源氏物語 33 藤裏葉 ふじのうらは

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原文 現代文
33.1 夕霧と雲居雁の相思相愛の恋
御いそぎのほどにも、宰相中将は眺めがちにて、ほれぼれしき心地するを、「かつはあやしく、わが心ながら執念きぞかし。あながちにかう思ふことならば、関守の、うちも寝ぬべきけしきに思ひ弱りたまふなるを聞きながら、同じくは、人悪からぬさまに見果てむ」と念ずるも、苦しう思ひ乱れたまふ。
女君も、大臣のかすめたまひしことの筋を、「もし、さもあらば、何の名残かは」と嘆かしうて、あやしく背き背きに、さすがなる御もろ恋なり。
大臣も、さこそ心強がりたまひしかど、たけからぬに思しわづらひて、「かの宮にも、さやうに思ひ立ち果てたまひなば、またとかく改め思ひかかづらはむほど、人のためも苦しう、わが御方ざまにも人笑はれに、おのづから軽々しきことやまじらむ忍ぶとすれどうちうちのことあやまりも、世に漏りにたるべし。とかく紛らはして、なほ負けぬべきなめり」と、思しなりぬ。
上はつれなくて、恨み解けぬ御仲なれば、「ゆくりなく言ひ寄らむもいかが」と、思し憚りて、「ことことしくもてなさむも、人の思はむところをこなり。いかなるついでしてかはほのめかすべき」など思すに、三月二十日、大殿の大宮の御忌日にて、極楽寺に詣でたまへり。
明石の姫君が入内の準備中も、宰相の夕霧は空ろな気持ちがして、「何だか妙だな、自分ながら、執念深い、どうしても思い続けることなら、通い路の関守が寝てほしいように、内大臣も弱気になっていると聞いているが、どうせなら、外聞の悪くならないように最後までやり通そう」と思い悩んでいる。
女君も、大臣が仄めかした話が、「本当なら、見捨てられるかも知れない」と嘆いたりするが、変に背を向けていても、思い合っている。
内大臣もあれ程強がっていたが、意地を通す甲斐がないと思いはじめ、「中務の宮が夕霧を婿と決めてしまえば、また改めて婿探しに時間がかかるし相手にも面倒をかけるだろうし、わたしも物笑いにされるだろう、軽々しい噂の種にもなろうし、隠しても、家庭内の教育の誤りが、世間に漏れるだろう。なんとか世間体を繕って、ここは頭を下げよう」と決心した。
うわべはさりげなくて、心の中では憎み合っている夕霧との仲なので、「直裁に申し出るのもどうか」と憚って「こと改めて申し出るのも世間に笑われそうで、どんな機会に言い出そうか」と思いあぐねていたが、三月十日、内大臣は大宮の命日に極楽寺に詣でた。
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33.2 三月二十日、極楽寺に詣でる
君達皆ひき連れ、勢ひあらまほしく、上達部などもあまた参り集ひたまへるに、宰相中将、をさをさけはひ劣らず、よそほしくて、容貌など、ただ今のいみじき盛りにねびゆきて、取り集めめでたき人の御ありさまなり。
この大臣をば、つらしと思ひきこえたまひしより、「見えたてまつるも、心づかひせられて、いといたう用意し、もてしづめてものしたまふを、大臣も、常よりは目とどめたまふ。御誦経など、六条院よりもせさせたまへり。宰相君は、まして、よろづをとりもちて、あはれにいとなみ仕うまつりたまふ。
夕かけて、皆帰りたまふほど、花は皆散り乱れ、霞たどたどしきに、大臣、昔を思し出でて、なまめかしううそぶき眺めたまふ。宰相も、あはれなる夕べのけしきに、いとどうちしめりて、「雨気あり」と、人びとの騒ぐに、なほ眺め入りてゐたまへり。心ときめきに見たまふことやありけむ、袖を引き寄せて、
などか、いとこよなくは勘じたまへる。今日の御法の縁をも尋ね思さば、罪許したまひてよや。残り少なくなりゆく末の世に、思ひ捨てたまへるも、恨みきこゆべくなむ
とのたまへば、うちかしこまりて、
過ぎにし御おもむけも、頼みきこえさすべきさまに、うけたまはりおくことはべりしかど、許しなき御けしきに、憚りつつなむ」
と聞こえたまふ。
心あわたたしき雨風に、皆ちりぢりに競ひ帰りたまひぬ。君、「いかに思ひて、例ならずけしきばみたまひつらむ」など、世とともに心をかけたる御あたりなれば、はかなきことなれど、耳とまりて、とやかうやと思ひ明かしたまふ。
内大臣は、息子たちを引き連れて、威勢この上なく、上達部なども大勢が参集し、宰相中将の夕霧も引けを取らず立派ななりで、堂々として容貌なども、今を若さの盛りと成長して、何もかも結構な威勢である。
夕霧は、この内大臣を、ひどい人と思ってから、顔を合わせるのも気になって、たいそう意識して、すましているのを、内大臣も常よりは気をつけて目に留めておられた。読経なども、六条院からもお届けになった。夕霧は、万端にわたって仕切っていて、いきとどいて、よくお世話をしていた。
夕刻になって、皆帰って行くのを、花は散り、霞は朧に漂って、内大臣は昔を思い出し、優雅に小声で口ずさみ思いに沈んでいた。夕霧もあわれを感じる夕べの景色に、しんみりして、「雨がくる」と人々が騒いでいても、なお物思いにふけっていた。恋しい人を思っていたのか、内大臣は夕霧の袖を引いて、
「どうしてそんなに私を怒っているいるのか。今日の法事の縁に免じて、私の間違いを許してほしい。余命少ないこの身を、あなたが見捨てたら怨みますよ」
と内大臣が言うと、夕霧はかしこまって、
「亡き大宮様のご意向も、あなたを、お頼りするように言っていたと聞いております。強い許しなき気色に遠慮しておりました」
と夕霧が申し上げる。
あわただしい雨風に皆散りじりになり競って帰っていった。夕霧は、「どう思って、いつもと違った言い方をされたのだろう」などと、内大臣家のことは絶えず気にかけていたので、ほんの一言が耳に残って、一晩中あれこれ考えていた。
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33.3 内大臣、夕霧を自邸に招待
ここらの年ごろの思ひのしるしにや、かの大臣も、名残なく思し弱りて、はかなきついでの、わざとはなく、さすがにつきづきしからむを思すに、四月の朔日ごろ、御前の藤の花、いとおもしろう咲き乱れて、世の常の色ならず、ただに見過ぐさむこと惜しき盛りなるに、遊びなどしたまひて、暮れ行くほどの、いとど色まされるに、頭中将して、御消息あり。
一日ひとひの花の蔭の対面の、飽かずおぼえはべりしを、御暇あらば、立ち寄りたまひなむや」
とあり。御文には、
わが宿の藤の色濃きたそかれに
尋ねやは来ぬ春の名残を

げに、いとおもしろき枝につけたまへり。待ちつけたまへるも、心ときめきせられて、かしこまりきこえたまふ。
なかなかに折りやまどはむ藤の花
たそかれ時のたどたどしくは

と聞こえて、
口惜しくこそ臆しにけれ。取り直したまへよ
と聞こえたまふ。
「御供にこそ」
とのたまへば、
「わづらはしき随身は、否」
とて、返しつ。
大臣の御前に、かくなむ、とて、御覧ぜさせたまふ。
「思ふやうありてものしたまひつるにやあらむ。さも進みものしたまはばこそは、過ぎにし方の孝なかりし恨みも解けめ
とのたまふ。御心おごり、こよなうねたげなり
「さしもはべらじ。対の前の藤、常よりもおもしろう咲きてはべるなるを、静かなるころほひなれば、遊びせむなどにやはべらむ」
と申したまふ。
「わざと使ひさされたりけるを、早うものしたまへ」
と許したまふ。いかならむと、下には苦しう、ただならず。
「直衣こそあまり濃くて、軽びためれ。非参議のほど、何となき若人こそ、二藍はよけれ、ひき繕はむや」
とて、わが御料の心ことなるに、えならぬ御衣ども具して、御供に持たせてたてまつれたまふ。
長年思い続けた甲斐があったか、あの内大臣もすっかり折れて、何気ない機会に、改まってではなく、やはりふさわしい折を考えて、四月の一日ころ、御前の庭の藤の花が見ごろを迎えて、見事なので、このまま散らしてしまうのも惜しいので、管弦の遊びなどして、暮れ行くほどに、色がいっそう鮮やかになったので、柏木を使いにして、文を出した。
「先日の花の下でのご対面は、物足りなく思われましたので、お暇あらば、お立ち寄りください」
とあり、文には、
(内大臣)わが家の藤の花の色が美しいたそがれに
お出でになりませんか。春の名残に
いかにも見事な枝に付けてあった。待っていたので、心ときめいて、お礼申し上げる。
(夕霧)「たそがれどきでは藤の花を
手折るのに惑うでしょう」
と言って、
「とても気おくれしてますので、足りない処は、補ってください」
と夕霧が言う。
「お供しましょう」
と柏木が申し出ると。
「わずらわしい随身は嫌だ」
と言って返ってもらった。
源氏の御前に出て、このような文が来ました、とお見せした。
「内大臣は思うところがあって文を出したのだ。先方から言ってきたのだから、過ぎた昔の怨みも解けるだろう」
と源氏は仰せになる。その顔は得意満面である。
「そうでもありませんよ。御前の藤が、鮮やかに咲いたので、暇な折、管弦の遊びをしようと、思っただけかも知れない」
と夕霧が言う。
「わざわざ使いが来たのだ。早く行きなさい」
と承諾される。夕霧は、どんなだろう、と内心不安だ。
「直衣はあまり濃くないのがいい。軽く見られる。悲参議などの若い人なら二藍でもいいが。少し大人びたものを」
とて、源氏は、ご自分のお召物のなかでも格別見事なのを、供の者に届けさせた。
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33.4 夕霧、内大臣邸を訪問
わが御方にて、心づかひいみじう化粧じて、たそかれも過ぎ、心やましきほどに参うでたまへり。主人の君達、中将をはじめて、七、八人うち連れて迎ヘへ入れたてまつる。いづれとなくをかしき容貌どもなれど、なほ、人にすぐれて、あざやかにきよらなるものから、なつかしう、よしづき、恥づかしげなり。
大臣、御座ひきつくろはせなどしたまふ御用意、おろかならず。御冠などしたまひて、出でたまふとて、北の方、若き女房などに、
「覗きて見たまへ。いと警策にねびまさる人なり。用意などいと静かに、ものものしや。あざやかに、抜け出でおよすけたる方は、父大臣にもまさりざまにこそあめれ。
かれは、ただいと切になまめかしう愛敬づきて、見るに笑ましく、世の中忘るる心地ぞしたまふ。公ざまは、すこしたはれて、あざれたる方なりし、ことわりぞかし。
これは、才の際もまさり、心もちゐ男々しく、すくよかに足らひたりと、世におぼえためり」
などのたまひてぞ、対面したまふ。ものまめやかに、むべむべしき御物語は、すこしばかりにて、花の興に移りたまひぬ。
「春の花、いづれとなく、皆開け出づる色ごとに、目おどろかぬはなきを、心短くうち捨てて散りぬるが、恨めしうおぼゆるころほひ、
この花のひとり立ち後れて、夏に咲きかかるほどなむ、あやしう心にくくあはれにおぼえはべる。色もはた、なつかしきゆかりにしつべし
とて、うちほほ笑みたまへる、けしきありて、匂ひきよげなり。
自分の部屋で、念入りに身づくろいをして、たそがれどきも過ぎてから、先方が気をもむ頃に出発した。主人側の君達、中将をはじめ、七、八人うちそろって、出迎える。どれもこれも、美しい容貌だが、夕霧は衆に優れて、鮮やかに美しく、親しみがあり、奥ゆかしい風情があり、犯しがたい気品がある。
内大臣は、座を整えさせるなど心遣いは、並ではなく、冠などをかぶって、出てきて、北の方や、若い女房などに、、
「覗いてご覧。年々、衆に優れて立派になってゆく人だ。所作も落ち着いて、堂々としている。鮮やかに人より抜きんでているのは、父大臣にも勝るくらいだ。
父のほうは、ただなまめかしくて愛嬌があり、見るに微笑ましく、世の中を忘れる心地がする。公の場では、少しくだけて謹厳さに欠けるところがあるが、やむをえない。
こちらは、学才にも優れ、心ばえも男らしく、しっかりしていてもうしぶんない、と世間の評判もいい」
などと言って、お会いになる。まじめで格式ばった挨拶はわずかで、すぐに花の宴に移った。
「春の花は、、どれもこれもが花開けば、その色ごとに驚いてしまうが、すぐに気ぜわしく散ってしまうのが、恨めしく思われる。
この藤の花だけは咲き遅れて、ひとり立ち後れて、夏になって咲き誇るのは、あやしく心憎くく、色も親しみがあっていい」
と内大臣は言って、微笑まれるのは、風格があって輝くようだ。
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33.5 藤花の宴 結婚を許される
月はさし出でぬれど、花の色さだかにも見えぬほどなるを、もてあそぶに心を寄せて、大酒参り、御遊びなどしたまふ。大臣、ほどなく空酔ひをしたまひて、乱りがはしく強ひ酔はしたまふを、さる心して、いたうすまひ悩めり。
「君は、末の世にはあまるまで、天の下の有職にものしたまふめるを、齢古りぬる人、思ひ捨てたまふなむつらかりける。文籍にも、家礼けらいといふことあるべくや。なにがしの教へも、よく思し知るらむと思ひたまふるを、いたう心悩ましたまふと、恨みきこゆべくなむ」
などのたまひて、酔ひ泣きにや、をかしきほどにけしきばみたまふ。
いかでか。昔を思うたまへ出づる御変はりどもには、身を捨つるさまにもとこそ、思うたまへ知りはべるを、いかに御覧じなすことにかはべらむ。もとより、おろかなる心のおこたりにこそ」
と、かしこまりきこえたまふ。御時よく、さうどきて、
藤の裏葉の
とうち誦じたまへる、御けしきを賜はりて、頭中将、花の色濃く、ことに房長きを折りて、客人の御盃に加ふ。取りて、もて悩むに、大臣、
紫にかことはかけむ藤の花
まつより過ぎてうれたけれども

宰相、盃を持ちながら、けしきばかり拝したてまつりたまへるさま、いとよしあり。
いく返り露けき春を過ぐし来て
花の紐解く折にあふらむ

頭中将に賜へば、
たをやめの袖にまがへる藤の花
見る人からや色もまさらむ

次々順流るめれど、酔ひの紛れにはかばかしからで、これよりまさらず。
月は出ていたが、花の色がはっきり見えない程度なので、遊びの心に寄せて、酒がふるまわれ、管弦も奏された。内大臣は程なく酔っぱらって、夕霧を強いて酔わせようと盃を勧めるが、夕霧は用心して、固辞した。
「君は、末世には過ぎるほど、天下の学問に通じていますが、年寄りは、見捨てるられるのがつらいのです。書物にも父子の礼がかかれていますでしょう。聖人の教えもよくご存知でいらっしゃいますのに、わたしをずいぶん苦しめられる、とお怨み申し上げます」
などと言って、酔い泣きして、意中をことさら仄めかすのだった。
「どうでしょうか。今は亡き人たちを忍ぶよすがの身代わりにもと思っていますのに、何と思し召してそのようにおっしゃいますか。元よりわたしが至らないからでしょう」
と夕霧はかしこまって言う。折を見て、内大臣は、
「藤の裏葉の」
と誦し始めた。その気色を察し、頭中将、色の濃い房の長いのを折って、客の 盃に添える。手にとって、夕霧が戸惑っていると、内大臣が、
(内大臣)「紫の藤の花のせいにしておきましょう
申し出を待たせて遅くなりましたが」
 夕霧は、盃を取って、形ばかりの拝舞をする所作は、まことに優雅だった。
(夕霧)「幾たびか涙の春を過ごして来て
花咲く今日に逢うことができました」
柏木に盃を贈れば、
(柏木)「うら若い乙女の袖にも似る藤の花は
見る人によりいっそう美しくなりましょう」
盃がめぐる度に歌が詠まれたが、酔ったので、これよりいい歌はない。
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33.6 夕霧、雲居雁の部屋を訪う
七日の夕月夜、影ほのかなるに、池の鏡のどかに澄みわたれり。げに、まだほのかなる梢どもの、さうざうしきころなるに、いたうけしきばみ横たはれる松の、木高きほどにはあらぬに、かかれる花のさま、世の常ならずおもしろし。
例の、弁少将、声いとなつかしくて、「「葦垣」を謡ふ。大臣、
いとけやけうも仕うまつるかな
と、うち乱れたまひて、
「年経にけるこの家の」
と、うち加へたまへる御声、いとおもしろし。をかしきほどに乱りがはしき御遊びにて、もの思ひ残らずなりぬめり。
やうやう夜更け行くほどに、いたうそら悩みして、
「乱り心地いと堪へがたうて、まかでむ空もほとほとしうこそはべりぬべけれ。宿直所譲りたまひてむや」
と、中将に愁へたまふ。大臣、
「朝臣や、御休み所求めよ。翁いたう酔ひ進みて無礼なれば、まかり入りぬ」
と言ひ捨てて、入りたまひぬ。
中将、
「花の蔭の旅寝よ。いかにぞや、苦しきしるべにぞはべるや」
と言へば、
「松に契れるは、あだなる花かは。ゆゆしや」
と責めたまふ。中将は、心のうちに、「ねたのわざや」と思ふところあれど、人ざまの思ふさまにめでたきに、「かうもあり果てなむ」と、心寄せわたることなれば、うしろやすく導きつ。
男君は、夢かとおぼえたまふにも、わが身いとどいつかしうぞおぼえたまひけむかし。女は、いと恥づかしと思ひしみてものしたまふも、ねびまされる御ありさま、いとど飽かぬところなくめやすし。
世の例にもなりぬべかりつる身を、心もてこそ、かうまでも思し許さるめれあはれを知りたまはぬも、さま異なるわざかな
と、怨みきこえたまふ。
「少将の進み出だしつる『葦垣』の趣きは、耳とどめたまひつや。いたき主かなな。『河口の』とこそ、さしいらへまほしかりつれ」
とのたまへば、女、いと聞き苦し、と思して、
浅き名を言ひ流しける河口は
いかが漏らしし関の荒垣

あさまし」
とのたまふさま、いとこめきたり。すこしうち笑ひて、
漏りにける岫田の関を河口の
浅きにのみはおほせざらなむ

年月の積もりも、いとわりなくて悩ましきに、ものおぼえず」
と、酔ひにかこちて、苦しげにもてなして、明くるも知らず顔なり。人びと、聞こえわづらふを、大臣、
「したり顔なる朝寝かな」
と、とがめたまふ。されど、明かし果てでぞ出でたまふ。ねくたれの御朝顔、見るかひありかし。
七日の夕月夜の光がほのかに、池の面を照らして、澄み渡っている。葉がすっかり少なくなった梢が寂しげで、たいそう風情のある枝を横に張っている松は、高くはないが、それにかかる藤の花の風情が、ことのほかおもしろい。
例によって、弁の少将が、声懐かしく、「葦垣」を謡う。内大臣は、
「妙な歌を謡うな」
と酔って、調子を合わせ
「年経たこの家の」
と言い換えた歌声が、すばらしい。すっかり酔い乱れて興をそそる遊びに、わだかまりは跡形もない。
夜もふけてゆくほどに、夕霧はひどく酔ったふりをして、
「酔い過ぎました。帰り道もおぼつかないので、泊まる所を貸してくれませんか」
と柏木に頼めば、内大臣が、
「朝臣や、お泊りになる場所を用意せよ。年寄りは、お先に引っ込みます」
と言って、引っ込んだ。
中将は、
「花の陰の一夜の旅寝ですね。つらい案内ですね」
と言えば
「色変えぬ松にかかる藤の花は浮気な花でしょうか」
と夕霧が責める。中将は、心のうちに、「しゃくだな」と思うところがあったが、夕霧の人柄がすばらしいので、「こうなってほしい」とも日頃から思っていたので、快く寝室へ案内した。
夕霧は夢かと思うが、わが身の男ぶりが立派だったことに感謝した。女は相手を見るのも恥ずかしくとても目を合わせられない。女らしく成長した有様は、とても美しい。
「恋焦がれて世間の噂の種にもなりそうなわが身が、許されました。それなのに、情をかけてくれないのはつれないですね」
と、夕霧は怨みがましく言う。
「少将の謡い出した『葦垣』の趣旨は、お聞きになりましたか。あれはひどい。『河口の』と言い返してやりたかった」
と言えば、女は聞き苦しくなって、
(雲居の雁)「あの時浮名を立てられたのはどんな風に
私たちのことをお漏らしになったのでしょう
あんまりです」
と姫の言い方はおっとりしている。夕霧は笑って、
(夕霧)「浮名が漏れたのは父大臣のせいもありますのに
 わたしばかり責めないでください
長い歳月の思いも、本当に切なくて苦しく、何も覚えておりません」
と、酔いのせいにして、苦しそうにして、夜の明けて行くのも知らないふうである。女房たちが起こしかねている、大臣が、
「得意顔した朝寝だな」
と、文句をおっしゃる。だが、すっかり夜が明ける前にお帰りになる。その寝乱れ髪の朝の顔は、見がいがあっただろう。
2020.2.12/ 2021.10.18/ 2023.5.24
33.7 後朝の文を贈る
御文は、なほ忍びたりつるさまの心づかひにてあるを、なかなか今日はえ聞こえたまはぬを、もの言ひさがなき御達つきじろふに、大臣渡りて見たまふぞ、いとわりなきや。
「尽きせざりつる御けしきに、いとど思ひ知らるる身のほどを。堪へぬ心にまた消えぬべきも、
とがむなよ忍びにしぼる手もたゆみ
今日あらはるる袖のしづくを

など、いと馴れ顔なり。うち笑みて、
「手をいみじうも書きなられにけるかな」
などのたまふも、昔の名残なし。
御返り、いと出で来がたげなれば、「見苦しや」とて、さも思し憚りぬべきことなれば、渡りたまひぬ。
御使の禄、なべてならぬさまにて賜へり。中将、をかしきさまにもてなしたまふ。常にひき隠しつつ隠ろへありきし御使、今日は、面もちなど、人びとしく振る舞ふめり。右近将監うこんのぞうなる人の、むつましう思し使ひたまふなりけり。
六条の大臣も、かくと聞こし召してけり。宰相、常よりも光添ひて参りたまへれば、うちまもりたまひて、
「今朝はいかに。文などものしつや。賢しき人も、女の筋には乱るる例あるを、人悪ろくかかづらひ、心いられせで過ぐされたるなむ、すこし人に抜けたりける御心とおぼえける。
大臣の御おきての、あまりすくみて、名残なくくづほれたまひぬるを、世人も言ひ出づることあらむや。さりとても、わが方たけう思ひ顔に、心おごりして、好き好きしき心ばへなど漏らしたまふな。
さこそおいらかに、大きなる心おきてと見ゆれど、下の心ばへ男々しからず癖ありて、人見えにくきところつきたまへる人なり」
など、例の教へきこえたまふ。ことうちあひ、めやすき御あはひ、と思さる。
御子とも見えず、すこしがこのかみばかりと見えたまふ。ほかほかにては、同じ顔を写し取りたると見ゆるを、御前にては、さまざま、あなめでたと見えたまへり。
大臣は、薄き御直衣、白き御衣の唐めきたるが、紋けざやかにつやつやと透きたるをたてまつりて、なほ尽きせずあてになまめかしうおはします。
宰相殿は、すこし色深き御直衣に、丁子染めの焦がるるまでしめる、白き綾のなつかしきを着たまへる、ことさらめきて艶に見ゆ。
後朝きぬぎぬの文は、まだ人目を忍ぶやり方で届いたが、女君はかえって今日は文が書けないので、口さがない女房たちが、こそこそしていた所に、内大臣がやって来た。困ったものだ。
「打ち解けてくださらなかった様子に、いよいよわが身が思いやられます。命も絶えそうに思われ、
(夕霧)咎めないでください秘かに涙を絞っていた手もしびれて
今日は袖のしずくも隠しません」
など、馴れた調子だった。内大臣がそれを見て笑い、
「字が大変上手になったな」
などと言って、昔の気配はもうない。
返事が、なかなか出来ないので、「見っともない」と言って、それも無理からぬので、戻って行った。
文使いへの禄は、並々ならぬ品々を賜った。柏木は、酒肴でもてなした。いつもこっそり隠れてやって来ていた使いは、今日は、顔つきなど堂々と気おくれなくふるまっていた。右近将監うこんのぞうという者で、夕霧が心を許した使いだった。
源氏も、昨夜のことを聞いていた。夕霧は、いつもより光輝いて参上すると、じっとご覧になって、
「今朝はどうした。文など出したか。立派な人も女のことでは、失敗することもある。見苦しいほどこだわったり、じれたりせずに過ごしてきたのは、いささか人に優れた性格があるようだ。
内大臣はあまりにも頑なで、今になってすっかり折れてしまい、世間もいずれ噂するだろう。そうであっても、わが方としては、心おごらず、浮気心を起こしてはいけない。
内大臣はいかにも大様で度量が大きいとと見えるが、内心は男らしい性格ではない、癖があって、付き合いにくい人なのだ」
など例によって内大臣のことを教えた。釣り合いもよく、似合いの縁組と源氏は思う。
二人いると、子には見えず少し年上と見てしまう。別々のときは、夕霧は同じ顔をもうひとつ写し取ったように見えるが、御前に出ると、おのおのが立派だった。
源氏は薄い直衣、白い御衣の唐めいたもので、紋がはっきり透き通っているのをお召しになっていて、この年でなおなまめかしい気品があった。
夕霧は少し色濃い直衣で、丁子染めの焦げ茶に見えるほど、白い綾の親しみのあるのを着て、改まった衣裳で優雅に見えた。
2020.12.13/ 2021.10.23 ◎
33.8 夕霧と雲居雁の固い夫婦仲
灌仏かんぶつ てたてまつりて、御導師遅く参りければ、日暮れて、御方々より童女出だし、布施など、公ざまに変はらず、心々にしたまへり。
御前の作法を移して、君達なども参り集ひて、なかなか、うるはしき御前よりも、あやしう心づかひせられて臆しがちなり。
宰相は、静心なく、いよいよ化粧じ、ひきつくろひて出でたまふを、わざとならねど、情けだちたまふ若人は、恨めしと思ふもありけり。年ごろの積もり取り添へて、思ふやうなる御仲らひなめれば、水も漏らむやは。
主人の大臣、いとどしき近まさりを、うつくしきものに思して、いみじうもてかしづききこえたまふ。負けぬる方の口惜しさは、なほ思せど、罪も残るまじうぞ、まめやかなる御心ざまなどの、年ごろ異心なくて過ぐしたまへるなどを、ありがたく思し許す。
女御の御ありさまなどよりも、はなやかにめでたくあらまほしければ、北の方、さぶらふ人びとなどは、心よからず思ひ言ふもあれど、何の苦しきことかはあらむ。 按察使あぜちの北の方なども、かかる方にて、うれしと思ひきこえたまひけり。
灌仏かんぶつを引いてきて、導師が遅く来て、日が暮れてから、ご婦人方から童女が出され、布施なども内裏に変わらず、それぞれがやった。
内裏の格式を真似て、君達なども集い、かえって格式のうるさい内裏よりも、心遣いされて、気後れした。
宰相(夕霧)は、落ち着かず、身だしなみを整えて、お出になるが、特別な関係ではないが目をかけていた若い女房のなかには、恨めしいと思う者もあった。年来の思いも加わって、理想的な仲なので、水のもれる隙もない。
主人の内大臣は、夕霧は近くで見るとさらに美しいので、大変大切に世話するのであった。負けた口惜しさは、まだ残っているが、わだかまりなく、夕霧のまじめな性格、長年思い続けた心ばえなど、ありがたいと思って、すっかり許すのであった。
弘徽殿女御などよりも、華やかで風情があるので、北の方やお付の女房たちも、心よからず言う者もいたが、何の痛痒も感じない。按察使大納言に嫁いだ北の方なども、このような方が夫でうれしく思う、と言っているそうです。
2020.2.13/ 2021.10.21 / 2023.5.25
33.9 紫の上、賀茂の御阿礼に参詣
かくて、六条院の御いそぎは、二十余日のほどなりけり。対の上、御阿礼みあれに詣うでたまふとて、例の御方々いざなひきこえたまへど、なかなか、さしも引き続きて心やましきを思して、誰も誰もとまりたまひて、ことことしきほどにもあらず、御車二十ばかりして、御前なども、くだくだしき人数多くもあらず、ことそぎたるしも、けはひことなり。
祭の日の暁に詣うでたまひて、かへさには、物御覧ずべき御桟敷におはします。御方々の女房、おのおの車引き続きて、御前、所占めたるほど、いかめしう、「かれはそれ」と、遠目よりおどろおどろしき御勢ひなり。
大臣は、中宮の御母御息所の、車押し避けられたまへりし折のこと思し出でて、
「時により心おごりして、さやうなることなむ、情けなきことなりける。こよなく思ひ消ちたりし人も、嘆き負ふやうにて亡くなりにき」
と、そのほどはのたまひ消ちて、
「残りとまれる人の、中将は、かくただ人にて、わづかになりのぼるめり。宮は並びなき筋にておはするも、思へば、いとこそあはれなれ。すべていと定めなき世なればこそ、何ごとも思ふさまにて、生ける限りの世を過ぐさまほしけれと、残りたまはむ末の世などの、たとしへなき衰へなどをさへ、思ひ憚らるれば」
と、うち語らひたまひて、上達部なども御桟敷に参り集ひたまへれば、そなたに出でたまひぬ。
こうして、明石の姫君の入内は、四月二十日過ぎになった。紫の上が賀茂の祭りに参詣するということで、例によって、ご婦人方を誘ったが、後に続いてゆくのは億劫に思われて、誰もが辞退されて、大げさにはならなかった。車が二十台ばかりで、前駆なども大勢ではなく、簡略になって、また趣きも違ったものになった。
祭りの日は、暗いうちに詣でて、帰りには物見の桟敷にいた。御婦人方の女房たち、それぞれ車を引いて、御前に所占めた様子は、さすがに堂々としていて、「あれが紫の上」と、遠目にも大仰な勢いであった。
源氏は、中宮の母の六条御息所が、車を押しやられた時の出来事を思い出して、
「時勢によって心がおごるのは、情けないことだ。あの方を頭から馬鹿にしていた人も、相手の嘆きを負うように亡くなった」
その辺りのことは、言葉を濁して、
「残った人々も、夕霧は臣下として、わずかに立身した程度、姫君はこの上ない位にいるのも、感慨深いものがある。すべて定めなき世なればこそ、何事も自分の思い通りに、生きている限りこの世を過ごしたいものですが、後に残った人たちの末の世に、喩えようもなく零落していたら、と気になりますので」
と仰せになり、上達部なども桟敷に集まっていたので、そちらにお出でになった。
2020.2.17/ 2021.10.21 ◎
33.10 柏木や夕霧たちの雄姿
近衛司このえずかさの使は、頭中将なりけり。かの大殿にて、出で立つ所よりぞ人びとは参りたまうける。藤典侍とうないしのすけも使なりけり。おぼえことにて、内裏、春宮よりはじめたてまつりて、六条院などよりも、御訪らひども所狭きまで、御心寄せいとめでたし。
宰相中将、出で立ちの所にさへ訪らひたまへり。うちとけずあはれを交はしたまふ御仲なれば、かくやむごとなき方に定まりたまひぬるを、ただならずうち思ひけり。
何とかや今日のかざしよかつ見つつ
おぼめくまでもなりにけるかな

あさまし」
とあるを、折過ぐしたまはぬばかりを、いかが思ひけむ、いともの騒がしく、車に乗るほどなれど、
かざしてもかつたどらるる草の名は
桂を折りし人や知るらむ

博士ならでは」
と聞こえたり。はかなけれど、ねたきいらへと思す。なほ、この内侍にぞ、思ひ離れず、はひまぎれたまふべき
近衛司このえずかさの使いは柏木であった。あの内大臣邸の出発から、人々は参じて、源氏の所に来たのだった。藤典侍とうないしのすけの惟光の娘も使いだった。格別に目をかけられて、内裏、春宮をはじめ、六条院からもご祝儀は大変すばらしかった。
夕霧は藤典侍とうないしのすけの出立の所まで人を遣わして文を届けた。忍んで逢っている仲なので、このような歴とした方と縁談が決まり、典侍は穏やかならず思っていた。
(夕霧)「今日のかざしは何という名だったか
思い出せないほど御無沙汰してしまった。
あきれたことに」
とあったが、機会を逃さないのを、どう思ったであろうか、騒がしく、車に乗るときだったので、
(藤典侍)「頭にさしていても思い出さない草の名は
学のあるあなたならご存知でしょう
博士ですから」
と言った。たいした歌ではないが鮮やかな返えしと思う。なお、この内侍こそ、忘れられず、こっそり逢っていたらしい。
2020.2.17/ 2021.10.21/ 2023.5.26
33.11 四月二十日過ぎ、明石姫君、東宮に入内
かくて、御参りは北の方添ひたまふべきを、「常に長々しうえ添ひさぶらひたまはじ。かかるついでに、かの御後見をや添へまし」と思す。
上も、「つひにあるべきことの、かく隔たりて過ぐしたまふを、かの人も、ものしと思ひ嘆かるらむ。この御心にも、今はやうやうおぼつかなく、あはれに思し知るらむ。かたがた心おかれたてまつらむも、あいなし」と思ひなりたまひて、
「この折に添へたてまつりたまへ。まだいとあえかなるほどもうしろめたきに、さぶらふ人とても、若々しきのみこそ多かれ。御乳母たちなども、見及ぶことの心いたる限りあるを、みづからは、えつとしもさぶらはざらむほど、うしろやすかるべく」
と聞こえたまへば、「いとよく思し寄るかな」と思して、「さなむ」と、あなたにも語らひのたまひければ、いみじくうれしく、思ふこと叶ひはべる心地して、人の装束、何かのことも、やむごとなき御ありさまに劣るまじくいそぎたつ。
尼君なむ、なほこの御生ひ先見たてまつらむの心深かりける。「今一度見たてまつる世もや」と、命をさへ執念くなして念じけるを、「いかにしてかは」と、思ふも悲し。
その夜は、上添ひて参りたまふに、さて、車にも立ちくだりうち歩みなど、人悪るかるべきを、わがためは思ひ憚らず、ただ、かく磨きたてまつりたまふ玉の疵にて、わがかくながらふるを、かつはいみじう心苦しう思ふ。
御参りの儀式、「人の目おどろくばかりのことはせじ」と思しつつめど、おのづから世の常のさまにぞあらぬや。限りもなくかしづきすゑたてまつりたまひて、上は、「まことにあはれにうつくし」と思ひきこえたまふにつけても、人に譲るまじう、「まことにかかることもあらましかば」と思す。大臣も、宰相の君も、ただこのことひとつをなむ、「飽かぬことかな」と、思しける。
三日過ごしてぞ、上はまかでさせたまふ。たち変はりて参りたまふ夜、御対面あり。
こうして、姫の入内は、普通は北の方が付き添うのだが、「いつもお傍にいられない。この機会に、あの明石の君を後見に」と思った。
紫の上は、「結局は、二人で過ごすはずが、こうして離れ離れになって、あの方もひどいと思っているだろうし、姫君も、 今ようやくわかり始めて、寂しく思っている。お互いが気をつかっているのも、不本意だ」と思って、
「この機会に、明石の君に付き添ってもらいましょう。姫もまだ幼く、お供の女房たちも若い人が多い。乳母たちも、世話にも限度があり行き届かないこともあるでしょう、わたしとしても、いつもお傍にいられないときは、安心できますから」
と言うと、「よく思いつかれましたな」と源氏は思い、「そうしよう」と、明石の君にも伝えると、大変喜んで、思いが叶った心地がして、女房たちの装束や、その他のこともあれこれと高貴な方々に劣らないように準備した。
明石の尼君は、姫君の成長が見たいと思い。「また見れる折があろう」と。執念深く命を長らえるよう念じて 「どうしたらまたお会いできるだろう」と、思うのも悲しい。
入内の夜は、紫の上が付き添い、明石の君は自分が付き添う場合は、姫君の手押し車にも一段下がって歩くなど、世間体が悪くても、自分のことはかまわず、ただこのように磨き上げた玉の瑕のようになって、自分が長らえているのを、 一方では心苦しく思った。
入内の儀式は、「人の目を驚かせるようなことはしない」と思っていたが、自ずから世の常のようではなく、立派なものになった。限りなく大切にお世話しようとして、紫の上は、「まことに感動的で美しい」と思うにつけても、誰にも渡したくない、「本当にこのようなことが実の子だったらいいのに」と思うのだった。源氏も夕霧もただこのことをのみを、「残念だ」と思った。
三日が過ぎ、紫の上は退出された。代わって明石の君が参上した夜、親子の対面があった。
2020.2.18/ 2021.10.22/ 2023.5.26
33.12 紫の上、明石御方と対面する
かくおとなびたまふけぢめになむ、年月のほども知られはべれば、疎々しき隔ては、残るまじくや
と、なつかしうのたまひて、物語などしたまふ。これもうちとけぬる初めなめり。ものなどうち言ひたるけはひなど、「むべこそは」と、めざましう見たまふ。
また、いと気高う盛りなる御けしきを、かたみにめでたしと見て、「そこらの御中にもすぐれたる御心ざしにて、並びなきさまに定まりたまひけるも、いとことわり」と思ひ知らるるに、「かうまで、立ち並びきこゆる契り、おろかなりやは」と思ふものから、出でたまふ儀式の、いとことによそほしく、御輦車てぐるまなど聴されたまひて、女御の御ありさまに異ならぬを、思ひ比ぶるに、さすがなる身のほどなり。
いとうつくしげに、雛のやうなる御ありさまを、夢の心地して見たてまつるにも、涙のみとどまらぬは、 一つものとぞ見えざりける。年ごろよろづに嘆き沈み、さまざま憂き身と思ひ屈しつる命も延べまほしう、はればれしきにつけて、まことに住吉の神もおろかならず思ひ知らる。
思ふさまにかしづききこえて、心およばぬことはた、をさをさなき人のらうらうじさなれば、おほかたの寄せ、おぼえよりはじめ、なべてならぬ御ありさま容貌なるに、宮も、若き御心地に、いと心ことに思ひきこえたまへり。
挑みたまへる御方々の人などは、この母君の、かくてさぶらひたまふを、疵に言ひなしなどすれど、それに消たるべくもあらず。いまめかしう、並びなきことをば、さらにもいはず、心にくくよしある御けはひを、はかなきことにつけても、あらまほしうもてなしきこえたまへれば、殿上人なども、めづらしき挑み所にて、とりどりにさぶらふ人びとも、心をかけたる女房の、用意ありさまさへ、いみじくととのへなしたまへり。
上も、さるべき折節には参りたまふ。御仲らひあらまほしううちとけゆくに、さりとてさし過ぎもの馴れず、あなづらはしかるべきもてなし、はた、つゆなく、あやしくあらまほしき人のありさま、心ばへなり。
「こうして美しく成長されたのだから、お互いの疎遠な年月の程も知られて、水臭い遠慮は、消えてしまうでしょう」
と紫の上が親しげにおっしゃってお話をされる。二人が打ち解けたはじめだった。明石の君の物のいい方など、「さすがにすばらしいものだ」とご覧になる。
一方、明石の君も、紫の上の気高い女盛りの気配を、お互いに立派だとご覧になって、「 大勢いる女たちの中でも、特別にご寵愛を受けて、肩を並べる者なき地位を占めているのも、 もっともだ」と思い知り、「この方と対等にお話できるわたしの運勢も、並大抵ではない」と思って、紫の上が退出する儀式も格別美しく、輦車を許されて、女御と同じ扱いで、自分との身分の違いを感じるのだった。
姫は、雛のような様子で、明石の君は夢心地で見ている。喜びの涙がとまらないのは、同じ涙と思われなかった。年頃万事につけ様々な憂きことに落ち込み、つらい運命と悲観していた命も延ばしたいと思うほど、晴れ晴れとして、まことに住吉の神の霊験あらたかと思われた。
思う存分大切に育て、至らぬところなき利発な明石の姫君であれば、周囲の人たちの人気や評判をはじめ、並外れて美しい姫君の有様や容貌なので、春宮も、まだ幼いながら、とりわけて大切に思うのであった。
張り合うご婦人方の女房たちは、この母君が側に付き添っているのを、疵のように言うものもいたが、それに負けるような方ではない。堂々として、並ぶものなき立場はいうに及ばず、奥ゆかしく優雅な姫君の人柄を、かりそめの風流ごとにしても、申し分なく引き立てるので、殿上人などが、他にはない風流の見せ場として、それぞれに懸想している女房たちのたしなみや態度にまで気を配っておられた。
紫の上も、何か用事があるときは、参内した。明石の君との仲はどんどん打ち解けてゆき、かといって、出過ぎたり、蔑まれるような態度はなく、不思議なほど非の打ち所がない人柄だった。
2020.2.22/ 2021.10.22/ 2023.5.26
33.13 秋に准太上天皇の待遇を得る
大臣も、「長からずのみ思さるる御世のこなたに」と、思しつる御参りの、かひあるさまに見たてまつりなしたまひて、心からなれど、世に浮きたるやうにて、見苦しかりつる宰相の君も、思ひなくめやすきさまにしづまりたまひぬれば、御心おちゐ果てたまひて、「今は本意も遂げなむ」と、思しなる。
対の上の御ありさまの、見捨てがたきにも、「中宮おはしませば、おろかならぬ御心寄せなり。この御方にも、世に知られたる親ざまには、まづ思ひきこえたまふべければ、さりとも」と、思し譲りけり。
夏の御方の、時に花やぎたまふまじきも、「宰相のものしたまへば」と、皆とりどりにうしろめたからず思しなりゆく。
明けむ年、四十になりたまふ、御賀のことを、朝廷よりはじめたてまつりて、大きなる世のいそぎなり。
その秋、太上天皇だいじょうてんのうに准らふ御位得たまうて、御封加はり、年官年爵つかさこうぶりなど、皆添ひたまふ。かからでも、世の御心に叶はぬことなけれど、なほめづらしかりける昔の例を改めで、院司どもなどなり、さまことにいつくしうなり添ひたまへば、内裏に参りたまふべきこと、難かるべきをぞ、かつは思しける。
かくても、なほ飽かず帝は思して、世の中を憚りて、位をえ譲りきこえぬことをなむ、朝夕の御嘆きぐさなりける。
内大臣上がりたまひて、宰相中将、中納言になりたまひぬ。御よろこびに出でたまふ。光いとどまさりたまへるさま、容貌よりはじめて、飽かぬことなきを、主人の大臣も、「なかなか人に圧されまし宮仕へよりは」と、思し直る。
女君の大輔乳母たいふのめのと、「六位宿世」と、つぶやきし宵のこと、ものの折々に思し出でければ、菊のいとおもしろくて、移ろひたるを賜はせて、
浅緑若葉の菊を露にても
濃き紫の色とかけきや

からかりし折の一言葉こそ忘られね」
と、いと匂ひやかにほほ笑みて賜へり。恥づかしう、いとほしきものから、うつくしう見たてまつる。
双葉より名立たる園の菊なれば
浅き色わく露もなかりき

いかに心おかせたまへりけるにか」
と、いと馴れて苦しがる。
源氏も「存命中には」と思っていた、姫を立派な身の上にして入内することもかない、自分から求めたこととはいえ、身の固まらぬ有様で世間体も悪かった夕霧が、何不足なく世間並みな結婚生活に落ち着いたので、源氏はすっかり安心して、「今は本懐を遂げて出家をしよう」と思っている。
紫の上の身の上が気にかかるが、秋好む中宮がいれば、並々ならぬ味方になるだろう。明石の姫君にしても、表向きの親としては、まず大切にするだろうから、もう何があっても任せるつもりだった。
夏の方の花散里も、華やかなことはされないだろうが、夕霧がいるから安心だし、それぞれに皆心配ない気持ちだった。
明くる年、四十なった。四十の賀が、朝廷からはじまって、世の中こぞって準備があった。
その年の秋、太上天皇に准ぜられ、封が加わり、年官年爵つかさこうぶりなどみなそろった。こうまでしなくても、心にかなわぬことがなかったのだが、それでもやはり滅多になかった先例に倣って、院司どもを配された。何事も格別に威儀いかめしくなったので、内裏へ参内するのも、とても難しくなった、と思うのだった。
これだけしても、冷泉帝は十分とは思わず、世の中をはばかって、帝の位を譲れないのを、朝夕に嘆くのだった。
内大臣は、太政大臣になり、夕霧は、中納言になった。夕霧は勇んで、あいさつ回りに出かける、光輝く姿、容貌など、立派なので、主人の太政大臣も、「宮中に出して争うよりは雲井の雁を結婚させてよかった」と思い直すのだった。
雲井の雁の大輔乳母たいふのめのとが「色の浅い六位風情が」と夕霧を侮蔑した宵のことを思い出して、あえて菊の花の色あせたのをうたに添えて、
(夕霧)「色の浅い若葉の菊が濃い紫に
変わろうとは思いましたか、
つらい一言が忘れられません」
とこぼれるような笑顔で歌を渡した。乳母は恥ずかしく、親しげに美しい夕霧を見る。
(大輔の乳母)「小さい頃から名門で育った若君ですもの
色が浅いなんて誰も言いませんよ
どんなに悪くおとりになったのですか」
いかにも心やすげにつらがる。
2020.2.23/ 2021.10.22/ 2023.5.26
33.14 夕霧夫妻、三条殿に移る
御勢ひまさりて、かかる御住まひも所狭ければ、「三条殿に渡りたまひぬ。すこし荒れにたるを、いとめでたく修理しなして、宮のおはしましし方を改めしつらひて住みたまふ。昔おぼえて、あはれに思ふさまなる御住まひなり。
前栽どもなど、小さき木どもなりしも、いとしげき蔭となり、一村薄ひとむらすすきも心にまかせて乱れたりける、つくろはせたまふ。遣水の水草もかき改めて、いと心ゆきたるけしきなり。
をかしき夕暮のほどを、二所眺めたまひて、あさましかりし世の、御幼さの物語などしたまふに、恋しきことも多く、人の思ひけむことも恥づかしう、女君は思し出づ。古人どもの、まかで散らず、曹司曹司にさぶらひけるなど、参う上り集りて、いとうれしと思ひあへり。
男君、
なれこそは岩守るあるじ見し人の
行方は知るや宿の真清水

女君、
亡き人の影だに見えずつれなくて
心をやれるいさらゐの水

などのたまふほどに、大臣、内裏よりまかでたまひけるを、紅葉の色に驚かされて渡りたまへり。
夕霧の勢いがついて、住まいが手狭になったので、三条殿に移った。少し荒れていたのを美しく修理して、宮の住んでいた部屋を改装して調度類も新しく調達して住んだ。二人とも昔懐かしく、感慨もひとしおだった。
前栽なども、小さかった木が生い茂り蔭を作っていた。ひと群れの薄も延び放題に乱れているのを手入れする。遣り水の水草も取り払って、気持ちよさそうに流れている。
風情のある夕暮れ時、二人で眺めていて、何も知らなかった幼い日々のことを語り合い、昔恋しいことも多く、周りの人は何とおもっていたか、気恥ずかしい、と女君は思う。古くからの女房が里に帰らず、部屋部屋にいて御前に出て、互いに喜びあった。
男君、
(夕霧の歌)「石清水よ、お前こそはこの家の主人、
ここにいた方の行方を知っているか」
女君、
(雲居の雁)「亡き大宮の影も映さず、そ知らぬ顔で
流れているのね。小さな泉よ」
などと語りあっているとき、太政大臣が内裏から退出途中で、紅葉の色に興を催して、やって来た。
2020.2.24/ 2021.10.22/ 2023.5.26
33.15 内大臣、三条殿を訪問
昔おはさひし御ありさまにも、をさをさ変はることなく、あたりあたりおとなしく住まひたまへるさま、はなやかなるを見たまふにつけても、いとものあはれに思さる。中納言も、けしきことに、顔すこし赤みて、いとどしづまりてものしたまふ。
あらまほしくうつくしげなる御あはひなれど、女は、またかかる容貌のたぐひも、などかなからむと見えたまへり。男は、際もなくきよらにおはす。古人ども御前に所得て、神さびたることども聞こえ出づ。ありつる御手習どもの、散りたるを御覧じつけて、うちしほたれたまふ。
「この水の心尋ねまほしけれど、翁は言忌して」
とのたまふ。
そのかみの老木はむべも朽ちぬらむ
植ゑし小松も苔生ひにけり

男君の御宰相の乳母、つらかりし御心も忘れねば、したり顔に、
いづれをも蔭とぞ頼む双葉より
根ざし交はせる松の末々

老人どもも、かやうの筋に聞こえ集めたるを、中納言は、をかしと思す。女君は、あいなく面赤み、苦しと聞きたまふ。
昔、ご両親が住まっていた様子とまったく変わらず、あたりの様子も落ち着いた雰囲気で、若い二人の華やかな様子を見ても、太政大臣は感慨無量のものがあった。夕霧も改まった表情で顔少し赤らめてしんみりしている。
理想的なうつくしい夫婦だが、女は他にこのような容貌の者がいないとも限らないと思える。男は、見事に美しい。古くからの女房たちは、御前に出て、はるかな昔のことを話している。書き散らした歌の手習いが散らかっているのを見て、太政大臣はほろりとされる。
「この水の心を尋ねたいが年寄りは発言を控えましょう」
とおおせになる。
(太政大臣) 「昔の老木が朽ちてしまうのももっともだ
そのとき植えた小松に苔が生えているのだから」
男君の宰相の乳母は、つらい仕打ちを忘れていず、得意そうに、
(宰相乳母)「お二人を蔭としたっております。双葉より
仲良く育ったのですから」
老いた女房たちがこのような筋の歌ばかり詠むので中納言はおかしかった。女君は顔を赤らめ、苦しそうに聞いていた。
2020.2.24/ 2021.10.22/ 2023.5.26
33.16 十月二十日過ぎ、六条院行幸
神無月の二十日あまりのほどに、六条院に行幸あり。紅葉の盛りにて、興あるべきたびの行幸なるに、朱雀院にも御消息ありて、院さへ渡りおはしますべければ、世にめづらしくありがたきことにて、世人も心をおどろかす。主人の院方も、御心を尽くし、目もあやなる御心まうけをせさせたまふ。
巳の時に行幸ありて、まづ、馬場殿に左右の寮の御馬牽き並べて、左右近衛立ち添ひたる作法、五月の節にあやめわかれず通ひたり。未くだるほどに、南の寝殿に移りおはします。道のほどの反橋、渡殿には錦を敷き、あらはなるべき所には軟障ぜんじょうを引き、いつくしうしなせたまへり。
東の池に舟ども浮けて、御厨子所の鵜飼の長、院の鵜飼を召し並べて、鵜をおろさせたまへり。小さき鮒ども食ひたり。わざとの御覧とはなけれども、過ぎさせたまふ道の興ばかりになむ。
山の紅葉、いづ方も劣らねど、西の御前は心ことなるを、中の廊の壁を崩し、中門を開きて、霧の隔てなくて御覧ぜさせたまふ。
御座、二つよそひて、主人の御座は下れるを、宣旨ありて直させたまふほど、めでたく見えたれど、帝は、なほ限りあるゐやゐやしさを尽くして見せたてまつりたまはぬことをなむ、思しける。
池の魚を、左少将捕り、蔵人所の鷹飼の、北野に狩仕まつれる鳥一番ひとつがいを、右少将捧げて、寝殿の東より御前に出でて、御階みはしの左右に膝をつきて奏す。太政大臣、仰せ言賜ひて、調じて御膳に参る。親王たち、上達部などの御まうけも、めづらしきさまに、常の事どもを変へて仕うまつらせたまへり。
神無月の二十日頃、六条院に、帝が来ることになった。紅葉の盛りで、趣の多い行幸になりそうなので、帝から朱雀院にも誘いがあって、院も来ることになったので、世にも稀なることなので、世間を驚かせた。主人側も、心を尽くして、まばゆいばかりの準備をするのだった。
巳の時にお越しになり、馬場殿に左右の馬寮の馬を並べて、左右近衛が立ちそろってお迎えする様は、五月の節会にそっくりだった。午後二時頃には、南の寝殿に移った。途中通る反り橋や、渡殿には、錦を敷いて、よそから見通しのいいところには軟障ぜんじょうを引き、いかめしくしつらえた。
東の池に舟を浮かべて厨子所の鵜飼の長、六条の院の鵜飼を呼んで、鵜を下ろした。小さい鮒をくわえた。特別ご覧に入れる趣向ではなく、通り過ぎるときの途中のお楽しみであった。
山の紅葉、どこにも劣らないが、西の御前の紅葉が殊に美しいので、中の廊の壁を崩して、霧の隔てなく見えるようにしている。
御座二つ準備して、源氏の座は一段下がっているのを、お言葉があって、同等に直させたのもめでたいことだったが、帝はそれでも父子の礼を尽くせていないことを、残念に思うのだった。
池の魚を、左少将が捕り、蔵人所の鷹飼の北嵯峨野で捕った一番ひとつがいの鳥を寝殿の東側から御前に出て、御階みはしの左右に膝をついて、奏上する。太政大臣が、お言葉を頂いて、魚と鳥を調理して、御膳に差し上げる。親王たちや上達部などの膳も、珍しい趣向を凝らし、普段と違って目先を変えて給した。
2020.2,29/ 2021.10.24/ 2023.5.26
33.17 六条院行幸の饗宴
皆御酔ひになりて、暮れかかるほどに、楽所がくその人召す。わざとの大楽にはあらず、なまめかしきほどに、殿上の童べ、舞仕うまつる。朱雀院の紅葉の賀、例の古事思し出でらる。「賀王恩」といふものを奏するほどに、太政大臣の御弟子の十ばかりなる、切におもしろう舞ふ。内裏の帝、御衣ぬぎて賜ふ。太政大臣降りて舞踏ぶとうしたまふ。
主人の院、菊を折らせたまひて、「青海波」の折を思し出づ。
色まさる籬の菊も折々に
袖うちかけし秋を恋ふらし

大臣、その折は、同じ舞に立ち並びきこえたまひしを、我も人にはすぐれたまへる身ながら、なほこの際はこよなかりけるほど、思し知らる。時雨、折知り顔なり。
紫の雲にまがへる菊の花
濁りなき世の星かとぞ見る

時こそありけれ」
と聞こえたまふ。
みな酔って、夕暮れになるころ、管弦の人たちを呼んだ。大規模な楽団ではなく、風雅な趣で演奏して、殿上の童が舞うのだった。朱雀院の紅葉の賀の古事が思い出される。「賀王恩」という曲を奏するのに、太政大臣の子で十歳くらいの童が、実におもしろく舞った。帝は、衣を脱いで、賜った。太政大臣は感謝して庭に降りて舞った。
源氏は菊を手折って、「青海波」を舞った頃を思い出した。
(源氏)「鮮やかな色で咲く籬の菊も、時々は
袖を振って舞った昔のあの秋を恋しく思っているだろう」
そのときは、同じ舞を舞った大臣も、自分も人に優れた身分になったが、源氏の昇進は至高のものと思っている。 時雨も感涙に咽び降ってきた。
(太政大臣)「紫雲と見まがう菊の花です
濁りない聖代の星かと見ます
栄える時勢ですね」
と申し上げるのだった。
2020.2.29/ 2021.10.24/ 2023.5.27
33.18 朱雀院と冷泉帝の和歌
夕風の吹き敷く紅葉の色々、濃き薄き、錦を敷きたる渡殿の上、見えまがふ庭の面に、容貌をかしき童べの、やむごとなき家の子どもなどにて、青き赤き白橡しらつるばみ蘇芳すほう葡萄染えびぞめめなど、常のごと、例のみづらに、額ばかりのけしきを見せて、短きものどもをほのかに舞ひつつ、紅葉の蔭に返り入るほど、日の暮るるもいと惜しげなり。
楽所などおどろおどろしくはせず。上の御遊び始まりて、書司の御琴ども召す。ものの興切なるほどに、御前に皆御琴ども参れり。宇多法師の変はらぬ声も、朱雀院は、いとめづらしくあはれに聞こし召す。
秋をへて時雨ふりぬる里人も
かかる紅葉の折をこそ見ね

うらめしげにぞ思したるや。帝、
世の常の紅葉とや見るいにしへの
ためしにひける庭の錦を

と、聞こえ知らせたまふ。御容貌いよいよねびととのほりたまひて、ただ一つものと見えさせたまふを、中納言さぶらひたまふが、ことことならぬこそ、めざましかめれ。あてにめでたきけはひや、思ひなしに劣りまさらむ、あざやかに匂はしきところは、添ひてさへ見ゆ。
笛仕うまつりたまふ、いとおもしろし。唱歌の殿上人、御階にさぶらふ中に、弁少将の声すぐれたり。なほさるべきにこそと見えたる御仲らひなめり。
夕風が散らす紅葉のいろいろ、濃く薄く、錦を敷いた渡殿の上と見まがう庭の面に、容貌のかわいい童が、良家の子供たちが、青と赤の白橡しらつるばみに、蘇芳すほう葡萄染えびぞめの下襲を着て、いつものように、みずら結いで、天冠をつけた唐風の姿で、短い曲を薄暗がりの中を舞いながら、紅葉の蔭に帰ってゆくところは、日が暮れるのも惜し程であった。
楽団など大げさにはせず、上の管弦が始まってから、琴の係りなどを庭に呼んだ。興が乗ってきたころに、三人の御前に琴が出された。名器宇多法師の変わらない音色も、朱雀院は、しんみりと聞いた。
(朱雀院)「幾たびも秋と時雨を経験したが田舎の者だが
こんな見事な紅葉を見たことがありません」
と恨めしく思っておいでのようです。帝は、
(冷泉帝)「世の常の紅葉と見ているのですか
昔の御代に倣って引いた庭の錦ですよ」
冷泉帝はこのように詠われた。帝の容貌はますます整って、源氏と瓜二つであった。夕霧が参列していたが、別の顔と見えないのは驚くほどであった。気品があってすばらしい感じでは、夕霧は思いなしか帝に劣らない、すっきりした美しさは、帝以上とまで見られる。
夕霧は笛を受け持った。たいそうおもしろい。唱歌の殿上人、御階にいて、弁の少将の声が優れていた。やはり優れた人々が揃うご両家であった。
2020.3.1/ 2021.10.24/ 2023.5.27

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読書期間2020年2月8日 - 2020年3月1日