イエス伝

5 荒れ野へ行く

さて、イエスはヨハネから洗礼を受けてから、ガリラヤに戻って宣教を開始するまでの間、一時身を隠す時期がありますが、 その間やっていたことのひとつが、荒れ野へ行っていたことのように思われます。この話は、私はどのように理解したらいいのか 未だに分かりませんが、共観福音書にはどれにも書かれていますから、これに近い事実があったように思われます。 最初に書かれたとされる『マルコ伝』は、あっさりと2節の記述で終わっています。ということは、 あとで書かれた『マタイ伝』と『ルカ伝』は明らかにマルコのものを脚色したのだろうと推定できます。 洗礼者ヨハネから洗礼を受けると、すぐイエスは霊に導かれてユダヤの荒れ野へ入ります。

112 それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。 13 イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。 (『マルコ伝』1:12-13)

ここでは、イエスは獣のほかは住む人もいない天然の荒れ野のなかで、40日の間、悪魔の誘惑を受けたということしか分かりませんが、 しかし取って付けたようなこの記述は何か謎めいています。ただ四十日というのはよく使われる数字で、ノアの洪水も四十日続き ✽1、モーセもパンも食べず水も飲まず四十日四十夜シナイ山にこもって 十戒を書き記しています✽2

ルカによれば、イエスは荒れ野のなかを“霊”によって四十日間引き回され、その間何も食べなかった ので空腹になった。すると悪魔は、神の子ならこの石にパンになるように命じたらどうだ、と誘惑する。

44 イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった。 (『ルカ伝』4:4)

次に悪魔は、イエスに全世界を見せて、もし自分を拝むなら一切の権力と栄光をあたえる、と誘惑する。

48 イエスはお答えになった。「『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』/と書いてある。」 (『ルカ伝』4:8)

最後に悪魔は、イエスをエルサレムの神殿の屋根の上に立たせ、神の子ならここから飛び降りてみよ、と誘惑する。

4 12 イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」とお答えになった。

当時悪魔の実在は信じられていました。悪魔またはサタンという語は福音書のなかにも沢山出てきますが、 おおむね人間を誘惑して悪に導くもの、または人間の心に巣くって人間を痛めつけるもの として書かれています。病気は悪魔が宿っているせいだと思われていました。イエスが病人に向かって、 中にいる悪魔に出て行けと命令して病人を治す場面がしばしばでてきます。またイエスが弟子たちに、自分は多くの苦しみを受け、 長老たちに引き渡されて殺され、三日後によみがえるとはっきり言った時、ペトロが思わずイエスをわきに連れだしていさめる始めると、 イエスは突然ペトロに「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」✽3 と一喝する場面があります。このことは一番弟子のペトロに、サタンが瞬間的に取り付いたということでしょう。

ここでは宣教を始めるにあたり、イエスは悪魔の誘惑をすべて退けられたということでしょう。 イエスは自分の使命のなかで、他の選択枝も心によぎったと思います。当時民衆から待望されていたメシアは、あきらかに ダビデの子として王権を得て、ユダヤ人たちを他民族のくびきから解き放ち、ユダヤ王国を再建するというものでした。 しかしイエスはその道を取らなかった。この道はおよそ三十年後に第一次ユダヤ戦争(紀元66年-73年)となって現実となり、 ユダヤ人はローマの圧倒的軍事力に徹底的に粉砕されて、その後二十世紀中葉にまで続く長いディアスポラ (ユダヤ人のパレスチナからの離散) へとつながります。当時のユダヤ人たちにとっては、本当にこの世の終わりと思ったことでしょう。 そのような選択肢のなかで、イエスはもっと本質的な自分の使命を自覚していました。 イエスはめくるめくような自分の使命の先に、この世の終末とせまり来る天の国を見ていました。

断食については、イエスは集まった民衆に次のように説いています。断食するときは、善行をするときや、祈るときや、 施しをするときと同じように、人に気づかれないように隠れてやりなさい、そうすれば隠れたところにいる父が見ていて報いてくれる ✽4。このように説かれているところを見ると、 断食は当時一般庶民の間でも日常的に 行われていたようです。またファリサイ人たちや洗礼者ヨハネの弟子たちは断食するのに、 イエスの弟子たちはなぜ断食をやらないのかと詰問される場面を、共観福音書はそろって書いているところを見ますと、 イエスは自らは40日もの激しい断食をおこなったが、弟子たちには断食はさせなかったようです。

イエスには、宣教を始めるにあたって、自分の道筋がはっきり見えていました。 最後は自分の死の情景まで見えていたに違いありません。再びこの世の生活には戻れない。 もう後戻りは出来ない、苦難の道をどうしても歩んで行かなければならない。その苦難に耐えるだけの力が自分にあるであろうか。 あるいは自分に迷いはないであろうか。そのことをギリギリのところで試したのが、荒れ野の断食であったように思われます。


✽1 『創世記』7:17
✽2 『出エジプト記』34:28
✽3 『マルコ伝』8:33 『マタイ伝』16:23
✽4 『マタイ伝』6:1-18
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公開日2007年9月9日
最終更新2009年7月26日