阿含経を読む

尊敬に値する

南伝 中部経典89 法荘厳経
漢訳 中阿含経213 法荘厳経
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「さらにまた、世尊よ、わたしは、クシャトリヤの灌頂を受けた王であって、殺されるべき者を殺し、剥奪されるべき者を剥奪し、追放せらるべき者を追放することができる。しかるに、世尊よ、わたしが裁判の座についているとき、時折、わたしの語るのを中断し妨害する者があります。そこで、わたしが、<わたしが裁判の席にある時には、妨害してはならない。わたしの言葉を中断していけない>と誡めても、効きめのないこともあります。ところが、世尊よ、わたしが世尊の比丘たちの様子を見ると、世尊が数百の会衆に法を説きたもうとき、世尊の弟子の咳する声さえもないのであります。かって、ある時のこと、世尊は数百の会衆に法を説きたもうた。その時、一人の比丘が咳声を発したことがあった。すると、他の比丘が膝で彼をつついていった。<静かにせよ。音をたててはいけない。われらの師、世尊がいま法を説いておられる>と。世尊よ、それについて、わたしは思いました。<まことに稀有のことである。まことに未曾有のことである。刀杖を用うることなくして、会衆がかくのごとく調御せられるとは>と。世尊よ、わたしは、このような会衆を他に見たことがありません。それゆえに、わたしは、<世尊は正等覚者であらせられる。世尊によりて法はよく説かれた。世尊の弟子の僧迦はよく実践する>と、わが感慨を述べざるをえないのであります。
さらにまた、世尊よ、わたしは、幾人かのクシャトリヤの知識人にして、聡明かつ論議につよく、するどい議論をする者を知っています。彼らは、その智慧をもって、他人の見解を手もなく叩きつぶすことができるのです。その彼らが、世尊よ、あなたの来られることを知って、質問を用意して待ちかまえていたことがありました。<われらは、沙門ゴータマ(瞿曇)のところに行って、この質問をしよう。もしわれらがこのように問い、彼がこのように答えたならば、われらはこのように反駁しよう。もしまた、われらがこのように問い、彼がこのように答えたならば、われらもまた彼にこのように反駁しよう>と。ところが、<彼らはまことに沙門ゴータマは、某村、某町にお着きになった>と聞くと、世尊のところに到ったのでありますが、世尊は彼らをむかえて、法を説きたまい、教え導き、激励し、歓喜せしめたもうた。彼らは、教え導かれ、激励され、歓喜せしめられて、ついに一言の質問を発することなく、いわんや反駁することもなく、そのまま世尊の弟子となってしまいました。世尊よ、わたしは、<世尊は正等覚者であらせられる。世尊によりて法はよく説かれた。世尊の弟子の僧迦はよく実践する>と、わが感慨を述べざるをえないのであります。
さらにまた、世尊よ、わたしは、幾人かの婆羅門の知識人にして、・・・幾人かの居士の知識人にして、・・・彼らは、教え導かれ、激励され、歓喜せしめられて、ついに一言の質問を発することなく、いわんや反駁することもなく、そのまま世尊に出家の許しを願い、世尊は彼らを出家せしめたまいました。かくて、彼らは出家すると、ひとしく遠離し、不放逸に、熱心に、精進したので、久からずして、善男子が出家したる、その目的である無上の梵行を、この現生においてみずから知り、証し、成就して住するにいたりました。かくて、彼らは、このように申しました。<われらは、実に、破滅せんとするところであった。さきには、われらは、沙門にあらずして沙門なりと思い、婆羅門にあらずして婆羅門なりと思い、阿羅漢にあらずして阿羅漢であると思っていた。だが、いまやわれらは沙門となることができた。婆羅門となることができた。阿羅漢となることができたのである。>と。世尊よ、わたしは、<世尊は正等覚者であらせられる。世尊によりて法はよく説かれた。世尊の弟子の僧迦はよく実践する>と、わが感慨を述べざるをえないのであります。
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注解
灌頂(muddhâvasitta=head-anointed) 一定の位につく正式の儀式をいう。ここでは、正式にその位についた王をいうのである。
更新2007年7月1日