イエス伝

10 山上の説教

イエスがどこでこの説教をしたのか、正確な場所は分からない。しかしカファルナウムの近くの丘だろうと推定されている。 また実際にイエスが、この通りに説教したのかどうかもよく分からない。最初に書かれたとされる『マルコ伝』にはないし、 最後に書かれたとされる『ヨハネ伝』にもない。『ルカ伝』には同じような場面はあるが、語られた内容は一部分であり、 その余の教えは他の場面で語られている。マタイのように全部がまとまっていないし、表現内容も弱い。 山上の説教は『マタイ伝』にのみ充分な内容 で記載されている。するとこれらの説教は、口承されていたものや他の記録文書から 選りすぐってマタイが編集した可能性が高い。 しかしそうした詮索はどうでもいいことである。説かれた言葉が真実であれば、それを真実と受けとめることが必要である。

山上の説教は、イエスの教えの白眉である。イエスのことを知ろうとするなら、人は必ずここを通らなければならない。 イエスの言葉を、自分の目で見、自分の耳で聞かなければならない。私は思うに、このような言葉は未だかって説かれたことがなく、 その後も説かれたことがない、 空前絶後の説教である。たとえばこれは、天からふりそそいで来る光のようです。天地の天ではなく、何か別の天、そのようなところが あるかどうか分からないが、人間の願望が連綿として集積され昇華されてきた処、そこから放たれた光のようです。すくなくともイエスは そこに通じていた。それゆえにイエスは、このように力強く人々を魅了する教えを語ることができたのである。 あなたがこれらの光の一条でも浴びて、心のなかで呼応するものがないなら、 また気に留めるものがないなら、あなたはイエスを知る必要がありません。

1 イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。 2そこで、イエスは口を開き、教えられた」(『マタイ伝』5:1-2)のである。

幸い
5 3「心の貧しい人々は、幸いである、
天の国はその人たちのものである。
4悲しむ人々は、幸いである、
その人たちは慰められる。
5
柔和な人々は、幸いである、
その人たちは地を受け継ぐ。
6義に飢え渇く人々は、幸いである、
その人たちは満たされる。
7憐れみ深い人々は、幸いである、
その人たちは憐れみを受ける。
8心の清い人々は、幸いである、
その人たちは神を見る。
9
平和を実現する人々は、幸いである、
その人たちは神の子と呼ばれる。
10義のために迫害される人々は、幸いである、
天の国はその人たちのものである。
11 わたしのためにののしられ、 迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。
12喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。 あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」(『マタイ伝』5:1-5:12)
地の塩、世の光
5 13 「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。 もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。 14 あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。 15 また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。 16 そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、 あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」 (『マタイ伝』5:13-5:16)
律法について
5 17 「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。 18 はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。 19 だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。 しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。 (『マタイ伝』5:17-5:19)
腹を立ててはならない
521「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』 と命じられている。22しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。 兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。(『マタイ伝』5:21-5:22)
姦淫してはならない
527「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。 28しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、 既に心の中でその女を犯したのである。29もし、右の目があなたをつまずかせるなら、 えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。 30もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。 体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである。」(『マタイ伝』5:27-5:30)
誓ってはならない
533「また、あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。 主に対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている。34しかし、わたしは言っておく。 一切誓いを立ててはならない。天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である。 35地にかけて誓ってはならない。そこは神の足台である。エルサレムにかけて誓ってはならない。 そこは大王の都である。36また、あなたの頭にかけて誓ってはならない。髪の毛一本すら、 あなたは白くも黒くもできないからである。37あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。 それ以上のことは、悪い者から出るのである。」(『マタイ伝』5:33-5:37)
復讐してはならない
538「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。 39しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、 左の頬をも向けなさい。 40あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。 41だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。 42求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。」 (『マタイ伝』5:38-5:42)
敵を愛しなさい
543「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。 44しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。 45あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、 正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。 46自分を愛してくれる人 を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。 47 自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。 (『マタイ伝』5:43-5:47)
完全な者となりなさい
548 だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」(『マタイ伝』5:48)
施しをするときには
61 「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報い をいただけないことになる。 2 だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、 自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。 3 施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。 4 あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」 (『マタイ伝』6-1-4)
祈るときには
65 「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、 会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。 6 だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。 そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。 7 また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、 聞き入れられると思い込んでいる。 8 彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。 9 だから、こう祈りなさい。
『天におられるわたしたちの父よ、
御名が崇められますように。
10 御国が来ますように。
御心が行われますように、
天におけるように地の上にも。
11 わたしたちに必要な糧を今日与えてください。
12 わたしたちの負い目を赦してください、
わたしたちも自分に負い目のある人を
赦しましたように。
13 わたしたちを誘惑に遭わせず、
悪い者から救ってください。』
14 もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。 15 しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」 (『マタイ伝』6:5-15)
神と富
624「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、 一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」(『マタイ伝』6:24)
思い悩むな
625「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、 また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。 26空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、 あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。 27あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。 28 なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。 働きもせず、紡ぎもしない。29しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、 この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。30今日は生えていて、 明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、 信仰の薄い者たちよ。31だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、 思い悩むな。32それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、 これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。33何よりもまず、 神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。 34だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。 その日の苦労は、その日だけで十分である。」 (『マタイ伝』6:25-6:34)
人を裁くな
71「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。 2あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。(『マタイ伝』7:1-7:2)
求めなさい
77「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。 門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。8 だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、 門をたたく者には開かれる。 (『マタイ伝』7:7-7:8) 
人にしてもらいたいこと
712だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。 これこそ律法と預言者である。」(『マタイ伝』7:12)
狭い門
713「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、 そこから入る者が多い。14 しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。 それを見いだす者は少ない。」(『マタイ伝』7:13-7:14)
あなたたちのことは知らない
721 「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。 わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。 22 かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、 御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。 23 そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」 (『マタイ伝』7:21-7:23)

「728イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。 29彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。」(『マタイ伝』7:28-7:29)

人々が最も驚いたのは、イエスが語る言葉の向こうにあるもの、「権威ある者」として語るイエスの調子、語り口、 その態度に対してである。これは見かけのものではない。本来のもの真正なもののみが具える、その本質からおのずから来るものである。 イエスの由来に関わるものである。

これらの言葉は、たしかに普通の人間の口から出てきたものではありません。 モーセの律法は一つひとつ取り上げられ、まるで天上の息吹を吹きかけられたように、新しく命を与えられて蘇るのである。 これらの言葉は、あたかも天の国から来ているかのようです。 人々は、「権威ある者」として語りかけるイエスの態度に圧倒され、その言葉に驚き、そして沈黙する。 イエスの言葉は正しい。だがしかし人間であるかぎり、それを実行できる人はいない。

モーセの律法は、エジプトから脱出したユダヤの民の相互扶助を義務として課し、ユダヤの民の全体を律するものとして定められ、 イエスの言葉はそれを聞く者一人ひとりに投げかけられているかのようです。

なお、山上の説教で語られたすべてが、イエスの独創というわけではない。これらの多くはユダヤの伝統から生まれた言葉であり、 すでにラビたちが語っていたのである。私はそれらを跡付けて紹介するだけの学識はないが、なかでもイエスのおよそ一世代前に生きた ラビ・ヒレルは有名である。ヒレルの律法に対する考えかたは、イエスに大変近いものがあります。 偉大なラビ・ヒレルの話や語録は当時ガリラヤにまで広まっていて、イエスは当然それを学んだと推定したい。 ユダヤのラビたちの智慧と言葉は断片的であるが、イエスはそれらを本質的に理解して昇華し、その全体から語ったのだと思います。


この説教は昔は「山上の垂訓(さんじょうのすいくん)」と呼ばれていました。
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公開日2007年9月18日
更新2009年8月8日