イエス伝

14 来るべき方は、あなたでしょうか

洗礼者ヨハネは、ヘロデ・アンティパス によって牢に捕らえられていたが、獄中でイエスの活動のうわさを聞いた。 ヨハネの弟子たちが、イエスの宣教の様子を伝えたのである。ヨハネは、ヨルダン川でイエスを洗礼したときから、 イエスは自分よりはるかに優れた存在として認識していた。しかしイエスが来るべきメシア かどうか、ヨハネには分からなかったのである。そこでヨハネは、確認のために、弟子をイエスのところに遣わせた。ヨハネにとって メシアの到来は予定された事実であった。これはそれ自体驚くべき確信、驚くべき信仰である。 そのときの様子は次のように書かれています。

112 ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。そこで、自分の弟子たちを送って、 3 尋ねさせた。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」 4 イエスはお答えになった。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。 5 目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、 死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。 6 わたしにつまずかない人は幸いである。」(『マタイ伝』11:2-6)

この短い記述のなかで、洗礼者ヨハネとイエスとのあいだで、暗黙の強い共通認識があったことがうかがわれます。 当時の一般民衆の間で、ユダヤ人を他国のくびきから解放し、ユダヤ国家を再興する者、すなわちメシアの到来が待望されていました。 これは実際的には軍事的勝利と政治的独立を意味しますが、ユダヤの特徴はこれがユダヤの宗教と 結びついていることです。司令官であり王であると同時に大祭司である、そういう位です。しかしヨハネもイエスも そういう位は全く眼中になかった。このことについて二人は共通していました。二人は天の国の到来を信じていたのである。 これこそが神の黙示である、そのような意味でメシアは来ると確信していたのである。ヨハネやイエスの天の国の思想は、 当時の一般大衆が期待していたものとは違った次元のものであり、ユダヤの体制派であったファリサイ派やサドカイ派の思想 とも全く異なるものでした。黙示派ともいうべきこの流れは、当時のユダヤにあっては一般にはあまり知られておらず、 知る人ぞ知る少数派であったと思われます。 この流れはエッセネ派✽1と関係があるとの説 を唱える学者たちもいるようですが、私はそれを判断するだけの学識はありません。 確かにヨハネとイエスは、黙示派とでもいうべき少数派のなかにいて、共通の思想を持っていたといえます。 その最大の特徴は、神の国の到来を確信していることにあります。それは必然的に終末の日が来るということです。

またイエスは、ヨハネの問いに対して、直接に回答することは避けています。ここではメシアという言葉を使うことも お互いが避けています。「来るべき方」という言い方で、お互いが何を指しているのか充分に分かっているのです。 イエスはいつのときでも、メシアを公言することも自認することもしていません。そのように言われた場合は、秘密にしておけ、 口外するなといっています。そしてヨハネへの回答では、イエスの現にやっている ことを見てそのままヨハネに告げよ、と答えています。それは病人を治す奇跡のことを言っています。 このことは、イエスは病人を治す権限は神から与えられたものであり、神から選ばれたものにのみ許された 力だと考えていたことが分かります。したがってイエスは、病人を治すことは自分の由来を証明するものだと考えていたことが 分かります。ヨハネには病気治癒の奇跡を行う力はありませんでした。そのような回答で、ヨハネは理解すると思っていることが、 二人が共通の思想の持ち主であることが分かります。 もともと、ヨハネもイエスも、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と第一声で同じ福音を告げているのです。 これはイエスの主調音である。天の国はヨハネにとってもイエスにとって比喩ではなく、真実そのものであったのである。 言ってみれば、それは二人にとって、歴史的真実である。イエスは天の国をよりいっそう直近に、肌で感じていたように思われます。 ただイエスの肉体は、地上の時間を生きていました。


✽1 エッセネ派については、『ユダヤ古代誌』から引用した 「資料編 ユダヤ人の三大宗派」のなかの「エッセネ人」を参照ください。
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公開日2009年8月19日
更新11月23日