源氏物語 38 鈴虫 すずむし

HOME表紙へ 源氏物語・目次  鈴虫 登場人物・見出し
原文 現代文
38.1 持仏開眼供養の準備
夏ごろ、蓮の花の盛りに、入道の姫宮の御持仏どもあらはしたまへる、供養ぜさせたまふ。
このたびは、大殿の君の御心ざしにて、御念誦堂の具ども、こまかに調へさせたまへるを、やがてしつらはせたまふ。幡のさまなどなつかしう、心ことなる唐の錦を選び縫はせたまへり。紫の上ぞ、急ぎせさせたまひける。
花机の覆ひなどのをかしき目染もなつかしう、きよらなる匂ひ、染めつけられたる心ばへ、目馴れぬさまなり。夜の御帳の帷を、四面ながら上げて、後ろの方に法華の曼陀羅かけたてまつりて、銀の花瓶に、高くことことしき花の色を調へてたてまつり、名香に、唐の百歩の薫衣香を焚きたまへり。
阿弥陀仏、脇士きょうじの菩薩、おのおの白檀して作りたてまつりたる、こまかにうつくしげなり。閼伽あかの具は、例の、きはやかに小さくて、青き、白き、紫の蓮を調へて、荷葉かようの方を合はせたる名香、蜜を隠しほほろげて、焚き匂はしたる、一つ薫りに匂ひ合ひて、いとなつかし。
経は、六道の衆生のために六部書かせたまひて、みづからの御持経は、院ぞ御手づから書かせたまひける。これをだに、この世の結縁にて、かたみに導き交はしたまふべき心を、願文に作らせたまへり。
さては、阿弥陀経、唐の紙はもろくて、朝夕の御手慣らしにもいかがとて、紙屋の人を召して、ことに仰せ言賜ひて、心ことにきよらに漉かせたまへるに、この春のころほひより、御心とどめて急ぎ書かせたまへるかひありて、端を見たまふ人びと、目もかかやき惑ひたまふ。
罫かけたる金の筋よりも、墨つきの上にかかやくさまなども、いとなむめづらかなりける。軸、表紙、筥のさまなど、いへばさらなりかし。これはことに沈の花足の机に据ゑて、仏の御同じ帳台の上に飾らせたまへり。
夏ごろ、蓮の花の盛りに、女三の宮の持仏の仏像を出して開眼供養を行うことになった。
源氏の君の志で、建てられる予定の念誦堂の調度類を、細かに用意してあったのも、同じく供養することになった。幡などやさしい感じで、特に立派な唐の錦を選んで縫わせるのだった。紫の上が、急いで用意させた。
花机の覆いはあざやかな目染めもやさしい感じで、美しい色合いや染の趣向など、またとない様であった。夜の帳の帷子を、四面を上げて、後ろの方に法華の曼陀羅をかけて、銀の花瓶に、丈の高い見事な蓮の花をそろえてお供えになり、香には唐の百歩の衣香を焚きしめていた。
阿弥陀仏に、脇士きょうじの菩薩、それぞれ白檀の材で作ってあり、細かに美しい出来であった。閼伽あかの器は、例の通り、際立って小さく、青い、白い、紫の造花の蓮を整えて、荷葉かようの調合の香が漂い、蜜を控えてぼろぼろに崩して、焚き匂わしているのが、ひとつになって匂うのだった。
経は、六道の衆生のために六部作って、自分の持経は、源氏自ら書いた。これをこの世の結縁として、互いに手を引きあって極楽往生する願文を作った。
そのほかには、阿弥陀経、唐の紙はもろくて、朝夕の読経に堪えられないので、紙屋の役人を呼んで、 ことに注文をだして、特別美しく漉かせたもので、この春頃より、念入りに用意し急がせていたので、一端を見た人も驚く出来栄えだった。
罫を引いてある金泥の線よりも、墨付きの美しく輝く様は、まことに見事だった。軸、表紙、箱などは言うに及ばない。阿弥陀経は特別に沈の花足の机に載せ、本尊の安置してある同じ帳台に供して、飾りつけた。2020.6.27◎
38.2 源氏と女三の宮、和歌を詠み交わす
堂飾り果てて、講師参う上り、行道の人びと参り集ひたまへば、院もあなたに出でたまふとて、宮のおはします西の廂にのぞきたまへれば、狭き心地する仮の御しつらひに、所狭く暑げなるまで、ことことしく装束きたる女房、五、六十人ばかり集ひたり。
北の廂の簀子まで、童女などはさまよふ。火取りどもあまたして、煙たきまで扇ぎ散らせば、さし寄りたまひて、
「空に焚くは、いづくの煙ぞと思ひ分かれぬこそよけれ。富士の嶺よりもけに、くゆり満ち出でたるは、本意なきわざなり。講説の折は、おほかたの鳴りを静めて、のどかにものの心も聞き分くべきことなれば、憚りなき衣の音なひ、人のけはひ、静めてなむよかるべき」
など、例の、もの深からぬ若人どもの用意教へたまふ。宮は、人気に圧されたまひて、いと小さくをかしげにて、ひれ臥したまへり。
「若君、らうがはしからむ。抱き隠したてまつれ」
などのたまふ。
北の御障子も取り放ちて、御簾かけたり。そなたに人びとは入れたまふ。静めて、宮にも、ものの心知りたまふべき下形を聞こえ知らせたまふ、いとあはれに見ゆ。御座を譲りたまへる仏の御しつらひ、見やりたまふも、さまざまに、
「かかる方の御いとなみをも、もろともに急がむものとは思ひ寄らざりしことなり。よし、後の世にだに、かの花の中の宿りに、隔てなく、とを思ほせ」
とて、うち泣きたまひぬ。
蓮葉を同じ台と契りおきて
露の分かるる今日ぞ悲しき

と、御硯にさし濡らして、香染めなる御扇に書きつけたまへり。宮、
隔てなく蓮の宿を契りても
君が心や住まじとすらむ

と書きたまへれば、
「いふかひなくも思ほし朽たすかな」
と、うち笑ひながら、なほあはれとものを思ほしたる御けしきなり。
法要の場の飾りつけも終わって、僧が高座に上り、行道の人々も来てそろったので、法要の場に出ようと、西の廂の場を覗くと、 狭い気がする仮の御座所に、狭苦しく暑そうな様子で、改まった装束に着替えた女房たちが五、六十人ばかり集まっていた。
北の廂の簀子まで、童女が集っていた。香炉などもたくさん使って、煙たいくらい扇であおいでいるので、寄って、
「空薫物は、どこから匂ってくるのか分からないのがいいのだ。富士の峰より煙が立っているのは、よくない。僧の高説のときは、静かにして、ゆっくりと物の心も聞いて分かるようにしなければ、遠慮のない衣の音も、人の気配も静かにしているものだ」
などと、いつもながら、たしなみのない若い女房たちに心構えを教えるのだった。宮は人気に圧倒されて、小さくなって臥していた。
「若君がむつがるといけない。抱いてあちらに連れて行きなさい」
など仰せになる。
北の障子も取り払って、御簾をかけた。そちらに女房たちを入れていた。静かにして、宮も、法要の内容が分かるように予備知識を教えている。とてもやさしく見える。御座を法会の場に譲った仏のしつらいを見て、さまざまに、
「このような催しを、一緒に用意する時があろうとは、思いも寄らなかった。まあ、来世は、あの蓮の花の中に仲良くご一緒できることを祈ってください」
とて、泣くのだった。
「来世は一緒に同じ蓮の葉に乗ると約束したのに、
露の玉のように別れ別れに住むのが悲しい」
と、硯に筆をつけて、香染めの扇に書き付けた。宮は、
「仲良く一緒に蓮の花にと約束しても、
あなたの心は別の所にあるのでしょう」
と宮は書いたので、
せっかくの申し出も、一蹴されるのですか」
と笑って、やはりしんみりと感に堪えない気色である。2020.6.27◎
38.3 持仏開眼供養執り行われる
例の、親王たちなども、いとあまた参りたまへり。御方々より、我も我もと営み出でたまへる捧物のありさま、心ことに、所狭きまで見ゆ。七僧の法服など、すべておほかたのことどもは、皆紫の上せさせたまへり。綾のよそひにて、袈裟の縫目まで、見知る人は、世になべてならずとめでけりとや。むつかしうこまかなることどもかな。
講師のいと尊く、ことの心を申して、この世にすぐれたまへる盛りを厭ひ離れたまひて、長き世々に絶ゆまじき御契りを、法華経に結びたまふ、尊く深きさまを表はして、ただ今の世の、才もすぐれ、豊けきさきらを、いとど心して言ひ続けたる、いと尊ければ、皆人、しほたれたまふ。
これは、ただ忍びて、御念誦堂の初めと思したることなれど、内裏にも、山の帝も聞こし召して、皆御使どもあり。御誦経の布施など、いと所狭きまで、にはかになむこと広ごりける。
院にまうけさせたまへりけることどもも、削ぐと思ししかど、世の常ならざりけるを、まいて、今めかしきことどもの加はりたれば、夕べの寺に置き所なげなるまで、所狭き勢ひになりてなむ、僧どもは帰りける。
例によって、親王たちもたくさん来た。御婦人方から、われもわれもと競争して差し出された布施の数々は、置き場もないほどだった。七僧の法服など、すべて一通りのことは、紫の上が用意された。綾の装いなど、袈裟の縫い目まで、見る人は、稀なもので素晴らしい出来だと褒めたそうな。うるさく細かい話ですこと。
講師の僧は尊い方で、法要の趣旨を申して、この世に若く栄華の盛りの身でありながら、世を厭い離れて、長い世々の絶えることのない契りを、法華経に結ぼうとして、尊く深い帰依をした評し、この僧は当世、才もすぐれて文才もあり、熱心に言い続けるので、ことのほか尊く、皆人は涙を流した。
今回の法要はごく内輪で、念誦堂の手始めにと思ったのだが、帝も、山の帝もお聞きになって、それぞれ使いを立てるのだった。誦経の布施などたくさんで、にわかに大げさな法要になった。
六条の院で用意したお布施も、簡素に、と思っていたが、それでも並み一通りのことではなかったので、今様のことも加わって、夕べの寺に置き所もない位になって、僧たちは帰って行った。2020.6.27◎
38.4 三条宮邸を整備
今しも、心苦しき御心添ひて、はかりもなくかしづききこえたまふ。院の帝は、この御処分の宮に住み離れたまひなむも、つひのことにて、目やすかりぬべく聞こえたまへど、
「よそよそにては、おぼつかなかるべし。明け暮れ見たてまつり、聞こえ承らむこと怠らむに、本意違ひぬべし。げに、あり果てぬ世いくばくあるまじけれど、なほ生ける限りの心ざしをだに失ひ果てじ」
と聞こえたまひつつ、この宮をもいとこまかにきよらに造らせたまひ、御封みふの物ども、国々の御荘、御牧などより奉る物ども、はかばかしきさまのは、皆かの三条の宮の御倉に納めさせたまふ。またも、建て添へさせたまひて、さまざまの御宝物ども、院の御処分に数もなく賜はりたまへるなど、あなたざまの物は、皆かの宮に運び渡し、こまかにいかめしうし置かせたまふ。
明け暮れの御かしづき、そこらの女房のことども、上下の育みは、おしなべてわが御扱ひにてなど、急ぎ仕うまつらせたまひける。
源氏は、女三の宮をおいたわしく思い、この上もなく大切にお世話する。院の帝は、三の宮が相続された邸に別居するのも、いずれそうなるのだから世間体もよかろうと許されて、
「離れ離れは、よろしくないだろう。明け暮れお会いして、何か申し上げたり、伺ったりできないのは、本意ではありません。限りある命、余命幾ばくもないだろうが、生きている限り、お世話する志を失いたくない」
と仰せになり、この邸も細かに美しく改装させた。御封みふの物ども、国々の御荘、御牧などより奉納される物ども、これはと思われる物は、皆かの三条の邸の宮の倉に運び入れて、納めさせた。倉を建て増して、さまざまな宝物などを、院から賜ったたくさんの相続の物も、宮のものは、皆あの三条邸に運び込ませて、細かく、しっかりと管理させるのだった。
宮の日常のお世話や、女房たちの経費は、上下の人々の面倒など、一切源氏の側でまかない、三条の宮の手入れを急がせた。2020.6.27◎
38.5 女三の宮の前栽に虫を放つ
秋ごろ、西の渡殿の前、中の塀の東の際を、おしなべて野に作らせたまへり。閼伽あかの棚などして、その方にしなさせたまへる御しつらひなど、いとなまめきたり。
御弟子に従ひきこえたる尼ども、御乳母、古人どもは、さるものにて、若き盛りのも、心定まり、さる方にて世を尽くしつべき限りは選りてなむ、なさせたまひける。
さるきほひには、我も我もときしろひけれど、大殿の君聞こしめして、
「あるまじきことなり。心ならぬ人すこしも混じりぬれば、かたへの人苦しう、あはあはしき聞こえ出で来るわざなり」
と諌めたまひて、十余人ばかりのほどぞ、容貌異にてはさぶらふ。
この野に虫ども放たせたまひて、風すこし涼しくなりゆく夕暮に、渡りたまひつつ、虫の音を聞きたまふやうにて、なほ思ひ離れぬさまを聞こえ悩ましたまへば、
例の御心はあるまじきことにこそはあなれ
と、ひとへにむつかしきことに思ひきこえたまへり。
人目にこそ変はることなくもてなしたまひしか、内には憂きを知りたまふけしきしるく、こよなう変はりにし御心を、いかで見えたてまつらじの御心にて、多うは思ひなりたまひにし御世の背きなれば、今はもて離れて心やすきに
† 「なほ、かやうに」
など聞こえたまふぞ苦しうて、「人離れたらむ御住まひにもがな」と思しなれど、およすけてえさも強ひ申したまはず。
秋ごろ、宮の邸の西の渡殿の前に。中の塀の東の際を、一様に野原にしてしまったのだった。閼伽あかの棚など、出家に相応しいように作って、大そう優雅である。
宮の弟子として従った尼たちが、乳母、老女たちは当然として、若い盛りの娘たちも、欠場して、尼として一生を送れそうな者たちは選んで、出家させた。
当座は勢いで、我も我もと競ったが、源氏がそれを聞いて、
「あるまじきことだ。本心から決心したのでない者が混じっていたら、まわりの者が迷惑する。浮ついた評判も立ってしまう」
と諫めて、十余人ほどが尼になった。
この野原に虫を放って、風が少し涼しくなった夕暮れに、源氏は三の宮邸に行き、虫の音を聞くふりをして、今なお諦めきれない気持ちを申し上げて困らせるので、
「困った好き心だこと、出家の身としては、とんでもないこと」
女三の宮はただもう、厄介なことと思って、
人の見ているところでは、変わることなくお扱いなさっているが、心の中では嫌なことを知った徴が強く、ひどく変わってしまった源氏の気持ちを、もう決して逢うまいと決心して出家した身なので、今は夫婦の契りもなく気兼ねせずにいられるのに、
「いまでもこのように」
などと申し上げるのがつらくて、「人里離れた住まいにでも」と思うのだが、大人ぶってそのように強いて申し上げられないのだった。2020.6.28◎
38.6 八月十五夜、秋の虫の論
十五夜の夕暮に、仏の御前に宮おはして、端近う眺めたまひつつ念誦したまふ。若き尼君たち二、三人、花奉るとて鳴らす閼伽坏あかつきの音、水のけはひなど聞こゆる、さま変はりたるいとなみに、そそきあへる、いとあはれなるに、例の渡りたまひて、
「虫の音いとしげう乱るる夕べかな」
とて、われも忍びてうち誦じたまふ阿弥陀の大呪、いと尊くほのぼの聞こゆ。げに、声々聞こえたる中に、鈴虫のふり出でたるほど、はなやかにをかし。
「秋の虫の声、いづれとなき中に、松虫なむすぐれたるとて、中宮の、はるけき野辺を分けて、いとわざと尋ね取りつつ放たせたまへる、しるく鳴き伝ふるこそ少なかなれ。名には違ひて、命のほどはかなき虫にぞあるべき。
心にまかせて、人聞かぬ奥山、はるけき野の松原に、声惜しまぬも、いと隔て心ある虫になむありける。鈴虫は、心やすく、今めいたるこそらうたけれ」
などのたまへば、宮、
おほかたの秋をば憂しと知りにしを
ふり捨てがたき鈴虫の声

と忍びやかにのたまふ。いとなまめいて、あてにおほどかなり。
「いかにとかや。いで、思ひの外なる御ことにこそ」とて、
心もて草の宿りを厭へども
なほ鈴虫の声ぞふりせぬ

など聞こえたまひて、きんの御琴召して、珍しく弾きたまふ。宮の御数珠引き怠りたまひて、御琴になほ心入れたまへり。
月さし出でて、いとはなやかなるほどもあはれなるに、空をうち眺めて、世の中さまざまにつけて、はかなく移り変はるありさまも思し続けられて、例よりもあはれなる音に掻き鳴らしたまふ。
十五夜の夕暮れ、仏の御前に宮はいて、端近くで物思い耽りながら念誦していた。若い尼僧たち二。三人が、花を手向けるのに鳴らす閼伽坏あかつきの音、水の音などが聞こえるなど、様子が全く変わった生活ぶりに、あわれを感じながら、例によって源氏がやってきて、
「虫の音が大そう鳴き乱れている夕べだな」
と言って、自分も低い声で阿弥陀の大呪、を念誦するのは尊くほのぼのと聞こえるのだった。実に、色々な虫の声が聞こえる中で、鈴虫が鳴き出す音が、はなやかで趣深い。
「秋の虫の声、たくさんある中で、松虫がすぐれているといって、中宮が、はるかな野辺に分け入って、特別に取って来て放ったものだが、はっきり鳴くのは少ないようですね。名と違って、命のはかない虫のようだ。
存分に、人のいない奥山、遠い野辺の松原など、人のいない所で、思いっきり鳴いているのだろう。鈴虫は、何気なく、はなやかに鳴くのがいいのだが」
などと仰せになると、宮は、
「秋というものは、憂きものと知っていましたが、
鈴虫のように捨てがたいものもありますね」
と宮は小声で言う。優雅で気品があっておっとりしている。
「何と仰る。思いがけないお言葉ですね」といって、
「ご自分からこの家を厭っても
なお鈴虫の声は変わらず飽きることはありません」
と仰せになって、きんの琴を持って来させて、久しぶりに弾いた。宮は数珠を手繰るのも忘れて、琴を聞き入って いた。
十五夜の月が出て、はなやかな月の光にあわれを感じ、空を眺めては、世の中の様々に、はかなく移り変わる有様も思いだされて、いつもよりあわれを催す音を掻き鳴らすのだった。2020.6.28◎
38.7 六条院の鈴虫の宴
今宵は、例の御遊びにやあらむと推し量りて、兵部卿宮渡りたまへり。大将の君、殿上人のさるべきなど具して参りたまへれば、こなたにおはしますと、御琴の音を尋ねて、やがて参りたまふ。
「いとつれづれにて、わざと遊びとはなくとも、久しく絶えにたるめづらしき物の音など、聞かまほしかりつる独り琴を、いとよう尋ねたまひける」
とて、宮も、こなたに御座よそひて入れたてまつりたまふ。内裏の御前に、今宵は月の宴あるべかりつるを、とまりてさうざうしかりつるに、この院に人びと参りたまふと聞き伝へて、これかれ上達部なども参りたまへり。虫の音の定めをしたまふ。
御琴どもの声々掻き合はせて、おもしろきほどに、
「月見る宵の、いつとてもものあはれならぬ折はなきなかに、今宵の新たなる月の色には、げになほ、わが世の外までこそ、よろづ思ひ流さるれ。故権大納言、何の折々にも、亡きにつけていとど偲ばるること多く、公、私、ものの折節のにほひ失せたる心地こそすれ。花鳥の色にも音にも、思ひわきまへ、いふかひあるかたの、いとうるさかりしものを」
などのたまひ出でて、みづからも掻き合はせたまふ御琴の音にも、袖濡らしたまひつ。御簾の内にも、耳とどめてや聞きたまふらむと、片つ方の御心には思しながら、かかる御遊びのほどには、まづ恋しう、内裏などにも思し出でける。
「今宵は鈴虫の宴にて明かしてむ」
と思しのたまふ。
今夜は、例によって管弦の遊びがあるだろうと推測して、兵部卿の宮がやって来た。夕霧も、殿上人のしかるべき者たちを連れてやって来ると、琴の音を聞きつけて、こちらに参上する。
「所在ないので、たいそうな管弦の宴はなくても、久しく絶えた物の音などを、聞いてみたく独り琴を弾いていました、よく尋ねてくれました」
といって、宮も兵部卿の宮も座を作って、招じ入れた。帝の御前で、今夜は月の宴がある予定だったが、中止になって物足りなかったので、この院に人々が集うと聞いて、あれこれの上達部なども参上した。虫の音の良し悪しを品評される。
色々な弦楽器を合奏して、興がのってきたので、
「月見る宵には、いつでも物のあわれがないところはないものだが、今宵の新たな月の光には、実に、この世の外のことまで、よろず思いだされます。故権大納言の柏木は、何の折につけても、亡きことの偲ばれることが多く、公、私に渡ってものの折節につけて何か欠けた気がします。花鳥の色にも音にも、違いが分かり、まったく大したものだった」
など仰せになって、自分で合奏する琴の音にも、袖を濡らすのだった。御簾の内でも、あの方は耳をとどめて聞いているだろうと、一方では思いながら、このような管弦の遊びのときは、まず恋しく思い、それは帝も同様であった。
「今宵は鈴虫の宴で夜を明かしましょう」
と仰せになるのだった。2020.6.28◎
38.8 冷泉院より招請の和歌
†御土器二わたりばかり参るほどに、冷泉院より御消息あり。御前の御遊びにはかにとまりぬるを口惜しがりて、左大弁、式部大輔、また人びと率ゐて、さるべき限り参りたれば、大将などは六条の院にさぶらひたまふ、と聞こし召してなりけり。
雲の上をかけ離れたるすみかにも
もの忘れせぬ秋の夜の月

同じくは」
と聞こえたまへれば、
何ばかり所狭き身のほどにもあらずながら、今はのどやかにおはしますに、参り馴るることもをさをさなきを、本意なきことに思しあまりて、おどろかさせたまへる、かたじけなし
† とて、にはかなるやうなれど、参りたまはむとす。
月影は同じ雲居に見えながら
わが宿からの秋ぞ変はれる

異なることなかめれど、ただ昔今の御ありさまの思し続けられけるままなめり。御使に盃賜ひて、禄いと二なし。
盃が二回りするほどに、冷泉院から文があった。御前の遊びが中止になって残念がっている、左大弁、式部大輔、また人々を引き連れて、しかるべき人々が参上していたので、夕霧などは六条の院にいると聞いて、来られたのだった。
「宮中を離れた住処にも
忘れずに秋の月は照りわたっております
同じくはあなたにも見てもらいたい」
と文にあったので、
「たいして窮屈な身分でもないのだが、ご退位されてお気軽になされているところ、親しく参上しておらずに、院が不本意なことと思って、文を下さったのは、恐れ多いことです」
と急なようだが、参上しようとする。
「月は変わらぬ光に輝いていますが、
わたしの方はすっかり変わりました」
何ほどのこともないご返事だが、今昔の変わりように感慨を催しての作であろう。使いには盃を賜って、この上ない立派な禄を賜った。2020.6.29◎
38.9 冷泉院の月の宴
人びとの御車、次第のままに引き直し、御前の人びと立ち混みて、静かなりつる御遊び紛れて、出でたまひぬ。院の御車に、親王たてまつり、大将、左衛門督、藤宰相など、おはしける限り皆参りたまふ。
直衣にて、軽らかなる御よそひどもなれば、下襲ばかりたてまつり加へて、月ややさし上がり、更けぬる空おもしろきに、若き人びと、笛などわざとなく吹かせたまひなどして、忍びたる御参りのさまなり。
うるはしかるべき折節は、所狭くよだけき儀式を尽くして、かたみに御覧ぜられたまひ、また、いにしへのただ人ざまに思し返りて、今宵は軽々しきやうに、ふとかく参りたまへれば、いたう驚き、待ち喜びきこえたまふ。
ねびととのひたまへる御容貌、いよいよ異ものならず。いみじき御盛りの世を、御心と思し捨てて、静かなる御ありさまに、あはれ少なからず。
その夜の歌ども、唐のも大和のも、心ばへ深うおもしろくのみなむ。例の、言足らぬ片端は、まねぶもかたはらいたくてなむ。明け方に文など講じて、とく人びとまかでたまふ。
///////
38.10 秋好中宮、出家を思う
六条院は、中宮の御方に渡りたまひて、御物語など聞こえたまふ。
「今はかう静かなる御住まひに、しばしばも参りぬべく、何とはなけれど、過ぐる齢に添へて、忘れぬ昔の御物語など、承り聞こえまほしう思ひたまふるに、何にもつかぬ身のありさまにて、さすがにうひうひしく、所狭くもはべりてなむ。
我より後の人びとに、方々につけて後れゆく心地しはべるも、いと常なき世の心細さの、のどめがたうおぼえはべれば、世離れたる住まひにもやと、やうやう思ひ立ちぬるを、残りの人びとのものはかなからむ、漂はしたまふな、と先々も聞こえつけし心違へず、思しとどめてものせさせたまへ」
など、まめやかなるさまに聞こえさせたまふ。
例の、いと若うおほどかなる御けはひにて、
「九重の隔て深うはべりし年ごろよりも、おぼつかなさのまさるやうに思ひたまへらるるありさまを、いと思ひの外に、むつかしうて、皆人の背きゆく世を、厭はしう思ひなることもはべりながら、その心の内を聞こえさせうけたまはらねば、何事もまづ頼もしき蔭には聞こえさせならひて、いぶせくはべる」
と聞こえたまふ。
「げに、公ざまにては、限りある折節の御里居も、いとよう待ちつけきこえさせしを、今は何事につけてかは、御心にまかせさせたまふ御移ろひもはべらむ。定めなき世と言ひながらも、さして厭はしきことなき人の、さはやかに背き離るるもありがたう、心やすかるべきほどにつけてだに、おのづから思ひかかづらふほだしのみはべるを、などか、その人まねにきほふ御道心は、かへりてひがひがしう推し量りきこえさする人もこそはべれ。かけてもいとあるまじき御ことになむ」
と聞こえたまふを、「深うも汲みはかりたまはぬなめりかし」と、つらう思ひきこえたまふ。
///////
38.11 母御息所の罪を思う
御息所の、御身の苦しうなりたまふらむありさま、いかなる煙の中に惑ひたまふらむ、亡き影にても、人に疎まれたてまつりたまふ御名のりなどの出で来けること、かの院にはいみじう隠したまひけるを、おのづから人の口さがなくて、伝へ聞こし召しける後、いと悲しういみじくて、なべての世の厭はしく思しなりて、仮にても、かののたまひけむありさまの詳しう聞かまほしきを、まほにはえうち出で聞こえたまはで、ただ、
「亡き人の御ありさまの、罪軽からぬさまに、ほの聞くことのはべりしを、さるしるしあらはならでも、推し量り伝へつべきことにはべりけれど、後れしほどのあはればかりを忘れぬことにて、もののあなた思うたまへやらざりけるがものはかなさを、いかでよう言ひ聞かせむ人の勧めをも聞きはべりて、みづからだに、かの炎をも冷ましはべりにしがなと、やうやう積もるになむ、思ひ知らるることもありける」
など、かすめつつぞのたまふ。
「げに、さも思しぬべきこと」と、あはれに見たてまつりたまうて、
「その炎なむ、誰も逃るまじきことと知りながら、朝の露のかかれるほどは、思ひ捨てはべらぬになむ。目蓮が仏に近き聖の身にて、たちまちに救ひけむ例にも、え継がせたまはざらむものから、玉の簪捨てさせたまはむも、この世には恨み残るやうなるわざなり。
やうやうさる御心ざしをしめたまひて、かの御煙晴るべきことをせさせたまへ。しか思ひたまふることはべりながら、もの騒がしきやうに、静かなる本意もなきやうなるありさまに明け暮らしはべりつつ、みづからの勤めに添へて、今静かにと思ひたまふるも、げにこそ、心幼きことなれ」
など、世の中なべてはかなく、厭ひ捨てまほしきことを聞こえ交はしたまへど、なほ、やつしにくき御身のありさまどもなり
///////
38.12 秋好中宮の仏道生活
昨夜はうち忍びてかやすかりし御歩き、今朝は表はれたまひて、上達部ども、参りたまへる限りは皆御送り仕うまつりたまふ。
春宮の女御の御ありさま、並びなく、いつきたてたまへるかひがひしさも、大将のまたいと人に異なる御さまをも、いづれとなくめやすしと思すに、なほ、この冷泉院を思ひきこえたまふ御心ざしは、すぐれて深くあはれにぞおぼえたまふ。院も常にいぶかしう思ひきこえたまひしに、御対面のまれにいぶせうのみ思されけるに、急がされたまひて、かく心安きさまにと思しなりけるになむ。
中宮ぞ、なかなかまかでたまふこともいと難うなりて、ただ人の仲のやうに並びおはしますに、今めかしう、なかなか昔よりもはなやかに、御遊びをもしたまふ。何ごとも御心やれるありさまながら、ただかの御息所の御事を思しやりつつ、行なひの御心進みにたるを、人の許しきこえたまふまじきことなれば、功徳のことを立てて思しいとなみ、いとど心深う、世の中を思し取れるさまになりまさりたまふ。
/////
 37 横笛 次頁へ
次頁へ 39 夕霧

HOME表紙へ 源氏物語・目次 鈴虫登場人物・見出し
読書期間2020年6月26日 - 2020年//月//日