阿含経を読む

()の喩えの経

南伝 中部経典63
漢訳 中阿含経221
1
かようにわたしは聞いた。
ある時、世尊は、サーヴァッテー(舎衛城)のジェータ(祗陀)林なるアナータビンディカ(給孤独)の園にましました。その時、空閑処に独り座していた長老マールンクヤプッタ(摩羅迦子)の心中に、つぎのような考えが生じた。
「どうも、世尊は、これらの問題については、はっきりと説いてくださらない。捨ておかれて、答えを拒みたまう。すなわち、<この世界は常住であるか、無常であるか。この世界は辺際があるか、辺際がないか。あるいは、霊魂と身体はおなじであるか、各別であるか。また、人は死後にもなお存するのであるか、存しないのであるか、それとも、人は死後には存するのでもなく、存しないのでもないのであろうか>と。世尊は、それらのことをわたしのために説いてくださらない。わたしは、世尊が、それらのことを、わたしのために説いてくださらないのが残念である。不服なのである。いま、わたしは、世尊のところに行って、もう一度それらのことを問おうと思う。そして、もし、世尊が、わたしのために、<世界は常住である>とか、あるいは、<世界は無常である>とか、あるいは、<世界は辺際がある>とか、あるいは、<世界は辺際がない>とか、あるいは、<霊魂と身体はおなじである>とか、あるいは、<霊魂と身体は各別である>とか、あるいは、<人は死後もなお存する>とか、あるいは、<人は死後にはもはや存しない>とか、あるいはまた、<人は死後には存するのでもなく、存しないのでもない>と説いてくださったならば、わたしは世尊の御許においてこの清浄の行を修しつづけるであろう。だが、もし、世尊が、わたしのために、<世界は常住である>とも、あるいは、<世界は無常である>とも、・・・あるいはまた、<人は死後には存するのでもなく、存しないのでもない>とも説いてくださらなかったならば、わたしは、修学を拒否して、世俗に還ろう」
そこで、長老マールンクヤプッタは、夕刻にあたり、黙座より起って、世尊のましますところにいたり、世尊を礼拝して、その傍らに座した。
傍らに座した長老マールンクヤプッタは、世尊に申しあげた。
「世尊よ、わたしは、空閑処に独り座している時、心中につぎのような考えが浮かびました。<どうも、世尊は、これらの問題につては、はっきりと説いてくださらない。捨ておかれて、答えを拒みたまう。すなわちこの世界は常住であるか、無常であるか。・・・人は死後には存するのでもなく、存しないのでもないのであろうか>と。世尊は、これらのことをわたしのために説いてくださらないのが残念であります。不服なのであります。だから、いま、わたしは、世尊のところに参りまして、もう一度それらのことをおたずねするのでございます。
もし、世尊が、わたしのために、<世界は常住である>とか、あるいは、<世界は無常である>とか、・・・あるいはまた、<人は死後にも存するのではなく、存しないのでもない>とか、説いてくださったならば、わたしは、なお世尊の御許においてこの清浄の行を修しつづけるでありましょう。だが、もし、世尊が、わたしのために、<世界は常住である>とも、あるいは、<世界は無常である>とも、・・・あるいはまた、<人は死後には存するのでもなく、存しないのでもない>とも説いてくださらなかったならば、わたしは、修学を拒否して、世俗に還るでありましょう。
もし、世尊が、<世界は無常である>と知りまもうならば、わたしのために<世界は常住である>とお説きください。もし世尊が、<世界は無常である>と知りまもうならば、わたしのために、<世界は無常である>とお説きください。もしまた世尊が、<世界は常住である>とも、<世界は無常である>とも知りたまわずば、つまるところ、<わたしは知らない、わたしは判らない>というのが、正直というものでありましょう。
もし、世尊が、<世界は辺際がある>と知りまもうならば、わたしのために<世界は辺際がある>とお説きください。もし世尊が、<世界は辺際がない>と知りまもうならば、わたしのために、<世界は辺際がない>とお説きください。もしまた世尊が、<世界は辺際がある>とも、<世界は辺際がない>とも知りたまわずば、つまるところ、<わたしは知らない、わたしは判らない>というのが、正直というものでありましょう。
また、もし世尊が、<霊魂と身体はおなじである>とか、・・・
また、もし世尊が、<人は死後もなお存する>とか、・・・とも知り給わずば、つまるところ、<わたしは知らない、わたしは判らない>というのが、正直というものでありましょう」
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注解
説いてくださらない(abyâ kata=not declared) 漢訳では「無記」と訳されたことばである。
更新2007年6月17日