イエス伝

31 ゲッセマネの園にて

エルサレム城内で最後の晩餐を終えると、イエスたちはキドロンの谷を通り、オリーブ山の麓のゲッセマネの園に戻っていった。 満月の夜であった。すでに夜もすっかり更けていた。時折、雲が月をよぎっていく。月は浩々とオリーブ山を照らし、 ゲッセマネの園のオリーブの木々は濃い影を落としていた。イエスは奈落のそこに落ち込むような気分がしていた。 どうしようもなく気が滅入るのであった。

1432一同がゲツセマネという所に来ると、 イエスは弟子たちに、「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。33そして、 ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、イエスはひどく恐れてもだえ始め、34彼らに言われた。 「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい」35少し進んで行って 地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、36こう 言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、 わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」(『マルコ伝』14:32-36)

「アッバ」とは、パレスチナの人々が当時使っていたアラム語で、子供が父親を呼ぶときの言葉にあたるそうである。 この言葉は福音書ではマルコのこの箇所でしか使われていないが、後の信徒たちが「アッバ、父よ」と言い習わして いることを考えると✽1、 イエスはいつもこのように祈っていたので、弟子たちの耳朶に鮮明に残っていたようです。 また「杯」という言葉は、旧約の用法では神の怒りや審判で用いられることが多く、イエスも同じ意味で 使っているそうです。この場合、神の怒りとは人間の罪に向けられており、それを一身に負ってイエスが飲みほそう としている杯である、との解説があります。 それゆえに、「イエスはひどく恐れてもだえ始め」、「わたしは死ぬばかりに悲しい」との、かって伝えられたことのない イエスの心情が理解されるのである、と解釈されています✽2

ゲッセマネの園で、弟子たちから離れ、月明かりのなかで、イエスはひとり祈っていた。長い間、祈っていた。 イエスの祈りの内容は何であったのだろうか。弟子たちには、少し離れていたので、一部分しか聞こえてこなかったし、 また聞こえたとしても肝心なところはみんな眠っていたので、聞いている弟子はいなかったのである。 イエスは三度戻って来て、弟子たちを起こさなければならなかったと書かれている。 三度目にイエスが眠りこけた弟子たちの所に戻って話をしているところに、ユダが祭司長たちの 遣わした群衆と一緒にやって来た。群集は手に手に棍棒や剣を持っていた。ユダはあらかじめ、自分が接吻する人がその人だ、 その人を捕まえろと、合図を決めていた。

2649 ユダはすぐイエスに近寄り、「先生、こんばんは」と言って接吻した。 50 イエスは、「友よ、しようとしていることをするがよい」と言われた。 すると人々は進み寄り、イエスに手をかけて捕らえた。 (『マタイ伝』26:49-50)

「友よ、しようとしていることをするがよい」とは謎めいた言葉である。イエスはユダの行いを赦しているのであろうか。 その場にイエスと共にいた人々のうち、ペトロ✽3が 剣を抜いて大祭司の手下に打ってかかり、片方の耳を切り落としている。 この記述から推定すれば、ペトロはいつも剣を下げていて、イエスの一行の護衛役も兼ねていたようである。 やはり当時は、イエスのたとえ話にもあるように、道中は物騒でイエスの一行といえども、護身用として剣を携帯していた ようです。二振りの剣が一行のなかにあったことがルカに書かれて います✽4。しかしイエスはペトロを制止する。 そしてその後のことを、福音書は次のように記述している。

1450弟子たちは皆、 イエスを見捨てて逃げてしまった。(『マルコ伝』14:50)

こうして六日目の深夜に、イエスは祭司長たちの遣わした群集に捕らえられ、大祭司カイアファの屋敷に拘引されていった。


✽1『ローマ人への手紙』8:15、『ガラテヤ人への手紙』4:6。 下記サイトを参照しました。
✽2「杯」については、市川喜一著 「マルコ福音書読解 83ゲッセマネの祈り」を参照しました.
✽3ここで共観福音書では、「居合わせた人々のうちのある者が」と名前を 出していないが、ヨハネのみ次のように書いている。「シモン・ペトロは剣を持っていたので、それを抜いて大祭司の手下に打ってかかり、 その右の耳を切り落とした。手下の名はマルコスであった。」(18:10)
✽4「そこで彼らが、「主よ、剣なら、このとおりここに二振りあります」 と言うと、イエスは、「それでよい」と言われた。」 (『ルカ伝』22:38)
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公開日2009年10月25日
更新10月27日