阿含経を読む

()の喩えの経

南伝 中部経典63
漢訳 中阿含経221
3
「マールンクヤプッタよ、<世界は常住なりとの見解の存する時、そのとき清浄の行がなる>ということはない。マールンクヤプッタよ、<世界は無常なりとの見解が存する時、そのとき清浄の行がなる>ということもまたない。マールンクヤプッタよ、世界は常住なりとの見解の存する時にも、あるいは、世界は無常なりとの見解が存する時にも、やっぱり、生はあり、老はあり、死はあり、愁・悲・苦・憂・悩はある。そして、わたしは、いまこの現生においてそれを克服することを教える。
マールンクヤプッタよ、<世界は辺際があるとの見解が存する時、そのとき清浄の行がなる>ということもまたない。マールンクヤプッタよ、<世界は辺際がないとの見解が存する時、そのとき清浄の行がなる>ということもまたない。マールンクヤプッタよ、世界は辺際があるとの見解が存する時にも、あるいは、世界は辺際がないとの見解が存する時にも、やっぱり、生はあり、老はあり、愁・悲・苦・憂・悩はある。わたしは、いまこの現生においてそれを克服することを教える。
マールンクヤプッタよ、<霊魂と身体とはおなじであるとの見解が存する時、そのとき清浄の行がなる>ということもまたない。マールンクヤプッタよ、<霊魂と身体とは各別であるとの見解が存する時、そのとき清浄の行がなる>ということもまたない。マールンクヤプッタよ、霊魂と身体はおなじでるとの見解が存する時にも、あるいは、霊魂と身体は各別であるとの見解が存する時にも、やっぱり、生はあり、老はあり、愁・悲・苦・憂・悩はある。わたしは、いまこの現生においてそれを克服することを教えるのである。
また、マールンクヤプッタよ、<人は死後もなお存するとの見解が存する時、そのとき清浄の行がなる>ということはない。マールンクヤプッタよ、<人は死後には存しないとの見解が存する時、そのとき清浄の行がなる>ということもまたない。マールンクヤプッタよ、人は死後にもなお存するとの見解が存する時にも、あるいは、人は死後には存しないとの見解が存する時にも、やっぱり、生はあり、老はあり、愁・悲・苦・憂・悩はある。そして、わたしは、いまこの現生においてそれを克服することを教えるのである。
また、マールンクヤプッタよ、<人は死後には存し、かつ存しないとの見解が存する時、そのとき清浄の行がなる>ということもない。マールンクヤプッタよ、<人は死後には存するのでもなく、存しないのでもないとの見解が存する時、そのとき清浄の行がなる>ということもない。マールンクヤプッタよ、人は死後には存し、かつ存しないとの見解がある時にも、あるいは、人は死後には、存するのでもなく、存しないのでもないとの見解が存する時にも、やっぱり、生はあり、老はあり、愁・悲・苦・憂・悩はある。そして、わたしは、いまこの現生においてそれを克服することを教えるのである。
だからして、マールンクヤプッタよ、わたしによって説かれなかったことは、説かれないままに受持するがよろしい。また、わたしによって説かれたことは、説かれたままに受持するがよろしい。では、マールンクヤプッタよ、わたしによって説かれなかったこととは、何であろうか。いわく、<世界は常住なり>とは、わたしによって説かれなかった。<世界は無常なり>とは、わたしによって説かれなかった。<世界は辺際がある>とは、わたしによって説かれなかった。<世界は辺際がない>とは、わたしによって説かれなかった。<霊魂と身体とはおなじである>とは、わたしによって説かれなかった。<霊魂と身体とは各別である>とは、わたしによって説かれなかった。また、<人は死後もなお存する>とは、わたしによって説かれなかった。また、<人は死後にはもはや存しない>とは、わたしによって説かれなかった。あるいは、<人は死後存し、かつ存しない>とは、わたしによって説かれなかった。また、<人は死後には存するのでもなく、存しないのでもない>とは、わたしによって説かれなかった。では、マールンクヤプッタよ、それらのことは、何故わたしによって説かれなかったのであろうか。マールンクヤプッタよ、それは、他でもない、なんの利益もなく、清浄の行のはじめにもならず、厭離・離貪・滅尽・寂静・智通・正覚・涅槃にも役立たないからである。その故にわたしはそれらのことを説かなかったのである。
マールンクヤプッタよ、では、わたしによって説かれたこととは何であろうか。いわく、<こは苦である>とわたしによって説かれた。また、<こは苦の生起である>とわたしによって説かれた。また、<こは苦の滅尽である>とわたしによって説かれた。また、<こは苦の滅尽にいたる道である>とわたしによって説かれた。では、マールンクヤプッタよ、それらのことは、何故わたしによって説かれたのであろうか。マールンクヤプッタよ、それは、他でもない。利益があるからであり、清浄の行のはじめとなるからであり、厭離・離貪・滅尽・寂静・智通・正覚・涅槃に役立つからである。その故にわたしはこれらのことを説いたのである。マールンクヤプッタよ、だからして、わたしによって説かれたことは、説かれたままに受持するがよろしい」
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更新2007年6月17日