イエス伝

16 平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ

イエスがこの世に出現した理由は、弟子たちにはとても分かりにくかっただろうと思われます。それでイエスは、 弟子たちに少しずつ自分を現していくのである。弟子たちは仕事を捨て家族を捨ててイエスについてきたが、それはイエスに 声をかけられた時、なにか抗い難い魅力に引き付けられたからであった。弟子たちの目の前で奇跡を起こし、会堂や海辺の町で 人々に教えを説くイエスの様子には、常人の及ばない偉大な教師(ラビ)を感じさせるものがあった。 弟子たちはイエスが何者かよく分からなかったが、この人についてゆけば何かいいことがあると思っていたのである。 その何かいいことが何を意味しているのかは、弟子それぞれの思惑があったようである。

イエスは山上の説教において、「敵を愛せ」「右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」「完全なものとなれ」等々、 行うべきものとしての最も高い倫理を要求したが、それと同時に、信仰の妨げになるものは徹底して排除すべきことも 言っている。それは恐ろしいほど徹底した要求である。この言葉はマタイには二度 ✽1出てくるし、マルコも同じ内容の言葉を次のように 書いています。イエスの真正の言葉、イエスが実際に肉声で語ったものだと思います。

943 もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない 火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。 44 <底本に節が欠けている個所の異本による訳文> 地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。 45 もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、 片足になっても命にあずかる方がよい。 46 <底本に節が欠けている個所の異本による訳文> 地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。 47 もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、 一つの目になっても神の国に入る方がよい。 48 地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。 (『マルコ伝』9:43-48)

このようなイエスの容赦のない激しさは、イエスの思考のひとつの特徴をなしています。論理を極限まで突き詰めてゆく厳しさは、 途中の一切の曖昧さを許さない。イエスにはある程度とか、ほどほどにということがない。 信仰には白か黒しかなく、中間の灰色はないのである。天の国が来た時に、選別されてそこへ入るか、または永遠の 業火に投げこまれるか、二つに一つなのである。このように信仰に対する激しい要求は、弟子たちを戸惑わせたに違いない。 それに加えて、イエスは次のような謎めいた宣言をしている。これも弟子たちを驚かせたことだろう。 弟子たちにとっては、限りない優しさと、はかり知れない怖さ持った師であった。

1034「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、 と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。35わたしは敵対させる ために来たからである。人をその父に、/娘を母に、/嫁をしゅうとめに。36こうして、 自分の家族の者が敵となる。37わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。 わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。38また、 自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。 39自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、 かえってそれを得るのである。」 (『マタイ伝』10:34-10:39)

これらの言葉は、天からの落雷のように弟子たちに落ちて来ただろうと思われます。 あるいは意味がまったく分からない言葉として響いて来ただろうか。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、 罪人を招くためである」✽2と語り、 「わたしの軛(くびき)は負いやすく、わたしの荷は軽い」 ✽3と語るもう一方で、イエスは、 平和ではなく、破壊と分裂をもたらすために来たのだと宣言する。イエスは一体何を言っている のであろうか。

この言葉はマルコには出てこないが、ルカは同じ箇所のくだりで、「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。 あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、 むしろ分裂だ」✽4 といっている。イエスは比喩的な意味で言っているのではない。文字通り、親と子は敵対し、兄弟は離反するといっているのです。 すでにイエスは、母マリアやイエスの兄弟たちが、「イエスは気が狂った」とうわさが流れ、イエスを連れ戻そうと カファルナウムの家に行ったとき、イエスにとっては、もはやマリアや兄弟たちは本当の母でも兄弟でもなかった。 「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」といって会おうとしなかったのである。そのような地上の 人間の絆を壊すために自分は来たと言っているのである。 これは終末への序章である。この背景にあるのは、宣教の第一声で宣言した「天の国は近づいた」というイエスの認識である。 天の国がくるだろう。そこでは新しい関係が生じるだろう。それが地上の人間関係の延長上にないとすれば、 人々は一体どんな具合になるのだろう。イエスはこれには、はっきり答えていない。別のところで、 「天使のようになるのだ」 ✽5と比喩的に説明しているのだが・・・。

イエスの教えは本来、厳しく、二者択一を迫り、人間に完全を求めるものである。 実に、「狭き門」なのである。


✽1 『マタイ伝』5:29-30,18:8-9
✽2 『マタイ伝』9:13 『マルコ伝』2:17『ルカ伝』 5:32
✽3 『マタイ伝』11:30
✽4 『ルカ伝』9:49-51
✽5 『マタイ伝』22:30『マルコ伝』12:25
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公開日2009年8月26日
更新2010年1月2日