阿含経を読む

数学者モッガラーナの問い

南伝 中部経典107
漢訳 中阿含経144
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そのように仰せられた時、ガーナカ・モッガラーナなる婆羅門は、世尊にむかって、つぎのようにいった。
「では、尊者ゴータマによって、かくのごとく教えられ、かくのごとく導かれた尊者ゴータマのもろもろの弟子たちは、みなよく究極の目的たる涅槃に到達することをうるであろうか。それとも、ある者はえないであろうか」
「婆羅門よ、わがもろもろの弟子たちのある者は、そのように教えられ、そのように導かれて、究極の目的である涅槃に到達するが、しかし、またある者は到達することをえない」
「では、尊者ゴータマよ、まさしく涅槃は存し、まさしく涅槃にいたる道は存し、また、尊者ゴータマが導師として存するにもかかわらず、いったい、いかなる因(原因)があり、いかなる縁(条件)があって、尊者ゴータマのもろもろの弟子たちは、尊者ゴータマによってそのように教えられ、そのように導かれて、そのある者は究極の目的である涅槃に到達し、またある者は到達することをえないのであろうか」
「婆羅門よ、では、そのことについて、いま、わたしから、そなたに問うてみたいことがある。そなたは、思うように、それに答えるがよい。婆羅門よ、これについてそなたはどう思うか。そなたは、ラージャガハ(王舎城)に到る道をよく知っているであろうか」
「しかり、友よ、わたしはラージャガハに到る道をよく知っている」
「では、婆羅門よ、これをいかに考えるであろうか。ここに一人のひとがあって、ラージャガハに行こうとして、ここにやって来て、そなたに近づき、かように語りかけたとするがよい。<友よ、わたしはラージャガハに行きたいと思う。願わくば、そのラージャハに到る道を教えたまえ>と。すると、そなたは、彼にかように語るであろう。<よろしい、わが親愛なる友よ、この道がラージャガハに通ずる。これに沿うてしばらく行くがよい。これをしばらく行くと、そなたは、これこれの名の村を見るであろう。それをしばらく行くと、そなたは、こんどは、これこれの名の町を見るであろう。それをまた、しばらく行くがよい。それをしばらく行くと、やがて、ラージャガハの美しい林園、美しい森、美しい原野、そして、美しい池を見るであろう>と。しかし、彼は、そなたによって、そのように教えられ、そのように導かれても、間違った道をとって、反対のほうにむかって行く。しかるに、また一人のひとがあって、彼もまたラージャガハに行かんことを欲する。彼はそなたに近づいて、かように語りかけたとする。<友よ、わたしはラージャガハに行きたいと思う。願わくば、そのラージャハに到る道を教えたまえ>と。すると、そなたは、彼にかように語るであろう。<よろしい、わが親愛なる友よ、この道がラージャガハに通ずる。これに沿うてしばらく行くがよい。これをしばらく行くと、そなたは、これこれの名の村を見るであろう。それをしばらく行くと、そなたは、こんどは、これこれの名の町を見るであろう。それをまた、しばらく行くがよい。それをしばらく行くと、やがて、ラージャガハの美しい林園、美しい森、美しい原野、そして、美しい池を見るであろう>と。彼は、そなたに、そのように教えられ、そのように導かれて、安全にラージャガハに到るであろう。とすると、婆羅門よ、まさしくラージャガハは存し、ラージャガハに到る道は存し、そなたが導師として存し、しかも、そのように教えられ、そのように導かれる。いったい、いかなる因があり、いかなる縁があれば、一人はそのように、間違った道をとって、反対の方にむかって行き、また一人はそのように、安全にラージャガハに到ることをうるのであろうか」
「友ゴータマよ、それをわたしが、どうすることができましょうか。わたしは、友ゴータマよ、ただ道を教えるのみである」
「まことに、まさしく、それとおなじように、婆羅門よ、まさしく涅槃は存し、涅槃に到る道は存し、また、わたしが導師として存する。しかもなお、わたしのもろもろの弟子たちは、わたしによって、そのように教えられ、そのように導かれて、なおかつ、あるものは究極の目的である涅槃に到達し、また、あるものは到達することをえない。それを、婆羅門よ、わたしが、どうすることができようか。婆羅門よ、わたしはただ道を教えるのみである」
そのようのいわれて、ガーナカ・モッガラーナなる婆羅門は、世尊にこのようにいった。
「友ゴータマよ、ここにもろもろの人ありて、信なくして、ただ生活のために、家よりいでて出家となる。彼らは、悪知恵があり、不正直にして、偽りおおく、気が変わりやすく、法螺ふきで、いい加減で、下品で口の軽いお喋りで、諸根においてはよくその門を守らず、食においてはその量を知らず、行住坐臥においてはつつしみを修せず、心の平安をもとめず、学処にたいしては深い尊敬をしめさず、贅沢で、無気力で、堕落することには人に先んじ、閑居することには尻込みし、怠惰で、精進がなく、忘れやすく、思慮がなく、定心なく、心散乱して、無智・蒙昧であるとする。―だが、しかし、尊者ゴータマは、そのような人々とは、ともに住したまぬであろう。
しかし、また、世にはもろもろの善男子があって、信ありて、家よりいでて出家となる。彼らは、悪賢からず、不正直ならず、偽りなく、移り気ならず、尊大でなく、いい加減でなく、下品で口の軽いお喋りでなく、諸根においてはよくその門を守り、食においてはその量を知り、行住坐臥においてはつつしみを修し、よく心の平安をもとめ、学処にたいしては深い尊敬をもち、贅沢をもとめず、無気力ならず、ずるいことをせず、閑居するときには先に立ち、気力をふるい起こし、精進につとめ、正念を確立し、思慮あきらかに、定心あり、心散乱せず、智慧ありて蒙昧ではない。―尊者ゴータマは、そのような人々とこそ、ともに住したもうであろう。
たとえば、友ゴータマよ、あらゆる樹根の香のなかにおいては、黒き栴檀香はその最上なりとせられ、また、あらゆる樹木の香のなかにおいては、赤き栴檀香はその最上とせられ、あるいは、あらゆる花の香になかにおいては、ヴァッシカ(ジャスミン)の香がその最上とせられるがごとく、まさしくそのごとく、尊者ゴータマの教誡は、今日において説かれるさまざまの教えのなかにおいて最高のものである。
素晴らしいかな、友ゴータマよ、素晴らしいかな、友ゴータマよ、たとえば、友ゴータマよ、倒れたるを起こすががごとく、覆われたるを露わすがごとく、迷えるものに道を示すがごとく、あるいは、暗闇のなかに燈火をもたらして、<眼あるものは見よ>というがごとく、あるいは、さまざまの方便をもって法を説きたもうた。わたしはいま、尊者ゴータマに帰依したてまつり、また、法と比丘僧迦(サンガ)とに帰依したてまつる。願わくば、尊者ゴータマの、今日より以後、生涯かわることなく帰依したてまつる優婆塞として、わたしを納れたまわんことを」
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注解
町(nigama=a small town, market town) 市場のある町である。村と都市との中間的存在。
反対の方(pacchâmukha=looking westward) 直訳すれば「西の方をむいて」であるが、サーヴァッティーからラージャガハに行くのには、西の方をむいて行けば、「反対の方」になるのである。
優婆塞(upâsaka) 在家の信者。
更新2007年6月15日