イエス伝研究

「天の国」の研究

イエスは、天の国あるいは神の国という言葉を実に多く使っている。この言葉が旧約には一度も出てこないことと比べると、これはイエスの教えのいちじるしい特徴をなしていると考えていいだろう。

またイエスは、天の国という言葉をよく使いながらも、天の国がどのような処かについて具体的に語ることはしていない。 多くはたとえ話で説いており、天の国はこのようなものだと語るだけである。また、このような人は天の国に入れる、入れないという言い方をしている。たとえ話のひとつは次のようなものである。

430 更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。 31 それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、 32 蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」 (『マルコ伝』4:30-32)

神の国の特徴のある部分はわかるが、ここから具体的なイメージは描けない。そのほかのイエスのたとえ話も大同小異である。

元来、モーセを通して神から与えられた律法のなかには、「天の国」という言葉や概念はない。モーセの律法は、ヤーウェ神とユダヤの民との契約の履行条件である。神はユダヤの民をエジプトから連れ出し、乳と蜜の流れるカナンの地を与えるかわりに、ユダヤの民に律法を与えてその順守を求めた。こうしてカナンの地に定着したユダヤの民は、神から与えられた律法を順守して共同体を作り、そのようにして築かれる共同体が神の国になるはずのものであった。

一方ユダヤの最古層の死生観では、人間の有り様は、実にはっきりとしたものである。『創世記』には次のように書かれている。

319 塵にすぎないお前は塵に返る。(『創世記』3:19)

ここには、人の思惑の入る余地がない。人は地上に現われて、額に汗して働いてパンを得、時が来れば土に返るのである。地上の他に、別の世界などはありえないのである。これがユダヤの民の本来の考え方であったと思われます。

ユダヤの民がここから一歩踏み出して、どのようにして、地上の死がすべての終わりではない、と考えるようになったのかは分からない。したがって以下は推定である。人は塵から作られて塵に返るとしても、神が吹き込んだ「命の息」 ✽1はどうなってしまうのだろう。神から出たものは、神の元へ返るのだろうか。こうして人間の思惑が始まったのであろう。地上の生は、そもそも平等に割り振られているわけではない。資質の違いがあり、努力の深浅もあり、運不運もある。こうして、たとえば富と貧困、幸不幸、社会的不平等、時に善が報われず悪が栄える、このような地上の理不尽さが人には理解しがたいものとなり、ユダヤの民に地上の彼岸を夢見させたのであろう。確かに、地上のほかにもうひとつの世界を想定しなければ、地上の理不尽な現実は回復できないのである。カナンの地に神の国どころか自らの国も失った頃から、ユダヤの民に「天の国」の願望が生まれたのであろうか。

イエスの教えを聞いた紀元一世紀のユダヤ人たちが、天の国の存在自体に異議申し立てをしていないばかりか、違和感なく受け入れているいる様子見ると、当時のユダヤ人たちの間では、天の国の存在は自然な形で信じられていたようである。しかし当時貴族階級にあったサドカイ派は、霊魂は肉体とともに消滅すると考えていた。トーラー(モーセ五書)に書かれていないというのがその理由である。彼らは正統的な保守派であって、伝統的な考えに固執していたのである。一方ファリサイ派は死者の復活は認めていた。そして生前に良い行いをした人はその報いをうけ、悪い行いをした人はその報いを受けると考えられていた。ファリサイ派の宗旨には、当時の民衆の願望が反映されていたように思われます。このような民衆の願望が天の国の存在と結びついていたと考えられます。しかしこれは元来ユダヤの伝統的教えの中枢のものではない。民衆の素朴な信仰のなかの周辺部に願望としてあったもののようである。イエスはそれを教えの中心に持ってきたのである。

またメシアが来臨してユダヤ人の国を再建するという信仰は、多くのユダヤ人のあいだで共通の願望として信じられていたようです。 紀元前六世紀に南のユダ王国が新バビロニアに滅ぼされて以来、ユダヤ人たちはハスモン朝の一時期を除いて、他国の支配下にあった。 自分たちの国家を建設する願望と、メシアの来臨とが結びついて、ユダヤ人が待望するメシアは文字通り他国の支配者を武力で打ち破り、神の義に基づいた国を再建するというものである。ダビデのような武力と知力に優れた王の再来にその理想像が求められ、また異教の神を打ち破ったエリヤのようなヤーウェ神の義の守護者にその預言者像を求めていた。メシアはダビデの子から出ると信じられ、エリヤは再臨すると一般に信じられていた。病気を治してもらいにやってくる人々は、イエスを「ダビデの子」と呼んでいるし、福音書の著者たちもイエスをダビデの子としている。またイエスはエリヤの再来と見られることもあった。

しかしイエス自身はそのどちらも否定している。イエスはこの二人の像をユダヤの歴史上に現れた過渡期の人物と考えていたのである。イエスは次のように言っている。

1113 すべての預言者と律法が預言したのは、ヨハネの時までである。 (『マタイ伝』11:13)

イエスは、自分はユダヤの歴史に終止符を打つ最後の者であると考えていた。否、ユダヤの歴史がヨハネの時までとすれば、イエスの出現は歴史の彼岸、つまり「天の国」から来た何者かと考える以外にないのである。イエスは自分をそのように考えていた。

律法の完全な履行が神の国の実現をもたらす。その律法について、イエスはどのように考えていただろうか。弟子たちが手を洗わずに食事をしたり、また断食をしないことや、イエスが安息日に病人を治したりすることに対し、ファリサイ派はイエスを批判している。しかしイエスは律法の主旨のもっと本質的な意味を問うていたのである。イエスが衆人監視のなかで、安息日に病人を治すとき、「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」 ✽2とイエスは挑戦的に問うている。皆黙っていて反論できる者はいなかったのである。 またファリサイ派が姦通の現場を取り押さえた女を連れてきて、律法の定めのとおり石打の刑に処すべきかどいうか問うたとき、しつこく迫られたイエスは、「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」 ✽3 と答えている。それを聞いて人々は一人また一人と去っていった。最終的に、律法についてイエスは次のように言っている。

517 わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。(『マタイ伝』5:17

イエスは律法を一気に完成すると宣言しているのである。律法の完成は、ユダヤの伝統に沿ったものである。イエスには「天の国」が迫っているという認識があるから、律法を一気に完成すると宣言できるのである。そしてその前に地上の全面的破壊が来るのである。しかしユダヤの人々は、このように説くイエスの福音を信じなかった。ユダヤの民はあくまでもパレスティナの地に神の国を築くことを望んでいたのである。イエスはユダヤの伝統のなかから生まれたのであるが、イエスの説く「天の国」は、ユダヤの伝統から見れば正統派ではなかったのである。

それでは「天の国」とはどんなもので、どこにあるのであろうか。『ルカ伝』に次のようなイエスの言葉がある。

1720ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。「神の国は、見える形では来ない。21『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」 (『ルカ伝』17:20-21)

このイエスの言葉はいろいろに解釈できるであろうが、人の心の持ちようによってあるいは信仰によって、一人一人の心のなかに「天の国」が来る、あるいはすでに来ていると解釈するのは間違いであろう。というのはイエスは病気を治す奇跡を、神の業の表れと考えており、自分の福音の正当性の証と考えていたからである。別のところでイエスは、「わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」 ✽4と言っている。したがって上に引用した「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」の意味は、イエス自身がいまここに、あなたがたの間にいるということは、すでに神の業を行う者が来ているのであり、すなわち神の国が来ているのだ、と言っているのである。いずれにしても、天の国は物理的実体を伴うものではないのである。

イエスの教えは、「天の国」が迫っているという認識によって、革新的かつ急進的になったのである。「明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自ら思い悩む。その日の労苦は、その日だけで十分である」 ✽5とイエスが説くとき、イエスは明日が来ることを考えていないかのようである。また「もし片方の手があなたをつまづかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい」 ✽6とイエスが説くとき、片手で生きてゆくその後の人生を心配していないかのようである。なぜそのように説けるかというと、「天の国」が近いので、地上で永く生きてゆく必要がないからである。それほどイエスの天の国は真に迫ったものであり、直近に来ていたのである。一方ファリサイ派のラビたちは、この地上に神の義を打ち立てることを現実の目標としているので、イエスのように急進的な教え方はしていないのである。ユダヤの伝統はあくまで現実的であり、果てしなく時間はかかる企てかも知れないが、地上に「天の国」を打ち立てることにその目的があったのである。

イエスは天の国はどんなところか具体的には何も言っていないが、上に引用したように、物理的実体を伴うものではない、と言っている。そして地上の破壊の後に来る、と言っている。

天の国の到来が、たとえば天上から来るものでないとすれば、それはどこから来るのであろうか。物理的実体のない天の国が来る前に、順序として世界の終末が来なければならないのは、この世が一掃されなければ、天の国が占める余地がないからだということだろうか。これは矛盾しており、わたしたちの今日の常識に合わない。しかしわたしたちは、もちろん、世界のすべてを知っているわけではない。イエスの「天の国」の到来は、おそらく、イエスが天の国の息吹を感得したことによるのであろう。それは宗教的天才のみがなせることであったであろう、と想像するしかないと思われます。


「天の国」という表現はマタイ伝でのみ使われています。マタイはまた「神の国」も使っている。他の福音書はすべて「神の国」と表現しています。
✽1『創世記』2:7。
✽2『マルコ伝』3:4。
✽3『ヨハネ伝』8:7。
✽4『マタイ伝』12:28。
✽5『マタイ伝』6:34。
✽6『マルコ伝』9:43。
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公開日2010年1月21日
更新1月24日