阿含経を読む

ヴァッチャゴッタの問い

南伝 中部経典72
漢訳 雑阿含経34,24
1
かようにわたしは聞いた。
ある時、世尊は、ラージャガワ(王舎城)のヴェールヴァナ(竹林)なる栗鼠養餌所にましました。
その時、ヴァッチャ(婆蹉)姓の遊行者が世尊のましますところに到り、世尊と挨拶をかわし、友情と礼譲にみちた言葉を交わして、その傍らに座した。
傍らに座したヴァッチャ姓の遊行者は、世尊に申しあげた。
「友ゴータマよ、友ゴータマは、<世界は常住である。これが真実であって、他は虚妄である>と、そのような意見でありましょうか」
「ヴァッチャよ、わたしは、<世界は常住である。これが真実であって、他は虚妄である>とは言わない」
「では、友ゴータマよ、友ゴータマは、<世界は無常である。これが真実であって、他は虚妄である>と、そのような意見でありましょうか」
「ヴァッチャよ、わたしは、<世界は無常である。これが真実であって、他は虚妄である>とは言わない」
「では、友ゴータマよ、友ゴータマは、<世界は辺際(かぎり)がある。これが真実であって、他は虚妄である>と、そのような意見でありましょうか」
「ヴァッチャよ、わたしは、<世界は辺際である。これが真実であって、他は虚妄である>とは言わない」
「では、友ゴータマよ、友ゴータマは、<世界は辺際がない。これが真実であって、他は虚妄である>と、そのような意見でありましょうか」
「ヴァッチャよ、わたしは、<世界は辺際がない。これが真実であって、他は虚妄である>とは言わない」
「では、友ゴータマよ、友ゴータマは、<霊魂と身体は同一である。これが真実であって、他は虚妄である>と、そのような意見でありましょうか」
「ヴァッチャよ、わたしは、<霊魂と身体は同一である。これが真実であって、他は虚妄である>とは言わない」
「では、友ゴータマよ、友ゴータマは、<霊魂と身体は各別である。これが真実であって、他は虚妄である>と、そのような意見でありましょうか」
「ヴァッチャよ、わたしは、<霊魂と身体は各別である。これが真実であって、他は虚妄である>とは言わない」
「では、友ゴータマよ、友ゴータマは、<人間は死後もなお存する。これが真実であって、他は虚妄である>と、そのような意見でありましょうか」
「ヴァッチャよ、わたしは、<人間は死後もなお存する。これが真実であって、他は虚妄である>とは言わない」
「では、友ゴータマよ、友ゴータマは、<人間は死後は存しない。これが真実であって、他は虚妄である>と、そのような意見でありましょうか」
「ヴァッチャよ、わたしは、<人間は死後は存しない。これが真実であって、他は虚妄である>とは言わない」
「では、友ゴータマよ、友ゴータマは、<人間は死後もなお存し、また存しない。これが真実であって、他は虚妄である>と、そのような意見でありましょうか」
「ヴァッチャよ、わたしは、<人間は死後もなお存し、また存しない。これが真実であって、他は虚妄である>とは言わない」
「では、友ゴータマよ、友ゴータマは、<人間は死後もなお存するのでもなく、また存しないのでもない。これが真実であって、他は虚妄である>と、そのような意見でありましょうか」
「ヴァッチャよ、わたしは、<人間は死後もなお存するのでもなく、また存しないのでもない。これが真実であって、他は虚妄である>とは言わない」
「友ゴータマよ、友ゴータマは、<世界は常住である。これが真実であって、他は虚妄である>というのかと問うと、そうではないという。<世界は無常である。・・・>というのかと問うと、そうではないという。また<世界は辺際がある。・・・>というのかと問うと、そうではないという。また<世界は辺際がない。・・・>というのかと問うと、そうではないという。あるいは<霊魂と身体は同一である。・・・>というのかと問うと、そうではないという。<霊魂と身体は各別である。・・・>というのかと問うと、そうではないという。あるいはまた、<人間は死後もなお存する。・・・>というのかと問うと、そうではないといい、<人間は死後は存しない。・・・>というのかと問うと、そうではないといい、<人間は死後もなお存し、また存しない。・・・>というのかと問うと、そうではないといい、人間は死後もなお存するのでもなく、また存しないのでもない・・・>というのかと問うと、そうではないという。友ゴータマは、いったい、いかなる不利を見るがゆえに、このように、これら一切の意見を却けるのであるか」
そこで、世尊は、ヴァッチャ姓の婆羅門に告げていった。
「ヴァッチャよ、<世界は常住である>とは、それは独断に陥っているのである。意見の密林、意見の難路、意見の紛争、意見の乱闘、意見のしがらみに縛せられているのである。それは苦を伴い、破滅を伴い、不安を伴い、苦悩を伴う。そして、厭離、離食、滅尽、寂静、智通、正覚、涅槃には役立たない。ヴァッチャよ、<世界は常住である>とは、・・・<世界は辺際がある>とは、・・・<世界は辺際がない>とは、・・・<霊魂と身体は同一である>とは、・・・<霊魂と身体は各別である>とは、・・・<人間は死後もなお存する>とは、<人間は死後は存しない>とは、・・・<人間は死後もなお存し、また存しない>とは、・・・あるいは、<人間は死後もなお存するのではなく、また存しないのでもない>とは、それは独断に陥っているのである。意見の密林、意見の難路、意見の紛争、意見の乱闘、意見のしがらみに縛せられているのである。それは苦を伴い、破滅を伴い、不安を伴い、苦悩を伴う。そして、厭離、離食、滅尽、寂静、智通、正覚、涅槃には役立たないのである。ヴァッチャよ、わたしは、このような不利を見るがゆえに、このように、これらいずれの意見にも依らないのである」
「友ゴータマには、独断に陥ることはないのであろうか」
「ヴァッチャよ、わたしには、独断に陥るということは除かれた。ヴァッチャよ、実にわたしは、このように見るのである。すなわち、かくして、色(肉体)があり、かくして色の生起があり、かくして色の滅尽がある。かくして受(感覚)があり、かくして受の生起があり、かくして受の滅尽がある。かくして想(表象)があり、かくして想の生起があり、かくして想の滅尽がある。かくして行(意志)があり、行の生起があり、かくして行の滅尽がある。また、かくして識(意識)があり、識の生起があり、識の滅尽がある、と。だからして、わたしは、一切の幻想を捨て、一切の迷妄を離れ、一切の我見を断ち、わが物という考えを捨て、われという高ぶりの眠れる素質をも断ち、離れ、滅し、捨て、拒みなどして、もはや執著するところなくして解脱した、というのである」
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注解
ラージャガハ(王舎城)云々 この前序は、漢訳によった。南伝では、サーヴァッティー(舎衛城)でのこととなっているが、ラージャガハでのこととするのが正しいと思われる。
人間(tathâgata) 一般には、如来もしくは如去と訳せられる。その時には「仏陀」ということばとして用いられる。だが、ここでは、むしろ、「かくの如く来り、かくの如く去る者」すなわち「人間」を意味することばとして用いられている。
独断に陥る(ditthigata=resorting to dogma) 漢訳では「見に陥る」と訳した。
色(rûpa) 以下受・想・行・識の五蘊については後出「今日まさに作すべきことをなせ」の経を参照のこと。以下そこから転記する。
1 色(rûpa=material quality) 物質的要素。すなわち肉体である。
2 受(vedanâ=feeling, sensation) 以下の四つは、人間を構成する精神的要素であって、その第一には感覚である。感覚は受動的なものであるから、漢訳では受をもって訳したものと思われる。
3 想(saññâ=perception) 表象(心に像をえがくこと)である。与えられた感覚によって表象を構成する過程がそれである。
4 行(sankhâra=preparation, a purposive state of mind) 意思(intention)もしくは意志(will)といわれる心的過程がそれである。
5 識(viññâηa=consciousness) 対象の認識を基礎とし、判断を通して得られる心所である。
眠れる素質(anusaya=the latent disposition) 漢訳では「随眠」と訳した。
更新2007年6月16日