イエス伝

11 奇跡について

イエスは宣教を開始した当初から、会堂で教えを説くとともに、病気を治す奇跡を行いました。 福音書には、イエスが病人を治す場面が次ら次へと出てきます。またイエスのうわさを聞いて、 人々は次々と病人を連れてきます。イエスには病気を治す霊力があったようです。イエスは病気に苦しむ人を憐れと思って 治した時もありましたが、しかしただ単にそのために霊能を発揮したのでもなければ、また自分の霊力の卓越性を示すために治した のでもありません。病気治癒の奇跡は、イエスの由来の証しであり、イエスのいわば存在証明として必要だったのです。 イエスもそのように思っていました。

マルコによれば、イエスは最初の説教を安息日にカファルナウムの会堂で行ったが、そのとき聴衆の中にいた汚れた霊が暴れだし、 その霊に取り付かれた男が叫び始めたので、イエスは怒鳴りつけて悪霊を追い払っています。こうして説教と病気治癒の奇跡は、 常に相補的に書かれています。奇跡のなかでは、ガリラヤ湖の水の上を歩いたり、湖の嵐をしずめたり、五つのパンと 二匹の魚を五千人の群集に分け与えたこともあったが、モーセのように海を割って幾万の人々を渡らせたり、雨を降らせたりして、 天変地異を起こしたわけではない。主に病人の悪霊を追い出したり、色々な病気を治したりしたのである。 イエスは教えを説くということと同じ行為として、病気治癒の奇跡を行いました。

4 23 イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。 (『マタイ伝』4:23)

これには、当時の一般の民衆が、病気についてどのように考えていたかを知る必要があります。福音書にも医者という 言葉は出てくるので、当時のパレスティナにも医者はいたと思われますが、しかし医者といっても祭司に近い役割だったと思われます。 医者は治療の前後に神への祈りをささげ、病気を治す力は神から与えられたもの、 薬草の効き目も神の働きと考えられていました。また病気の原因は悪霊が宿っているためであり、 それはまたその人が背負った罪であると考えられていました。悪霊を追い出す力のある人は、聖なる人または神に近い人 と信じられていました。 イエスが「あなたの罪は赦された」✽1という場合、 それによって病気が治ったことを意味しますし、「あなたの信仰があなたを救った」 ✽2という場合、その人の信仰によりその人の罪が赦され、そして病気が治ったと いうことになります。ユダヤ人の聖書学者のゲザ・ヴェルメシュは次のように書いています。「イエスの世界では、悪霊は、 罪の源だけでなく、病気の源として信じられていた。ユダの民がバビロニアに捕囚とされた(紀元前6世紀)以後の時代では、 悪霊があらゆる道徳上の心の悪や肉体上の病気という悪の原因であるという考えが、ユダヤ人の宗教思想の中に深くしみ込んでいた」 ✽3。 マルコはただ単に、イエスは病気を治されたと書くかわりに、「悪霊を追い出された」 ✽4と書いています。 こうして、イエスの説教と病気治癒とは、どちらもイエスの由来の正当性、イエスの神性の表れとして必要だったことになります。 そして弟子たちを宣教に出すときには、神の国の到来を宣言させるとともに、その宣言をする者の正当性を示すために、 同時に、悪霊を追い払う力を授けています。

ここに病気治癒の奇跡の中でも印象的な場面があります。

5 25さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。 26多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役に も立たず、ますます悪くなるだけであった。27 イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、 後ろからイエスの服に触れた。28「この方の服にでも触れればいやしていただける」 と思ったからである。29すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。 30イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、 「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。31そこで、弟子たちは言った。 「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」 32しかし、イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。 33女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、 すべてをありのまま話した。34イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。 安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」(『マルコ伝』5:25-5:34)

ここではイエスは、病気を治すためには何もしていない。十二年間出血病に苦しんで医者にも見離された女が、 イエスの気づかないまま、後ろからイエスの服に触れただけで、出血が止まり、病気が治ったことを体中に感じたのである。 イエスもまた自分の霊力が 出て行ったのを感じた。霊の力はイエスの身体に満ちていたのである。このエピソードに見られるように、イエスは病気を治す力を つまり奇跡を、信仰の力と考えていました。そしてその力はイエスの身体に満ちていた。それはまた罪を赦すことのできる資格でもあり、 そしてそれは神の働きであった。 「あなたの信仰があなたを救った」という言葉は、病気を治す度にイエスからよく出てくる言葉です。

信仰がすべてに優先する、すなわち神と人との関係がすべてに優先する、その余のことは自ずからついてくるとイエスは考えて いましたから、病気を治す行為もこの延長線上で行われました。あるとき、てんかんで苦しんでいる子どもを弟子たちが治せなかった ので、イエスのところに連れてこられた。イエスが叱ると、悪霊は出て行き、子どもはいやされた。 弟子たちが、「なぜ、わたしたちは悪霊を追い出せなかったのでしょうか」と聞いた時、 イエスは次のような激しい言葉を浴びせている。

1720イエスは言われた。「信仰が薄いからだ。 はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』 と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない。」 (『マタイ伝』17:20)

からし種一粒ほどの信仰があれば、あなたがたにできないことは何もない。山に向かって動けといえば、そのとおりになる。 この言葉をわれわれは何と理解したらいいでしょうか。このような言葉を聞いて、われわれは非常に困惑し、立ちすくんでしまう。 マタイのこの箇所だけ読むものには、信仰の狂気を、あるいは信仰の不可能性を読み取ってしまうことになる。 あるいは、神の妄想に衝かれたひとりの男がここにいると思ってしまうだろう。しかしこれはマタイの信仰が願望と混じって、 このようにエスカレートして書かせたのであって、信仰というものが、 極限まで膨張する例をここに見ることができる。信仰は、容易に事実からの乖離を起こさせるのである。 というのも、マタイが参考にしたとされる『マルコ伝』の同じ場面では、父親から子どもの症状を詳しく聞き、 そして悪霊を追い出したあとで、イエスは次のように言って終わっているからである。「この種のものは、祈りによらなければ 決して追い出すことはできないのだ」✽5。 つまり弟子たちのこの種の病気を治す業(わざ)には、 祈りが足りないのだとイエスはいっているわけです。

イエスの奇跡をどう見るか。福音書の著者たちはそれぞれの信仰に基づいてイエスの言動を書いています。 それゆえ、これはその場で目の当たりに見て体験した者でなければ、分からないことです。 紀元1世紀の世界では、21世紀の今日生きているわれわれよりも、信じることは容易な環境だったと思います。そして 当時その場にいてイエスの行いを見た人々は驚き、信じたのである。われわれはこれ以上のことは言えない。われわれは、 ただ古い絵巻物でも見るように、およそ2000年前のイエスの病気治癒の奇跡を見ているしかありません。


✽1 『マタイ伝』9:2、『マルコ伝』2:5、『ルカ伝』5:20,7:48
✽2 『マタイ伝』9:22、『マルコ伝』5:34,10:52、『ルカ伝』7:50,8:48,17:19
✽3『ユダヤ人イエス』(ゲザ・ヴェルメシュ著  第一部 第三章 C 悪魔と天使より)
✽4『マルコ伝』1:39
✽5『マルコ伝』9:29
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公開日2009年8月11日
更新11月23日