イエス伝

30 最後の晩餐

マルコの記述は突然一日飛んで、イエスのこの世の最後の日が来る。エルサレムへ来てから六日目になる。 この日は次のような書き出しで始まる。

1412 除酵祭の第一日、すなわち過越の小羊を屠る日、弟子たちがイエスに、「過越の食事をなさるのに、 どこへ行って用意いたしましょうか」と言った。 13 そこで、イエスは次のように言って、二人の弟子を使いに出された。 「都へ行きなさい。すると、水がめを運んでいる男に出会う。その人について行きなさい。 14 その人が入って行く家の主人にはこう言いなさい。『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をするわたしの部屋はどこか」 と言っています。』 15 すると、席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれるから、そこにわたしたちのために準備をしておきなさい。」 (『マルコ伝』14:15

「除酵祭の第一日、すなわち過越の小羊を屠る日」と書き出しているが、神の過越しと除酵祭は、モーセがユダヤの民を率いて エジプトから脱出して荒れ野に逃れたとき、その偉業と苦難を忘れないために定めたもので、モーセの書に述べられている。 「第一の月の十四日の夕暮れが主の過越である。 同じ月の十五日は主の除酵祭である。あなたたちは七日の間、酵母を入れない パンを食べる。」✽1と定められています。 第一の月とは、ユダヤ暦の新年にあたり、ニサン(またはアビブ)の月と呼ばれ、今日の3月から4月にあたる。というのは ユダヤの暦は、陰暦を使っており、新月から新月の間を一月とするやり方である。したがって一年に日数に狂いが生じるため閏月 をもうけ、またその月の新月がずれてくるので、今日にあわせると3月から4月の春の時期にあたるという大雑把なつかみ方しかできない。 ニサンの月の14日の夕暮れに小羊を屠り、その夜小羊の肉と酵母を入れないパンと苦菜を食べて過越しの食事とするのである。 ユダヤの日にちは、日没から翌日の日没までを一日と数えるので、過越しの食事の時は日がめくられて15日になっている。 ニサンの月の15日は過越祭・除酵祭の初日である。そしてこの祭りは21日まで7日間続くのである。また引用したマルコの日にちの 記述の仕方は、ローマ式つまり今日のわれわれが使っているように、朝から翌日の朝までを一日とする数え方をしています。

こうしてイエスが過越しの食事を取ることは、過越祭・除酵祭の初日になったということである。 祭司たちが「民衆が騒ぎだすといけないから、祭りの間はやめておこう」と決めているにもかかわらず、 マルコは空白の一日を置いて、あえて過越しの食事の場面をもってくるのは、どうしてもイエスの最後の夕食を、象徴的に 過越しの食事としたかったのだと思われます。ユダヤ人なら、イエスの最後の日は、祭りの当日であったか前日であったか 間違うはずがないと思われるので、マルコ伝の著者はユダヤ人でなかったといわれる所以です。ユダヤ人の生活慣習や伝統に疎い 非ユダヤ人が、ヘレニズムの異邦人たちの読者を想定して福音書を書いたと考えれば、福音書の読み方も違ったものになるだろう。 なぜなら福音書の著者たちが書こうとしているイエスは、生粋のユダヤ人であったからだ。マルコの日にちの間違いは、不思議なことに、 マタイにもルカにも踏襲されています。最後の晩餐の日付に関しては、ヨハネのみは正確に書いています。 それは、過越しの食事と書かず、過越祭の前でただ夕食とのみ書いているからです。

このように見てくると、それに続いて過越しの食事を提供してくれる場所を探す記述も、奇妙なところがある。 水がめを運んでいる男とか、席が整って用意のできた二階の広間とか、あらかじめ決まっていたかのようです。 これもみんなマルコの創作かもしれない、あるいは伝承でそう言い継がれていたのかもしれないが、イエスにはエルサレムに 知人がいたと考えれば、よく分かる記述です。以前に何度もおそらく一人でエルサレムに来ていたことを想像させます。

一同が食事の席に着き、食事をしているときに、イエスはこの中で自分を裏切ろうとしている者がいる、 と弟子たちに告げる。そして、晩餐の模様を、マルコは次のように書いています。

1422一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、 賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしの体 である」 23また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。 彼らは皆その杯から飲んだ。24そして、イエスは言われた。「これは、多くの人の ために流されるわたしの血、契約の血である。25はっきり言っておく。神の国で 新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい」 (『マルコ伝』14:22-14:25)

この食事の時のイエスの振る舞いは、まったくイエスらしくないと思われます。というのもイエスは、教えを説くときは 常に率直であったし、まっすぐ核心を突く言葉で語ってきました。自分の教えに象徴的な意味を付加したり、また形式的なあるいは 儀式的な所作によって説くことはしなかったし、そのようなやり方を嫌っていました。マルコはここにきて突然イエスの 行為に儀式の衣をかぶせることによって、後の神学的教義への道筋をつけているようです。パンをイエスの体とし、 ぶどう酒をイエスの血とするこの時のイエスの教えは、後にカトリックのミサとなってキリスト教団の最も重要な儀式となって 引き継がれました。一方ヨハネはまったくこのようなイエスの所作を書いていません。ヨハネは夕食の模様を次のように書いている。

133 。 イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、 4 食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。 5 それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。 6 シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。 7 イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。 8 ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、 あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。 9 そこでシモン・ペトロが言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も。」 10 イエスは言われた。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」 (『ヨハネ伝』13:3-10)

同じく最後の晩餐にしても、これはイエスが身をもって説く非常に印象的な教えである。師が弟子たちの足を洗うことに よって、イエスは範を垂れたのである。本来の人間関係のあり方を示したのである。弟子たちには終生忘れられない出来事であった ことであろう。またこれはイエスの教えの一つの核心であり、イエスの思考論理の要でもあった。あるとき弟子たちのあいだで、 誰が一番えらいか論争になったことがある。また仲間を出し抜いてイエスに特別の地位を与えてもらいたいと願い出た弟子たちがいて、 そのことが露見して弟子たちのあいだで揉め事になった。そのときイエスは次のように教えたのである。

1042 そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、 支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。 43 しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、 44 いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。 45 人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」 (『マルコ伝』10:42-45)

上の者が下に仕え、優れたものが劣るものに仕え、師が弟子に仕え、賢い者が愚かな者に仕え、主人が僕に仕え、親が子に仕え、 老人が若者に仕え、先のものが後になり、すべてそれぞれ逆の立場のものが入れ替わり、それぞれがそれぞれの立場を理解する。 地上ではありえない、究極の人間関係が成り立っている世界である。ここでは人間の争いは永久になくなるだろう。 弟子たちの足を自ら洗うというイエスの行為は、イエスの教説のなかでも中核的な教えである。 「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。 あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。だれかが、一ミリオン行くように強いるなら 一緒に二ミリオン行きなさい。」と説いたのもこのような発想が基底にあったのであろう。これはもしかしたら、 イエスが地上に生きる者たちに持ち込んだ天上の論理かも知れないと思えてくるのである。

こうして六日目の夜は更けていった。


✽1『レビ記』23:5-6。
頁をめくる
次頁
頁をめくる
前頁

公開日2009年10月24日
更新2010年1月3日