阿含経を読む

ヴァッチャゴッタの問い

南伝 中部経典72
漢訳 雑阿含経34,24
2
すると、ヴァッチャは、さらに問うていった。
「では、友ゴータマよ、そのようにして解脱したる心をもてる比丘は、いったい、いずこに往きて生まれるのであろうか」
「ヴァッチャよ、往きて生まれるというのは、適当ではないであろう」
「では、友ゴータマよ、しからばいずこにも往きて生まれないのであろうか」
「ヴァッチャよ、往きて生まれないというのも、また適当ではないであろう」
「では、友ゴータマよ、しからば、往きて生まれ、また往きて生まれないのであろうか」
「ヴァッチャよ、、往きて生まれ、また往きて生まれないというのも、また適当ではないであろう」
「では、友ゴータマよ、しからば、往きて生まれるにもあらず、また、往きて生まれないのでもないのであろうか」
「ヴァッチャよ、往きて生まれるにもあらず、また、往きて生まれないのでもないというのも、また適当ではない」
「友ゴータマよ、わたしはもうまったく判らなくなった。迷ってしまった。友ゴータマとの以前の対話によって、わたしが得た深い確信すらも、すっかり消えてしまった」
「ヴァッチャよ、汝がまったく判らなくなった、迷ってしまったというのも、当然であろう。ヴァッチャよ、この教法は、はなはだ深く、知りがたく、悟りがたく、寂静、殊勝、思慮を絶し、微妙であって、よく知者のみが知りうるところである。それは、他の見解にしたがっている者、他の信仰をもっている者、異なる権威に従っている者、そして、異なる行をおさめ、異なる道をあるいている汝には、到底知られ難いであろう。だが、ヴァッチャよ、いま、わたしは、汝に問おう。汝の思うままに答えるがよい。
ヴァッチャよ、これをいかに思うか。もし汝の前に火が燃えているとしたならば、汝は<わが前に火が燃えている>と知るだろうか」
「友ゴータマよ、もし、わたしの前に火が燃えていれば、わたしは、むろん、<わが前に火が燃えている>と知るであろう」
「では、ヴァッチャよ、もし汝が、<この火は何によって燃えているか>と問われたならば、ヴァッチャよ、汝は何と答えるであろうか」
「友ゴータマよ、わたしは、<おお、わたしの前に火が燃えている。この火は、草や薪があるから燃えているのだ>と答えるであろう」
「では、ヴァッチャよ、もし汝の前のその火が消えたならば、汝は、<わが前のその火は消えた>と知るであろうか」
「友ゴータマよ、もし、わたしの前のその火が消えたならば、わたしは、むろん、<わが前のその火は消えた>と知るであろう」
「では、ヴァッチャよ、もし汝に<その火は、ここからいずこに行ってしまったのか。東か、西か、あるいは、北か、南か>と問うものがあったならば、ヴァッチャよ、汝は、かく問われて、なんと答えるであろうか」
「友ゴータマよ、それは見当違いというものである。友ゴータマよ、実に、かの火は、草や薪があったから燃えたのであり、それが尽きて、あらたに加えられず、もはや燃えるものがなくなって消えた、というべきである」
「ヴァッチャよ、その通りである。そして、わたしもまた、そのように説くのである。かの色(肉体)をもって人間を語る者には、人間のその色が捨てられて、その頭を伐られその根を断たれたターラ(多羅)の樹のようになるとき、その人はすでになく、また生ぜざるものとなるであろう。ヴァッチャよ、実に、その時、人間は色というものから解脱するのであって、それは、甚深無量にして底なき大海のごとく、往きて生ずるというも当らず、また、往きて生じまた生ぜずというも当たらず、あるいは、往きて生ずるにもあらず、往きて生ぜざるにもあらずというも当たらないのである。そして、かの受(感受)をもって人間を語る者にも、・・・かの想(表象)をもって人間を語る者にも、・・・かの行(意志)をもって人間を語る者にも、あるいは、かの識(意識)をもって人間を語る者にも、人間のその識が捨てられて、その頭を伐られその根を断たれたターラの樹のようになる時、その人はすでになく、また生ぜざるものとなるであろう。ヴァッチャよ、実に、その時、人間は識というものから解脱するのであって、それは、甚深無量にして底なき大海のごとく、往きて生ずるというも当たらず、往きて生ぜずというも当たらず、また、往きて生じまた生ぜずというも当たらず、あるいは、往きて生ずるにもあらず、往きて生ぜざるにもあらずというも当たらないのである」
「友ゴータマよ、それは、あたかも、村もしくは町のちかくに、大きなサーラ(沙羅)の樹があって、それが、ながい間、葉おち、枝おち、樹皮も枯れ朽ちて、ただ心材のみがひとり堅固にそそり立っているかのように、そのように、いま友ゴータマの説かれるところは、枝葉おち尽し、樹皮も脱落して、ただ心材のみがひとり確立している。素晴らしいかな、友ゴータマよ、素晴らしいかな、友ゴータマよ。たとえば、倒れたるを起こすがごとく、覆われたるを露わすがごとく、迷える者に道を示すがごとく、あるいはまた、暗闇のなかに燈火をもたらして、<眼あるものは見よ>というがごとく、そのように、友ゴータマは、さまざまな方便をもって法を示したもうた。ここに、わたしは、尊者ゴータマと、その法と、比丘僧迦に帰依したてまつる。願わくは、尊者ゴータマの、今日よりはじめて終生かわることなく帰依したてまつる優婆塞としてわたしを許したまわんことを」
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開題から
ヴァッチャゴッタとあるのは、ヴァッチャ(婆蹉)姓の一人の遊行者であって、彼は、ラージャガハ(王舎城)付近に住し、しばしば、釈尊もしくはその門下に接触し、いろいろの問いを呈して、その答えを求めた。
それは、かの頃の思想家たちの、流行の論題であったらしく、阿含経典のなかにもしばしば見受けられるところであって、つぎのような課題が並べ記されている。
a この世界は時間的に無限であるか、有限であるか。
b この世界は空間的に有限であるか、無限であるか。
c 霊魂と身体は同一であるか、各別であるか。
e 人間は死後なお存するか、存せざるか。
だが、それらの問いにたいして、釈尊は、まったく、決定的な答えを与えなかった。答えを語ることは、独断に陥ることであるというのが、釈尊の見解であった。
更新2007年6月16日