イエス伝

6 悔い改めよ 天の国は近づいた

イエスは、ヨハネから洗礼を受け、荒れ野の試練ののち、ヨハネが捕らえられたとのうわさを聞くと、 ガリラヤに戻って行く。そして故郷のナザレではなく、ガリラヤ湖北岸のカファルナウムという町に行き、 そこで宣教を開始したのである。イエスは以後ずっとここを活動拠点にする。 カファルナウムは推定人口1500人位の小さな町で、町の主要産業はガリラヤ湖の漁業であった思われます。海の道がガリラヤ地方を 通り、ダマスカスへと抜ける幹線道路沿いにあり、ローマの部隊も駐屯し、収税所もありましたから、湖の北岸では中心的な町であった と思われます。町の北側はなだらかな丘陵地になっていました。イエスは後に この丘陵地で有名な山上の説教をしたと言われています。

イエスの宣教の開始を『マタイ伝』は次のように書いている。

4 12イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。 13そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。 14それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。
15 「ゼブルンの地とナフタリの地、
湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、異邦人のガリラヤ、
16暗闇に住む民は大きな光を見、
死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」
17そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。 (『マタイ伝』4:12-4:17)

イエスが発した第一声は「悔い改めよ。天の国は近づいた」であった。これは洗礼者ヨハネの言葉と全く同じである。 そしてこれは、イエスの宣教の主調音となって最後まで鳴ってゆくのである。イエスがこの世に現われた由来、イエスの本質を 示唆している言葉である。この第一声は当時のユダヤ人の間で、どのように響いたであろうか。この言葉を聞いて当時のガリラヤの ユダヤ人たちは、どのように感じ、理解しただろうか。それを想像するのは、今日のわれわれには難しいのであるが、 できるだけ当時のユダヤ人の伝統・習慣・心情を集めて想像してみる必要があります。そうしなければ、イエスが出現した時の 状況が理解できないからです。

まず「悔い改めよ」とはなんであろう。これは罪を悔い改めるということです。罪には二種があって、 人間に対する罪と、神に対する罪である。人間に対する罪は、可能であればその人に詫びて和解すれば解消されるが、 神に対する罪はそういうわけにはいかない。神に対する罪は避けることができない。というのは、神の律法を完全に履行することは ほとんど不可能だからである。そこで神に対する悔い改めが必須のこととなる。当時のユダヤ人にとって、このことは日常生活の 挙動まで入り込んで律していた常識であったことだろう。それぞれの家庭で幼い頃から教えられていたと思われます。

ユダヤ人には贖罪の日(ヨム・キプール)という、おそらくユダヤ人にとって最も厳粛な祭日がある。 ユダヤ暦で新年になる第7の月(ティシュレー 9月・10月頃)の10日目がその日にあたります。この月の1日の新年祭から10日まで 毎日、一年間に犯した罪を悔い改める「畏れの日々」(別名「悔い改めの日々」)が続き、最後の10日は大贖罪の日である ✽1。 この日は、一日断食(苦行:新共同訳)をし、一切の仕事や行いをしてはいけない。 ただ神に罪の許しを得る日です。それは人間に対する罪ではなく、神に対する罪を購う日です。人間に対する罪は、畏れの 日々に謝罪しできれば和解しておくのが望ましい。神の選民として乳と蜜の流れるカナンの地を約束されたアブラハムの末裔たちは、 その代償として神からモーセの律法を授けられます。この律法を守ることは、神との約束を守ることであり、 律法を守らないことが罪となります。この律法はユダヤ人がユダヤ人であることの証であり、生活の隅々にまで及びます。 その中には、律法を常に思い出させるために、家の入り口にかかげ、上衣の四隅に、目と目の間の額に、腕に、それぞれ聖句を 筒に収納して、肌身離さず携行することまで含まれている。この律法は613戒(ミツヴァ) ✽2もの数になり、それらを完全に守ることは できない。したがって悔い改めよといわれれば、ユダヤ人は条件反射的にこのことを思い出すのである。

また、「天の国」とは何のことを言っているのであろうか。「天の国」は、他の福音書では「神の国」といっている。 天の国の思想は、メシア信仰 ✽3と深く結びついていました。これはバビロン捕囚からユダヤに帰ってきた 紀元前六世紀以降、およそ四百年の間に民衆の間に徐々に培われていったものです。 この時代のほとんどの間、ユダヤ民族は他国の支配下にありました。 神殿は再建されましたが、ユダヤ人による国は再建されませんでした。国の再建が絶望的になるにつれ、ユダヤ人の願望は より一層強くなって、メシア信仰と結びついたものと思われます。ユダヤ人たちが望んでいたのは、神の選民たるユダヤ人に 神が与えてくれるユダヤ人のための王国である。その実現はメシアの到来をもって始まる、という考え方であった。

しかし地上の王国の建設が遅れ、絶望的になるにつれて、一部のユダヤ人の間に新しい思潮が生まれてきます。 地上の王国に代えて神の国の実現が予期されたのです。この幻想は具体的な形として表れることはなく、黙示的な表現で紀元前ニ世紀 ころから表れてきます。そして神の国の実現の前には、この世の終末が来なければならない。こうして神の国の実現はメシアの到来と 結びついていったものと思われます。イエスの第一声自体は、当時のユダヤ人たちに日常的に慣れ親しんだ言葉であったから、 ユダヤ人たちの意識のなかでは、違和感なく聞こえていたと思われます。しかしこの思想は当時民衆の間にもっとも浸透していた ファリサイ派の教えにもなく、ユダヤの民衆の間に一般的であったとは思われません。民衆の間では、地上の王国が期待されて いましたから、洗礼者ヨハネやイエスの宣言は、従来のものとは違う、何か新しい教えのように人々は感じ取っていたもの と思われます。

「近づいた」という表現も日本語では厳密ではないが、英語で現在完了形という表現で、「すでにそこに来ている」 という言い方である。すなわち「天の国は、今そこに来ている」ということである ✽4。 未来の何時かではなく、現在の切迫した表現である。同様にマルコでは「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」 と書かれていますが、下記の時の解釈を 参照ください✽5

イエスのこの第一声は、イエスが世に現われて宣教する目的を端的に表しており、ユダヤの伝統から生まれた新しい教えの宣言です。 「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ」 ✽6とイエスが言ったように、イエスは新しい言葉で語ったのである。


✽1 『レビ記』23:27-32
✽2 以下のサイトを参照しました。 613 Mitzvot Wikipedia, Judaism 101
✽3 メシアとは、ヘブライ語のマーシアッハの音訳で、「油を注がれた者」と いう意味。古代に祭司や王が就任したときの儀式で、油を注がれたことに由来する。ギリシャ語訳で、クリストスとなり、 日本語でキリストといわれ、あるいは「救世主」「救い主」と称している。
メシア信仰は、以下の章句により、元来トーラー(モーセ五書)に預言されていたといわれています。
「あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたしのような預言者を立てられる。 あなたたちは彼に聞き従わねばならない。」(『申命記』18:15)
✽4 Repent, for the kingdom of heaven has come near.(Matthew 4-17 NRSV)
✽5 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」 (『マルコ伝』1:14 新共同訳 日本聖書協会)
同上 佐藤研訳 岩波書店 1995年の訳注。
「(定めの)時は満ちた(注)。 そして神の王国は近づいた。回心せよ、そして福音の中で信ぜよ」 (注)洗礼者の宣教によって視野に入ってきた、終末的な「救いの時」が今成就した(現在完了形)、 と理解する。他の訳はすべて単に「時は満ちた」と訳し、 ここの「時」の特殊性を考慮していない(例外は柳生訳「定められた時」)。
✽6 『マタイ伝』 9:17、『マルコ伝』2:22、『ルカ伝」 5:38。
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公開日2009年7月29日
更新11月22日