阿含経を読む

数学者モッガラーナの問い

南伝 中部経典107
漢訳 中阿含経144
1
かようにわたしは聞いた。
ある時、世尊は、サーヴァッテー(舎衛城)のプッバーラーマ(東園)なるミガーラマーター(鹿子母)の講堂にとどまっておられた。その時、ガーナカ・モッガラーナ(数学者目 連)なる婆羅門があって、世尊のいますところに到り、世尊と、友情ゆたかにして、丁重なる挨拶をかわし、挨拶がおわると、その傍らに座した。傍らに座したガーナカ・モッガラーナなる婆羅門は、かように世尊にいった。
「友ゴータマ(瞿曇)よ、たとえば、このミガーラマーターの講堂にまいるのにも、順序を踏んで学ぶべきことがあり、順序を踏んで作すべきことがあり、また、順序を踏んで行くべき道がある。つまり、そのようにして最後の階段に到達する。また、友ゴータマよ、この婆羅門にも、順序を踏んで学ぶべきことがあり、順序を踏んで作すべきことがあり、また、順序をふんで行くべき道がある。つまり、ヴェーダ(吠陀)の学習がそれである。あるいはまた、友ゴータマよ、かの射手においても、順序を踏んで学ぶべきことがあり、順序をふんで作すべきことがあり、また、順序をふんで行くべき道がある。つまり、弓術がそれである。あるいは、また、友ゴータマよ、われら数学者の数学のいとなみにおいても、順序を踏んで学ぶべきことがあり、順序をふんで作すべきことがあり、また、順序をふんで行くべき道がある。つまり、算術においてである。けだし、友ゴータマよ、わたしどもは、もろもろの弟子を得ると、まず、このように教えしめる。<一つ、一つのもの。二つ、二つのもの、三つ、三つのもの。四つ、四つのもの。五つ、五つのもの。六つ、六つのもの。七つ、七つのもの。八つ、八つのもの。九つ、九つのもの。十、十のもの>と。そのように、友ゴータマよ、この法と律とにおいても、また、そのように、順序を踏んで学ぶべきこと、順序を踏んで作すべきこと、あるいは、順序をふんで行くべき道を示すことができるであろうか」
「婆羅門よ、この法と律とにおいても、また、順序を踏んで学ぶべきこと、順序を踏んで作すべきこと、あるいは、順序をふんで行くべき道を示すことができる。たとえば、婆羅門よ、熟練したる調馬師は、性質のよさそうな血筋のよい馬を手に入れると、まず最初に頭を正しくするように調教する。そして、それから、なおいろいろと調御をおこなう。それとおなじように、婆羅門よ、わたしもまた、まさに御すべき人を手に入れると、まず、このように指導するのである。<来れ、汝、比丘よ、汝はすべからく戒を具する者となれ、波羅提木叉(はらだいもくしゃ)に定める律儀にしたがって、正しい所行を身につけて住するがよい。小さな罪にも恐れをいだき、ただ学処を受持し、身にあてて修するがよい>と。そして、婆羅門よ、比丘がまさしく戒を具する者となり、波羅提木叉に定める律儀にしたがって、正しい所行を身につけて住し、小さな罪にも恐れをみて、ただ学処を受持し、学処を身に当てて修するとき、わたしは、さらに、彼に教えていう。<来れ、汝、比丘よ、汝はすべからく諸根の門を守るがよい。眼をもって色(物体)を見ても、その外相に捉われてはならない。あるいは、その細相に捉われてはならない。もしも眼根を制せずにいたならば、貪欲、失意、邪悪、不善のことどもの競いおこるであろうが故に、まさに、それを制することに専念し、眼根を守り、眼根を制御することにこそ就くがよい。
また、耳をもて声を聞いても、・・・
また、鼻をもて香をかぐにも、・・・
また、舌をもて味をあじわうにも、・・・
また、身をもって何者かに触るるにも、・・・
また、意をもって法(観念)を識知するにも、その外相に捉われてはならない。あるいは、その細相に捉われてはならない。もしもその意根を制せずにいたならば、貪欲、失意、邪悪、不善のことどもの競い起こるであろう。かかるが故に、まさに、それを制することに専念し、意根を守り、意根を制御することにこそ就くがよい>と。
そして、婆羅門よ、比丘がまさしく、諸根においてその門を守るとき、わたしは、さらに、彼に教えていう。<来れ、汝、比丘よ、汝はすべからく食(じき)において量を知るがよい。よくよく思惟して食をとるがよい。なぐさみのため、たのしみのため、嗜好のため、荘厳のためにとってはならない。ただまさに、この身の保持のため、存続のため、支障なからんがため、そして、この清浄の行をさらに継続せんがためにのみとるがよい。«かくして、わたしは、ことごとくふるき受(感覚)を破砕し、また、あたらしき受を生ぜしめぬであろう。さすれば、わたしは、なんの疾しいところもなくして、ただ安らかに生きることをうるであろう»と念じながら>と。
そして、また、婆羅門よ、比丘がまさしく、食において量を知るとき、わたしは、さらに、彼に教えていう。<来れ、汝、比丘よ、汝はすべからく行住坐臥のつつしみを修することに専念するがよい。昼は、経行(きんひん)と座禅とによって、いろいろの妨げ(五蘊)から心を清らかにするがよい。また、夜の初分(午後八時ごろ)にも、経行と座禅とによって、いろいろの妨げから心を清らかにするがよい。また、夜の中分(真夜中のころ)には、右脇を下にして、獅子のごとくにして臥すがよい。足に足のかさね、よく気をつけ、あきらかに意識して、やがて起きるべきことを考えながら。そして、夜の後分(午前四時ごろ)には起きいでて、また、経行と座禅とによって、いろいろの妨げからその心を清らかにするがよい>と。
そして、また、婆羅門よ、比丘がまさしく、行住坐臥のつつしみを修するとき、わたしは、さらに、彼に教えていう。<来れ、汝、比丘よ、汝はすべからく正念と正知を身につけるがよい。往くにも還るにもよく気をつけて行動するがよい。前を見るにも後ろを見るにもよく気をつけて行動するがよい。仰ぐにも伏するにもよく気をつけてなすがよい。大衣を着け、衣鉢を持するにも、よく気をつけてなすがよい。食うにも、飲むにも、噛むにも、味わうにもよく気をつけてなすがよい。大小便に行くにもよく気をつけてなすがよい。行くにも、立つにも、座するにも、寝るにも、醒むるにも、語るにも、黙するにも、よく気をつけてなすがよい>と。
そして、また、婆羅門よ、比丘がまさしく、正念と正知を身につけるとき、わたしは、さらに彼に教えていう。<来れ、汝、比丘よ、汝はすべからく樹下や、山の斜面や、洞窟や、山谷や、墓地や、叢林や、露地や、藁積みなど、ただ一人して住すべき人里はなれた空閑処をえらび、托鉢より帰って食をおわったならば、そこに到って結跏趺坐(けっかふざ)し、身を正して、正念が眼のあたりに現前するがごとくにして座するがよい。そして、この世間の貪欲を除き、貪欲を去った心をもって住し、貪欲より心を清浄にするがよい。また、瞋恚(しんに)を除いて、瞋恚を去った心をもって住し、一切の生類を哀愍して、瞋恚より心を清浄にするがよい。また、昏眠(こんみん)を除いて、昏眠を去った心をもって住し、明晰な感覚をもち、正念と正知ありて、昏眠より心を清浄にするがよい。また、掉悔(じょうげ)をのぞいて、落ち着いた心をもって住し、内に平静なる心をいだき、掉悔より心を清浄にするがよい。また、疑惑を除き、疑惑を越えて住し、もろもろの善法において遅疑することなく、疑惑より心を清浄にするがよいのである>と。
そのようにして、彼は、これらの五蘊を除き、心の汚れと叡智を傷つけるものを去り、ただ、諸欲を離れ、不善法を遠ざかり、なお、覚知と観察のいとなみは存するが、ただ諸欲を離れ不善法を遠ざかることによって生ずる喜びと楽しみをともなう初禅を具足して住する。また、彼は、覚知と観察のいとなみは鎮まり、心おのずから寂静となり、一向(ひとむき)となり、やがて、覚知と観察のいとなみもなくなり、ただ、定心より生ずる喜びと楽しみのみある第二禅を成就して住する。さらに、彼は、やがてその喜びをも離れるがゆえに、もはや、心はまったく平等にして、ただ、正念・正知にして、その身安らかに、かの聖者たちが、<捨と念ありて楽住す>というところの第三禅を成就して住する。さらに、また、彼は、楽をも断じて、苦をも断じ、かつ、すでに言うがごとく、さきには、喜びも悲しみも消えうせているのであるからして、もはや苦もなく楽もなく、ただ、心平らかにして、正念あり、正知ありて、清浄なる第四禅を成就して住するのである。
まことに、婆羅門よ、もろもろの比丘があり、なお有学にして、目的を達せず、やがては無上の安穏を得んものとして住する彼らに対しては、わたしはそのように教えるのである。だが、もろもろの比丘があり、もはや聖者にして、もろもろの煩悩を滅し、すでに究極地に達し、作すべきことを作し、重き担い物をおろし、最高の目的を遂げ、後有のきずなを断ち、完全なる智慧あり、すでに解脱している。そのような彼らに対しては、これらのことどもは、また、まさに現生にありて楽住に導くとともに、さらに正念・正知に導くものとなるであろう、と教えるのである」
頁をめくる
次頁
注解
ミガーラマーター(Migâramâtâ) サーヴァッティー(王舎城)の長者ミガーラ(Migâra、鹿子)なるものの子ブンナヴァッダナ(福増)の妻ヴィサーカー(Visâkhâ)のことであって、彼女はかってその舅ミガーラを説いて仏門に導いたので、よって「ミガーラの母」と称せられたという。東園の精舎の講堂は、その彼女の寄進によって成れるものであったので、「ミガーラマーターの講堂」(Migâramâtu pâsâda)と称せられる。
ヴェーダ(Veda=knowledge, wisdom) 知識を意味する。バラモンの根本経典の総称である。ただし、原文には、「学習」とのみ見えて、「ヴェーダ」は略されている。
法と律(dhamma-vinaya) 教法と戒律である。それを具するものの意において教団を示す。
波羅提木叉(pâtimokkha=the collection of various precepts) 比丘の持すべき禁戒の条々を記したもの。漢訳はそれを音写してかくいう。戒本である。
学処(sikkhapâda=precept) 学ぶべき処。すなわち戒目である。
諸根(indriya=faculty) 人間のもつ六つの感官(眼、耳、鼻、舌、身、意)。
経行(cankamana=to walk about) 運動のため一定の地域を歩くこと。
いろいろの妨げ(pance nivanaηna=five obstacles) 心性を覆うもの。貪欲蓋、忿怒蓋、昏眠蓋、掉悔蓋および疑蓋の五つ。
大衣(sanghâti、僧迦衣) 比丘に三衣あり、大衣はもっとも大きく、托鉢などのときに携える。
空閑処(aranna=wilderness) 村や町をすこし離れた静かな森や原野。また、「阿蘭若」と音写する。
昏眠(thinamiddha=stiffness) 心暗くして鈍感なること。
掉悔(uddhaccakukkucca=flurry and worry) 心たかぶりて静かならず、あとで後悔すること。
覚知と観察(vitakka-vicâra=perception and investigation) 漢訳では、旧訳では「覚観」と訳し、新訳では「尋伺」と訳した。
定(samâdhi=concentrated state of mind) 音写して三昧という。心を一境に専注して散動せしめざること。
捨(upekhâ=zero point between joy and sorrow) 心平等にして喜悲なき状態である。
有学(sekha=one who has still to learn) なお学習すべきもののある者というほどの意。
後有のきずな(bhavasamyojana=the fetter of rebirth) なお迷いの生に結縛されていることをいう。
現生にありて楽住(ditthadhamma-sukhavihârâna=dwelling at ease in this world) この世にあってやすらけく生きること。
更新2007年6月15日