イエス伝

26 復活について

次にサドカイ派の人々が、イエスのところへ来て難問を突きつける。サドカイ派というのは、当時の祭司階層の中でもエリート 的存在で、貴族的階級に属し、神殿中心に活動していた。律法を守ることに忠実で、どちらかといえば庶民的な ファリサイ派と対峙していた宗派である。サドカイ派は、霊魂は肉体とともに消滅すると考えており、死後の世界や 復活を認めないことで知られていた。モーセ五書のみを遵守し、そこに復活が書かれていないからというのが理由であった。 これは本来伝統的なユダヤの思想である。

1218復活はないと言っているサドカイ派の人々が、 イエスのところへ来て尋ねた。19「先生、モーセはわたしたちのために書いています。 『ある人の兄が死に、妻を後に残して子がない場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』 と。20ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、 跡継ぎを残さないで死にました。21次男がその女を妻にしましたが、 跡継ぎを残さないで死に、三男も同様でした。22こうして、 七人とも跡継ぎを残しませんでした。最後にその女も死にました。 23復活の時、 彼らが復活すると、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻に したのです」24イエスは言われた。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、 そんな思い違いをしているのではないか。25死者の中から復活するときには、 めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。26死者が復活することについては、 モーセの書の『柴』の個所で、神がモーセにどう言われたか、読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、 イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。27神は死んだ者の神ではなく、 生きている者の神なのだ。あなたたちは大変な思い違いをしている」(『マルコ伝』12:18-12:27)

この挿話の要となるのは、いろいろな読み方があるだろうが、最後のところの「神は死んだ者の神ではなく、 生きている者の神なのだ。あなたたちは大変な思い違いをしている」と締めているイエスの言葉である。 これを聞いてハッとするのである。イエスは、生きている人たちに説いているのであり、天の国も生きている人々 に臨むのである。死者には聞く耳がなく、感ずる心もない。改めてイエスの言動を見てみると、イエスは死んだ者には 実に冷淡であった。関心の外といってもいい。イエスについてゆくにあたって、まず父の葬儀を済ませてからにしたいと たのむある弟子に対して、「わたしに従いなさい。死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」 ✽1と答えている。今生きている者に、天の国がすぐ近くに来ていることを 知らしめること、その福音を説くこと、この緊迫性のなかにあっては、死んだ者に関心を払う余地はまったくないのである。

こうした観点から見れば、前半の神学問答は霞んでしまうのであるが、あえて仮説を立てれば次のような解釈もできると思う。 サドカイ派が、仮に復活があるとすれば、生前に七人の夫を持った妻は、復活すると七人の夫と会うことになり、神のもとでは ありえない事態になってしまう、したがって復活はないのだ、と問いかけるのにたいして、イエスも同じ仮定で話を進める。 あなたがたと同じように復活があると仮定すれば、天の国というのは、男も女もなくしたがって結婚もなく、人はたとえば天使の ようになるのである。天の国はこのように、地上の人間関係の延長線上ではなく、まったく違う形で現れるのだ。 しかもそれは死んだ者にではなく、生きている人々に現れるのだ。ここでイエスは、サドカイ派の信条に反論して、 復活があるとの前提で話しているわけではないし、復活があると言明してるわけでもない。

「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」とは、モーセに現れた神が、モーセに自己紹介する神の言葉 である✽2。モーセよ、わたしはお前の祖先たちに 現れたのと同じ神だ、祖先たちは死んだが、わたしはこのように生きてお前に語りかけている。アブラハムが生きていた当時、 わたしはアブラハムに臨んだ。モーセよ、わたしは今はお前に語りかけている。私は永遠に生きているのである。イエスは このように理解して神の言葉を引用しているのである。神は永遠に生きており、そして生きている人間に語りかけるのである。 こうして「生きている者の神である」と続くのである。イエスはまたこう思っていたであろう。神は今も永遠の命で生きている。 わたしの願いは、生きている人々を、そのまま天の国に導くことである。死んだ人間の復活ではない。人間の歴史は、洗礼者ヨハネで 終わっている。わたしがこの世に来たのは、いまだかってない新しい時代の始まりを人々に告げるためである。その時が来れば、 人々は神の子らとなり、永遠に生きる。それがわたしの福音だ。

生きているものこそが命なのだ。生きているものが神に回帰するのが重大事なのだ。 「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」とは、それぞれの始祖たちの神であったその神は今も生きている、 アブラハム、イサク、ヤコブは死んでしまったが、神は今もそして永遠にも生きているのである。その神が今生きている者たちに告げる。 最後の審判になって、だれを天の国に入れ、誰を黄泉の国へやるのか、それはそのときの神の判断だ。 今、神が告げることをやれ。死後の復活があるとかないとか、そのような議論は、今生きてい行くのに 何の役にもたたない。✽3

これも三日目に、神殿でなされた話しである。


✽1『マタイ伝』8:22。
✽2『出エジプト記』3:6。
✽3 私の解釈は、無理があるかもしれない。下記のサイトを参照のこと。(管理人)
市川三喜著作集 マルコ福音書講解 67 復活についての問答
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公開日2009年10月20日
更新2010年1月2日