源氏物語 37 横笛 よこぶえ

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原文 現代文
37.1 柏木一周忌の法要
故権大納言のはかなく亡せたまひにし悲しさを、飽かず口惜しきものに、恋ひしのびたまふ人多かり。六条院にも、おほかたにつけてだに、世にめやすき人の亡くなるをば、惜しみたまふ御心に、まして、これは、朝夕に親しく参り馴れつつ、人よりも御心とどめ思したりしかば、いかにぞやと、思し出づることはありながら、あはれは多く、折々につけてしのびたまふ。
御果てにも、誦経など、取り分きせさせたまふ。よろづも知らず顔にいはけなき御ありさまを見たまふにも、さすがにいみじくあはれなれば、御心のうちに、また心ざしたまうて、黄金百両をなむ別にせさせたまひける。大臣は、心も知らでぞかしこまり喜びきこえさせたまふ。
大将の君も、ことども多くしたまひ、とりもちてねむごろに営みたまふ。かの一条の宮をも、このほどの御心ざし深く訪らひきこえたまふ。兄弟の君たちよりもまさりたる御心のほどを、いとかくは思ひきこえざりきと、大臣、上も、喜びきこえたまふ。亡き後にも、世のおぼえ重くものしたまひけるほどの見ゆるに、いみじうあたらしうのみ、思し焦がるること、尽きせず。
故権大納言が、はかなく亡くなった悲しみは、いつもでも口惜しく慕う人が多かった。源氏も、普段から特別関係がない人でも、世に人望のある人が亡くなるのを、惜しむ気持ちから、まして、柏木は、朝夕に参上して馴れていたので、人よりも心にとめていたので、どうにもけしからんと思うことはあったが、あわれが多く、折々につけて偲ぶのであった。
一周忌の法要も、読経など特別にあげてもらう。何も分からずにいる、あどけない幼子の様子をご覧になるにつけ、ほんとうに不憫でならず、内心秘かに、若君の分として、黄金百両を別に供養した。父の大臣は、真意を知らないで、畏まって喜んだ。
夕霧も、たくさんのお布施をし、心をこめて法要のお世話をする。あの一条の宮も、一周忌にあたって、心ざしを深くして弔った。兄弟の君たちより勝った夕霧の心ざしに、これ程のことは思ってもみなかったので、大臣も北の方も喜びのお礼を申し上げる。亡き後も、人々の信望がどんなに厚かったかを見ると、ただもう惜しいとのみ、いつまでも焦がれること尽きない。
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37.2 朱雀院、女三の宮へ山菜を贈る
山の帝は、二の宮も、かく人笑はれなるやうにて眺めたまふなり、入道の宮も、この世の人めかしきかたは、かけ離れたまひぬれば、さまざまに飽かず思さるれど、すべてこの世を思し悩まじ、と忍びたまふ。御行なひのほどにも、「同じ道をこそは勤めたまふらめ」など思しやりて、かかるさまになりたまて後は、はかなきことにつけても、絶えず聞こえたまふ。
御寺のかたはら近き林に抜き出でたる筍、そのわたりの山に掘れる野老などの、山里につけてはあはれなれば、たてまつれたまふとて、御文こまやかなる端に、
「春の野山、霞もたどたどしけれど、心ざし深く堀り出でさせてはべるしるしばかりになむ。
世を別れ入りなむ道はおくるとも
同じところを君も尋ねよ

いと難きわざになむある」
と聞こえたまへるを、涙ぐみて見たまふほどに、大殿の君渡りたまへり。例ならず、御前近き櫑子らいしどもを、「なぞ、あやし」と御覧ずるに、院の御文なりけり。見たまへば、いとあはれなり。
「今日か、明日かの心地するを、対面の心にかなはぬこと」
など、こまやかに書かせたまへり。この「同じところ」の御ともなひを、ことにをかしき節もなき。聖言葉なれど、「げに、さぞ思すらむかし。我さへおろかなるさまに見えたてまつりて、いとどうしろめたき御思ひの添ふべかめるを、いといとほし」と思す。
御返りつつましげに書きたまひて、御使には、青鈍の綾一襲あおにびのあやひとがさね賜ふ。書き変へたまへりける紙の、御几帳の側よりほの見ゆるを、取りて見たまへば、御手はいとはかなげにて、
憂き世にはあらぬところのゆかしくて
背く山路に思ひこそ入れ

「うしろめたげなる御けしきなるに、このあらぬ所求めたまへる、いとうたて、心憂し」
と聞こえたまふ。
今は、まほにも見えたてまつりたまはず、いとうつくしうらうたげなる御額髪、面つきのをかしさ、ただ稚児のやうに見えたまひて、いみじうらうたきを見たてまつりたまふにつけては、「など、かうはなりにしことぞ」と、罪得ぬべく思さるれば、御几帳ばかり隔てて、またいとこよなう気遠く、疎々しうはあらぬほどに、もてなしきこえてぞおはしける。
朱雀院は、二の宮も、このような世間のもの笑いになりかねない有様に、三の宮もこの世の普通の人のしあわせは、捨ててしまったので、あれこれと不本意なことがあったが、この世のことに悩まない、と辛抱するのだった。勤行にも、「同じ仏道に励んでいるのだから」と思いやって、尼になった後では、さしたる用がなくても、いつも文を出していた。
院の住む寺の近くの竹林でとれた筍、そのあたりの山で堀った山芋など、山里の風情あるものなどを、お送りするとの内容で、細やかな文面の端には、
「春の野山に、霞もかかってよく見えないのだが、心をこめて掘ったものです、少しばかりに。
(朱雀院)世を捨てて仏道に入ったのはわたしより遅いが
同じところを目指してがんばりなさい
すごく難しいことですが」
との便りを読んで、涙ぐんで見ているところへ、源氏がやってきた。いつもと違って、御前に櫑子らいしがいくつもあるのを「あら、何だろう」とご覧になって、院の文だった。お読みになって見ると、あわれであった。
「わたしの余命も長くない心地がする。会えないのがつらい」
などと細やかに書いている。文にこの「同じところ」とお誘いになっているのを、格別風情がある訳ではないが、僧らしい言葉で、「いかにもそうお思いであろう、自分まで十分お世話していないように見えて、後ろめたい思いが生ずるのを、おいたわしい」と思う。
女三の宮は、返事を恥ずかしそうに書いて、使いには、青鈍の綾一襲あおにびのあやひとがさねを賜った。書き損じた紙を、几帳の側から少し見えるのを手に取って見るに、手はかぼそい感じで、
(女三の宮)「こんなつらい世の中ではないところに住みたくて
父上と同じ山寺に入りたく思いを馳せています」
「父院が心配そうな気色なのに、このように別の住処を求める気持ちが、つらい」
と源氏は仰せになる。
三の宮は、まともに顔を合わせようとせず、大そう美しく可愛らしい額髪、面つきのかわいらしさ、ただ稚児のように見えて、大そう可愛らしいのを見るにつけても、「どうしてこんなことになってしまったのか」と、悪いことをしたような気になって、几帳を隔てて、さりとて遠く隔てて、 よそよそしくならぬように、こまごまとお世話するのだった。
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37.3 若君、竹の子を噛る
若君は、乳母のもとに寝たまへりける、起きて這ひ出でたまひて、御袖を引きまつはれたてまつりたまふさま、いとうつくし。
白き羅に、唐の小紋の紅梅の御衣の裾、いと長くしどけなげに引きやられて、御身はいとあらはにて、うしろの限りに着なしたまへるさまは、例のことなれど、いとらうたげに白くそびやかに、柳を削りて作りたらむやうなり。
頭は露草してことさらに色どりたらむ心地して、口つきうつくしうにほひ、まみのびらかに、恥づかしう薫りたるなどは、なほいとよく思ひ出でらるれど、
「かれは、いとかやうに際離れたるきよらはなかりしものを、いかでかからむ。宮にも似たてまつらず、今より気高くものものしう、さま異に見えたまへるけしきなどは、わが御鏡の影にも似げなからず」見なされたまふ。
わづかに歩みなどしたまふほどなり。この筍の櫑子に、何とも知らず立ち寄りて、いとあわたたしう取り散らして、食ひかなぐりなどしたまへば、
「あな、らうがはしや。いと不便なり。かれ取り隠せ。食ひ物に目とどめたまふと、もの言ひさがなき女房もこそ言ひなせ」
とて、笑ひたまふ。かき抱きたまひて、
「この君のまみのいとけしきあるかな。小さきほどの稚児を、あまた見ねばにやあらむ、かばかりのほどは、ただいはけなきものとのみ見しを、今よりいとけはひ異なるこそ、わづらはしけれ。女宮ものしたまふめるあたりに、かかる人生ひ出でて、心苦しきこと、誰がためにもありなむかし。
あはれ、そのおのおのの生ひゆく末までは、見果てむとすらむやは。花の盛りは、ありなめど」
と、うちまもりきこえたまふ。
「うたて、ゆゆしき御ことにも」
と、人びとは聞こゆ。
御歯の生ひ出づるに食ひ当てむとて、筍をつと握り待ちて、雫もよよと食ひ濡らしたまへば、
「いとねぢけたる色好みかな」とて、
憂き節も忘れずながら呉竹の
こは捨て難きものにぞありける

と、率て放ちて、のたまひかくれど、うち笑ひて、何とも思ひたらず、いとそそかしう、這ひ下り騷ぎたまふ。
月日に添へて、この君のうつくしうゆゆしきまで生ひまさりたまふに、まことに、この憂き節、皆思し忘れぬべし。
この人の出でものしたまふべき契りにて、さる思ひの外の事もあるにこそはありけめ。逃れ難かなるわざぞかし
と、すこしは思し直さる。みづからの御宿世も、なほ飽かぬこと多かり。
あまた集へたまへる中にも、この宮こそは、かたほなる思ひまじらず、人の御ありさまも、思ふに飽かぬところなくてものしたまふべきを、かく思はざりしさまにて見たてまつること
と思すにつけてなむ、過ぎにし罪許し難く、なほ口惜しかりける。
若君は、乳母のもとで寝ていたが、起きて這いだし、袖を引っ張ってまといつくのが、とても可愛らしい。
白い羅に、唐の小紋の紅梅の衣の裾を、長くしまりなく引いて、身体がでて露わになり、背中に衣が片寄ってしまっている様子は、幼児の常であるが、実に可愛らしく、白くすんなりして、柳の木を削って作ったようである。
頭は露草でことさら染めたような感じで、口元は愛らしく艶があり、目元がゆったりして、幼児ながら気が引けるほど美しいのは、やはり故人が思い出され、
「柏木は、際立った美しさはなかったのだが、どうしてこのような子ができたのだろう。宮にも似ておらず、今から気高く堂々として、常人とは違って見える様などは、わたしが鏡に映った姿にも似ていない」と見た。
若君は、ようやくよちよち歩くようになった。この筍の櫑子らいしに、何も知らずに寄っていって、あたりにやたらに取り散らかして、かじったりするので、
「何とお行儀の悪い。駄目ですよ。それを隠しなさい。食いしん坊だと、口の悪い女房たちが言い出すから」
といって、笑うのだった。かき抱いて、
「この君の目元は普通と違うな。小さい幼児を、たくさん見たわけではないが、これくらいの年頃は、ただ可愛いとばかり見るものだが、今から非凡なところがあるのは、かえって心配だ。女宮の一の宮を育てている所で、このような男の子を育てるのは、心配事が、どちらにもあるだろう。
あわれ、二人が大きくなるまでは、見届けられるだろうか。この子らの花の盛りが見れるのは、寿命があってのこと」
とじっと見つめている。
「嫌なこと、縁起でもないお言葉」
と女房たちは言うのであった。
歯が生えてきたのでかみ切ろうと、筍をしっかり持って、よだれをたらして食いついている。
「ずいぶん変わった色好みだな」とて、
(源氏)「あの嫌なことを忘れはしないが、くれ竹の
この子は捨てがたいもの」
と膝にひとり抱き取って、仰せになるが、若君は無邪気に笑って、何を思っているでもなく、せかせかと下りて、這いまわるのだった。
月日が経つにつれ、この君が美しく怖いほど美しく成長する様は、まことに、この憂き節をを、皆忘れるのであった。
「このような立派な子が生まれる因縁があって、あの出来事があったのだろう。逃れられない因縁だったのだ」
と源氏は少しは思い直す。自分の宿世もなお、不満足なところも多い。
「大勢お集りになった女君のなかでも、この宮こそは、不足なところなく、宮自身の人柄も何一つ足らぬところなくいらっしゃるのが、こうして思ってもみないことになってしまった」
と思うにつけて、過ぎてしまった罪は許しがたく、なお口惜しく思った。
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37.4 夕霧、一条宮邸を訪問
大将の君は、かの今はのとぢめにとどめし一言を、心ひとつに思ひ出でつつ、「いかなりしことぞ」とは、いと聞こえまほしう、御けしきもゆかしきを、ほの心得て思ひ寄らるることもあれば、なかなかうち出でて聞こえむもかたはらいたくて、「いかならむついでに、この事の詳しきありさまも明きらめ、また、かの人の思ひ入りたりしさまをも聞こしめさむ」と、思ひわたりたまふ。
秋の夕べのものあはれなるに、一条の宮を思ひやりきこえたまひて、渡りたまへり。うちとけ、しめやかに、御琴どもなど弾きたまふほどなるべし。深くもえ取りやらで、やがてその南の廂に入れたてまつりたまへり。端つ方なりける人の、ゐざり入りつるけはひどもしるく、衣の音なひも、おほかたの匂ひ香うばしく、心にくきほどなり。
例の、御息所、対面したまひて、昔の物語ども聞こえ交はしたまふ。わが御殿の、明け暮れ人しげくて、もの騒がしく、幼き君たちなど、すだきあわてたまふにならひたまひて、いと静かにものあはれなり。うち荒れたる心地すれど、あてに気高く住みなしたまひて、前栽の花ども、虫の音しげき野辺と乱れたる夕映えを、見わたしたまふ。
夕霧は、柏木が今はの際に遺言した一言を思い出して、「何があったのだろう」と、源氏に聞いてみて、その反応も知りたいと思ったが、薄々そうではないかと思い当たることもあり、かえって口に出すのを気が引けて、「何かの折りに、このことの詳しい経緯をはっきりさせたい、また、柏木が深く思い詰めていた様子も申し上げたい」と思うのだった。
秋の夕べのあわれなころ、落葉の宮はどうしていられるかと思って、お出かけになった。宮はくつろいで、静かに、琴を弾いていた。思いがけぬ来訪に、そのまま南の廂に琴を押しやってしまった。廂の方にいた女房たちは、いざり入る気配がして、衣の音も辺りに漂う香の薫りも、奥ゆかしく感じられ心にくいほどであった。
例によって、御息所が対面して、昔の話をなさるのだった。夕霧は自分の邸が、明け暮れ人の出入りがしげく、騒がしく、幼い君たちも大勢で騒々しのに比べて、いかにも静かであわれを感じた。少し荒れた心地がするが、上品に気高く住んでいて、前裁の花などが、虫の音が響く野辺のように咲き乱れて、夕映えに映えているのを見渡した。
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37.5 柏木遺愛の琴を弾く
和琴を引き寄せたまへれば、律に調べられて、いとよく弾きならしたる、人香にしみて、なつかしうおぼゆ。
「かやうなるあたりに、思ひのままなる好き心ある人は、静むることなくて、さま悪しきけはひをもあらはし、さるまじき名をも立つるぞかし」
など、思ひ続けつつ、掻き鳴らしたまふ。
故君の常に弾きたまひし琴なりけり。をかしき手一つなど、すこし弾きたまひて、
「あはれ、いとめづらかなる音に掻き鳴らしたまひしはや。この御琴にも籠もりてはべらむかし。承りあらはしてしがな」
とのたまへば、
「琴の緒絶えにし後より、昔の御童遊びの名残をだに、思ひ出でたまはずなむなりにてはべめる。院の御前にて、女宮たちのとりどりの御琴ども、試みきこえたまひしにも、かやうの方は、おぼめかしからずものしたまふとなむ、定めきこえたまふめりしを、あらぬさまにほれぼれしうなりて、眺め過ぐしたまふめれば、世の憂きつまにといふやうになむ見たまふる
と聞こえたまへば、
「いとことわりの御思ひなりや。限りだにある」
と、うち眺めて、琴は押しやりたまへれば、
かれ、なほさらば、声に伝はることもやと、聞きわくばかり鳴らさせたまへ。ものむつかしう思うたまへ沈める耳をだに、明きらめはべらむ
と聞こえたまふを、
「しか伝はる中の緒は、異にこそははべらめ。それをこそ承らむとは聞こえつれ」
とて、御簾のもと近く押し寄せたまへど、とみにしも受けひきたまふまじきことなれば、しひても聞こえたまはず。
夕霧は、和琴を引き寄せると、よく調律されて、弾きならされ、人の香がしみて、女らしい感じがする。
「このようなところに、慎みのない好き者は、抑えることができずに、見苦しい振舞いに及び、けしからぬ浮名をたてるのだ」
などと思いつつ、琴をかき鳴らした。
故柏木がいつも弾いていた琴であった。風情のある曲をひとつふたつ弾いて、
「あわれ、めったにない音がでるなあ。この琴に故人の思いが籠っているのだろう。聞いてみたいものだ」
と仰ると、
「柏木様が亡くなってから、宮は昔の童遊びで琴を弾かれたことさえ思い出すのを厭うようになりまして、朱雀院の御前で女官たちが琴の腕前を試されたときにも、琴の腕は確かであると判定されたほどの腕前だったのに、今は別人のようにぼんやりされて、すっかり物思いに沈むようになり、琴のことになると悲しい思い出を催す種と思っているようです」
と御息所が言うので、
「悲しみはまことにごもっともです、限りはあるでしょうが」
と物思わし気に琴を押しやれば、
「その琴の音に、故人の音色が交じって伝わるように、聞き分けられるようにお弾きください。物思いに沈んだ耳にも、分かるように」
と御息所が言われるので、
「仰せのような、夫婦の音は格別でしょう。宮の琴の音をお聞きしたいものです」
といって、御簾の近くに和琴を押し出したが、すぐにも承諾しそうにもないので、強いては頼まなかった。
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37.6  夕霧、想夫恋を弾く
月さし出でて曇りなき空に、羽うち交はす雁がねも、列を離れぬ、うらやましく聞きたまふらむかし。風肌寒く、ものあはれなるに誘はれて、箏の琴をいとほのかに掻き鳴らしたまへるも、奥深き声なるに、いとど心とまり果てて、なかなかに思ほゆれば、琵琶を取り寄せて、いとなつかしき音に、「想夫恋」を弾きたまふ。
思ひ及び顔なるは、かたはらいたけれど、これは、こと問はせたまふべくや
とて、切に簾の内をそそのかしきこえたまへど、まして、つつましきさしいらへなれば、宮はただものをのみあはれと思し続けたるに、
ことに出でて言はぬも言ふにまさるとは
人に恥ぢたるけしきをぞ見る

と聞こえたまふに、ただ末つ方をいささか弾きたまふ。
深き夜のあはればかりは聞きわけど
ことより顔にえやは弾きける

飽かずをかしきほどに、さるおほどかなるものの音がらに、古き人の心しめて弾き伝へける、同じ調べのものといへど、あはれに心すごきものの、片端を掻き鳴らして止みたまひぬれば、恨めしきまでおぼゆれど、
「好き好きしさを、さまざまにひき出でても御覧ぜられぬるかな。秋の夜更かしはべらむも、昔の咎めやと憚りてなむ、まかではべりぬべかめる。またことさらに心してなむさぶらふべきを、この御琴どもの調べ変へず待たせたまはむや。弾き違ふることもはべりぬべき世なれば、うしろめたくこそ」
など、まほにはあらねど、うち匂はしおきて出でたまふ。
月が出て曇りない空に、飛んでゆく雁も、列を離れない。宮はうらやましく聞いていることだろう。風は肌寒く、何となくあわれを感じて、宮が箏の琴をかき鳴らしたので、その深味のある音色に、夕霧は心を奪われて、大いに興をもよおして、琵琶を取って、とても柔らかい音で、「想夫恋」を弾いた。
「お心の内を察して、恐縮ですが、この曲なら合奏していただけると思いまして」
と、一心に御簾の内を誘うが、琴を奏するだけでなく気をつかう相手なので、宮はただ悲しいとのみ思い続けて、
(夕霧)「口に出して言わないのは言うに勝る
深いお気持ちなのだと分かります」
と申し上げると、ただ終わりの方だけを弾くのだった。
(落葉の宮) 「琵琶の音で秋の夜のあわれはお聞きしましたが、
琴を弾くよりほかに何を言葉で言えましょうか」
もっと聞いていたいと、おっとりした音色で、昔の人が心をこめて弾き伝えてきた、それと同じ調べであったが、心に響くあわれもすごい節を掻き鳴らして止めたので、もっと聞いていたくてとても残念な気がして、
「物好きなところを、いろいろ引き出してお目にかけましたが、秋の夜更に長居して、故人に咎められるかもしれませんので、この辺りでお暇します。また改めてお伺いしたいのですが。この琴の調べを変えずに、お待ちいただけますか。思いも寄らぬこともある世ですから、心配です」
あからさまではないが、におわして、退出された。
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37.7  御息所、夕霧に横笛を贈る
「今宵の御好きには、人許しきこえつべくなむありける。そこはかとなきいにしへ語りにのみ紛らはさせたまひて、玉の緒にせむ心地もしはべらぬ、残り多くなむ」
とて、御贈り物に笛を添へてたてまつりたまふ。
「これになむ、まことに古きことも伝はるべく聞きおきはべりしを、かかる蓬生に埋もるるもあはれに見たまふるを、御前駆に競はむ声なむ、よそながらもいぶかしうはべる」
と聞こえたまへば、
「似つかはしからぬ随身にこそははべるべけれ」
とて、見たまふに、これもげに世とともに身に添へてもてあそびつつ、
「みづからも、さらにこれが音の限りは、え吹きとほさず。思はむ人にいかで伝へてしがな」
と、をりをり聞こえごちたまひしを思ひ出でたまふに、今すこしあはれ多く添ひて、試みに吹き鳴らす。盤渉調の半らばかり吹きさして、
「昔を偲ぶ独り言は、さても罪許されはべりけり。これはまばゆくなむ」
とて、出でたまふに、
露しげきむぐらの宿にいにしへの
秋に変はらぬ虫の声かな

と、聞こえ出だしたまへり。
横笛の調べはことに変はらぬを
むなしくなりし音こそ尽きせね

出でがてにやすらひたまふに、夜もいたく更けにけり。
「今宵の風流な振舞いには、誰もがごもっともと思うでしょう。何とはない昔話に紛らわせて、心ゆくまでお弾きいただけなかったのが、残念です」
と御息所は言って、笛を贈り物として贈った。
「この笛には昔からの言い伝えがありまして、このような荒れた邸に埋もれさせるのもあわれと思い、お先払い声に負けないほどに競わせて、それとなくお聞きしたいものです」
と御息所が申し上げると、
「そのような立派な笛ならわたしに相応しくない随身でしょう」
といって見ると、実に柏木がいつも愛用していたもので、
「自分もこの笛の音のすべては吹き出すことはできない。大事にしてくれる人に譲りたい」
と柏木が折々に言っていたのを思い出して、一段とあわれをこめて、試みに吹き鳴らしてみる。盤渉調のの半ばばかりを吹いて、
「昔をしのんで和琴は、許されても、この笛は全く分不相応です」
と、夕霧が言うので、
(御息所)「涙に濡れるこの荒れた家に 
昔に変わらぬ虫の音を聞かせていただきました」
と御息所が仰せになると、
(夕霧)「横笛の調べは昔に変わりませんが
亡き人を偲んで泣く声は尽きません」
去り難く、夜も更けるのだった。
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37.8  帰宅して、故人を想う
殿に帰りたまへれば、格子など下ろさせて、皆寝たまひにけり。
「この宮に心かけきこえたまひて、かくねむごろがり聞こえたまふぞ」
など、人の聞こえ知らせければ、かやうに夜更かしたまふもなま憎くて、入りたまふをも聞く聞く、寝たるやうにてものしたまふなるべし。
「妹と我といるさの山の」
と、声はいとをかしうて、独りごち歌ひて、
「こは、など、かく鎖し固めたる。あな、埋れや。今宵の月を見ぬ里もありけり」
と、うめきたまふ。格子上げさせたまひて、御簾巻き上げなどしたまひて、端近く臥したまへり。
「かかる夜の月に、心やすく夢見る人は、あるものか。すこし出でたまへ。あな心憂」
など聞こえたまへど、心やましううち思ひて、聞き忍びたまふ。
君たちの、いはけなく寝おびれたるけはひなど、ここかしこにうちして、女房もさし混みて臥したる、人気にぎははしきに、ありつる所のありさま、思ひ合はするに、多く変はりたり。この笛をうち吹きたまひつつ、
「いかに、名残も、眺めたまふらむ。御琴どもは、調べ変はらず遊びたまふらむかし。御息所も、和琴の上手ぞかし」
など、思ひやりて臥したまへり。
「いかなれば、故君、ただおほかたの心ばへは、やむごとなくもてなしきこえながら、いと深きけしきなかりけむ」
と、それにつけても、いといぶかしうおぼゆ。
見劣りせむこそ、いといとほしかるべけれ。おほかたの世につけても、限りなく聞くことは、かならずさぞあるかし
など思ふに、わが御仲の、うちけしきばみたる思ひやりもなくて、睦びそめたる年月のほどを数ふるに、あはれに、いとかう押したちておごりならひたまへるも、ことわりにおぼえたまひけり
三条殿に帰ると、格子を下ろして、皆寝ていた。
「あの宮に気があるので、それであんなに親切にしてあげるのですよ」
などと女房たちが雲居の雁に知らせるので、このように夜更かしするのも、憎たらしく、入ってくる物音を聞いても、寝たふりをした。
「妹と我といるさの山の」
と、声を上げて、独りで歌って、
「どうして、こんなに錠を下ろしているのだ。うっとうしい。今宵の月を見ないとは」
と、謡うのであった。格子を上げさせて、御簾は自分で上げて、廂の端近くに臥した。
「このような美しい月が出ている夜に、寝る人があるものか。出ていらっしゃい。しょうのない人」
などと言うが、雲居の雁は面白くないので、知らぬ顔をしている。
若君たちが、あどけなく夢におびえたような様子が、あちこちにして、女房も混じって寝ているのは、人が多く、先ほどの所と思い合わせると、様子がだいぶ違う。例の笛を吹きながら、
「わたしが帰った後も、物思いに沈んでいるだろう。琴は、変わらず合奏しているだろう。御息所も和琴の上手だ」
などと、思いやって臥している。
「どういうわけで、亡き柏木は表向きは、落葉の君を、大事に遇していながら、実際は深く愛していなかったのだろう」
と、それにつけても、一度宮にあって見たいものだと思った。
「会って見て、がっかりするようだと、お気の毒だ。大体世間のことは、素晴らしいと評判のことは、いつもそんなものだ」
などと思うと、自分の夫婦仲は、恋のかけひきなどなく、睦まじくなった年月を数えれば、あわれ、雲居の雁が大きな顔をしているのも、無理もないと思うのであった。
20206.21/ 2022.1.23/ 2023.7.27
37.9  夢に柏木現れ出る
すこし寝入りたまへる夢に、かの衛門督、ただありしさまの袿姿にて、かたはらにゐて、この笛を取りて見る。夢のうちにも、亡き人の、わづらはしう、この声を尋ねて来たる、と思ふに、
笛竹に吹き寄る風のことならば
末の世長きねに伝へなむ

思ふ方異にはべりき」
と言ふを、問はむと思ふほどに、若君の寝おびれて泣きたまふ御声に、覚めたまひぬ。
この君いたく泣きたまひて、つだみなどしたまへば、乳母も起き騷ぎ、上も大殿油近く取り寄せさせたまて、耳挟みして、そそくりつくろひて、抱きてゐたまへり。いとよく肥えて、つぶつぶとをかしげなる胸を開けて、乳などくくめたまふ。稚児もいとうつくしうおはする君なれば、白くをかしげなるに、御乳はいとかはらかなるを、心をやりて慰めたまふ。
男君も寄りおはして、「いかなるぞ」などのたまふ。うちまきし散らしなどして、乱りがはしきに、夢のあはれも紛れぬべし。
「悩ましげにこそ見ゆれ。今めかしき御ありさまのほどにあくがれたまうて、夜深き御月愛でに、格子も上げられたれば、例のもののけの入り来たるなめり
など、いと若くをかしき顔して、かこちたまへば、うち笑ひて、
「あやしの、もののけのしるべや。まろ格子上げずは、道なくて、げにえ入り来ざらまし。あまたの人の親になりたまふままに、思ひいたり深くものをこそのたまひなりにたれ」
とて、うち見やりたまへるまみの、いと恥づかしげなれば、さすがに物ものたまはで、
「出でたまひね。見苦し」
とて、明らかなる火影を、さすがに恥ぢたまへるさまも憎からず。まことに、この君なづみて、泣きむつかり明かしたまひつ。
少し寝込んでいた夢に、あの柏木がそっくりあの時の袿姿で、側に座っていて、この笛を手に取って見ている。夢の中でも、亡き人が、面倒なことに、笛の音に惹かれて来たと思うと、
(柏木)「この笛に吹き寄せる風よ、どうせなら
笛の音を末永く世に伝えてほしい
伝えたいと思う人は違うのですが」
と言うのを、それは誰かと問おう、と思うと、若君が夢におびえた鳴き声で目が覚めた。
この君は、激しく泣いて、乳を吐いたので、乳母も起きて騒ぎになり、北の方も明かりを取り寄せて、前髪を耳に挟んで、せわしなく世話して、抱くのだった。北の方は、よく肥えてふっくらした胸を開けて、乳を含ませた。稚児も大そう可愛らしい子だったので、色白できれいに見えるが、乳はもう出ないのを、気休めに含ませて紛らわした。
夕霧も起きて側に寄り、「どうしたのだ」と言う。魔除けの散米が散らかって、騒々しく、夢に現れた故人も消し飛んだ。
「子の具合が悪そうです。あなたが若ぶって、落葉の君にうつつをぬかして、夜更けまで月を愛でるなど、格子を上げているので、物の怪が入ってきたのです」
など、若やいで美しい顔で、文句を言うので、夕霧は笑って、
「なんと、わたしが物の怪を導いたと。わたしが格子を上げなかったら、実際入れないだろうね。子をたくさん持った人の親になったので、立派なことを仰るようになりましたね」
とて、夕霧がこちらを見る目元がすごく美しかったので、さすがに何も言わずに、
「あちらへ行ってください。みっともないです」
とて、明るい火影を、さすがに恥じている様子が、魅力的だ。この若君は苦しがって一晩中泣き明かした。
2020.6.23/ 2022.1.25/ 2023.7.27
37.10  夕霧、六条院を訪問
大将の君も、夢思し出づるに、
「この笛のわづらはしくもあるかな。人の心とどめて思へりしものの、行くべき方にもあらず。女の御伝へはかひなきをや。いかが思ひつらむ。この世にて、数に思ひ入れぬことも、かの今はのとぢめに、一念の恨めしきも、もしはあはれとも思ふにまつはれてこそは、長き夜の闇にも惑ふわざななれ。かかればこそは、何ごとにも執はとどめじと思ふ世なれ」
など、思し続けて、愛宕おたぎに誦経せさせたまふ。また、かの心寄せの寺にもせさせたまひて、
「この笛をば、わざと人のさるゆゑ深きものにて、引き出でたまへりしを、たちまちに仏の道におもむけむも、尊きこととはいひながら、あへなかるべし」
と思ひて、六条の院に参りたまひぬ。
女御の御方におはしますほどなりけり。三の宮、三つばかりにて、中にうつくしくおはするを、こなたにぞまた取り分きておはしまさせたまひける。走り出でたまひて、
「大将こそ、宮抱きたてまつりて、あなたへ率ておはせ」
と、みづからかしこまりて、いとしどけなげにのたまへば、うち笑ひて、
「おはしませ。いかでか御簾の前をば渡りはべらむ。いと軽々ならむ」
とて、抱きたてまつりてゐたまへれば、
「人も見ず。まろ、顔は隠さむ。なほなほ」
とて、御袖してさし隠したまへば、いとうつくしうて、率てたてまつりたまふ。
夕霧も、夢を思い出して、
「この笛は厄介だな。故人の執着したものが、行き場を失って、女の方からこちらに伝わったのでは。柏木の霊は何と思っているのか。この世では何でもないことでも、あの臨終のときに、強い執着があったり、またあわれと思う強い感情があったからこそ、長夜の闇に惑っているのだ。だからこそ、何ごとにあっても執着してはいけないのだと思う」
などと思って、愛宕おたぎ墓所で読経をさせるのだった。柏木が帰依していた寺にも頼んで、
「この笛は、特別深い由緒があるものなので、引き出物としていただいたのを、すぐに寺に寄進するのも、尊いが、あまり安易に過ぎるだろう」
と思って、六条の院に参上した。
源氏は、明石の女御の所にいた。女御腹の三の宮が三歳頃で、特別にかわいがっていて、こちらも紫の上が特別引き取って住まわせていて、走り出して、
「大将がわたしを抱いてあちらにお連れなさい」
自ら敬語をつかって、甘えた風で言うので、夕霧は笑って、
「おいでなさい。どうして御簾の前を通れましょう。無作法ですよ」 とて、抱いてお座りになれば、
「誰も見ていないよ。わたしが顔を隠してあげようさあさあ」
とて、夕霧の顔を袖で顔を隠すので、たまらなく可愛らしく思ってお連れする。
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37.11  源氏の孫君たち、夕霧を奪い合う
こなたにも、二の宮の、若君とひとつに混じりて遊びたまふ、うつくしみておはしますなりけり。隅の間のほどに下ろしたてまつりたまふを、二の宮見つけたまひて、
「まろも大将に抱かれむ」
とのたまふを、三の宮、
「あが大将をや」
とて、控へたまへり。院も御覧じて、
「いと乱りがはしき御ありさまどもかな。公の御近き衛りを、私の随身に領ぜむと争ひたまふよ。三の宮こそ、いとさがなくおはすれ。常に兄に競ひ申したまふ」
と、諌めきこえ扱ひたまふ。大将も笑ひて、
「二の宮は、こよなく兄心にところさりきこえたまふ御心深くなむおはしますめる。御年のほどよりは、恐ろしきまで見えさせたまふ」
など聞こえたまふ。うち笑みて、いづれもいとうつくしと思ひきこえさせたまへり。
見苦しく軽々しき公卿の御座なり。あなたにこそ
とて、渡りたまはむとするに、宮たちまつはれて、さらに離れたまはず。宮の若君は、宮たちの御列にはあるまじきぞかしと、御心のうちに思せど、なかなかその御心ばへを、母宮の、御心の鬼にや思ひ寄せたまふらむと、これも心の癖に、いとほしう思さるれば、いとらうたきものに思ひかしづききこえたまふ
こちらの対では、二の宮と薫が一緒になって遊んでいる。源氏はあやしているところであった。三の宮を夕霧が、隅の間に下ろしたのを二の宮が見つけて、
「わたしも大将に抱いてもらいたい」
と言うのを、三の宮は
「わたしの大将だ」
と言って放さない。源氏もご覧になって、
「何と行儀の悪い有様か。帝の近くで警護される方を、自分の随身にしようと競っている。三の宮こそ、特に聞き分けがないな。いつも兄に負けまいとしている」
と諫めようとするのだった。夕霧も笑って、
「二の宮は、いつも兄らしく弟に譲ろうとする、心ばえがいい。お年の割には、怖いほど立派に見える」
などと言うのであった。互いに笑って、どちらの宮様も可愛いいと思っている。
「そこは公卿には見苦しく座るべきところではないな。あちらへどうぞ」
とて、移ろうとすると、宮たちがまとわりついて、離れない、女三の宮の若君は、宮たちと同列に扱うべきでないと、心の内で思うけど、 かえって、その心配りが、母三の宮が自分の心を咎めてしまうのではないかと、いつもの癖で、かわいそうに思い、宮の子の薫を大切に思い世話するのであった。
2020.6.21/ 2011.1.25/ 2023.7.27
37.12  夕霧、薫をしみじみと見る
大将は、この君を「まだえよくも見ぬかな」と思して、御簾の隙よりさし出でたまへるに、花の枝の枯れて落ちたるを取りて、見せたてまつりて、招きたまへば、走りおはしたり。
二藍ふたあいの直衣の限りを着て、いみじう白う光りうつくしきこと、皇子たちよりもこまかにをかしげにて、つぶつぶときよらなり。なま目とまる心も添ひて見ればにや眼居まなこいなど、これは今すこし強うかどあるさままさりたれど、眼尻のとぢめをかしうかをれるけしきなど、いとよくおぼえたまへり。
口つきの、ことさらにはなやかなるさまして、うち笑みたるなど、「わが目のうちつけなるにやあらむ、大殿はかならず思し寄すらむ」と、いよいよ御けしきゆかし。
宮たちは、思ひなしこそ気高けれ、世の常のうつくしき稚児どもと見えたまふに、この君は、いとあてなるものから、さま異にをかしげなるを、見比べたてまつりつつ、
「いで、あはれ。もし疑ふゆゑもまことならば、父大臣の、さばかり世にいみじく思ひほれたまて、
『子と名のり出でくる人だになきこと。形見に見るばかりの名残をだにとどめよかし』
と、泣き焦がれたまふに、聞かせたてまつらざらむ罪得がましさ」など思ふも、「いで、いかでさはあるべきことぞ」
と、なほ心得ず、思ひ寄る方なし。心ばへさへなつかしうあはれにて、睦れ遊びたまへば、いとらうたくおぼゆ。
夕霧は、三の宮腹の薫を「まだよく見ていない」と思って、御簾の隙から顔を出したので、枯れた花の枝を取って、見せて、来るように呼んでみると、走ってやって来た。
二藍ふたあいの直衣だけを着て、大そう色白で光るようにうつくしく、皇子たちよりも目鼻立ちが整ってまるまると肥えている。そう思って見るせいか、眼差しなど、しっかりして才気のありそうな様子は、柏木以上だけれど、目尻が切れ長ですっきりと美しいのは、柏木によく似ているのだった。
口元の特別にはなやかな感じで、笑ったときなど、「自分が見違えたのか、源氏は本当に気がついていないのか」と、いよいよ源氏の心中を聞いてみたかった。
宮たちは、思いなしか気高い感じであったが、世によくある美しい稚児のように見えるが、この君は、大そう高貴な感じがして、格別に際立っているのを、見比べて、
「何と、あわれな。もし疑いが本当なら、父大臣のあんなにひどくやつれてしまって、
『わが子と名乗り出る人もない。せめて形見に世話する人を残していてくれていたら』
と、泣きこがれているのに、教えないのは罪なことだ」などと思うも、「いやいや、どうしてそんなことがあろうか」
などと納得ができず、推測する手がかりもない。薫は気立てもやさしくあわれで、なついてくるので夕霧もたいそう可愛いいと思った。
2022.1.25/ 2023.7.27
37.13  夕霧、源氏と対話
対へ渡りたまひぬれば、のどやかに御物語など聞こえておはするほどに、日暮れかかりぬ。昨夜、かの一条の宮に参うでたりしに、おはせしありさまなど聞こえ出でたまへるを、ほほ笑みて聞きおはす。あはれなる昔のこと、かかりたる節々は、あへしらひなどしたまふに、
††「かの想夫恋の心ばへは、げに、いにしへの例にも引き出でつべかりけるをりながら女は、なほ、人の心移るばかりのゆゑよしをも、おぼろけにては漏らすまじうこそありけれと、思ひ知らるることどもこそ多かれ
過ぎにし方の心ざしを忘れず、かく長き用意を、人に知られぬとならば、同じうは、心きよくてとかくかかづらひ、ゆかしげなき乱れなからむや、誰がためも心にくく、めやすかるべきことならむとなむ思ふ」
とのたまへば、「さかし。人の上の御教へばかりは心強げにて、かかる好きはいでや」と、見たてまつりたまふ。
「何の乱れかはべらむ。なほ、常ならぬ世のあはれをかけそめはべりにしあたりに、心短くはべらむこそ、なかなか世の常の嫌疑あり顔にはべらめとてこそ。
想夫恋は、心とさし過ぎてこと出でたまはむや、憎きことにはべらまし、もののついでにほのかなりしは、をりからのよしづきて、をかしうなむはべりし。
何ごとも、人により、ことに従ふわざにこそはべるべかめれ。齢なども、やうやういたう若びたまふべきほどにもものしたまはず、また、あざれがましう、好き好きしきけしきなどに、もの馴れなどもしはべらぬに、うちとけたまふにや。おほかたなつかしうめやすき人の御ありさまになむものしたまひける」
など聞こえたまふに、いとよきついで作り出でて、すこし近く参り寄りたまひて、かの夢語りを聞こえたまへば、とみにものものたまはで、聞こしめして、思し合はすることもあり。
東の対へ行って、ふたりはのどかに物語して、日が暮れた。 昨夜、あの一条の宮のところに、行ったことや、先方の様子をお話しするが、源氏は微笑みながら聞いている。話が亡き人のことになる節々には、その都度、相槌を打ったりしていたが、
「あの想夫恋の曲を宮が弾いたのも、実に、昔こんなことがありましたと思い出したのでしょうが、女というものは、それでも、男の気を惹くたしなみなどは、容易には見せないのがいい、と思い知ることも多いのだ。
故人への志を忘れず、いつまでも変わらぬ思いなのだと、人も分かっているのなら、同じくは、心を清く保ち、世間によくある間違いなどしないのが、どちらにとっても奥ゆかしく、世間体もいいだろうと思う」
と源氏が仰せになれば、「そうだ。他人のことは教訓を垂れるが、自分の好き心はどうかな」と、夕霧は 思った。
「何の間違いがありましょうか。なお、はかなく亡くなった人への同情からお世話始めましたので、当座だけで終わっては、世間の疑いを受けてしまうと思いまして。
想夫恋は相手が進んでお弾きしましたのなら、出過ぎたこととも思われましょうが、ことのついでにお弾き遊ばされたので、雅を感じまして、結構に存じました。
何ごとも、人次第、事柄次第ということでしょうか。年などもひどく若やいだ作りをしていませんし、またわたしの方も、冗談めかしたり色めいた態度で、馴れ馴れしくはしていませんで、宮が打ち解けた気持ちになったのでしょうか。総じて、とても親しみやすく気さくなお人柄でいらっしゃいました」
などと述べて、うまくきっかけを作って、少し近くに寄って、あの柏木が夢に出た話を語ると、源氏はすぐには返事ができず、聞いていて思い合わすこともあるのだった。
2020.6.25/ 2022.1.25/ 2023.7.27
37.14  笛を源氏に預ける
その笛は、ここに見るべきゆゑあるものなり。かれは陽成院ようぜいいんの御笛なり。それを故式部卿宮の、いみじきものにしたまひけるを、かの衛門督は、童よりいと異なる音を吹き出でしに感じて、かの宮の萩の宴せられける日、贈り物に取らせたまへるなり。女の心は深くもたどり知らず、しかものしたるななり」
などのたまひて、
「末の世の伝へ、またいづ方にとかは思ひまがへむ。さやうに思ふなりけむかし」など思して、「この君もいといたり深き人なれば、思ひ寄ることあらむかし」と思す。
その御けしきを見るに、いとど憚りて、とみにもうち出で聞こえたまはねど、せめて聞かせたてまつらむの心あれば、今しもことのついでに思ひ出でたるやうに、おぼめかしうもてなして、
「今はとせしほどにも、とぶらひにまかりてはべりしに、亡からむ後のことども言ひ置きはべりし中に、 しかしかなむ深くかしこまり申すよしを、返す返すものしはべりしかば、いかなることにかはべりけむ、今にそのゆゑをなむえ思ひたまへ寄りはべらねば、おぼつかなくはべる」
と、いとたどたどしげに聞こえたまふに、
「さればよ」
と思せど、何かは、そのほどの事あらはしのたまふべきならねば、しばしおぼめかしくて、
しか、人の恨みとまるばかりのけしきは、何のついでにかは漏り出でけむと、みづからもえ思ひ出でずなむ。さて、今静かに、かの夢は思ひ合はせてなむ聞こゆべき。夜語らずとか、女房の伝へに言ふなり」
とのたまひて、をさをさ御いらへもなければ、うち出で聞こえてけるを、いかに思すにかと、つつましく思しけり、とぞ。
「その笛はゆえを知っているわたしが預かるべきものだ。それは、陽成院ようぜいいんの笛だ。故式部卿の宮が大事にしていたのを、あの柏木が、子供の時から、笛が大そう上手で、故式部卿の宮で萩の宴が催された日に、贈り物としていただいたものだ。御息所は、その事情を深くも知らず、そなたに譲ったのだ」
と仰せになって、
「末の世に誰に伝えるか、間違えたりしようか。柏木の霊も同じく考えたであろう」などと源氏は思って、「夕霧はよく気がつく人だから思い当たる時もあろう」と思う。
夕霧は、源氏の気色を見て、大いに憚って、すぐにも言い出せないでいたが、この際どうしても申し上げておきたかったので、今ついでに思い出したふりをして、はっきりしないような口調で、
「今わの際に、お見舞いしましたときに、わたくしに言い残されたことのなかに、これこれしかじかのことを深く畏まって柏木が繰り返し繰り返し言われるので、どうした事情があったのか、今そのことを思い出しましたので、とても気になるのでございます」
といかにも腑に落ちないように申し上げるので、
「やっぱり知っているのだな」
と源氏は思うが、いやなに、これは口に出してはっきり言うべきことでもないので、しばらく考えるふりをして、
「そうだな、人に恨まれるような態度は、いつわたしがとったのか、自分でも思い出せない。それはそれとして、その夢の話はいずれゆっくり話そう。夢の話は、夜はしないものだと女房たちが言っている」
と仰せになって、その後はろくに返事もないので、夕霧はこの話を出したのを、源氏がどう思ったか、気恥ずかしく思った。
2020.6.25/ 2022.1.25◎ 文法 完
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読書期間2020年6月17日 - 2020年6月25日