまに、かすめつつ語らひたまへる心ばへなど、いとあはれなり
宮は、教へきこえつるままに、一夜の戸口に寄りて、扇を鳴らしたまへば、弁も参りて導ききこゆ。さきざきも馴れにける道のしるべ、をかしと思しつつ入りたまひぬるをも、姫宮は知りたまはで、「こしらへ入れてむ」と思したり。
をかしくもいとほしくもおぼえて、うちうちに心も知らざりける恨みおかれむも、罪さりどころなき心地すべければ、
「宮の慕ひたまひつれば、え聞こえいなびで、ここにおはしつる。音もせでこそ、紛れたまひぬれ。このさかしだつめる人や、語らはれたてまつりぬらむ。中空に人笑へにもなりはべりぬべきかな」
とのたまふに、今すこし思ひよらぬことの、目もあやに心づきなくなりて、
「かく、よろづにめづらかなりける御心のほども知らで、言ふかひなき心幼さも見えたてまつりにけるおこたりに、思しあなづるにこそは」
と、言はむ方なく思ひたまへり。
「しかじか」と弁が言えば、「思った通り、気が移ったのだ」と大君はうれしく安心して、あちらの入り口ではない方の、廂の障子はしっかり鍵をかけて、大君は薫と対面した。
「一言申し上げたいのですが、人に聞こえるほど大声を出すのも、具合が悪いので、襖を少し開けてください。とても気づまりです」
申し上げたが、
「よく聞こえますよ」
と言って、開けようとしない。「いよいよ妹に心変わりするのに、何か一言言う積りかしら。今初めての対面でもないのに、不愛想に返事もしないで、夜更けまで付き合えない」などと大君は思って、襖のもとまで出て来たとき、障子の中から袖をつかんで引き寄せ、ひどく恨むので、「何と嫌なことをする。何で対面などしたのだろう」と悔んだが、「何とかなだめて向こうへ行かせよう」と思って、妹を自分と別人と思わないように、それとなくお願いする心遣いが、あわれであった。
宮(匂宮)は、薫に教えられたとおりに、あの晩の戸口に寄って、扇を鳴らすと、弁が来て、薫と思って手引する。弁の馴れた案内を、おもしろいと思いながら、入ると、大宮は知らずに、「薫をうまくなだめて中の君の部屋に案内しようとしている」と思うのだった。
おもしろくも気の毒にも思えて、内々そんな事情は知らなかったと恨まれるのも、弁解のしようもない心地がするので、
「宮が後を追ってきたので、嫌とも言えず、ここまで来たのです。宮は中の君の部屋に紛れ込みました。お利口ぶった弁が頼み込まれて味方したのでしょう。中途半端なわたしは、物笑いの種になりそうです」
と言うと、大君は思いも寄らぬことに驚き、目もくらむばかりに不快になり、
「こんな世にも稀な企みがあるとも知らずに、お話にならぬほどの浅はかさを見せてしまって、馬鹿にしているのでしょう」
と、言いようもなくつらく思った。2020.10.21◎
47.20 薫、大君の寝所に迫る
「今は言ふかひなし。ことわりは、返すがへす聞こえさせてもあまりあらば、抓みもひねらせたまへ。やむごとなき方に思しよるめるを、宿世などいふめるもの、さらに心にかなはぬものにはべるめれば、かの御心ざしは異にはべりけるを、いとほしく思ひたまふるに、かなはぬ身こそ、置き所なく心憂くはべりけれ。
なほ、いかがはせむに思し弱りね。この御障子の固めばかり、いと強きも、まことにもの清く推し量りきこゆる人もはべらじ。しるべと誘ひたまへる人の御心にも、まさにかく胸ふたがりて、明かすらむとは、思しなむや」
とて、障子をも引き破りつべきけしきなれば、言はむ方なく心づきなけれど、こしらへむと思ひしづめて、
「こののたまふ筋、宿世といふらむ方は、目にも見えぬことにて、いかにもいかにも思ひたどられず。知らぬ涙のみ霧りふたがる心地してなむ。こはいかにもてなしたまふぞと、夢のやうにあさましきに、後の世の例に言ひ出づる人もあらば、昔物語などに、をこめきて作り出でたるもののたとひにこそは、なりぬべかめれ。かく思し構ふる心のほどをも、いかなりけるとかは推し量りたまはむ。
なほ、いとかく、おどろおどろしく心憂く、な取り集め惑はしたまひそ。心より外にながらへば、すこし思ひのどまりて聞こえむ。心地もさらにかきくらすやうにて、いと悩ましきを、ここにうち休まむ。許したまへ」
と、いみじくわびたまへば、さすがにことわりをいとよくのたまふが、心恥づかしくらうたくおぼえて、
「あが君、御心に従ふことのたぐひなければこそ、かくまでかたくなしくなりはべれ。言ひ知らず憎く疎ましきものに思しなすめれば、聞こえむ方なし。いとど世に跡とむべくなむおぼえぬ」とて、「さらば、隔てながらも、聞こえさせむ。ひたぶるに、なうち捨てさせたまひそ」
とて、許したてまつりたまへれば、這ひ入りて、さすがに、入りも果てたまはぬを、いとあはれと思ひて、
「かばかりの御けはひを慰めにて、明かしはべらむ。ゆめ、ゆめ」
と聞こえて、うちもまどろまず、いとどしき水の音に目も覚めて、夜半のあらしに、山鳥の心地して、明かしかねたまふ
「もうどうしようもありません。お詫びは。何度でもさせていただきます。抓りあげでもしてください。身分の高い方に心を寄せているようですが、宿世というものは、思い通りにならないものでして、匂宮は別の方に執心されていますので、お気の毒に存じますが、思いの叶わぬこの身こそ、置き所もなくつらいです。
もうどうにもならないとあきらめてください。この障子にいかに固く鍵をしても、本当に二人の仲が潔白だと思う人はいないでしょう。 匂宮も、まさかわたしがこう胸が塞がって夜明かししているとは思わないでしょう」
と言って、障子を引き破らんばかりの気色なので、言いようもなく不愉快だが、なだめすかそうと気を静めて、
「仰る宿世というもの、目にも見えぬので、何ともわたしには見当がつきません。知らぬ涙のみ目の前をふさぐ心地して、わたしたちをどうなさるおつもりかと夢のようでとても信じられませんので、後の世に例に言い出す人がいれば、昔物語などで、馬鹿げた者として物笑いになる見本となりそうです。こうまで企んだお気持ちは、匂宮もどういうおつもりかとご推察されるでしょう。
どうぞ、こんなに恐ろしくつらい思いをさせて、あれこれ困らせないでください。思わずに生き永らえれば、少し気が静まってから話しましょう。気分も悪く、苦しいので、ここで休みたい。お手を放してください」
と、ひどくつらそうにするので、さすがに筋が通っている話をするので、こちらが気恥ずかしくいじらしく覚えて、
「お聞きください。御心に全く従いますので、わたしはこれほど馬鹿者になります。言い尽くせぬほど憎く疎ましいと、お思いのようですから、もう言いません。この世に生きてゆく気もなくなりました」とて、「それでは、隔てがあっても、申し上げましょう。わたしを見限らないでください」
と言って、袖を放すと、奥へ入って、さすがに、全部入りきらない間に、たいそうあわれと思って、
「この気配を慰めにして、明かします。ゆめ、無体なことは」
と言って、うとうともせず、はげしい瀬音に目も覚めて、夜半の嵐の中を、山鳥の心地して、夜を明かしたのだった。2020.10.21◎
47.21 薫、再び実事なく夜を明かす
例の、明け行くけはひに、鐘の声など聞こゆ。「いぎたなくて出でたまふべきけしきもなきよ」と、心やましく、声づくりたまふも、げにあやしきわざなり。
しるべせし我やかへりて惑ふべき
心もゆかぬ明けぐれの道

かかる例、世にありけむや」
とのたまへば、
かたがたにくらす心を思ひやれ
人やりならぬ道に惑はば

と、ほのかにのたまふを、いと飽かぬ心地すれば、
「いかに、こよなく隔たりてはべるめれば、いとわりなうこそ」
など、よろづに怨みつつ、ほのぼのと明けゆくほどに、昨夜の方より出でたまふなり。いとやはらかに振る舞ひなしたまへる匂ひなど、艶なる御心げさうには、言ひ知らずしめたまへり。ねび人どもは、いとあやしく心得がたく思ひ惑はれけれど、「さりとも悪しざまなる御心あらむやは」と慰めたり。
暗きほどにと、急ぎ帰りたまふ。道のほども、帰るさはいとはるけく思されて、心安くもえ行き通はざらむことの、かねていと苦しきを、「夜をや隔てむ」と思ひ悩みたまふなめり。まだ人騒がしからぬ朝のほどにおはし着きぬ。廊に御車寄せて降りたまふ。異やうなる女車のさまして隠ろへ入りたまふに、皆笑ひたまひて、
おろかならぬ宮仕への御心ざしとなむ思ひたまふる
と申したまふ。しるべのをこがましさも、いと妬くて、愁へもきこえたまはず。
この前のように、明けてゆ朝の気配のなかで、鐘の音などが聞こえる。「匂宮は、ぐっすり寝込んで起きてきそうにない」と、薫は妬ましく、咳払いをするがおかしなことである。
{「案内したわたしが逆に道に迷ったのか
満ち足りない気持ちの暗い明け方の道で
こんな例があったでしょうか」
と言えば、
「あれこれと悩む私の心も思いやってください
自分勝手に道に迷って嘆かずに」
と小さな声で言うのを、諦めきれぬ思いで、
「何とも、隔てられていますので、とてもたまらない気持ちです」
などと、恨みながら、ほのぼのと明けてゆくほどに、昨夜入った戸口から出た。たいそうしなやかな所作をして匂う香りなど、艶のあるつくろいは、言いようもなくすばらしい。老女たちは、どうも変な具合だと、合点がいかなかったが、「いくら何でも悪いようにはしないだろう」と慰めている。
夜の明けぬうちにと急いで帰途についた。帰りの道中、匂宮は、気軽に通えそうもないので、今からたいそうつらいので、「一夜も逢わずにいられようか」思い悩むのだった。まだ人が起きない朝のうちに六条院に着いた。廓に車を寄せて降りた。女車の様にして、こっそり隠れて入ったので、二人で笑って、
「並々ならぬご奉仕ぶりと思いますが」
と申し上げる。案内役が馬鹿らしくて、しゃくなので、愚痴も出ない。2020.10.22◎
47.22 匂宮、中の君へ後朝の文を書く
宮は、いつしかと御文たてまつりたまふ。山里には、誰も誰もうつつの心地したまはず、思ひ乱れたまへり。「さまざまに思し構へけるを、色にも出だしたまはざりけるよ」と、疎ましくつらく、姉宮をば思ひきこえたまひて、目も見合はせたてまつりたまはず。知らざりしさまをも、さはさはとは、えあきらめたまはで、ことわりに心苦しく思ひきこえたまふ。
人びとも、「いかにはべりしことにか」など、御けしき見たてまつれど、思しほれたるやうにて、頼もし人のおはすれば、「あやしきわざかな」と思ひあへり。御文もひき解きて見せたてまつりたまへど、さらに起き上がりたまはねば、「いと久しくなりぬ」と御使わびけり。
世の常に思ひやすらむ露深き
道の笹原分けて来つるも

書き馴れたまへる墨つきなどの、ことさらに艶なるも、おほかたにつけて見たまひしは、をかしくおぼえしを、うしろめたくもの思はしくて、我さかし人にて聞こえむも、いとつつましければ、まめやかに、あるべきやうを、いみじくせめて書かせたてまつりたまふ。
紫苑しおん色の細長一襲に、三重襲の袴具して賜ふ。御使苦しげに思ひたれば、包ませて、供なる人になむ贈らせたまふ。ことことしき御使にもあらず、例たてまつれたまふ上童なり。ことさらに、人にけしき漏らさじと思しければ、「昨夜のさかしがりし老い人のしわざなりけり」と、ものしくなむ、聞こしめしける。
匂宮はさっそく文を遣わせた。山里では、本当にあったことと信じられず、二人は思い悩んでいた。「様々な企みをはされて、顔色一つ変えない」と中の君は、いやなひどい方と姉君のことを思って、目も合わせない。姉君としては自分がはっきり知らなかったことなので、説明もできず、妹が不満に思うのも無理もない、と心苦しく思うのだった。
女房たちも、「どういうことだったのでしょう」などと、それとなくお伺いするが、大君が、ぼんやり気がぬけたようになっているので、「おかしな具合だこと」と思い合のだった。文も開けて見せたが、中の君は、起き上がれず、「返事は手間取ります」と文遣いに詫びた。
「世の常の恋とお思いでしょうか
山路の笹原を踏み分けて来ましたものを」
書きなれた墨つきが、ことさら風情があったが、ただ風情があって趣があるでは、かえってそれが心配で気がかりでならないので、自分が出しゃばって返事を出すのも、気がひけるので、一生懸命、この際取るべき作法を、言い聞かせて返事を書かせたのだった。
紫苑しおん色の細長一襲に、三重襲の袴をつけて与える。使者が迷惑そうにしているので、包ませて供の者に与えた。改まった後朝の遣いではなく、いつも差し向ける上童である。わざわざ邸の人に気づかれまいと思っていたので、匂宮は、「昨夜の出しゃばり老女のしわざ」と解する。2020.10.22◎
47.23 匂宮と中の君、結婚第二夜
その夜も、かのしるべ誘ひたまへど、「冷泉院にかならずさぶらふべきことはべれば」とて、とまりたまひぬ。「例の、ことに触れて、すさまじげに世をもてなす」と、憎く思す。
「いかがはせむ。本意ならざりしこととて、おろかにやは」と思ひ弱りたまひて、御しつらひなどうちあはぬ住み処なれど、さる方にをかしくしなして待ちきこえたまひけり。はるかなる御中道を、急ぎおはしましたりけるも、うれしきわざなるぞ、かつはあやしき。
正身は、我にもあらぬさまにて、つくろはれたてまつりたまふままに、濃き御衣のいたく濡るれば、さかし人もうち泣きたまひつつ、
「世の中に久しくもとおぼえはべらねば、明け暮れのながめにも、ただ御ことをのみなむ、心苦しく思ひきこゆるに、この人びとも、よかるべきさまのことと、聞きにくきまで言ひ知らすめれば、年経たる心どもには、さりとも、世のことわりをも知りたらむ。
はかばかしくもあらぬ心一つを立てて、かくてのみやは、見たてまつらむ、と思ひなるやうもありしかど、ただ今かく、思ひもあへず、恥づかしきことどもに乱れ思ふべくは、さらに思ひかけはべらざりしに、これや、げに、人の言ふめる逃れがたき御契りなりけむ。いとこそ、苦しけれ。すこし思し慰みなむに、知らざりしさまをも聞こえむ。憎しと、な思し入りそ。罪もぞ得たまふ」
と、御髪をなでつくろひつつ聞こえたまへば、いらへもしたまはねど、さすがに、かく思しのたまふが、げに、うしろめたく悪しかれとも思しおきてじを、人笑へに見苦しきこと添ひて、見扱はれたてまつらむがいみじさを、よろづに思ひゐたまへり。
さる心もなく、あきれたまへりしけはひだに、なべてならずをかしかりしを、まいてすこし世の常になよびたまへるは、御心ざしもまさるに、たはやすく通ひたまはざらむ山道のはるけさも、胸痛きまで思して、心深げに語らひ頼めたまへど、あはれともいかにとも思ひ分きたまはず。
言ひ知らずかしづくものの姫君も、すこし世の常の人げ近く、親せうとなどいひつつ、人のたたずまひをも見馴れたまへるは、ものの恥づかしさも、恐ろしさもなのめにやあらむ。家にあがめきこゆる人こそなけれ、かく山深き御あたりなれば、人に遠く、もの深くてならひたまへる心地に、思ひかけぬありさまの、つつましく恥づかしく、何ごとも世の人に似ず、あやしく田舎びたらむかし。はかなき御いらへにても言ひ出でむ方なくつつみたまへり。さるは、この君しもぞ、らうらうじくかどある方の匂ひはまさりたまへる。
二日目の夜も、案内を頼んだが、薫は、「冷泉院にぜひお伺いせねばならぬことがありますので」とて、京に残った。またまた、薫は女に気のなさそうにする、と憎く思う。
「仕方ない。願っていなかったことだからといって、おろそかにできようか」と思って、しつらいなど不足がちな住まいだが、それなりに整えて大君は待っていた。はるか遠くからの道中を、匂宮が、急いでやって来たのは、うれしかった、思えば不思議なこと、
ご本人の中の君は、茫然として、着飾りされるままに、濃い衣が涙に濡れるのを、大君も泣きながらつくろいして、
「わたしはこの世に久しく生いける気もしないので、明け暮れの思いも、あなたのことをのみ心配していましたが、女房たちも、きっと似合いのご縁と口々に申しますので、年寄りの意見には、世間の道理も分かっているでしょう。
頼りにもならぬわたし独りが言い張って、こうしてあなたを独り身のままにさせていいのかと、考えるようになりましが、ただ今思いもかけず身も縮む思いに心を乱すようになるとは思っていなかったが、これが本当に人のよく言う前世の因縁だったのでしょう、たまらなくつらいです。少し気持ちがおさまった頃に、わたしが何も知らなかった事情をお話しましょう。わたしが憎いと思わないで、罪になりますよ」
と髪をとかしながら言うと、中の君は、何も言わなかったが、さすがに姉上がこう思っているのは、行く末心配で悪しかれと思ってやっているわけではないので、世間の笑い者になるようなことが起こって、世話をかけるようなことになってはいけない、とあれこれ思う。
匂宮は、そうとも知らず、中の君がびっくりしている様子や、並々ならず心そそるので、まして今夜は少し女らしい風情でいられるのは、愛着もいっそう増すにつけ、たやすくは通えない山道の遠さも、匂宮は胸が痛くなり、真心こめて約束されるが、中の君はうれしいとも何とも分からない。
言いようもなく大事にされて育った大家の御姫様でも、少し世の中の人にも接し、親兄弟など、人の振舞いを見馴れてしまえば、何が気おくれするといっても怖いといっても、それほどのことはないであろう。このような山深い住まいなので、人は来ず、引き籠ってひっそり育ったので、思ってもいなかった昨夜の出来事は、気まり悪く気がひけて、何ごとも世間の人と違って、変で田舎じみていることだろう。ほんのささいな答えでも口の利きようもなく、遠慮している。とはいえ、この中の君こそ、姉君より才気があった。2020.10.23◎
47.24 匂宮と中の君、結婚第三夜
「三日にあたる夜、餅なむ参る」と人びとの聞こゆれば、「ことさらにさるべき祝ひのことにこそは」と思して、御前にてせさせたまふも、たどたどしく、かつは大人になりておきてたまふも、人の見るらむこと憚られて、面うち赤めておはするさま、いとをかしげなり。このかみ心にや、のどかに気高きものから、人のためあはれに情け情けしくぞおはしける。
中納言殿より、
「昨夜、参らむと思たまへしかど、宮仕への労も、しるしなげなる世に、思たまへ恨みてなむ。
今宵は雑役もやと思うたまふれど、宿直所のはしたなげにはべりし乱り心地、いとど安からで、やすらはれはべり」
と、陸奥紙におひつぎ書きたまひて、まうけのものども、こまやかに、縫ひなどもせざりける、いろいろおし巻きなどしつつ、御衣櫃あまた懸籠入れて、老い人のもとに、「人びとの料に」とて賜へり。宮の御方にさぶらひけるに従ひて、いと多くもえ取り集めたまはざりけるにやあらむ、ただなる絹綾など、下には入れ隠しつつ、御料とおぼしき二領。いときよらにしたるを、単衣の御衣の袖に、古代のことなれど、
小夜衣着て馴れきとは言はずとも
かことばかりはかけずしもあらじ

と、脅しきこえたまへり。
こなたかなた、ゆかしげなき御ことを、恥づかしくいとど見たまひて、御返りにもいかがは聞こえむと、思しわづらふほど、御使かたへは、逃げ隠れにけり。あやしき下人をひかへてぞ、御返り賜ふ。
隔てなき心ばかりは通ふとも
馴れし袖とはかけじとぞ思ふ

心あわたたしく思ひ乱れたまへる名残に、いとどなほなほしきを、思しけるままと、待ち見たまふ人は、ただあはれにぞ思ひなされたまふ。
「三日にあたる夜は、餅を召し上がります」と女房たちが言うので、「特別な祝いをするのだ」と大君は思って、御前にて餅をつくらせたが、 よく分からず、また一方親代わりということで、女房たちにどう見られているかも気になって、面を赤らめることばかりで、とても女らしい。この姉さん気質は、おっとりして上品だったので、他人に対しては情け深いのだった。
中納言(薫)から「文があった。
「昨夜はお伺いしようと思いましたが、せっかくご奉仕しても、甲斐なき様なので、恨めしく思います。
今宵は雑用でもお勤めしようと思いましたが、昨夜の宿直所のすげない扱いに気分もすぐれず、良くならずぐずぐずしております」
と、陸奥紙にきちんと行をそろえて書いて、今夜の支度の品々を、丁寧に縫ったりせずに色とりどりの反物にまいて、衣櫃にたくさん入れて、弁ぼもとに、「女房たちの着料」にと賜った。宮(母三の宮)の手許にある有り合わせのものを、わずかながらも取り集めて、染めていない絹綾など下に入れ隠して、姫たちのお召し物と知れるのは二揃い。美しく仕立ててあるのを、単衣の袖に、古風なやり方であるが、
[「夜着を着て馴れ親しんだとは言いませんが
深い間柄と分かる言葉をかけるかもしれません」
とおどすように言うのだった。
大君は、二人とも姿を見られて奥ゆかしくもなくなったのを、恥ずかしく思って、この返事をどうしようと思案にくれているので、文遣いの一部は逃げ帰ってしまった。下人を引き止めて、返事を賜った。
「隔てなく心のお付き合いをさせていただいておりますが、
馴染みを重ねた仲とは仰らないでください」
気がせいて思い乱れている様子が、はっきり何の趣向もなく、思ったまま現れている、と薫は見てただあわれと思うのだった。2020.10.24◎
47.25 明石中宮、匂宮の外出を諌める
宮は、その夜、内裏に参りたまひて、えまかでたまふまじげなるを、人知れず御心も空にて思し嘆きたるに、中宮、
「なほ、かく独りおはしまして、世の中に、好いたまへる御名のやうやう聞こゆる、なほ、いと悪しきことなり。何事ももの好ましく、立てたる御心なつかひたまひそ。上もうしろめたげに思しのたまふ」
と、里住みがちにおはしますを諌めきこえたまへば、いと苦しと思して、御宿直所に出でたまひて、御文書きてたてまつれたまへる名残も、いたくうち眺めておはしますに、中納言の君参りたまへり。
そなたの心寄せと思せば、例よりもうれしくて
「いかがすべき。いとかく暗くなりぬめるを、心も乱れてなむ」
と、嘆かしげに思したり。「よく御けしきを見たてまつらむ」と思して、
「日ごろ経て、かく参りたまへるを、今宵さぶらはせたまはで、急ぎまかでたまひなむ、いとどよろしからぬことにや思しきこえさせたまはむ。台盤所の方にて承りつれば、人知れず、わづらはしき宮仕へのしるしに、あいなき勘当にやはべらむと、顔の色違ひはべりつる」
と申したまへば、
「いと聞きにくくぞ思しのたまふや。多くは人のとりなすことなるべし。世に咎めあるばかりの心は、何事にかは、つかふらむ。所狭き身のほどこそ、なかなかなるわざなりけれ」
とて、まことに厭はしくさへ思したり。
いとほしく見たてまつりたまひて、
「同じ御騒がれにこそはおはすなれ。今宵の罪には代はりきこえさせて、身をもいたづらになしはべりなむかし。木幡の山に馬はいかがはべるべき。いとどものの聞こえや障り所なからむ
と聞こえたまへば、ただ暮れに暮れて更けにける夜なれば、思しわびて、御馬にて出でたまひぬ。
「御供には、なかなか仕うまつらじ。御後見を」
とて、この君は内裏にさぶらひたまふ。
宮(匂宮)は、その夜、内裏に参ったところ、すぐ退出できそうにない雰囲気なので、心も上の空で嘆いていると、中宮(明石の中宮)が、
「未だそうして独り身では、世間では好き者の噂も立ってきます。それはいけません。何ごとも風流の度が過ぎて、自分の好みを通そうとするのはいけません。帝もご心配してお小言を仰せです」
と、里住みがちなのを誡めて言うので、とても困って、宿直所に行って、宇治への文を書いて遣った後も、物思いに沈んでいるところに、中納言(薫)がやって来た。
匂宮が宇治に好意を寄せてると思うと、いつもよりうれしく感じて、
「どうしたらよいか。もうこんなに暗くなって、気が気じゃない」
と、嘆くのだった。「とくと宮のお気持ちを確かめよう」と思って、
「何日振りかで、参内されたのに、今夜伺候なさらないで、急いで帰っては、いよいよおもしろからぬことと中宮が思われるでしょう。台盤所で聞いたのですが、ひそかに、厄介な御用を勤めたかどで、受けずによいお叱りを受けるかもしれない、と青くなりました」
と申し上げると、
「まことに、聞きにくいことを仰る。大方は、人の告げ口でしょう。世間に非難されるような料簡は、どうして起こそうか。たいそうな身分など、かえってない方がいい」
とて、心から高い身分を厭わしいと思った。
薫は、お気の毒に思いながら、
「どちらにしても、中宮の不満は免れないでしょう。今宵のお咎めはわたしが代わりに受けまして、身を無きものにしてお仕えします。馬で行ってはどうでしょう。世間の目がもっとうるさいでしょうが」
と申し上げれば、すっかり日が暮れて夜も更けたので、思い余って、馬で出かけた。
「お供はできませんが。後の始末をしますので」
と言って、薫は内裏に伺候した。2020.10.25◎
47.26 薫、明石中宮に対面
中宮の御方に参りたまひつれば、
「宮は出でたまひぬなり。あさましくいとほしき御さまかな。いかに人見たてまつるらむ。上聞こし召しては、諌めきこえぬが言ふかひなき、と思しのたまふこそわりなけれ」
とのたまふ。あまた宮たちの、かくおとなび整ひたまへど、大宮は、いよいよ若くをかしきけはひなむ、まさりたまひける。
「女一の宮も、かくぞおはしますべかめる。いかならむ折に、かばかりにてももの近く、御声をだに聞きたてまつらむ」と、あはれとおぼゆ。「好いたる人の、おぼゆまじき心つかふらむも、かうやうなる御仲らひの、さすがに気遠からず入り立ちて、心にかなはぬ折のことならむかし。」
わが心のやうに、ひがひがしき心のたぐひやは、また世にあんべかめる。それに、なほ動きそめぬるあたりは、えこそ思ひ絶えね」
など思ひゐたまへる。さぶらふ限りの女房の容貌心ざま、いづれとなく悪ろびたるなく、めやすくとりどりにをかしきなかに、あてにすぐれて目にとまるあれど、さらにさらに乱れそめじの心にて、いときすくにもてなしたまへり。ことさらに見えしらがふ人もあり。
おほかた恥づかしげに、もてしづめたまへるあたりなれば、上べこそ心ばかりもてしづめたれ、心々なる世の中なりければ、色めかしげにすすみたる下の心漏りて見ゆるもあるを、「さまざまにをかしくも、あはれにもあるかな」と、立ちてもゐても、ただ常なきありさまを思ひありきたまふ。
薫は、中宮の御前に参上して、
「宮は出かけました。あきれてものも言えない困ったものだ。人が見て何というだろう。帝がお聞きになって、わたしが諫めないのがいけないのだ、と思って仰せになるのが困ります」
と中宮が仰せになる。たくさんの宮たちが、このように立派に成人したが、大宮(中宮)はますます若く美しいのは以前に増している。
「女一の宮も、このように美しいのだろう。何かの機会に、このような物越しでもいいから近くで、声だけでも聞いてみたいものだ」と、切ない気持ちになる。「好色な男が、けしからぬ料簡を起こすのも、このような間柄で、他人行儀ではなく出入りができて、思いが叶わない時なのだろう。
わたしのように偏屈な性分の男はまたとあろうか。それなのに、やはりいったん心惹かれた人のことは、とても思い切れないのだ」
などと薫は思う。中宮に仕える女房たちの容貌は、どれも悪いはずはなく、無難でそれぞれに美しく、たいそう上品で目に留まる者もいるが、ゆめゆめ女に心を動かされないと決意して、真面目な態度で接していた。わざと気を引いて見せる女もあった。
大体が気おくれするほど静かにお暮しの所なので、女房たちは表面は主家の気風に合わせてお淑やかにしているが、人それぞれの心があって、色めかした下心が見えるのもいるし、「それぞれにいとおしくも、あわれにも思える」と、立ち居につけ、世の無常を思うのであった。2020.10.25◎
47.27 女房たちと大君の思い
かしこには、中納言殿のことことしげに言ひなしたまへりつるを、夜更くるまでおはしまさで、御文のあるを、「さればよ」と胸つぶれておはするに、夜中近くなりて、荒ましき風のきほひに、いともなまめかしくきよらにて匂ひおはしたるも、いかがおろかにおぼえたまはむ。
正身も、いささかうちなびきて、思ひ知りたまふことあるべし。いみじくをかしげに盛りと見えて、引きつくろひたまへるさまは、「ましてたぐひあらじはや」とおぼゆ。
さばかりよき人を多く見たまふ御目にだに、けしうはあらずと、容貌よりはじめて、多く近まさりしたりと思さるれば、山里の老い人どもは、まして口つき憎げにうち笑みつつ、
「かくあたらしき御ありさまを、なのめなる際の人の見たてまつりたまはましかば、いかに口惜しからまし。思ふやうなる御宿世」
と聞こえつつ、姫宮の御心を、あやしくひがひがしくもてなしたまふを、もどき口ひそみきこゆ。
盛り過ぎたるさまどもに、あざやかなる花の色々、似つかはしからぬをさし縫ひつつ、ありつかずとりつくろひたる姿どもの、罪許されたるもなきを見わたされたまひて、姫宮、
「我もやうやう盛り過ぎぬる身ぞかし。鏡を見れば、痩せ痩せになりもてゆく。おのがじしは、この人どもも、我悪しとやは思へる。うしろでは知らず顔に、額髪をひきかけつつ、色どりたる顔づくりをよくしてうち振る舞ふめり。わが身にては、まだいとあれがほどにはあらず。目も鼻も直しとおぼゆるは、心のなしにやあらむ」
とうしろめたくて、見出だして臥したまへり。「恥づかしげならむ人に見えむことは、いよいよかたはらいたく、今一二年あらば、衰へまさりなむ。はかなげなる身のありさまを」と、御手つきの細やかにか弱く、あはれなるをさし出でても、世の中を思ひ続けたまふ。
宇治では、中納言殿(薫)の大げさな調子の文があったが、夜更けまで来れないとの文があったので、「やっぱり」と大君は胸つぶれるような気持ちでいると、夜中になって、荒々しい風に競うように、何とも優雅で美しく匂いを放って、どうしていい加減なことと思われよう。
中の君も、少しうちとけて、思い知ることもあるようだ。とても美しく今が盛りと見えて、着飾っている姿は、「まったく比べるものがない」と思うのだった。
あれほど美しい人をたくさん見ている匂宮の目にも、悪くはない、近くで見るほど良いと思われ、山里の老い女房たちは、いよいよかわい気なく有頂天になるのだった。
「こんなにもったいないほどの器量で、相手が並みの身分の人だったら、どんなに悔しかったろう。理想的な宿世だ」
と口々に女房たちは言って、大君が薫になびかないのを、悪しざまに言うのだった。
盛りを過ぎた女房たちが、色とりどりの衣装の、似合わないのを仕立てて、身につかずにとりつくろった姿に、これならと我慢できそうなものもいないまわりの光景に、大君は、
「わたしも盛りを過ぎた身だ。鏡を見れば、だんだん痩せてゆく。めいめいはこの老女たちも、自分が醜いとは思っていようか。後ろ姿は知らぬげに、額髪を分けて頬に垂らし、紅おしろいを塗った化粧に念を入れている。わが身では、あれほど見苦しくはないだろう、目鼻立ちも尋常だと思われるのは、うのぼれではないだろう」
と気になって庭をみやって横になっている。気おくれするような立派な人に添うことは、いよいよきまりが悪く、後一二年たてば衰えが進むだろう、長生きできそうにないわたしの身体の具合では、手を出して細く弱弱しく、あわれなのも、薫とのことを思うのであった。2020.10.25◎
47.28 匂宮と中の君、朝ぼらけの宇治川を見る
宮は、ありがたかりつる御暇のほどを思しめぐらすに、「なほ、心やすかるまじきことにこそは」と、胸ふたがりておぼえたまひけり。大宮の聞こえたまひしさまなど語りきこえたまひて、
「思ひながらとだえあらむを、いかなるにか、と思すな。夢にてもおろかならむに、かくまでも参り来まじきを。心のほどやいかがと疑ひて、思ひ乱れたまはむが心苦しさに、身を捨ててなむ。常にかくはえ惑ひありかじ。さるべきさまにて、近く渡したてまつらむ」
と、いと深く聞こえたまへど、「絶え間あるべく思さるらむは、音に聞きし御心のほどしるべきにや」と心おかれて、わが御ありさまから、さまざまもの嘆かしくてなむありける。
明け行くほどの空に、妻戸押し開けたまひて、もろともに誘ひ出でて見たまへば、霧りわたれるさま、所からのあはれ多く添ひて、例の、柴積む舟のかすかに行き交ふ跡の白波、「目馴れずもある住まひのさまかな」と、色なる御心には、をかしく思しなさる。
山の端の光やうやう見ゆるに、女君の御容貌のまほにうつくしげにて、「限りなくいつき据ゑたらむ姫宮も、かばかりこそはおはすべかめれ。思ひなしの、わが方ざまのいといつくしきぞかし。こまやかなる匂ひなど、うちとけて見まほしく」、なかなかなる心地す。
水の音なひなつかしからず、宇治橋のいともの古りて見えわたさるるなど、霧晴れゆけば、いとど荒ましき岸のわたりを、「かかる所に、いかで年を経たまふらむ」など、うち涙ぐみまれたまへるを、いと恥づかしと聞きたまふ。
男の御さまの、限りなくなまめかしくきよらにて、この世のみならず契り頼めきこえたまへば、「思ひ寄らざりしこととは思ひながら、なかなか、かの目馴れたりし中納言の恥づかしさよりは」とおぼえたまふ。
「かれは思ふ方異にて、いといたく澄みたるけしきの、見えにくく恥づかしげなりしに、よそに思ひきこえしは、ましてこよなくはるかに、一行書き出でたまふ御返り事だに、つつましくおぼえしを、久しく途絶えたまはむは、心細からむ」
と思ひならるるも、我ながらうたて、と思ひ知りたまふ。
宮(匂宮)は、なかなか困難な外出許可のことを思うと、「やはり、宇治に通ってくるのは気軽にできそうにない」と、胸ふさがる思いがする。大宮(明石中宮)がご意見した様子などを語って、
「心に思いながら来れない日もあろうが、どうしたものか、と案じるな。もしあなたを疎略に扱うのなら、こうして来ないでしょう。わたしの本心を疑って、悩むのはお気の毒で、後のことは顧みず来たのです。いつもは脱け出せないでしょう。用意をして近くに移りましょう」
と真心こめて言ったが、「途絶えることがあると思われるのは、噂に聞く浮気な心がのせいだろうか」と疑われて、自分の頼りない身の上を思うと、いろいろ不安であった。
明けゆく空に、妻戸を押し開けて、二人で一緒に誘い出て見ていると、霧がたって、山里らしい風情があって、例の、柴積む舟がかすかに行き交う跡の白波が、「あまり見たこともない住まいの有様だ」と多情な心には、趣ある様に思うのだった。
山の端の光がようやく見えるころに、女君の顔立ちが実に美しく、「この上なく大切にしている姫宮でも、これほどは美しくないだろう。気のせいで、わが身内の一の宮がとても立派に見える。目鼻立ちの美しさなどゆっくり見たい」かえってたまらない気持ちがする。
宇治川の水音は荒々しく、宇治橋がたいそう古びて見えるので、霧が晴れるにつれて、いよいよわびし気な岸のあたりを、「こんなに寂しい所でどうやって何年も暮らしたか」などと、涙ぐむのを、気恥ずかしく聞いているのだった。
男君の有様は、この上なく優雅で美しく、この世のみならず来世まで夫婦でいようとと誓うので、「思いがけないこととは思いながら、かえって、あの目馴れた中納言よりは気が置けない」と思うのだった。
「あの人は、わたしより姉君に心を寄せていて、ひどくとりすました態度だったのが、近づきにくく気づまりだったが、匂宮は噂で想像していた時は、はるかに手の届かぬ方で、一行のご返事でさえ書きにくく思ったのに、宮が久しく来なかったら心細いだろう」
と思うのも、我ながら嫌な気持ちと思うのであった。2020.10.26◎
47.29 匂宮と中の君和歌を詠み交して別れる
人びといたく声づくり催しきこゆれば、京におはしまさむほど、はしたなからぬほどにと、いと心あわたたしげにて、心より外ならむ夜がれを、返す返すのたまふ。
中絶えむものならなくに橋姫の
片敷く袖や夜半に濡らさむ

出でがてに、立ち返りつつやすらひたまふ。
絶えせじのわが頼みにや宇治橋の
遥けきなかを待ちわたるべき

言には出でねど、もの嘆かしき御けはひは、限りなく思されけり。
若き人の御心にしみぬべく、たぐひすくなげなる朝けの御姿を見送りて、名残とまれる御移り香なども、人知れずものあはれなるは、されたる御心かな。今朝ぞ、もののあやめ見ゆるほどにて、人びと覗きて見たてまつる。
「中納言殿は、なつかしく恥づかしげなるさまぞ、添ひたまへりける。思ひなしの、今ひと際にや、この御さまは、いとことに」
など、めできこゆ。
道すがら、心苦しかりつる御けしきを思し出でつつ、立ちも返りなまほしく、さま悪しきまで思せど、世の聞こえを忍びて帰らせたまふほどに、えたはやすくも紛れさせたまはず。
御文は明くる日ごとに、あまた返りづつたてまつらせたまふ。「おろかにはあらぬにや」と思ひながら、おぼつかなき日数の積もるを、「 いと心尽くしに見じと思ひしものを、身にまさりて心苦しくもあるかな」と、姫宮は思し嘆かるれど、いとどこの君の思ひ沈みたまはむにより、つれなくもてなして、「みづからだに、なほかかること思ひ加へじ」と、いよいよ深く思す。
中納言の君も、「待ち遠にぞ思すらむかし」と思ひやりて、我があやまちにいとほしくて、宮を聞こえおどろかしつつ、絶えず御けしきを見たまふに、いといたく思ほし入れたるさまなれば、さりともと、うしろやすかりけり。
お供の者たちが咳払いして帰りを促すので、京に出立するに、きまり悪い時刻にならないほどに、ひどく気がせいて、心にもなく 来れない時もあろうと、繰り返し言うのだった。
「仲が絶えたわけでもないのに
ひとり寝の夜を袖を濡らす時もありましょう」
立去り難く、引き返してはぐずぐずしている。
「仲が絶えないように私は信じて
来ないあなたをお待ちしなければならないのでしょうか」
口には出さないが、悲しそうな女君の気配は、いとおしいと思う。
若い女君の心にしみる、めったにない朝帰りの姿を見送って、名残りに留まる移り香も、人には言えぬ悲しいのは、女君はすでに感じているのだった。今朝は物の見分けもつく程なので、女房たちも見送る。
「中納言殿(薫)は、やさしく気おくれするほど立派ではある。気のせいか、いま一段と位が高いこの君は、格別でいらっしゃる」
などと、お褒めする。
道すがら、いじらしかった姫君の気色を思い出し、引き返したくなり、体裁が悪いほど恋しくなったが、世間の噂を気にして我慢して帰ったのだが、とても簡単には脱け出せない。
文は毎日書いて文遣いの持たせるが、「いい加減な気持ちではないらしい」と思いながら、日が経っていくので、「こんなに心底から心配するような目には会わせたくない。わが身のこと以上につらいものだ」と、大君は思い嘆くが、ますます中の君がふさぎ込んでいくので、「せめて自分の ことでは、このようなことはしまい」と、いよいよ深く決心するのであった。
中納言の君(薫)も、「宇治では待っていることだろう」と思いやって、我が責任を感じて、宮を促し申しながら、絶えず宮の気色を見ていると、たいそう思い入れた様子なので、それでも、大丈夫だと思うのであった。2020.10.26◎
47.30 九月十日、薫と匂宮、宇治へ行く
九月十日のほどなれば、野山のけしきも思ひやらるるに、時雨めきてかきくらし、空のむら雲恐ろしげなる夕暮、宮いとど静心なく眺めたまひて、いかにせむと、御心一つを出で立ちかねたまふ。折推し量りて、参りたまへり。「ふるの山里いかならむ」と、おどろかしきこえたまふ。いとうれしと思して、もろともに誘ひたまへば、例の、一つ御車にておはす。
分け入りたまふままにぞ、まいて眺めたまふらむ心のうち、いとど推し量られたまふ。道のほども、ただこのことの心苦しきを語らひきこえたまふ。
たそかれ時のいみじく心細げなるに、雨は冷やかにうちそそきて、秋果つるけしきのすごきに、うちしめり濡れたまへる匂ひどもは、世のものに似ず艶にて、うち連れたまへるを、山賤どもは、いかが心惑ひもせざらむ。
女ばら、日ごろうちつぶやきつる、名残なく笑みさかえつつ、御座ひきつくろひなどす。京に、さるべき所々に行き散りたる娘ども、姪だつ人、二、三人尋ね寄せて参らせたり。年ごろあなづりきこえける心浅き人びと、めづらかなる客人と思ひ驚きたり。
姫宮も、折うれしく思ひきこえたまふに、さかしら人の添ひたまへるぞ、恥づかしくもありぬべく、なまわづらはしく思へど、心ばへののどかにもの深くものしたまふを、「げに、人はかくはおはせざりけり」と見あはせたまふに、ありがたしと思ひ知らる。
九月十日ほどのころ、野山の気色も思いやられるのに、時雨めいて辺りは暗く、空のむら雲も恐ろし気な夕暮れ、匂宮は気もそぞろに物思わし気に、どうしようかと、独りでは出立しかねていた。ちょうどそんな折であろうと推測して、薫が参上した。「時雨ふる山里は」と気を引くいてあげる。匂宮は、うれしくなって、一緒に行くことになり、例によって、ひとつ車で出かけた。
野山を分け入っていくと、匂宮は、自分以上に物思いに沈んでいる中の君の心の内を、推し量るのであった。道々、ただ心苦しいこの気持ちを語るのだった。
黄昏時のたいそう心細い感じがして、雨は冷ややかに降り、秋も暮れの気色の寂しいものすごさに、湿って濡れた匂いは、この世のものに似ずうるわしく、連れ立っているのを、山がつどもは、どうしてうろたえぬことがあろうか。
女房たちは、日ごろぶつぶつ言っていた名残りさえなく、笑みを浮かべて、座をつくろいなどする。京にさるべき人々に仕えている娘たち、姪にあたる人、二、三人探し出してお仕えさせた。年頃、姫君たちを見くびっていた心浅い人々は、珍しい客人に驚いた。
大君も、こんな時雨の中をとうれしく思ったが、薫が一緒なので、いかにも気づまりなことでもあり、何となく厄介でもあり、薫は気立てがゆったりとして思慮深くいらっしゃるので、「なるほど、宮はこのようではおいででない」と見比べられると、めったにない方だと思い知られる。 2020.10,27◎
47.31 薫、大君に対面、実事なく朝を迎える
宮を、所につけては、いとことにかしづき入れたてまつりて、この君は、主人方に心やすくもてなしたまふものから、まだ客人居のかりそめなる方に出だし放ちたまへれば、いとからしと思ひたまへり。怨みたまふもさすがにいとほしくて、物越に対面したまふ。
「戯れにくくもあるかな。かくてのみや」と、いみじく怨みきこえたまふ。やうやうことわり知りたまひにたれど、人の御上にても、ものをいみじく思ひ沈みたまひて、いとどかかる方を憂きものに思ひ果てて、
「なほ、ひたぶるに、いかでかくうちとけじ。あはれと思ふ人の御心も、かならずつらしと思ひぬべきわざにこそあめれ。我も人も見おとさず、心違はでやみにしがな」
と思ふ心づかひ深くしたまへり。
宮の御ありさまなども問ひきこえたまへば、かすめつつ、「さればよ」とおぼしくのたまへば、いとほしくて、思したる御さま、けしきを見ありくやうなど、語りきこえたまふ。
例よりは心うつくしく語らひて、
「なほ、かくもの思ひ加ふるほど、すこし心地も静まりて聞こえむ」
とのたまふ。人憎く気遠くは、もて離れぬものから、「障子の固めもいと強し。しひて破らむをば、つらくいみじからむ」と思したれば、「思さるるやうこそはあらめ。軽々しく異ざまになびきたまふこと、はた、世にあらじ」と、心のどかなる人は、さいへど、いとよく思ひ静めたまふ。
「ただ、いとおぼつかなく、もの隔てたるなむ、胸あかぬ心地するを。ありしやうにて聞こえむ」
とせめたまへど、
「常よりもわが面影に恥づるころなれば、疎ましと見たまひてむも、さすがに苦しきは、いかなるにか」
と、ほのかにうち笑ひたまへるけはひなど、あやしくなつかしくおぼゆ。
「かかる御心にたゆめられたてまつりて、つひにいかになるべき身にか」
と嘆きがちにて、例の、遠山鳥にて明けぬ。
宮は、まだ旅寝なるらむとも思さで、
「中納言の、主人方に心のどかなるけしきこそうらやましけれ」
とのたまへば、女君、あやしと聞きたまふ。
宮(匂宮)を、山里なりに丁重にもてなして招き入れ、薫の方は、主人側として内輪の気安いお扱いというものの、客人扱いで遠ざけているので、たいそうつらいと思うのだった。恨み言を言うのもさすがにお気の毒で、物越しに対面する。
「冗談も言えません、こんな風では」と、恨みがましく言ってみる。大君はようやく世の道理を知ってきたが、中の君のことでも、ひどく物思いに沈んで、こんな結婚を憂きものに思い込んで、
やはり、一途に男君と会うことはやめよう。うれしいと思う人の心も、夫婦となればきっとつらい思いもするだろう。自分も相手もがっかりせずに、もとの気持ちを失わず通したいもの」
と深く決意するのだった。
薫が、匂宮の通う様子などを問うと、それと分かるように「やはりそうか」と大君が嘆いていた気色を示したので、お気の毒になり、匂宮のご執心の様子や、ご機嫌を伺ったことなど、語るのであった。
大君はいつもよりは隔てなくお話になって、
「物思いが重なりましたので、少し落ち着いてから話しましょう」
と言うのだった。憎らし気でよそよそしい態度ではなく、「襖もしっかり錠をしているので、ここで無理に入ったら、とても悲しがるだろう」と大君は思うだろうから、「何か考えがあるのだろう。軽々しく他の人になびくことは、あるまい」と、薫はじっと我慢して思いを静めるのだった。
「ただひどく頼りない、物を隔てて会うのは、胸の晴れない心地がします。いつぞやのように話できたら」
とせがむが、
「いつもより鑑に映る顔が恥ずかしいので、疎ましく見られては、やはりつらいのです」
と、ほのかに笑う大君の気配は、えも言われずいっそう慕わしく思われる。
「こうして油断させられて、終いにはこの身はどうなってしまうのだろう」
と嘆きがちに、例によって、遠山鳥のように別々に朝を迎えた。
宮は、薫が独り寝とは知らず、
「中納言は、主人風にしてゆったり構えているのがうらやましい」
と言うので、中の君はおかしいと聞いている。2020.10.28◎
47.32 匂宮、中の君を重んじる
わりなくておはしまして、ほどなく帰りたまふが、飽かず苦しきに、宮ものをいみじく思したり。御心のうちを知りたまはねば、女方には、「またいかならむ。人笑へにや」と思ひ嘆きたまへば、「げに、心尽くしに苦しげなるわざかな」と見ゆ。
京にも、隠ろへて渡りたまふべき所もさすがになし。六条の院には、左の大殿、片つ方には住みたまひて、さばかりいかでと思したる六の君の御ことを思しよらぬに、なま恨めしと思ひきこえたまふべかめり。好き好きしき御さまと、許しなくそしりきこえたまひて、内裏わたりにも愁へきこえたまふべかめれば、いよいよ、おぼえなくて出だし据ゑたまはむも、憚ることいと多かり。
なべてに思す人の際は、宮仕への筋にて、なかなか心やすげなり。さやうの並々には思されず、「もし世の中移りて、帝后の思しおきつるままにもおはしまさば、人より高きさまにこそなさめ」など、ただ今は、いとはなやかに、心にかかりたまへるままに、もてなさむ方なく苦しかりけり。
中納言は、三条の宮造り果てて、「さるべきさまにて渡したてまつらむ」と思す。
げに、ただ人は心やすかりけり。かくいと心苦しき御けしきながら、やすからず忍びたまふからに、かたみに思ひ悩みたまへるふべかめるも、心苦しくて、「忍びてかく通ひたまふよしを、中宮などにも漏らし聞こし召させて、しばしの御騒がれはいとほしくとも、女方の御ためは、咎もあらじ。いとかく夜をだに明かしたまはぬ苦しげさよ。いみじくもてなしてあらせたてまつらばや」
など思ひて、あながちにも隠ろへず。
更衣ころもがえなど、はかばかしく誰れかは扱ふらむ」など思して、御帳の帷、壁代など、三条の宮造り果てて、渡りたまはむ心まうけに、しおかせたまへるを、「まづ、さるべき用なむ」など、いと忍びて聞こえたまひて、たてまつれたまふ。さまざまなる女房の装束、御乳母などにものたまひつつ、わざともせさせたまひけり。
無理して宇治に来て、すぐに帰るのは、物足りずつらいので、匂宮も何かと悩んでいる。そんな宮の心の内をご存じないので、姫君たちは、「世間の物笑いになるのか」と思って嘆くのだが、「大君は、なるほど気苦労が絶えないこと」と同情する。
京にも、中の君が隠れて住めるような邸もない。六条の院 には、左大臣の夕霧がその一隅に住み、あれほどぜひにと望んでいる六の君との縁組を匂宮は心にかけなかったので、いささか恨みに思っているようだ。浮気が過ぎる振舞いと、手厳しく非難されて、内裏にも愁訴しているので、いよいよもって、中の君のような意外な人を夫人として迎えるのも、憚るのことが多かった。
並々の女だと思うのなら、宮仕えをさせることで、かえって扱いやすい。しかし、中の君をその程度の相手とは思っていない。「もし御代が変わって帝や后が思いどおりにされたら、人より高い位につけてやろう」などと、今のところは、たいそうはなやかに、思いどおりにもてなすこともできない。
中納言(薫)は、三条の宮を造り替えて、「然るべき形で、こちらに移ってもらおう」と思っている。
ほんとうに臣下の身は気安いものだ。匂宮が、このようにおいたわしい気色なのに、人目を気にして忍んでいるのに、お互いに思い悩んでいるのもお気の毒で、「秘かにこうして通っているのを、中宮などに漏らして申し上げようか、一時騒がれるのはお気の毒ではあるが、姫君たちのためには問題もあるまい。ろくに夜を明かさずに帰るのはつらいだろう。十分立派にお世話して差し上げたいものだ」
などと、薫は思って、あえて隠そうともしない。
更衣ころもがえなど、誰がお世話するのだろう」などと思って、御帳の帳、壁代など、三条の宮を造って、引っ越しされる準備に、用意していたのを、「さしあたって必要だろう」など、こっそりお願いして宇治に贈るのだった。あれこれの女房の装束、乳母に相談して、わざわざ作らせるのだった。2020.10.29◎
47.33 十月朔日頃、匂宮、宇治に紅葉狩り
十月朔日ころ、網代もをかしきほどならむと、そそのかしきこえたまひて、紅葉御覧ずべく申したまふ。親しき宮人ども、殿上人の睦ましく思す限り、「いと忍びて」と思せど、所狭き御勢なれば、おのづからこと広ごりて、左の大殿の宰相中将参りたまふ。さては、この中納言殿ばかりぞ、上達部は仕うまつりたまふ。ただ人は多かり。
かしこには、「論なく、中宿りしたまはむを、さるべきさまに思せ。さきの春も、花見に尋ね参り来しこれかれ、かかるたよりにことよせて、時雨の紛れに見たてまつり表すやうもぞはべる」など、こまやかに聞こえたまへり。
御簾掛け替へ、ここかしこかき払ひ、岩隠れに積もれる紅葉の朽葉すこしはるけ、遣水の水草払はせなどぞしたまふ。よしあるくだもの、肴など、さるべき人などもたてまつれたまへり。かつはゆかしげなけれど、「いかがはせむ。これもさるべきにこそは」と思ひ許して、心まうけしたまへり。
舟にて上り下り、おもしろく遊びたまふも聞こゆ。ほのぼのありさま見ゆるを、そなたに立ち出でて、若き人びと見たてまつる。正身の御ありさまは、それと見わかねども、紅葉を葺きたる舟の飾りの、錦と見ゆるに、声々吹き出づる物の音ども、風につけておどろおどろしきまでおぼゆ。
世人のなびきかしづきたてまつるさま、かく忍びたまへる道にも、いとことにいつくしきを見たまふにも、「げに、七夕ばかりにても、かかる彦星の光をこそ待ち出でめ」とおぼえたり。
文作らせたまふべき心まうけに、博士などもさぶらひけり。たそかれ時に、御舟さし寄せて遊びつつ文作りたまふ。紅葉を薄く濃くかざして、「海仙楽」といふものを吹きて、おのおの心ゆきたるけしきなるに、宮は、近江の海の心地して、遠方人の恨みいかにとのみ、御心そらなり。時につけたる題出だして、うそぶき誦じあへり。
人の迷ひすこししづめておはせむと、中納言も思して、さるべきやうに聞こえたまふほどに、内裏より、中宮の仰せ言にて、宰相の御兄の衛門督、ことことしき随身ひき連れて、うるはしきさまして参りたまへり。かうやうの御ありきは、忍びたまふとすれど、おのづからこと広ごりて、後の例にもなるわざなるを、重々しき人数あまたもなくて、にはかにおはしましにけるを、聞こしめしおどろきて、殿上人あまた具して参りたるに、はしたなくなりぬ。宮も中納言も、苦しと思して、物の興もなくなりぬ。御心のうちをば知らず、酔ひ乱れ遊び明かしつ。
十月一日ころ、網代もちょうどよい頃だったので、薫は宇治行きを勧めて、紅葉もご覧をなれると申し上げた。親しい宮人や仲の良い者たちを連れて、「ごく内々に」と思ったが、いつのまにか大げさになって、左大臣(夕霧)の子の宰相中将も来ることになった。他は中納言(薫)だけ。上達部がお供を勤める。公卿以下の人は大勢いた。
宇治には、「きっとそちらに、中休みに一泊されましょうから、そのお積りで。去年の春も、花見にきた誰彼が、こんなついでにようどよい折と、時雨にかこつけて覗くかもしれませんから」などと、細かく申し上げた。
御簾を掛け替え、あちこちを掃除して、岩隠れに積もった紅葉の朽葉を取り除き、遣水の水草を払わせたりした。風情のある果物、肴など、手伝いの人も出した。何もかも薫の世話になるのは奥ゆかしくもないが、「仕方ない、これも前世の定だろう」と大君は諦めて、心の準備をした。
舟で上り下りして、楽器を演奏して遊ぶのが、聞こえてくる。川の見える方に出て行って、若い女房たちは見学している。匂宮ご本人の様子は、それと分からないが、紅葉でとりどりに飾った舟が、錦と見えるに、様々に吹く笛の音など。風にのって騒々しいまでに思われる。
世の人が宮のご威勢に服して下にも置かず大切にされている様子は、こんな微行の旅先でも、格別丁重にお扱いなさるのも、「いかにも七夕の光輝く彦星を一度はお迎えしたいものだ」と思うのだった。
漢詩を作る用意で、博士なども控えていた。夕暮れ時には、舟を岸に寄せて楽を奏でながら、漢詩を作った。紅葉を薄く濃く飾して、「海仙楽」を奏して、それぞれが楽しそうにしているのに、宮は、中の君に会えないので近江の海の心地して、対岸の人の恨みはいかに、と思って上の空だった。時節にふさわしい題をだして、吟じあった。
人々の騒ぎが少ししずまってからと、中納言も思って、そのような段取りを相談している時に、内裏の明石中宮からの仰せで、宰相の兄の衛門の督が大げさにも随身多数引き連れて着飾ってやって来た。このような外出は、内々であっても、ひとりでに広がって、後の例にもなってしまうので、 身軽な様子でにわかに出かけたと聞いて中宮が驚いて、衛門の督が殿上人を大勢連れて来たので、具合の悪いことになった。宮も中納言も困ってしまい、興もさめてしまった。宮の気持ちも知らず、酔い乱れて遊び明かすのだった。2020.10.29◎
47.34 一行、和歌を唱和する
今日は、かくてと思すに、また、宮の大夫、さらぬ殿上人など、あまたたてまつりたまへり。心あわたたしく口惜しくて、帰りたまはむそらなし。かしこには御文をぞたてまつれたまふ。をかしやかなることもなく、いとまめだちて、思しけることどもを、こまごまと書き続けたまへれど、「人目しげく騒がしからむに」とて、御返りなし。
「数ならぬありさまにては、めでたき御あたりに交じらはむ、かひなきわざかな」と、いとど思し知りたまふ。よそにて隔たる月日は、おぼつかなさもことわりに、さりともなど慰めたまふを、近きほどにののしりおはして、つれなく過ぎたまひなむ、つらくも口惜しくも思ひ乱れたまふ。
宮は、まして、いぶせくわりなしと思すこと、限りなし。網代の氷魚も心寄せたてまつりて、いろいろの木の葉にかきまぜもてあそぶを、下人などはいとをかしきことに思へれば、人に従ひつつ、心ゆく御ありきに、みづからの御心地は、胸のみつとふたがりて、空をのみ眺めたまふに、この古宮の梢は、いとことにおもしろく、常磐木にはひ混じれる蔦の色なども、もの深げに見えて、遠目さへすごげなるを、中納言の君も、「なかなか頼めきこえけるを、憂はしきわざかな」とおぼゆ。
去年の春、御供なりし君たちは、花の色を思ひ出でて、後れてここに眺めたまふらむ心細さを言ふ。かく忍び忍びに通ひたまふと、ほの聞きたるもあるべし。心知らぬも混じりて、おほかたにとやかくやと、人の御上は、かかる山隠れなれど、おのづから聞こゆるものなれば、
「いとをかしげにこそものしたまふなれ」
「箏の琴上手にて、故宮の明け暮れ遊びならはしたまひければ」
など、口々言ふ。
宰相の中将、
いつぞやも花の盛りに一目見し
木のもとさへや秋は寂しき

主人方と思ひて言へば、中納言、
桜こそ思ひ知らすれ咲き匂ふ
花も紅葉も常ならぬ世を

衛門督、
いづこより秋は行きけむ山里の
紅葉の蔭は過ぎ憂きものを

宮の大夫、
見し人もなき山里の岩垣に
心長くも這へる葛かな

中に老いしらひて、うち泣きたまふ。親王の若くおはしける世のことなど、思ひ出づるなめり。
宮、
秋はてて寂しさまさる木のもとを
吹きな過ぐしそ峰の松風

とて、いといたく涙ぐみたまへるを、ほのかに知る人は、
「げに、深く思すなりけり。今日のたよりを過ぐしたまふ心苦しさ」
と見たてまつる人あれど、ことことしく引き続きて、えおはしまし寄らず。作りける文のおもしろき所々うち誦じ、大和歌もことにつけて多かれど、かうやうの酔ひの紛れに、ましてはかばかしきことあらむやは。片端書きとどめてだに見苦しくなむ。
今日はこのままここに逗留と匂宮は思っていたが、中宮職の長官が、殿上人をたくさん引き連れて、迎えに来た。匂宮は、気が気でなく口惜しくて、帰る気がない。中の君には文を遣わした。風流めいた趣はなく、真面目に、思ったことを細々と書き続けたが、「人目が茂く騒がしいのだろうから」とて、中の君から返事はない。
「数ならぬ身で、結構なお方とお付き合いするなど、甲斐なきことだったのだ」と、中の君は身にしみて思い知った。遠くて逢えない月日は、仕方がないが、いつまでもこうではあるまいと自ら慰めていたが、こんな近くまで来て賑やかに騒いで、つれなく帰ってしまうのも、つらく口惜しいかった。
匂宮は、まして胸がふさがってたまらなくつらい。網代の氷魚も集まって来て、色とりどりの紅葉にのせて賞味するのを、下人などは趣あると興がっているので、匂宮は楽しんでいる皆に調子を合わせて、楽しそうにしている様子は、ご自身の気持ちは、胸が詰まって、空を仰いでばかりいて、この古い邸の梢は、ことに趣があり、常盤木にからまった蔦の色も、何やら奥深く、遠目にも物寂し気で、薫も、「宇治行きをお勧めしてかえってつらい思いをさせてしまった」と思うのだった。
去年の春、お供で来た君たちは、花の色を思い出し、父宮に先立たれてこれを眺める姫君たちの心細さを言う。匂宮が忍んで通っていると、小耳にはさんでいる者もいよう。中には事情を知らぬ者もいて、姫君たちの噂は、このような山奥でも、自ずから聞こえるものなれば、
「たいそうすばらしいお方たちでいられるそうだ」
「筝の琴が上手で、故父宮が明け暮れ奏していらっしゃった」
などと、口々に言う。
宰相の中将は、
「いつだったか花の盛りに一目見た子の
姫君たちも秋は寂しく暮らしているでしょうね」
薫を主方と思って詠みかけてくるので、中納言は、
「桜が教えてくれるでしょう咲き匂う
花も紅葉も世は無常だと」
衛門の督は、
「どこから秋は立去ったのか
山里の紅葉の蔭は立去り難いのに」
宮の大夫は、
「昔お会いした宮様も亡い山里の
岩垣に今も生えている葛なのか」
宮の太夫は年老いて、泣くのだった。八の宮の若い頃のことを思い出したのだった。
宮は、
「秋も去って寂しさがつのる木の下を
吹き過ぎないでくれ峰の松風よ」
と詠ってひどく涙ぐんでいるのを、少しでも事情を知る人は、
「心からご執心なのだ。この好機が無駄になったお気の毒さ」
と見る人がいるが、仰々しく車を引き連れていて、女君の所に寄れない。作った漢詩のおもしろい箇所を誦して、大和歌も多かったが、このような酔いの紛れの余興ですので、よいものができるはずもない。ほんの一部を書き留めましたが、見苦しいものです。2020.10.30◎
47.35 大君と中の君の思い
かしこには、過ぎたまひぬるけはひを、遠くなるまで聞こゆる前駆の声々、ただならずおぼえたまふ。心まうけしつる人びとも、いと口惜しと思へり。姫宮は、まして、
「なほ、音に聞く月草の色なる御心なりけり。ほのかに人の言ふを聞けば、男といふものは、虚言そらごとをこそいとよくすなれ。思はぬ人を思ふ顔にとりなす言の葉多かるものと、この人数ならぬ女ばらの、昔物語に言ふを、さるなほなほしきなかにこそは、けしからぬ心あるもまじるらめ。
何ごとも筋ことなる際になりぬれば、人の聞き思ふことつつましく、所狭かるべきものと思ひしは、さしもあるまじきわざなりけり。あだめきたまへるやうに、故宮も聞き伝へたまひて、かやうに気近きほどまでは、思し寄らざりしものを。あやしきまで心深げにのたまひわたり、思ひの外に見たてまつるにつけてさへ、身の憂さを思ひ添ふるが、あぢきなくもあるかな。
かく見劣りする御心を、かつはかの中納言も、いかに思ひたまふらむ。ここにもことに恥づかしげなる人はうち混じらねど、おのおの思ふらむが、人笑へにをこがましきこと」
と思ひ乱れたまふに、心地も違ひて、いと悩ましくおぼえたまふ。
正身そうじみは、たまさかに対面したまふ時、限りなく深きことを頼め契りたまひつれば、「さりとも、こよなうは思し変らじ」と、「おぼつかなきも、わりなき障りこそは、ものしたまふらめ」と、心のうちに思ひ慰めたまふかたあり。
ほど経にけるが思ひ焦れられたまはぬにしもあらぬに、なかなかにてうち過ぎたまひぬるを、つらくも口惜しくも思ほゆるに、いとどものあはれなり。忍びがたき御けしきなるを、
「人なみなみにもてなして、例の人めきたる住まひならば、かうやうに、もてなしたまふまじきを」
など、姉宮は、いとどしくあはれと見たてまつりたまふ。
山里の邸では、去ってゆく気配を、遠くなるまで聞こえる先払いの人々の声を、ただならず聞くのであった。心積りをしていた女房たちも、残念と思った。まして大君は、
「案の定、噂に聞く月草のように移り気な方だったのだ。ちらほら女房の話を聞けば、男というものは、虚言そらごとをよくするものという。思ってもいない女を思っている風に言葉を尽くして、ここの女房たちが言うには、そういう身分の低い連中の中には、けしかあらん魂胆の者もいるのだ。
何ごとにつけても、ことさら身分の高い人は、外聞を気にして、我儘はできないものと思っていたのは、そうとも限らないのだった。匂宮は浮気な方だと、亡き父宮も噂を聞いていて、このように近くにまで来ると、思いよらなかった。匂宮が、すごく熱心に文を遣わすので、その挙句、思いがけずお通いいただくことになり、不幸せな身の上をひとしお嘆くことになろうとは。
こんな期待外れの宮のなさりようを、あの中納言はどう思っているのかしら。この邸にも、特に気にしなければならない女房もいないが、それぞれがどう思うか、物笑いになってみっともないこと」
と思い乱れて、気分も悪く、具合が悪くなった。
中の君は、ときたま対面なさる時は、限りなく心からの約束を宮がされていたので、「いくら何でも、全く心変わりしないだろう」と、「お越しにならなくても、何かよんどころない用事があるのだろう」と、心の内で慰めていたところもあった。
とはいえ、久しくなるのが、気がもめないこともなく、近くまで来て寄らずに通り過ぎてゆくのは、つらく口惜しく思い、胸いっぱいになるのだった。堪えかねる中の君の気色を、
「中の君が世の姫君並みにかしずかれてひとかどの貴族並みの生活なら、こんなひどい扱いはしないだろう」
などと、大君はあわれと見るのだった。2020.10.30◎
47.36 大君の思い
†「我も世にながらへば、かうやうなること見つべきにこそはあめれ。中納言の、とざまかうざまに言ひありきたまふも、人の心を見むとなりけり。心一つにもて離れて思ふとも、こしらへやる限りこそあれ。ある人のこりずまに、かかる筋のことをのみ、いかでと思ひためれば、心より外に、つひにもてなされぬべかめり。これこそは、返す返す、さる心して世を過ぐせ、とのたまひおきしは、かかることもやあらむの諌めなりけり。
さもこそは、憂き身どもにて、さるべき人にも後れたてまつらめ。やうのものと人笑へなることを添ふるありさまにて、亡き御影をさへ悩ましたてまつらむがいみじさなるを、我だに、さるもの思ひに沈まず、罪などいと深からぬさきに、いかで亡くなりなむ」
と思し沈むに、心地もまことに苦しければ、物もつゆばかり参らず、ただ、亡からむ後のあらましごとを、明け暮れ思ひ続けたまふにも、心細くて、この君を見たてまつりたまふも、いと心苦しく、
† 「我にさへ後れたまひて、いかにいみじく慰む方なからむ。あたらしくをかしきさまを、明け暮れの見物にて、いかで人びとしくも見なしたてまつらむ、と思ひ扱ふをこそ、人知れぬ行く先の頼みにも思ひつれ、限りなき人にものしたまふとも、かばかり人笑へなる目を見てむ人の、世の中に立ちまじり、例の人ざまにて経たまはむは、たぐひすくなく心憂からむ」
など思し続くるに、「いふかひもなく、この世にはいささか思ひ慰む方なくて、過ぎぬべき身どもなりけり」と心細く思す。
「わたしも世に長らえれば、このような目に遭うことだろう。中納言(薫)が、あれこれと言い寄ってくるのも、わたしの気を引こうとしているのだから。いくらわたし一人が相手になるまいと思っても、言い逃れにも限度がある。ここにいる女房が、中の君のことに懲りないで、あの人との縁組ばかり勧めるのなら、心ならずも、結局はそのようにさせられてしまう。これこそは、父宮が繰り返し用心して世を過ごせ、と遺言されたの諫めなのだ。
このような不幸な二人なので、これからも夫にも先立たれたりするだろう。そうして物笑いされるようになるだろう。亡き父母さえ苦しめる情けなさで、わたしだけでも、そんな物思いに沈まずに、罪が深くならずに、亡くなってしまいたい」
と大君は思い沈むので、気分も悪く、食事も少しも召し上がらない。ただ、自分亡き後のことを、明け暮れ思って、心細くなり、中の君を見るのも心苦しく、
「わたしにさえ先立たれたら、中の君はどんなにひどくふさぎこむだろう。若く美しい姿を明け暮れ見るのを楽しみにして、どうかして世間の人並みに世話をしたい、と思うのを人知れず生きがいと思っていたが、たとえこの上ない貴い方であっても、これほど外聞の悪い目にあわされた女が、世間に出て人並みに付き合って過ごすのは、稀なことだろう」
と思い続けるに、「情けないが、この世にはいささかの楽しみもなく、世を過ごすわたしたちなのだろう」と心細いく思うのだった。2020.10.31◎
47.37 匂宮の禁足、薫の後悔
宮は、立ち返り、例のやうに忍びてと出で立ちたまひけるを、内裏に、
「かかる御忍びごとにより、山里の御ありきも、ゆくりかに思し立つなりけり。軽々しき御ありさまと、世人も下にそしり申すなり」
と、衛門督の漏らし申したまひければ、中宮も聞こし召し嘆き、主上もいとど許さぬ御けしきにて、
「おほかた心にまかせたまへる御里住みの悪しきなり」
と、厳しきことども出で来て、内裏につとさぶらはせたてまつりたまふ。左の大臣殿の六の君を、うけひかず思したることなれど、おしたちて参らせたまふべく、皆定めらる。
中納言殿聞きたまひて、あいなくものを思ひありきたまふ。
「わがあまり異様なるぞや。さるべき契りやありけむ。親王のうしろめたしと思したりしさまも、あはれに忘れがたく、この君たちの御ありさまけはひも、ことなることなくて世に衰へたまはむことの、惜しくもおぼゆるあまりに、人びとしくもてなさばやと、あやしきまでもて扱はるるに、宮もあやにくにとりもちて責めたまひしかば、わが思ふ方は異なるに、譲らるるありさまもあいなくて、かくもてなしてしを。
思へば、悔しくもありけるかな。いづれもわがものにて見たてまつらむに、咎むべき人もなしかし」
と、取り返すものならねど、をこがましく、心一つに思ひ乱れたまふ。
宮は、まして、御心にかからぬ折なく、恋しくうしろめたしと思す。
「御心につきて思す人あらば、ここに参らせて、例ざまにのどやかにもてなしたまへ。筋ことに思ひきこえたまへるに、軽びたるやうに人の聞こゆべかめるも、いとなむ口惜しき」
と、大宮は明け暮れ聞こえたまふ。
匂宮は、すぐその後、例によってお忍びで出かけようとして、内裏に、
「このようなお忍びの通いで、宇治へのお出ましも、突然思い立ったのです。軽々しいお振舞いと、世間でも陰で悪口を言っています」
と、衛門の督が漏らしたので、中宮も聞いて嘆き、帝も立腹して許さぬ気色で、
「大体が気ままな里住まいが悪いのだ」
と、きびしい沙汰があり、内裏にいつも控えているように達しがあった。左大臣殿(夕霧)の六の君を、不承知だったが、無理にも縁組するようすっかり定められた。
中納言殿(薫)はこれを聞いて、他人事ながら、思い悩んだ。
「自分があまりに変わり者なのだ。そういう因縁があったのだろうか。亡き父宮のご心配になっていたことが、あわれに忘れがたく、この姫君たちが、格別仕合せになることなく、世に零落するのが惜しく思われるあまり、人並みの生活ができるように、我ながら不思議なほど気にかかってならないので、匂宮もわたしを責めたので、自分の思いは異なったが、譲ろうとする君を断って、お世話したのだが。
思えば悔しいことだ。二人とも我がものにしてお世話しても、咎める人はだれもいないだろうに」
取り返しのつかないことをしたと、ひとりで後悔するのだった。
匂宮は、まして思わぬ時はなく、恋しくて、気にかかる。
「お気に入っている女の人がいられるなら、ここに宮仕えさせて、普通におだやかにもてなしなさい。お上があなたを格別の身分にとお考えなので、軽々しく振舞って人の噂になるのは、残念です」
と中宮は注意申し上げるのだった。2020.10.31◎
47.38 時雨降る日、匂宮宇治の中の君を思う
時雨いたくしてのどやかなる日、女一の宮の御方に参りたまひつれば、御前に人多くもさぶらはず、しめやかに、御絵など御覧ずるほどなり。
御几帳ばかり隔てて、御物語聞こえたまふ。限りもなくあてに気高きものから、なよびかにをかしき御けはひを、年ごろ二つなきものに思ひきこえたまひて、
「また、この御ありさまになずらふ人世にありなむや。冷泉院の姫宮ばかりこそ、御おぼえのほど、うちうちの御けはひも心にくく聞こゆれど、うち出でむ方もなく思しわたるに、かの山里人は、らうたげにあてなる方の、劣りきこゆまじきぞかし」
など、まづ思ひ出づるに、いとど恋しくて、慰めに、御絵どものあまた散りたるを見たまへば、をかしげなる女絵どもの、恋する男の住まひなど描きまぜ、山里のをかしき家居など、心々に世のありさま描きたるを、よそへらるること多くて、御目とまりたまへば、すこし聞こえたまひて、「かしこへたてまつらむ」と思す。
在五が物語を描きて、妹に琴教へたる所の、「人の結ばむ」と言ひたるを見て、いかが思すらむ、すこし近く参り寄りたまひて、
「いにしへの人も、さるべきほどは、隔てなくこそならはしてはべりけれ。いと疎々しくのみもてなさせたまふこそ」
と、忍びて聞こえたまへば、「いかなる絵にか」と思すに、おし巻き寄せて、御前にさし入れたまへるを、うつぶして御覧ずる御髪のうちなびきて、こぼれ出でたるかたそばばかり、ほのかに見たてまつりたまへるふが、飽かずめでたく、「すこしももの隔てたる人と思ひきこえましかば」と思すに、忍びがたくて、
若草のね見むものとは思はねど
むすぼほれたる心地こそすれ

御前なる人びとは、この宮をばことに恥ぢきこえて、もののうしろに隠れたり。「ことしもこそあれ、うたてあやし」と思せば、ものものたまはず。ことわりにて、「うらなくものを」と言ひたる姫君も、されて憎く思さる。
紫の上の、取り分きてこの二所をばならはしきこえたまひしかば、あまたの御中に、隔てなく思ひ交はしきこえたまへり。世になくかしづききこえたまひて、さぶらふ人びとも、かたほにすこし飽かぬところあるは、はしたなげなり。やむごとなき人の御女などもいと多かり。
御心の移ろひやすきは、めづらしき人びとに、はかなく語らひつきなどしたまひつつ、かのわたりを思し忘るる折なきものから、訪れたまはで日ごろ経ぬ。
時雨がしきりにふってのどかな日、匂宮が女一の宮の所へ行くと、御前に侍する女房たちも多くなく、宮は静かに絵をご覧になっていた。
几帳だけを隔てて、お話をする。一の宮は、限りなく上品で気高くたおやかで女らしい気配なので、その姉君を、今までずっと世に無上の方と思っていて、
「他に、この方に匹敵する人が世にあるだろうか。冷泉院の姫宮ばかりが、父院のご寵愛深く、内々の暮らしぶりも奥ゆかしいと評判で、お心を打ち明けるすべもなく、慕っていたが、あの宇治の姫君は、愛らしく上品なことでは、劣っていない」
など、真っ先に思い出すに、とても恋しくて、心やりに、絵がたくさん散らばっているのを見て、おもしろそうな女絵の、恋する男の住まいなどが描いてあって、山里の趣ある家居などと、心に浮かんだ世の有様が描かれているので、身につまされることも多く、目に留まったので、姉君にお願いして、「宇治に贈ろう」と思うのだった。
伊勢物語で、妹に琴を教えて、「人の結ばむ」と言ったのを見て、どう思うだろう、少し近くに寄って、
「昔の絵でも、姉弟の仲は、隔てがない状態でした。とてもよそよそしくされているいますね」
と、そっと言えば、「どんな絵だろう」と思って、手許に巻き寄せて、匂宮が御前に差し入れたのを、うつむいてご覧になっている髪がなびいて、端からこぼれ出た片端を、ちらっと見て、いつまでも見ていたく、「少しでも血のつながりが遠かったなら」と思うと、黙っていられなくて、
「若草のあなたと共寝しようとは思いませんが
悩ましい気になります」
御前に侍る女房たちは、匂宮に、格別姿を見られるのを恥ずかしがって、物陰に隠れている。女一の宮は、「こともあろうに、嫌なことを」と思って返事もしない。もっともなことで、「うらなくものを」と答えた姫君を、気が利きすぎて憎く思われる。
紫の上が、とりわけこの二人を膝下に寄せて、たくさんの皇子女の中で、隔てなく愛情を注いで育てたのだった。父帝も母中宮もこの上なく大切にお世話したので、お仕えする女房たちも、どこか足りない所のある者は、居づらそうにしている。高貴な人の娘が多かった。
匂宮は気の多い方で、新参の女房に、気まぐれに、手をつけたりしながら、あの宇治の姫君を忘れる時がないので、尋ねるまでに日々が経ったのだった。 2020.11.1◎
47.39 薫、大君の病気を知る
待ちきこえたまふ所は、絶え間遠き心地して、「なほ、かくなめり」と、心細く眺めたまふに、中納言おはしたり。悩ましげにしたまふと聞きて、御とぶらひなりけり。いと心地惑ふばかりの御悩みにもあらねど、ことつけて、対面したまはず。
「おどろきながら、はるけきほどを参り来つるを。なほ、かの悩みたまふらむ御あたり近く」
と、切におぼつかながりきこえたまへば、うちとけて住まひたまへる方の御簾の前に入れたてまつる。「いとかたはらいたきわざ」と苦しがりたまへど、けにくくはあらで、御頭髪もたげ、御いらへなど聞こえたまふ。
宮の、御心もゆかでおはし過ぎにしありさまなど、語りきこえたまひて、
「のどかに思せ。心焦られして、な恨みきこえたまひそ」
など教へきこえたまへば、
「ここには、ともかくも聞こえたまはざめり。亡き人の御諌めはかかることにこそ、と見はべるばかりなむ、いとほしかりける」
とて、泣きたまふけしきなり。いと心苦しく、我さへ恥づかしき心地して、
「世の中は、とてもかくても一つさまにて過ぐすこと難くなむはべるを。いかなることをも御覧じ知らぬ御心どもには、ひとへに恨めしなど思すこともあらむを、しひて思しのどめよ。うしろめたくはよにあらじとなむ思ひはべる」
など、人の御上をさへ扱ふも、かつはあやしくおぼゆ。
夜々よるよるは、ましていと苦しげにしたまひければ、疎き人の御けはひの近きも、中の宮の苦しげに思したれば、
「なほ、例の、あなたに」
と人びと聞こゆれど、
「まして、かくわづらひたまふほどのおぼつかなさを。思ひのままに参り来て、出だし放ちたまへれば、いとわりなくなむ。かかる折の御扱ひも、誰れかははかばかしく仕うまつる」
など、弁のおもとに語らひたまひて、御修法ども始むべきことのたまふ。「いと見苦しく、ことさらにも厭はしき身を」と聞きたまへど、 思ひ隈なくのたまはむもうたてあれば、さすがに、ながらへよと思ひたまへる心ばへもあはれなり
待っている宇治の方では、ずいぶん久しく来ない心地がして、「やはり、こんなことなのだ」と心細く物思いに沈んでいると、中納言(薫)がお越しになった。病気と聞いての見舞いであった。ひどく我慢ができないほどのご気分でもないが、それを理由に、対面しない。
「驚いて、遠い道をはるばる来たのです。もっと、その臥せっている病床の近くに」
と、薫が、はっきりしない病状をしきりに心配するので、寝込んでおられる所の御簾の前に招じられた。大君は「ひどく見苦しいこと」と迷惑がるけれど、素っ気なくはなくて、頭を上げて、きちんと返事をされる。
匂宮が、不本意ながら久しくお越しになれなかった事情なども、説明して、
「安心していらっしゃい。いらいらして宮を恨まないで」
などと申し上げれば、
「中の君は、何とも仰っていないようですが、父宮の誡めはこのようなことだったのか、と思っておりまして、可哀そうでなりません」
と、泣くのだった。おいたわしく、自分まで顔向けならぬ気がして、
「夫婦の仲というものは、いずれにしても一筋縄ではゆかぬもの。そんなことは経験したことのないあなた方には、一途に恨めしく思うでしょうが、そこは気長に考えてください。御心配されるようなことはないと信じております」
など、他人の身の上の世話を焼くのも妙に思われる。
夜は、いっそう苦しそうにしていたので、よその男の気配が近いのを、中の君がつらいだろうと思われたので、
「いつもの客間の方へ」
と女房たちが勧めるが、
「まして、こう病気なのが気がかりで、何もかも投げ出して来たのに、こんな所に放り出されては、たまりません。病中の介護も、誰かしっかりお世話できるでしょうか」
など、弁に語らって、修法も命じた。「何と、見苦しい。ことさら厭わしいこの身なのに」と大君は言うが、人の気持ちを顧みないかのように断るのも嫌なので、さすがに、長生きせよと願う薫の心ばえもうれしかった。2020.11.1◎
47.40 大君、匂宮と六の君の婚約を知る
またの朝に、「すこしもよろしく思さるや。昨日ばかりにてだに聞こえさせむ」とあれば、
「日ごろ経ればにや、今日はいと苦しくなむ。さらば、こなたに」
と言ひ出だしたまへり。いとあはれに、いかにものしたまふべきにかあらむ、ありしよりはなつかしき御けしきなるも、胸つぶれておぼゆれば、近く寄りて、よろづのことを聞こえたまひて、
「苦しくてえ聞こえず。すこしためらはむほどに」
とて、いとかすかにあはれなるけはひを、限りなく心苦しくて嘆きゐたまへり。さすがに、つれづれとかくておはしがたければ、いとうしろめたけれど、帰りたまふ。
「かかる御住まひは、なほ苦しかりけり。所さりたまふにことよせて、さるべき所に移ろはしたてまつらむ」
など聞こえおきて、阿闍梨にも、御祈り心に入るべくのたまひ知らせて、出でたまひぬ。
この君の御供なる人の、いつしかと、ここなる若き人を語らひ寄りたるなりけり。おのがじしの物語に、
「かの宮の、御忍びありき制せられたまひて、内裏にのみ籠もりおはします。左の大殿の君を、あはせたてまつりたまへるなる。女方は、年ごろの御本意なれば、思しとどこほることなくて、年のうちにありぬべかなり。
宮はしぶしぶに思して、内裏わたりにも、ただ好きがましきことに御心を入れて、帝后の御戒めに静まりたまふべくもあらざめり。
わが殿こそ、なほあやしく人に似たまはず、あまりまめにおはしまして、人にはもて悩まれたまへ。ここにかく渡りたまふのみなむ、目もあやに、おぼろけならぬこと、と人申す」
など語りけるを、「さこそ言ひつれ」など、人びとの中にて語るを聞きたまふに、いとど胸ふたがりて、
「今は限りにこそあなれ。やむごとなき方に定まりたまはぬ、なほざりの御すさびに、かくまで思しけむを、さすがに中納言などの思はむところを思して、言の葉の限り深きなりけり」
と思ひなしたまふに、ともかくも人の御つらさは思ひ知らず、いとど身の置き所のなき心地して、しをれ臥したまへり。
弱き御心地は、いとど世に立ちとまるべくもおぼえず。恥づかしげなる人びとにはあらねど、思ふらむところの苦しければ、聞かぬやうにて寝たまへるを、中の君、もの思ふ時のわざと聞きし、うたた寝の御さまのいとらうたげにて、腕を枕にて寝たまへるに、御髪のたまりたるほどなど、ありがたくうつくしげなるを見やりつつ、親の諌めし言の葉も、かへすがへす思ひ出でられたまひて悲しければ、
「罪深かなる底には、よも沈みたまはじ。いづこにもいづこにも、おはすらむ方に迎へたまひてよ。かくいみじくもの思ふ身どもをうち捨てたまひて、夢にだに見えたまはぬよ」
と思ひ続けたまふ。
翌朝に、「少しは気分がよろしいでしょうか。昨日のようにお話しましょう」と言うと、
「病気が続いたせいか、今日は苦しいのです。では、こちらへ」
と言い出すのだった。薫は悲しくなり、一体どうしたのだろう、今までよりうちとけた気色なので、胸がつぶれる思いで、近くに寄って、色々の話をすると、
「苦しくてお返事ができません。少し収まりましてから」
とてもかすかに弱弱し気な気配で、この上なくおいたわしく感じて嘆くのだった。とはいえ、なすこともなくこうしていられないので、ひどく気がかりだったが、帰京した。
「このような山里の住まいは、やはり心配です。場所を変えて祈祷するにことよせて、適当な場所にお移りしていただこう」
などと、弁などに申し置いて、阿闍梨にも心を入れた御祈祷をお願いして、帰京した。
薫のお供の人で、いつしか、この邸の若い女房に言い寄った者がいた。内輪話に、
「匂宮がお忍び歩きを禁じられて、内裏に籠っています。左大臣(夕霧)姫君六の君をめあわせようとしています。女の方は、年来の本意であれば、ためらわれるはずもなく、年内に婚儀が行われるそうです。
匂宮はしぶしぶ承諾して、内裏でも好きがましいことに身を入れて、帝后の戒めにもおさまる様子がないそうです。
わが殿こそ、世間の男と違っていて、あまりに真面目なので、人からもてあまされている。ここにこうしてお出でになることだけが、驚いたことに、並々ならぬことと、人が噂しています」
などと語っているのを、「こうこう言っていました」など、仲間内で語るのを聞いて、大君は胸がふさがって、
「もうお終いなのだ。高貴な方に相手が決まるまでの、ほんの一時の慰みに、こうまでご執心だったのだろうと、さすがに中納言(薫)の思惑を気にして、口先だけは深い情があると仰ったのだ」
と大君は考えると、匂宮の冷たい仕打ちを恨む余裕もなく、ますます身の置き所もない心地して、がっかりして臥したのだった。
大君は、身体も弱っているので、この世に長く生きられそうもないと思う。気遣いが必要な女房たちではないが、どう思われているかつらいので、聞いていないふりをして臥していたところ、中の君が、物思う時にと聞いた、うたた寝する姿がとても可愛らしいので、腕を枕に寝ているのを、髪が枕元にたまっていて、世にまたとなく美しいのを見ながら、父宮の戒めの言葉を繰り返し思い出されて悲しく、
「父は罪深い地獄の底には沈んでいないでしょう。六道のどこかにおられるところで迎えてください。こんなにひどく物思いしている身を残して、夢にもお見えにならないことです」
と思い続けるのだった。2020.11.2◎
47.41 中の君、昼寝の夢から覚める
夕暮の空のけしきいとすごくしぐれて、木の下吹き払ふ風の音などに、たとへむ方なく、来し方行く先思ひ続けられて、添ひ臥したまへるさま、あてに限りなく見えたまふ。
白き御衣に、髪は削ることもしたまはでほど経ぬれど、まよふ筋なくうちやられて、日ごろにすこし青みたまへるしも、なまめかしさまさりて、眺め出だしたまへるまみ、額つきのほども、見知らむ人に見せまほし。
昼寝の君、風のいと荒きに驚かされて起き上がりたまへり。山吹、薄色などはなやかなる色あひに、御顔はことさらに染め匂はしたらむやうに、いとをかしくはなばなとして、いささかもの思ふべきさまもしたまへらず。
「故宮の夢に見えたまひつへる、いともの思したるけしきにて、このわたりにこそ、ほのめきたまひつれ」
と語りたまへば、いとどしく悲しさ添ひて、
「亡せたまひて後、いかで夢にも見たてまつらむと思ふを、さらにこそ、見たてまつらね」
とて、二所ながらいみじく泣きたまふ。
「このころ明け暮れ思ひ出でたてまつれば、ほのめきもやおはすらむ。いかで、おはすらむ所に尋ね参らむ。罪深げなる身どもにて」
と、後の世をさへ思ひやりたまふ。人の国にありけむ香の煙ぞ、いと得まほしく思さるる。
夕暮れの空模様はひどく時雨て、木の下をふく風の音など、来し方行く末を思い続けられて、大君が臥している様子は、上品でこの上もない方と見える。
白い衣に、髪はくしけずることもなく日がたつが、もつれずに枕元にうちやられて、日ごろ病気で少し顔色が青いのもかえって、優艶な感じがして、几帳の際から眺めている目元、顔立ちも、見知らぬ人に見せたいくらいだ。
昼寝の君(中の君)は、風が荒々しいので驚いて起きたのだった。山吹襲の表衣に、薄紫の袿などはなやかな色合いに、寝起きの顔は赤く染めたように、美しくあでやかで、少しも物思いしたようには見えなかった。
「故父宮が夢に現れまして、何かご心配されている気色で、この辺にお見えになりました」
と語れば、悲しさがいっそうつのって、
「亡くなってから、どうか夢にでも会いたいと思っていますが、一度もお会いしていません」
とて、二人で泣くのだった。
「この頃は明け暮れ父を思い出していたので、お姿を見せたのかしら。どうやって、居られる所に行けましょう。罪深い身ですから」
と、後の世のことさえ思いやるのだった。唐の国の香の煙を、得たい気持ちです。2020.11.2◎
47.42 十月の晦、匂宮から手紙が届く
いと暗くなるほどに、宮より御使あり。折は、すこしもの思ひ慰みぬべし。御方はとみにも見たまはず。
「なほ、心うつくしくおいらかなるさまに聞こえたまへ。かくてはかなくもなりはべりなば、これより名残なき方にもてなしきこゆる人もや出で来む、とうしろめたきを。まれにも、この人の思ひ出できこえたまはむに、さやうなるあるまじき心つかふ人は、えあらじと思へば、つらきながらなむ頼まれはべる」
と聞こえたまへば、
「後らさむと思しけるこそ、いみじくはべれ」
と、いよいよ顔を引き入れたまふ。
「限りあれば、片時もとまらじと思ひしかど、ながらふるわざなりけり、と思ひはべるぞや。明日知らぬ世の、さすがに嘆かしきも、誰がため惜しき命にかは」
とて、大殿油参らせて見たまふ。
例の、こまやかに書きたまひて、
眺むるは同じ雲居をいかなれば
おぼつかなさを添ふる時雨ぞ

「かく袖ひつる」などいふこともやありけむ、耳馴れにたるを、なほあらじことと見るにつけても、恨めしさまさりたまふ。さばかり世にありがたき御ありさま容貌を、いとど、いかで人にめでられむと、好ましく艶にもてなしたまへれば、若き人の心寄せたてまつりたまはむ、ことわりなり。
ほど経るにつけても恋しく、「さばかり所狭きまで契りおきたまひしを、さりとも、いとかくてはやまじ」と思ひ直す心ぞ、常に添ひける。御返り、「今宵参りなむ」と聞こゆれば、これかれそそのかしきこゆれば、ただ一言なむ、
霰降る深山の里は朝夕に
眺むる空もかきくらしつつ

かく言ふは、神無月の晦日なりけり。「月も隔たりぬるよ」と、宮は静心なく思されて、「今宵、今宵」と思しつつ、障り多みなるほどに、五節などとく出で来たる年にて、内裏わたり今めかしく紛れがちにて、わざともなけれど過ぐいたまふほどに、あさましく待ち遠なり。はかなく人を見たまふにつけても、さるは御心に離るる折なし。左の大殿のわたりのこと、大宮も、
「なほ、さるのどやかなる御後見をまうけたまひて、そのほかに尋ねまほしく思さるる人あらば、参らせて、重々しくもてなしたまへ」
と聞こえたまへど、
「しばし。さ思うたまふるやうなむ」
聞こえいなびたまひて、「まことにつらき目はいかでか見せむ」など思す御心を知りたまはねば、月日に添へてものをのみ思す。
すっかり暗くなってから、匂い宮から使いがあった。悲観していた時であり、少しは物思いも慰むことだろう。すぐに見ようとしない。
「やはり、素直な気持ちで穏やかな返事をなさい。このままわたしが亡くなってしまえば、今よりひどい仕打ちをするの男も出てくるのではないか、と心配です。たまにでも、匂宮が思い出してくれるのなら、そのようなけしからぬ料簡を起こす者はいないでしょうが、恨みながらも頼るしかないでしょう」
と大君が言えば、
「わたしを置き去りにしようと思われるのは。ひどいです」
とますます顔をおおってしまう。
「限りある命ならば、父亡きあと片時も世にと留まるまいと思いましたが、生き永らえるものだと、思います。明日知らぬ無上の世で、さすがに命が惜しいのは、誰のためでしょう」
と言って、灯火を持ってこさせて文を見るのだった。
いつものようにこまごまとお書きになって、
「眺めるのは同じ空なのにどうして
逢いたい気持ちをそそる時雨なのでしょう」
「こんなに袖が濡れる」などということもあったのか、常套句なので、そのままではすまされないと見るにつけても、恨めしく思うのだった。あれほど世に稀な美男子なのに、その上何とかして女にもてようと色っぽくしゃれた振舞いをするので、、若い女房たちに人気だったのも、道理だった。
中の君は、ほどへるにつけて恋しく、「あれほど大げさに約束したのに、いくら何でも、このままでは終わらないだろう」と思い直す気持ちいつも湧いてくるのだった。返事は、「今宵持って帰ります」とのことなので、女房の誰彼が勧めるので、ただ一言だけ、
「霰ふる深い山里では朝に夕に
いつも眺める空は曇っています」
もう十月の末だった。ご無沙汰は、「もう一月にもなる」と、匂宮は気もそぞろに思って、「今宵、今宵」と思いながら、何かと邪魔が入り、五節などが早くある年で、内裏でははなやかな行事で、過ぎていったので、宇治では言いようもなく待ち遠しかった。かりそめに女を相手にするときも、忘れることはなかった。左大臣(夕霧)の六の君との縁談についても、母宮は、
「やはりあのような後見のしっかりした北の方を迎えて、そのほかに呼び寄せたいと思う人がいれば、召して、丁重に扱いなさい」
と仰るのだが、
「今しばらく、考えるところがございますので」
お断わりして、「ひどい目に会わせられない」などと悩んでいる匂宮の気持ちを知らない中の君は、日がたつにつれて物思いにふけるのだった。 2020.11.3◎
47.43 薫、大君を見舞う
中納言も、「見しほどよりは軽びたる御心かな。さりとも」と思ひきこえけるも、いとほしく、心からおぼえつつ、をさをさ参りたまはず。
山里には、「いかに、いかに」と、訪らひきこえたまふ。「この月となりては、すこしよろしくおはす」と聞きたまひけるに、公私もの騒がしきころにて、五、六日、人もたてまつれたまはぬに、「いかならむ」と、うちおどろかれたまひて、わりなきことのしげさをうち捨てて参でたまふ。
「修法はおこたり果てたまふまで」とのたまひおきけるを、よろしくなりにけりとて、阿闍梨をも帰したまひければ、いと人ずくなにて、例の、老い人出で来て、御ありさま聞こゆ。
「そこはかと痛きところもなく、おどろおどろしからぬ御悩みに、ものをなむさらに聞こしめさぬ。もとより、人に似たまはず、あえかにおはしますうちに、この宮の御こと出で来にしのち、いとどもの思したるさまにて、はかなき御くだものをだに御覧じ入れざりし積もりにや、あさましく弱くなりたまひて、さらに頼むべくも見えたまはず。よに心憂くはべりける身の命の長さにて、かかることを見たてまつれば、まづいかで先立ちきこえむと思ひたまへ入りはべり」
と、言ひもやらず泣くさま、ことわりなり。
「心憂く、などか、かくとも告げたまはざりける。院にも内裏にも、あさましく事しげきころにて、日ごろもえ聞こえざりつるおぼつかなさ」
とて、ありし方に入りたまふ。御枕上近くてもの聞こえたまへど、御声もなきやうにて、えいらへたまはず。
「かく重くなりたまふまで、誰も誰も告げたまはざりけるが、つらくも。思ふにかひなきこと」
と恨みて、例の阿闍梨、おほかた世に験ありと聞こゆる人の限り、あまた請じたまふ。御修法、読経、明くる日より始めさせたまはむとて、殿人あまた参り集ひ、上下の人立ち騷ぎたれば、心細さの名残なく頼もしげなり。
中納言(薫)も、「思ったより、軽い浮気な男だった。そのうちに」と思っていたが、気の毒で、責任を感じて、宮の所には行かなかった。
山里には、「具合はどうですか」と、お見舞いの使いを出す。「十一月になってから、少し良くなりました」と聞いていたので、公私ともに忙しい頃で、五、六日、使いもやらなかったので、「どうしているか」と、すぐに気になって、のっぴきならない忙しさを投げ出して宇治へ行った。
「修法は病気が全快するまで」言っておいたのに、気分が良くなったとて、阿闍梨を帰してしまって、病床には人が少なく、例の老い人が出て来て、ご病状を申し上げる。
「どこがどうと痛い処もなく、たいした苦しみもない病気なのですが、食事を少しも召し上がりません。以前から人と違って、お身体が弱いうえに、匂宮のことがあってから、心をたいそう痛めた様子でして、軽い果物も見向きもせず召し上がらなかったので、めっきり弱くなりまして、もはや見込みもないと思われます。まことに情けないほど長く生きまして、このようなことを見るようになるとは、どうかわたしをお先に死なせてくださいと願っております」
と、言い終えず泣く様は、無理もない。
「情けない。どうして知らせてくれなかったのか。院の御所でも宮中でも、ひどく忙しいくて、このところお見舞いできなくて心配でした」
と言って前に通された所に入った。枕頭に近くて声は聞こえるが、声も出ないようなので、返事もできない。
「こんなに重くなるまで、誰も知らせてくれないのが、つらいです。尽くし甲斐がありません」
と恨んで、例の阿闍梨や、霊験があると世に聞こえた僧をたくさんお招きになる。修法、読経など、翌日から始めることで、家臣たちがたくさん招じられ、上席の者も下人も、立ち騒がしく、心細い気な様子もなく頼もし気に思われた。2020.11.4◎
47.44 薫、大君を看護する
暮れぬれば、「例の、あなたに」と聞こえて、御湯漬けなど参らむとすれど、「近くてだに見たてまつらむ」とて、南の廂は僧の座なれば、東面の今すこし気近き方に、屏風など立てさせて入りゐたまふ。
中の宮、苦しと思したれど、この御仲を、「なほ、もてはなれたまはぬなりけり」と皆思ひて、疎くもえもてなし隔てず。初夜よりはじめて、法華経を不断に読ませたまふ。声尊き限り十二人して、いと尊し。
灯はこなたの南の間にともして、内は暗きに、几帳をひき上げて、すこしすべり入りて見たてまつりたまへば、老人ども二、三人ぞさぶらふ。中の宮は、ふと隠れたまひぬれば、いと人少なに、心細くて臥したまへるを、
「などか、御声をだに聞かせたまはぬ」
とて、御手を捉へておどろかしきこえたまへば、
「心地には思ひながら、もの言ふがいと苦しくてなむ。日ごろおとづれたまはざりつれば、おぼつかなくて過ぎはべりぬべきにやと、口惜しくこそはべりつれ」
と、息の下にのたまふ。
「かく待たれたてまつるほどまで参り来ざりけること」
とて、さくりもよよと泣きたまふ。御ぐしなど、すこし熱くぞおはしける。
「何の罪なる御心地にか。人に嘆き負ふこそ、かくあむなれ」
と、御耳にさし当てて、ものを多く聞こえたまへば、うるさうも恥づかしうもおぼえて、顔をふたぎたまへるを、むなしく見なしていかなる心地せむ、と胸もひしげておぼゆ。
「日ごろ見たてまつりたまひつらむ御心地も、やすからず思されつらむ。今宵だに、心やすくうち休ませたまへ。宿直人さぶらふべし」
と聞こえたまへば、うしろめたけれど、「さるやうこそは」と思して、すこししぞきたまへり。
直面にはあらねど、はひ寄りつつ見たてまつりたまへば、いと苦しく恥づかしけれど、「かかるべき契りこそはありけめ」と思して、こよなうのどかにうしろやすき御心を、かの片つ方の人に見比べたてまつりたまへば、あはれとも思ひ知られにたり。
「むなしくなりなむ後の思ひ出でにも、心ごはく、思ひ隈なからじ」とつつみたまひて、はしたなくもえおし放ちたまはず。夜もすがら、人をそそのかして、御湯など参らせたてまつりたまへど、つゆばかり参るけしきもなし。「いみじのわざや。いかにしてかは、かけとどむべき」と、言はむかたなく思ひゐたまへり。
暮れれば、「例の客間へ」と案内されて、湯漬けの飯など供されたが、「近くで介護したい」とて、南の廂は僧たちの座なので、東面のもっと近い方に、屏風などを立てて入った。
中の宮は、困ったと思ったが、二人の仲を、「普通ではない」皆思っているので、他人行儀にできない。初夜よりはじめて、法華経を絶えず読経させる。声の好い僧を十二人そろえて、尊い感じがする。
灯火はこちら側の南の間にともして、奥の方は暗く、几帳を上げて、少し入る見ると、老いた女房たちが二、三人が付き添っていた。中の君は、ふと隠れたが、人が少なく、大君は心細そうに臥しているのを、
「どうして、声も聞かせてもらえないのか」
と、手を取って驚かせると、
「気持ちでは思っていますが、物を言うのが苦しいのです。この頃お越しにならなかったので、このままお会いできないのかと、残念でなりませんでした」
と息も絶え絶えで言う。
「こんなに待たれるまでお伺いしなかったとは」
とてしゃくりあげ声を上げて泣いた。大君の額を触ると少し熱があった。
「何の罪咎でこんな病気になるのか。人を嘆かせた故か」
と耳に口を当てて、あれこれ申し上げると、厄介にも恥ずかしくも思って、顔をふさいでいるのを、もしこの人を死なせたらどんな気持ちになるだろう、と胸もつぶれるような気持だった。
「何日も看病されてお疲れでしょう。今宵だけでも安心して休んでください。私が宿直人となって控えていますから」
と中の君に申し上げれば、気にはなったが、「何か訳があるのだろう」と思って、少し引っ込んだ。
面と向かってではないが、薫が這い寄って見ると、大君はとてもつらそうで気がひけて、「こうなる宿世があったのだ」と思って、この上なくおだやかで安心できる薫の人柄を、もう一方の匂宮の人柄と見比べてみると、しみじみと真心のほどが分かるのだった。
「わたしが死んだ後の思い出にも、強情で、情けの分らぬ女だった」と思われるのではないかと気にされて、素っ気なく薫を押しのけたりしないのだった。夜通し、女房たちに指図して、薬湯など用意させたが、一口も飲まないのだった。「大へんなことだ。どうしたら命を留めることができるだろう」と、途方に暮れて悲しみに沈んでいた。2020.11.5◎
47.45 阿闍梨、八の宮の夢を語る
不断経の、暁方のゐ替はりたる声のいと尊きに、阿闍梨も夜居にさぶらひて眠りたる、うちおどろきて陀羅尼読む。老いかれにたれど、いと功づきて頼もしう聞こゆ。
「いかが今宵はおはしましつらむ」
など聞こゆるついでに、故宮の御ことなど申し出でて、鼻しばしばうちかみて、
「いかなる所におはしますらむ。さりとも、涼しき方にぞ、と思ひやりたてまつるを、先つころの夢になむ見えおはしましし。
俗の御かたちにて、『世の中を深う厭ひ離れしかば、心とまることなかりしを、いささかうち思ひしことに乱れてなむ、ただしばし願ひの所を隔たれるを思ふなむ、いと悔しき。すすむるわざせよ』と、いとさだかに仰せられしを、たちまちに仕うまつるべきことのおぼえはべらねば、堪へたるにしたがひて、行ひしはべる法師ばら五、六人して、なにがしの念仏なむ仕うまつらせはべる。
さては、思ひたまへ得たることはべりて、常不軽をなむつかせはべる」
など申すに、君もいみじう泣きたまふ。かの世にさへ妨げきこゆらむ罪のほどを、苦しき御心地にも、いとど消え入りぬばかりおぼえたまふ。
「いかで、かのまだ定まりたまはざらむさきに参でて、同じ所にも」
と、聞き臥したまへり。
阿闍梨は言少なにて立ちぬ。この常不軽、そのわたりの里々、京までありきけるを、暁の嵐にわびて、阿闍梨のさぶらふあたりを尋ねて、中門のもとにゐて、いと尊くつく。回向の末つ方の心ばへいとあはれなり。客人もこなたにすすみたる御心にて、あはれ忍ばれたまはず。
中の宮、切におぼつかなくて、奥の方なる几帳のうしろに寄りたまへるけはひを聞きたまひて、あざやかにゐなほりたまひて、
「不軽の声はいかが聞かせたまひつらむ。重々しき道には行はぬことなれど、尊くこそはべりけれ」とて、
霜さゆる汀の千鳥うちわびて
鳴く音悲しき朝ぼらけかな

言葉のやうに聞こえたまふ。つれなき人の御けはひにも通ひて、思ひよそへらるれど、いらへにくくて、弁してぞ聞こえたまふ。
暁の霜うち払ひ鳴く千鳥
もの思ふ人の心をや知る

似つかはしからぬ御代りなれど、ゆゑなからず聞こえなす。かやうのはかなしごとも、つつましげなるものから、なつかしうかひあるさまにとりなしたまふものを、「今はとて別れなば、いかなる心地せむ」と惑ひたまふ。
絶えまなき読経の、暁方に当番が変わって声がよく、阿闍梨も夜居に控えていて眠るのだった。驚いて目覚めて陀羅尼を唱える。老いて枯れた声がたいそうありがたく聞こえる。
「今宵はご気分いかがですか」
などと言っているついでに、故八の宮のことを語り出して、涙の鼻をかみながら、
「どんなところにおられるのか。いくら何でも涼しい極楽にいるだろう、ご推察いたしますのを、先ごろ夢にお見えになっりました。
俗人の姿で、『この世を心から厭って逝きましたので、何の執着もなかったのに、わずかに思い乱れることがあって、今しばし本願の浄土に行けないでいるのを思うと、悔しいです。往生を助ける業をせよ』とはっきり仰せられるので、さしあたってどのような追善の供養がいいのか思いつかないので、わたしのできる範囲で、修行しております法師たち五、六人を、弥陀の称名念仏を行わせました。
ほかに、思い当たることがあるので、常不軽菩薩の偈を唱えましょう」
など語るので、大君もたいそう泣くのだった。後の世にまで父の成仏を妨げる罪の深さを、苦しい心の内に感じ、消え入りたい心地がした。
「父君の行くところがまだ決まらないうちに、同じところに行きたい」
と申し上げて臥している。
阿闍梨は、言葉少なに、立った。この常不軽行の僧たちは、この辺りの里から、京の辺りまで歩いて、暁の嵐に苦労して、阿闍梨のいる辺りに戻って、中門の元に座って、尊げに礼拝する。廻向の最後の文句が身にしみる。薫も、仏道に深く帰依して、感に堪えぬ気持であった。
中の君は、姉君の容態がとても心配で。奥の方の几帳の後ろに寄った気配を薫は聞いて、さっと居ずまいを正して、
「常不軽の声はいかか聞きましたか。重い法事には行わぬものですが、それでも尊いものです」と言って、
「霜のおりる岸辺の千鳥も侘びて
鳴く悲しい朝ですね」
話すように申し上げる。つれない人の気配にも似て、返事がしにくくて、弁を介して申し上げる。
「暁の霜を払って鳴く千鳥は
悲しみに沈むわたしの心を知って鳴くのでしょうか」
老女の弁では似かわしくない代役だが、気品は失わず申し上げる。このような、何気ない歌のやりとりにも、大君は遠慮がちだが、親しく受け止めてくれるのに、「これきりでお別れしたら、どんなに悲しいことか」と惑うのであった。2020.11.5◎
47.46 豊明の夜、薫と大君、京を思う
宮の夢に見えたまひけむさま思しあはするに、「かう心苦しき御ありさまどもを、天翔あまかけりてもいかに見たまふらむ」と推し量られて、おはしましし御寺にも、御誦経せさせたまふ。所々の祈りの使出だしたてさせたまひ、公にも私にも、御暇のよし申したまひて、祭祓、よろづにいたらぬことなくしたまへど、ものの罪めきたる御病にもあらざりければ、何の験も見えず。
みづからも、平らかにあらむとも、仏をも念じたまはばこそあらめ、
† 「なほ、かかるついでにいかで亡せなむ。この君のかく添ひて、残りなくなりぬるを、今はもて離れむかたなし。 さりとて、かうおろかならず見ゆめる心ばへの、見劣りして、我も人も見えむが、心やすからず憂かるべきこともし命しひてとまらば、病にことつけて、形をも変へてむ。さてのみこそ、長き心をもかたみに見果つべきわざなれ
と思ひしみたまひて、
「とあるにても、かかるにても、いかでこの思ふことしてむ」と思すを、さまでさかしきことはえうち出でたまはで、中の宮に、
「心地のいよいよ頼もしげなくおぼゆるを、忌むことなむ、いとしるしありて命延ぶることと聞きしを、さやうに阿闍梨にのたまへ」
と聞こえたまへば、皆泣き騷ぎて、
「いとあるまじき御ことなり。かくばかり思し惑ふめる中納言殿も、いかがあへなきやうに思ひきこえたまはむ」
と、似げなきことに思ひて、頼もし人にも申しつがねば、口惜しう思す。
かく籠もりゐたまひつれば、聞きつぎつつ、御訪らひにふりはへものしたまふ人もあり。おろかに思されぬこと、と見たまへば、殿人、親しき家司などは、おのおのよろづの御祈りをせさせ、嘆ききこゆ。
豊明は今日ぞかしと、京思ひやりたまふ。風いたう吹きて、雪の降るさまあわたたしう荒れまどふ。「都にはいとかうしもあらじかし」と、人やりならず心細うて、「疎くてやみぬべきにや」と思ふ契りはつらけれど、恨むべうもあらず。なつかしうらうたげなる御もてなしを、ただしばしにても例になして、「思ひつることどもも語らはばや」と思ひ続けて眺めたまふ。光もなくて暮れ果てぬ。
かき曇り日かげも見えぬ奥山に
心をくらすころにもあるかな
故八の宮が阿闍梨の夢に現れたのをを思い合わせると、「このようにお気の毒な姫君たちの身の上を、天翔あまかけりながらもどのようにご覧になるだろう」と推し量られて、宮が籠った寺にも読経をしてもらう。方々の寺に祈祷を頼んで、自分は公にも私でも、暇を届けて、祭祓えを万事抜かりなく手を尽くしたが、何かの祟りで病気になったのではないので、何の効き目もない。
大君自身が、治りたいと願って、仏にお祈りするのならともかく、
「この際、どうにかして死にたい。薫君がこうして付き添って、すっかり隔てがなくなったので、もう他人ではいられない。といっても、このように大きな愛情が、後になって、思ったほどでなかったと自分も相手も気づくのが、心配だ。もし命が永らえるなら、病にかこつけて、尼になりたい。それではじめて、互いの変わらぬ気持ちを見届けられるでしょう」
と深く心に決めて、
「生死のほどはどうあろうとも、どうか本懐を遂げたいものだ」と思うが、そこまで偉そうなことは言えず、中の君に、
「病気が治る見込みがないように思われるので、受戒すると、たいそう功徳があると聞いております、そのように阿闍梨に伝えてください」
と仰せになったので、皆泣き騒いで、
「とんでもないことです。これほど心を痛めている中納言殿も、どんなにがっかりするでしょう」
と不都合な考えなので、薫にも伝えられず、大君悔しく思うのだった。
薫がこのように宇治に籠っていると、次々伝わって、お見舞いに来る者もいた。薫が大君をことさら大事に思っていると分かって、殿人たちや親しい家司などは、めいめいが祈祷をし、嘆くのであった。
豊明の節会は今日だろう、と薫は京を思うのだった。風が強く吹いて、雪が荒れて降っている。「都ではまさかこれ程荒れないだろう」と、自ら望んだとだが、心細くなって、「大君とは遂に添えぬままに終わるのか」と思うのはつらいが、恨むこともできない。大君のやさしくかわいらしい様子に、ほんの少しでも元に戻って、「思いを、語らいたい」と思いあぜんとして外を眺めている。終日雪が降り光も射さず日が暮れた。
「かき曇って日ざしも射さない奥山に
心も暗く日々を過ごしています」2020.11.6◎
47.47 薫、大君に寄り添う
ただ、かくておはするを頼みに、皆思ひきこえたり。例の、近き方にゐたまへるに、御几帳などを、風のあらはに吹きなせば、中の宮、奥に入りたまふ。見苦しげなる人びとも、かかやき隠れぬるほどに、いと近う寄りて、
「いかが思さるる。心地に思ひ残すことなく、念じきこゆるかひなく、御声をだに聞かずなりにたれば、いとこそわびしけれ。後らかしたまはば、いみじうつらからむ」
と、泣く泣く聞こえたまふ。ものおぼえずなりにたるさまなれど、顔はいとよく隠したまへり。
「よろしき隙あらば、聞こえまほしきこともはべれど、ただ消え入るやうにのみなりゆくは、口惜しきわざにこそ」
と、いとあはれと思ひたまへるけしきなるに、いよいよせきとどめがたくて、ゆゆしう、かく心細げに思ふとは見えじと、つつみたまへど、声も惜しまれず。
「いかなる契りにて、限りなく思ひきこえながら、つらきこと多くて別れたてまつるべきにか。少し憂きさまをだに見せたまはばなむ、思ひ冷ますふしにもせむ」
とまもれど、いよいよあはれげにあたらしく、をかしき御ありさまのみ見ゆ。
腕などもいと細うなりて、影のやうに弱げなるものから、色あひも変らず、白ううつくしげになよなよとして、白き御衣どものなよびかなるに、衾を押しやりて、中に身もなき雛を臥せたらむ心地して、御髪はいとこちたうもあらぬほどにうちやられたる、枕より落ちたる際の、つやつやとめでたうをかしげなるも、「いかになりたまひなむとするぞ」と、あるべきものにもあらざめりと見るが、惜しきことたぐひなし。
ここら久しく悩みて、ひきもつくろはぬけはひの、心とけず恥づかしげに、限りなうもてなしさまよふ人にも多うまさりて、こまかに見るままに、魂も静まらむ方なし。
ただこうして薫がここにいてくれるのが頼りで、皆みなそう思っている。例によって、大君の近くにいて、几帳など、風が強く吹くと、中の君は奥に入った。見苦しい老女たちも、恥ずかしがって隠れるほど、近くに寄って、
「ご加減はどうですか。心の限り、神仏に祈っている甲斐がなく、お声を聞けなくなったら、とてもつらい。もし先立たれたら、とてもつらいことになる」
と泣く泣く申し上げる。大君は意識が朦朧となっていたが、顔はしっかり隠していた。
「少し気分がよくなったら、申し上げたいことがあるのですが、もうすっかり消え入るようになっていくのは、残念です」
と、本当に悲しく思っている気色なので、いよいよ涙を堰き止められず、縁起でもない、こんなに心細がっているとは悟られず、堪えているが、嗚咽の声も抑えきれない。
「いかなる宿世で、心から慕いながら、つらいことが多く別れなければならないのか。少しでも大君に嫌なところがあれば、思いを冷ますきっかけにもなるだろう」
と見守っているが、いっそうあわれでいとおしく、美しい様子ばかり見えるのだった。
腕なども細くなって、影のように弱弱し気なのに、肌の色つやも変わらず、白く可愛らしくなよなよして、夜具を押しやって、中に身もない雛人形を臥せているいる心地がして、髪はそれほどうるさくない程度に、枕からこぼれている様がつやつやとして美しく、「一体どうなってしまうのだろう」とこのまま生きていけそうもないないように見えるが、まことに残念でならない。
ずっと長いこと患っていて、身づくろいもできない様子だが、気を許さず気品があって、お洒落に憂き身をやつして騒いでいる人などよりずっと美しく、細かに見ると、遊離した魂も静まる思いがする。2020.11.7◎
47.48 大君、もの隠れゆくように死す
「つひにうち捨てたまひなば、世にしばしもとまるべきにもあらず。命もし限りありてとまるべうとも、深き山にさすらへなむとす。ただ、いと心苦しうて、とまりたまはむ御ことをなむ思ひきこゆる」
と、いらへさせたてまつらむとて、かの御ことをかけたまへば、顔隠したまへる御袖を少しひき直して、
「かく、はかなかりけるものを、思ひ隈なきやうに思されたりつるもかひなければ、このとまりたまはむ人を、同じこと思ひきこえたまへと、ほのめかしきこえしに、違へたまはざらましかば、うしろやすからましと、これのみなむ恨めしきふしにて、とまりぬべうおぼえはべる」
とのたまへば、
「かくいみじう、もの思ふべき身にやありけむ。いかにも、いかにも、異ざまにこの世を思ひかかづらふ方のはべらざりつれば、御おもむけに従ひきこえずなりにし。今なむ、悔しく心苦しうもおぼゆる。されども、うしろめたくな思ひきこえたまひそ」
などこしらへて、いと苦しげにしたまへば、修法の阿闍梨ども召し入れさせ、さまざまに験ある限りして、加持参らせさせたまふ。我も仏を念ぜさせたまふこと、限りなし。
「世の中をことさらに厭ひ離れね、と勧めたまふ仏などの、いとかくいみじきものは思はせたまふにやあらむ。見るままにもの隠れゆくやうにて消え果てたまひぬるは、いみじきわざかな」
引きとどむべき方なく、足摺りもしつべく、人のかたくなしと見むこともおぼえず。限りと見たてまつりたまひて、中の宮の、後れじと思ひ惑ひたまふさまもことわりなり。あるにもあらず見えたまふを、例の、さかしき女ばら、「今は、いとゆゆしきこと」と、引き避けたてまつる。
「終にはわたしを見捨てて逝ってしまえば、世に残って生きていません。命の限りがあって、生き残るとしても、深い山に分け入ります。ただ心苦しく気にかかるのは、残る方のことが心配なのです」
と、何とか答えていただこうと思って、中の君のことを言うと、顔をかくしたまま袖をひき直して、
「こうしてはかない命を、お別れしなければならないときに、思いやりがないと思われても仕方ないのですが、残った中の君をわたしと同じものと思って、ほのめかし申し上げたものを、その通りにしてくださっていたら、心配なかったのですが、これのみが恨めしくことで、気がかりです」
と大君が申し上げれば、
「こんなにひどく悲しい思いをしなければならない身なら、何としても他の方に心を向けることができませんでしたので、あなた様のご意向に従えませんでした。今もなお口惜しく心苦しいのです。けれど、案ずることはありません」
など慰めて、大君が苦しそうにしたので、修法の阿闍梨たちを呼んで、様々な効能ある行をさせて、加持を行う。薫自身も仏を念じて一心不乱に念ずるのだった。
「世の中を厭い離れよと説く仏が、こんなにつらい悲しい目にあわせるのだろうか。見ているうちに草木の枯れるようにお亡くなりになったのは、何と悲しいことでしょう」
引き留めることもできず、足摺りもしたぐらいで、まわりの女房たちが何と見ようと気にしない。いよいよ最期と見て、中の君も、一緒にと思い惑うのも無理はない。正気を逸しているのを、例のおせっかいな女房たちが、「今は不吉だ」と、中の君をひき離すのだった。2020.11.7◎
47.49 大君の火葬と薫の忌籠もり
中納言の君は、さりとも、いとかかることあらじ、夢か、と思して、御大殿油を近うかかげて見たてまつりたまふに、隠したまふ顔も、ただ寝たまへるやうにて、変はりたまへるところもなく、うつくしげにてうち臥したまへるを、「かくながら、虫の殻骸のやうにても見るわざならましかば」と、思ひ惑はる。
今はの事どもするに、御髪をかきやるに、さとうち匂ひたる、ただありしながらの匂ひに、なつかしう香ばしきも、
「ありがたう、何ごとにてこの人を、すこしもなのめなりしと思ひさまさむ。まことに世の中を思ひ捨て果つるしるべならば、恐ろしげに憂きことの、悲しさも冷めぬべきふしをだに見つけさせたまへ」
と仏を念じたまへど、いとど思ひのどめむ方なくのみあれば、言ふかひなくて、「ひたぶるに煙にだになし果ててむ」と思ほして、とかく例の作法どもするぞ、あさましかりける。
空を歩むやうにただよひつつ、限りのありさまさへはかなげにて、煙も多くむすぼほれたまはずなりぬるもあへなしと、あきれて帰りたまひぬ。
御忌に籠もれる人数多くて、心細さはすこし紛れぬべけれど、中の宮は、人の見思はむことも恥づかしき身の心憂さを思ひ沈みたまひて、また亡き人に見えたまふ。
宮よりも御弔らひいとしげくたてまつれたまふ。思はずにつくづくと思ひきこえたまへりしけしきも、思し直らでやみぬるを思すに、いと憂き人の御ゆかりなり。
中納言、かく世のいと心憂くおぼゆるついでに、本意遂げむと思さるれど、三条の宮の思されむことに憚り、この君の御ことの心苦しさとに思ひ乱れて、
「かののたまひしやうにて、形見にも見るべかりけるものを。下の心は、身を分けたまへりとも、移ろふべくもおぼえ給へざりしを、かうもの思はせたてまつるよりは、ただうち語らひて、尽きせぬ慰めにも見たてまつり通はましものを」
など思す。
かりそめに京にも出でたまはず、かき絶え、慰む方なくて籠もりおはするを、世人も、おろかならず思ひたまへること、と見聞きて、内裏よりはじめたてまつりて、御弔ひ多かり。
中納言の君(薫)は、いくら何でも、まさか死ぬことはあるまい、夢なのか、と思って、灯火を近くにもっていきかかげて見ると、隠していた顔も、ただ眠っているいるように思われ、変わったところもなく、美しく臥していたので、「このまま、蝉の脱け殻のように見ていられたら」と思い惑うのだった。
臨終の作法をするにも、髪をかきやると、さっと匂うので、生前の匂いのままに、なつかしく香ばしいので、
「世に稀な、何をもってこの人を、ありふれた方だったと諦められようか。まことに世の中を思い捨てる契機となるなら、恐ろしく醜いものに遭遇させて、この悲しさも冷めさせてください」
と仏に念じたが、ますます心を静める方なく、仕方なく、「いっそすっかり煙にでもしてしまおう」と思って、臨終の作法をするのが、言いようもないことだった。
宙を歩む様にふらついて歩み、空に昇った煙の有様もはかなげで、滞らず、あっけなく空に昇って、薫は茫然として帰ったのだった。
忌中に籠る人数が多く、心細さは多少は紛れたが、中の君は、人に何と見られ何と思われようかとわが身のつらさに思い沈んで、こちらも死んだ人のようだった。
匂宮からも弔問の使いが何度も来た。大君が心外なひどい人と恨んでいた宮も、思い直すこともなく逝ってしまったのは、中の君によっては何ともつい縁であった。
中納言(薫)は、このように世の中がいかにも心憂く思われるので、出家の本懐を遂げようと思ったが、三条の宮(母女三の宮)の嘆きを憚って、中の君のおいたわしさにも慮って、
「大君が仰ったように、形見としてでも、中の君と一緒になってもよかったのだが、大君の心の内では身を分けた積りでも、自分は心を移せない中の君に気苦労をかけるよりは、いっそ深い仲になって、尽きぬ悲しみの慰めとしてでも、お世話するのだった」
と思う。
京にも帰らず、ふっつりと、心を晴らすこともなく籠っていると、世間の人も、並々ならず大切に思っておられたのだと、見聞いて、内裏より始め弔いの多く来た。2020.11.7◎
47.50 七日毎の法事と薫の悲嘆
はかなくて日ごろは過ぎゆく。七日七日の事ども、いと尊くせさせたまひつつ、おろかならず孝じたまへど、限りあれば、御衣の色の変らぬを、かの御方の心寄せわきたりし人びとの、いと黒く着替へたるを、ほの見たまふも、
くれなゐに落つる涙もかひなきは
形見の色を染めぬなりけり

ゆるし色の氷解けぬかと見ゆるを、いとど濡らし添へつつ眺めたまふさま、いとなまめかしくきよげなり。人びと覗きつつ見たてまつりて、
「言ふかひなき御ことをばさるものにて、この殿のかくならひたてまつりて、今はとよそに思ひきこえむこそ、あたらしく口惜しけれ」
「思ひの外なる御宿世にもおはしけるかな。かく深き御心のほどを、かたがたに背かせたまへるよ」
と泣きあへり。
この御方には、
「昔の御形見に、今は何ごとも聞こえ、承らむとなむ思ひたまふる。疎々しく思し隔つな」
と聞こえたまへど、「よろづのこと憂き身なりけり」と、もののみつつましくて、まだ対面してものなど聞こえたまはず。
「この君は、けざやかなるかたに、いますこし子めき、気高くおはするものから、なつかしく匂ひある心ざまぞ、劣りたまへりける」
と、事に触れておぼゆ。
いつのまにか日は過ぎてゆく。七日七日の法事も、たいそう立派にさせた。心を込めて供養するが、きまった作法があるので、衣の色は変わらずに、大君の側に仕えた女房たちが、黒の衣に着替えるのをちらっと見るにも、
「真っ赤な血の涙を流して悲しんでも甲斐がないのは、
亡き人を弔う喪の色に染められないことだ」
許し色を着て、氷が光るのかと見まがうのを、涙で濡らして茫然としている様子は、まことに優雅で美しい。女房たちが、覗き見して、
「今さら嘆いても甲斐なきことはさておき、この殿がこれほど馴染んで、これきりでお出にならないのは、惜しくて残念です」
「二人は、案外の宿世だった。君のこれほど深い御心を、二人とも志に添えなかったのです」
と泣き合うのだった。
中の君には、
「昔の形見として、今は何でも言ってください、承ります、他人行儀はやめてください」
と薫は言うが、中の君は「万事がつらく憂き身だ」とむやみに気おくれして、まだ対面してものは言わない。
「中の君は、はきはきしているが、少し子供っぽく、上品ではいらっしゃるが、やさしい品があるという点では姉に劣っている」
と、ことに触れて感じるのだった。2020.11.8◎
47.51 雪の降る日、薫、大君を思う
雪のかきくらし降る日、終日にながめ暮らして、世の人のすさまじきことに言ふなる師走の月夜の、曇りなくさし出でたるを、簾巻き上げて見たまへば、向かひの寺の鐘の声、枕をそばだてて、今日も暮れぬと、かすかなる響を聞きて、
おくれじと空ゆく月を慕ふかな
つひに住むべきこの世ならねば

風のいと烈しければ、蔀下ろさせたまふに、四方の山の鏡と見ゆる汀の氷、月影にいとおもしろし。「京の家の限りなくと磨くも、えかうはあらぬはや」とおぼゆ。「わづかに生き出でてものしたまはましかば、もろともに聞こえまし」と思ひつづくるぞ、胸よりあまる心地する。
恋ひわびて死ぬる薬のゆかしきに
雪の山にや跡を消なまし

半ばなる偈教へむ鬼もがな、ことつけて身も投げむ」と思すぞ、心ぎたなき聖心なりける。
人びと近く呼び出でたまひて、物語などせさせたまふけはひなどの、いとあらまほしくのどやかに心深きを、見たてまつる人びと、若きは、心にしめてめでたしと思ひたてまつる。老いたるは、ただ口惜しくいみじきことを、いとど思ふ。
「御心地の重くならせたまひしことも、ただこの宮の御ことを、思はずに見たてまつりたまひて、人笑へにいみじと思すめりしを、さすがにかの御方には、かく思ふと知られたてまつらじと、ただ御心一つに世を恨みたまふめりしほどに、はかなき御くだものをも聞こしめし触れず、ただ弱りになむ弱らせたまふめりし。
上べには、何ばかりことことしくもの深げにももてなさせたまはで、下の御心の限りなく、何事も思すめりしに、故宮の御戒めにさへ違ひぬることと、あいなう人の御上を思し悩みそめしなり」
と聞こえて、折々のたまひしことなど語り出でつつ、誰も誰も泣き惑ふこと尽きせず。
雪が激しく降りしきる日、終日物思いに沈んで過ごしいて、世間の人がすさまじいものという師走の月が、曇りなく出たので、簾を巻き上げて見ていると、向かいの寺の鐘の音が、枕をそばだてて、今日も暮れると、かすかに響かせて聞こえてくる、
「亡くなった人の後を追おうと空ゆく月を慕っているよ
いつまでも住むべきこの世ならねば」
風が激しく吹き、蔀を下ろさせる。四方の山が鏡に見える雪にきらめいている様、渚の氷も、月の光が照っておもしろい。「京の邸を限りなく磨いてもこうはゆかぬだろう」と思う。「かろうじて、わずかでも生きながらえれば、互いに話ができたものを」と思い続けるのは、胸が張り裂けそうだ。
「深く恋わびて死ぬ薬が欲しいので
雪山に分け入って跡を消してしまおう」
「半偈を教えた鬼でもいてほしい、それにかこつけて身投げしよう、と思うのは、未練がましい道心ではある。
女房たちを呼び寄せて、話をさせている薫の気配を見ていると、本当に申し分なくゆったりと奥ゆかしいので、見る人たちは、若い女房はすばらしいお方と思うのであった。老いたる女は、何よりも残念で悲しいと思うのだった。
ご病気が重くなったのも、ただこの匂宮のことが気になって、心外なことと思われて、世間の物笑いになるとたいそう気にされて、さすがに中の君にはこうして心配していることを知られないように、自分ひとりで二人の仲を嘆いていて、わずかな食べ物も召さないようになり、段々に弱っていったのです。
表面では、何ばかりたいして大げさな心配ごとがあるようには見えないで、内心では、この上なく心配されて、亡き父宮の遺言にさえ背いたことを、妹君の身の上を思って悩んでおりました」
などと語り合って、大君が折々に仰っていたことなど語って、誰もが泣き惑うのだった。2020.11.9◎
47.52 匂宮、雪の中、宇治へ弔問
「わが心から、あぢきなきことを思はせたてまつりけむこと」と取り返さまほしく、なべての世もつらきに、念誦をいとどあはれにしたまひて、まどろむほどなく明かしたまふに、まだ夜深きほどの雪のけはひ、いと寒げなるに、人びと声あまたして、馬の音聞こゆ。
「何人かは、かかるさ夜中に雪を分くべき」
と、大徳たちも驚き思へはべるに、宮、狩の御衣にいたうやつれて、濡れ濡れ入りたまへるなりけり。うちたたきたまふさま、さななり、と聞きたまひて、中納言は、隠ろへたる方に入りたまひて、忍びておはす。御忌は日数残りたりけれど、心もとなく思しわびて、夜一夜、雪に惑はされてぞおはしましける。
日ごろのつらさも紛れぬべきほどなれど、対面したまふべき心地もせず、思し嘆きたるさまの恥づかしかりしを、やがて見直されたまはずなりにしも、今より後の御心改まらむは、かひなかるべく思ひしみてものしたまへば、誰も誰もいみじうことわりを聞こえ知らせつつ、物越しにてぞ、日ごろのおこたり尽きせずのたまふを、つくづくと聞きゐたまへる。
これもいとあるかなきかにて、「後れたまふまじきにや」と聞こゆる御けはひの心苦しさを、「うしろめたういみじ」と、宮も思したり。
今日は、御身を捨てて、泊りたまひぬ。「物越しならで」といたくわびたまへど、
「今すこしものおぼゆるほどまではべらば」
とのみ聞こえたまひて、つれなきを、中納言もけしき聞きたまひて、さるべき人召し出でて、
御ありさまに違ひて、心浅きやうなる御もてなしの、昔も今も心憂かりける月ごろの罪は、さも思ひきこえたまひぬべきことなれど、憎からぬさまにこそ、こうごえへたてまつりたまはめ。かやうなること、まだ見知らぬ御心にて、苦しう思すらむ
など、忍びて賢しがりたまへば、いよいよこの君の御心も恥づかしくて、え聞こえたまはず。
「あさましく心憂くおはしけり。聞こえしさまをも、むげに忘れたまひけること」
と、おろかならず嘆き暮らしたまへり。
「自分のせいで、大君に余計な心配をかけたのだ」と、薫は昔を今に取り戻したく、すべてこの世が恨めしく、念誦をたいそう心を込めて行い、ほとんど眠らずに明かしたが、まだ夜中に雪の降り積む気配も寒そうな中を、人々の声がして、馬の音も聞こえた。
「誰が、こんな夜中に雪の中を来たのか」
と、高僧たちも驚いている中、宮(匂宮)が、狩衣に身をやつして、すっかり濡れて入ってきた。戸を叩く様子は、匂宮だろうと、察して、中納言(薫)は、奥まった方に移って、ひっそりしている。忌中はまだ残っていたが、気がかりでたまらなくて、夜通し、難渋して宇治へお越しになったのだった。
中の君は日ごろのつらさも吹き飛びそうな折だが、対面する気持ちにならない、大君を嘆かせたのを、顔向けならぬことをしてしまった、思い直してもらうこともできず、この先、宮の気持ちが改まったとしても、いまさら何にもならないと思い、女房たちが、男女の道を説いて聞かせても、物越しに、匂宮が日ごろの無沙汰を繰り返しお詫びするのを、つくづくと聞いている。
中の君は正気が失せたように、「後を追いたい」と、言わんばかりの気配を、宮はおいたわしく思い、「心配でたまらない」と思った。
今日は、もうどうなってもいい、と思って泊まるのだった。「物越しではなく直接逢いたい」としきりにせがむが、
「もっと人心地がつくまでお待ちください、それまで生きていれば」
と言うばかりで、つれないので、中納言もこの由を聞いて、しかるべき女房を召し出して、
「こちらの思惑と違って、ひどく薄情なお扱いが、生前も今もごそのご無沙汰の罪が大きく、そう思われるのももっともですが、可愛げの失せぬ程度に叱ってください。匂宮はこのような手厳しいお咎めは、まだ受けたことがないので、困っておられましょう」
ひそかに口出しされるので、いっそう中の君も気おくれして、返事もできない。
「何ともあけれた情けない方だ。あんなに固い約束したのに、すっかり忘れてしまうとは」
一方ならず嘆いてその日は過ごした。2020.11.10◎
47.53 匂宮と中の君、和歌を詠み交す
夜のけしき、いとど険しき風の音に、人やりならず嘆き臥したまへるも、さすがにて、例の、もの隔てて聞こえたまふ。千々の社をひきかけて、行く先長きことを契りきこえたまふも、「いかでかく口馴れたまひけむ」と、心憂けれど、よそにてつれなきほどの疎ましさよりはあはれに、人の心もたをやぎぬべき御さまを、一方にもえ疎み果つまじかりけり。ただ、つくづくと聞きて、
来し方を思ひ出づるもはかなきを
行く末かけてなに頼むらむ

と、ほのかにのたまふ。なかなかいぶせう、心もとなし。
行く末を短きものと思ひなば
目の前にだに背かざらなむ

何事もいとかう見るほどなき世を、罪深くな思しないそ」
と、よろづにこしらへたまへど、
「心地も悩ましくなむ」
とて入りたまひにけり。人の見るらむもいと人悪ろくて、嘆き明かしたまふ。恨みむもことわりなるほどなれど、あまりに人憎くもと、つらき涙の落つれば、「ましていかに思ひつらむ」と、さまざまあはれに思し知らる。
中納言の、主人方に住み馴れて、人びとやすらかに呼び使ひ、人もあまたしてもの参らせなどしたまふを、あはれにもをかしうも御覧ず。いといたう痩せ青みて、ほれぼれしきまでものを思ひたれば、心苦しと見たまひて、まめやかに訪らひたまふ。
「ありしさまなど、かひなきことなれど、この宮にこそは聞こえめ」と思へど、うち出でむにつけても、いと心弱く、かたくなしく見えたてまつらむに憚りて、言少ななり。音をのみ泣きて、日数経にければ、顔変はりのしたるも、見苦しくはあらで、いよいよものきよげになまめいたるを、「女ならば、かならず心移りなむ」と、おのがけしからぬ御心ならひに思しよるも、なまうしろめたかりければ、「いかで人のそしりも恨みをもはぶきて、京に移ろはしてむ」と思す。
かくつれなきものから、内裏わたりにも聞こし召して、いと悪しかるべきに思しわびて、今日は帰らせたまひぬ。おろかならず言の葉を尽くしたまへど、つれなきは苦しきものをと、一節を思し知らせまほしくて、心とけずなりぬ。
夜は、激しい風の音に、匂宮はほかならぬ自分が作った状況で、嘆き臥しているいるのも、さすがに、例によって、物を隔てて話するのであった。千々の社にかけて、行く末長い約束をするが、「どうしてこう口が軽いのだろう」と、嫌な気がするが、来てもくれずに放置されたよりはあわれで、女の心を 和らげるので、一途に嫌い通すわけにもいかないだろう。中の君はじっと聞いていて、
「今までのことを思い出しても頼りない約束ですのに
この先何を頼りとしたらいいのでしょう」
と小声で言う。これを聞いて、宮は気分が晴れず、心もとない。
「行く末を短いものと思うなら
せめて今の間だけでもわたしの言うことを聞いてください」
何ごとも瞬く間に変わる世ですから、罪作りはおやめください」
と、何やかやと説得するが、
「気分が悪うございます」
と、奥へ入った。女房たちの手前体裁悪く、嘆いて夜を明かした。中の君が恨むの無理はないが、あまりにすげない態度だと恨めしさに涙がこぼれるので、「中の君はどんな気持ちだったのか」と宮は思い知るのだった。
中納言(薫)が主人顔して、女房たちを気軽に召し使い、食事の用意をさせたりするのを、宮は、あわれにもおかしくもご覧になる。薫はひどく痩せて青みがかって、物思いに沈んでいるので、匂宮は、お気の毒に思い、お悔やみの言葉を述べられる。
「大君の生前の様子など、今更甲斐ないことだけれど、この宮には話したい」と思っていたが、言い出すにしても、何かと馬鹿にされそうなので、憚っていた。声を上げんばかりに泣き暮らしていたので、日がたって、顔つきが変わったが見苦しくはなく、いっそう美しく優雅であったので、「女ならきっとなびくだろう」と、匂宮は自分の浮気心から気をまわして、中の君が心配で、「世間から非難されたり恨みをかわないようにして、京に移したい」と思うのだった。
こんな調子で、中の君は相変わらずうちとけないので、内裏にも聞こえて、たいそう具合の悪いことになるのが心配で、今日は帰った。一方ならずご機嫌をとるが、仕打ちはどんなにつらかったかと、それだけを訴えたくて、ついに逢わなかった。2020.11.11◎
47.54 歳暮に薫、宇治から帰京
年暮れ方には、かからぬ所だに、空のけしき例には似ぬを、荒れぬ日なく降り積む雪に、うち眺めつつ明かし暮らしたまふ心地、尽きせず夢のやうなり。
宮よりも、御誦経など、こちたきまで訪らひきこえたまふ。かくてのみやは、新しき年さへ嘆き過ぐさむ。ここかしこにも、おぼつかなくて閉ぢ籠もりたまへることを聞こえたまへば、今はとて帰りたまはむ心地も、たとへむ方なし。
かくおはしならひて、人しげかりつる名残なくならむを、思ひわぶる人びと、いみじかりし折のさしあたりて悲しかりし騷ぎよりも、うち静まりていみじくおぼゆ。
「時々、折ふし、をかしやかなるほどに聞こえ交はしたまひし年ごろよりも、かくのどやかにて過ぐしたまへる日ごろの御ありさまけはひの、なつかしく情け深う、はかなきことにもまめなる方にも、思ひやり多かる御心ばへを、今は限りに見たてまつりさしつること」
と、おぼほれあへり。
かの宮よりは、
「なほ、かう参り来ることもいと難きを思ひわびて、近う渡いたてまつるべきことをなむ、たばかり出でたる」
と聞こえたまへり。后の宮、聞こし召しつけて、
「中納言もかくおろかならず思ひほれてゐたなるは、げに、おしなべて思ひがたうこそは、誰も思さるらめ」と、心苦しがりたまひて、「二条院の西の対に渡いたまて、時々も通ひたまふべく、忍びて聞こえたまひけるは、女一の宮の御方にことよせて思しなるにや」
と思しながら、おぼつかなかるまじきはうれしくて、のたまふなりけり。
「さななり」と、中納言も聞きたまひて、
「三条宮も造り果てて、渡いたてまつらむことを思ひしものを。かの御代りになずらへて見るべかりけるを」
など、ひき返し心細し。宮の思し寄るめりし筋は、いと似げなきことに思ひ離れて、「おほかたの御後見は、我ならでは、また誰かは」と、思すとや。
年の暮れには、こんな山里でも、空の気色は普段と違うのに、宇治では荒れて降り積もる雪を見て、物思いに沈んで暮らしていたが、まるで夢を見ているようだった。
宮(匂宮)からも、誦経のお布施など、あふれんばかりたくさん供される。このようにして、新しい年まで嘆き暮らすことになるのだろうか。あちこちから心配の声が上がって、音沙汰もなく薫が閉じ籠っているのを聞いて、当人は今は帰りたい気持ちもない。
こうしてここに住みついて、人の出入りが多かった名残りもなくなると、思いわぶる女房たちは、お亡くなりになった折の騒がしさよりも、すっかり静まって悲しく思われる。
「おりふし趣ある風に文を交換していた年頃よりも、こうしてのどかに過ごしている毎日の様子や振舞いが、親しみやすく、慰みの遊びにも暮らしの面でも、思いやりのある薫の人柄に、これきりでもう見られなくなることを懸念して」
嘆き合うのだった。
あの宮からは、
「やはり先だってのように宇治へ参ることは難しいので、中の君を近くにお迎えする手はずを考えました」
と言ってきた。明石の中宮がお聞きになって、
「中納言(薫)も一方ならず悲しみに暮れているのは、なるほど、並々には扱えないとどなたも思っているのだろう」と、「二条の院の西の対に中の君をお移りしてもらって、時々通うように、内々に匂宮に言ったので、女一の宮の御方付の女房に思っているのか」
と疑いながらも、逢いたいときに逢えるのはうれしいと、言うのだった。
「そうですか」と、中納言も聞いて、
「自分も三条の宮完成したら、大君をお迎えしようとしていたのに。中の君を亡き人の代わりと思って世話すればよかった」
などと思って心細い。宮が疑っているのは、全くとんでもないことと、忘れてしまって、大抵の世話役は自分をおいて誰ができよう」と薫は思うのだった。2020.11.11◎
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読書期間2020年10月9日 - 2020年11月11日