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| 出定後語 巻之下 | |
目録 |
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出定後語 巻之下日東 富永仲基造幷自訳 |
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| 訓読文 | 現代文 |
戒 第十四 |
戒 第十四 |
大論に云く、「十善はこれ尸羅、仏出世せざれども、世に常にこれあり。故に旧戒と名づく」と。それ善のまさになすべく、悪のまさになすべからざる、善をすれば則ち順、悪をすれば則ち逆、これ天地自然の理、もとより儒仏の教へに待たず。故に戒の体は、もと悪の事に逆なるに出づ。悪なければ則ち戒なし。故に、大論に云く、「もし仏にして好世に出でなば、則ちこの戒律なし。釈迦文のごとき、悪世にありといへども、十二年中、またこの戒なし。僧祇律は則ち云く、「五年以後、広く戒律を制す」四分律は大論に同じ。また異部の言しかり。その戒の体はもと事に戒む。ただし身口を戒む。これその本なり。しかして大乗家は、合はせて三業を防いで、これを心に属す。また加上の説なり。戒の体を、曇無徳の成実論は云く、「無作」と。雑心・毘曇は云く「心」と。大乗家は云く、「性の色心」と。また異部の言、しかり。大論に云く、「菩薩は方便力をもって、現に五道に入り、五欲を受け、衆生を引導す」と。また云く、「菩薩に二種あり。もしくは出家、もしくは在家」と。それ菩薩は方広をもって道となし、済度を業となす。その心は恢恢、その行は嶷嶷たり。また何ぞ、独り戒律に瑟宿せん。故に菩薩において戒律あり、修行の次第ある者は、みな、もとの真にはあらざるなり。瑜伽地持、四重・四十五軽あり。方等経に四重・二十八軽あり。梵網経十重・四十八軽、およそ戒律の厳は、実に梵網に至りて極まる。これみな小乗に影似して、その上を出づる者なり。 |
大智度論に云う、「十善は戒(尸羅)である。仏が世に出現する以前からあったものである。故に旧戒と言う」と。いったい、善はまさになすべきものであり、悪はなすべからざるものであり、善をすればすなわち道理にかない、悪をすればすなわち道理にもとる、これは天地自然の理であり、もとより儒仏の教へにまつまでもない。故に戒の本体は、もとは悪が道理にもとるから起こったものである。悪がなければ、戒もない。故に、大智度論に云く、「もし仏にして好い世の時代に出現すれば、戒律はいらなかった。釈尊のように悪世に生まれても、十二年間は、戒はなかった」と。摩訶僧祇律は云う、「五年たって、広く戒律を定めた」四分律は大智度論と 同じことを云っている。これもまた異部の言である。その戒の本体はもともと具体的な事について戒めたものである。そして身口の行いを戒めるの主で、これがもとである。ところが大乗の論者は、(心のはたらきを含めて)合はせて三業を戒めるのが主で、すべてを心に属させる。これもまた加上の説である。戒の本体を、曇無徳部の成実論では、「無作」であると云う。雑心論・阿毘曇心論経は「心」と云い。大乗の論者は云う、「性の色心」と。これもまた異部の主張である。大智度論に云う、「菩薩は方便力をもって、五道に生身を現し、五欲を受けて、衆生を教え導く」と。また云う、「菩薩に二種あり。出家か、あるいは在家か」と。それ菩薩は方広をもって道となし、衆生をすくい悟りに導くのを業とする。その心は広くおおらかで、その行いは高潔で、どうして、戒律なんぞに収縮してしまうのか。故に菩薩において戒律があり修行の次第があるのは、みな、もとの趣旨と違っているのである。瑜伽論・地持論に、四重・四十五軽あり。方等経に四重・二十八軽がある。梵網経に十重・四十八軽があり、およそ戒律の厳重なことは、実に梵網経に極まる。これみな小乗に真似をして、その上に出ようとするものである。20260811 |
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それ、仏の戒律あるは、なほ儒の礼あるごとし。礼は、道の時によりて制する者。身・口・意みな礼あり。これを棄てて儒なし。戒を棄つるも、また仏なし。故に遺教経に云く、「わが滅後において、まさに尊重珍敬波羅提木叉を尊重珍敬すべし。これ則ち、これなんじらが大師。われ、われ世に住するがごとく、これに異ならず」と。これ仏の法に貴ぶ所の者、ただ律をしかりとなす。しかるに般若家以下至頓家に至る。あるいはこれを忽せにす。みなその真にあらず。故に涅槃兼家は、独り戒律を尚ぶ。誠に迦文の意なり。 |
そそもそも、仏の戒律があるのは、なほ儒教に礼があるようなものだ。礼は、道が時に応じて制するもので、身・口・意みな礼があり、これを他にして儒教はない。戒律を棄てて、また仏教もない。故に遺教経に云う、「わが滅後において、まさに戒律を尊重珍敬すべし。これがなんじらの師であり。わたしが世に住するときと同じように、尊重すべきものである」と。すなわち釈迦は律をもって貴んだのである。しかしながら般若系のものたちから頓系のものにいたるまで、これを忽せにしている。みなその本意ではない。涅槃系の学派だけは、戒律を貴んでいる。これが実に釈迦の本意である。20260811 |
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慧遠師まさに終らんとするや。耆徳、鼓酒をもって病を治せんと請ふ。師の曰く、「律に正文なし」と。請飲米汁を飲まんと請ふ。師の曰く、「日は中を過ぐ」と。また請密和水を飲まんと請ふ。乃ち<律を披ひてこれを尋ねしむ。巻いまだ未ばならずして終はる。これ、死生をもってその塞を変ぜず。よく律を守る者と謂ふべし。しかるにその日すでに中を過ぐるもをって、米汁すら、かつ飲むことあたはざるは、ああ、また陋なり。五分律に云く、「これわが語といへども余方において清浄ならずんば、行はずして過ちなし。。わが語にあらずといへども、余方において清浄なる者は、行はざるを得ず」と。これ、その真なり。達者は、時と処とによりて、しかしてその律を制す。また、何ぞ独り古に局せんや。遠師といえども。また、あにこれを知らざらんや。故にその葬儀を制する、受業の和上は、父母に同じく、みな三年の服あり。依止師のごときは、喪に随いて暫く服をなす。これ、涅槃、法律並びにその制なきをもっての故に、始めてこの儀を制するなり。かれ、すでに法律の外において、別に法律を捨取することあたはざる者は、また法律の中において、独り法律を捨取することあたわざる者は、まことに怪むべきの甚だしきなり。また、何ぞその特操なき。 また案ずるに、五戒中、竊盗・邪淫・妄語、これすでに悪に属す。ただし、殺生・飲酒は、これ無記。殺生して罪なく、飲酒して乱る。これ乃ち悪に属す。五戒は、もとその悪を戒めて、絶えて殺生飲酒あることなしと謂わば、不可なり。功徳鎧が宋の文帝に答ふる殺生の義は、これを得たり。楞伽もまた云く、「種種放逸の酒」と。放逸の酒は乃ち不可なり。また案ずるに、増一に八関斉法あり。大論には分ちて九となせり。しかして諸部に前後異同あり。また異部の言、しかり。 |
慧遠法師が息を引き取らんとしたときさに終らんとするとき、高弟が飲酒をすすめて病を治さんと請うた。師が曰う、「律に条文がない」と。米汁を飲むことをすすめた。師が曰う、「日は正午を過ぎている」と。また密和水を飲むことを請う。そのとき律典を披いて調べさせた。そうしているうちに息を引き取った。これは生死をもってもってその節を曲げなかったもので、よく律を守ったと謂うべきだろう。しかしながら正午を過ぎたことで、米汁すら、飲まなかったのは、ああ、またなんと頑ななことだろう。五分律に云う、「これは、わたしの言葉であるが他の地方で清浄でないとことは、行はずしてよい。。わたしが言わなかったことで、他の地方で清浄とされることは、行はないわけにはゆかない」と。これが真実である。その道に通達した者は、時と処によって律を定める。どうして昔に限ったことがあろうか。慧遠法師といえども、これを知らなかったはずがない。故にその喪に服する定めをして、儒教にならって父母の裳は三年としたのである後継者も、みな三年の服に服した。これは、涅槃経に法律並びにその定めがないので、初めて喪の規定をつくったのである。かれは、すでに法律の外において、別に法律を定めないでおられなかったのだが、また法律の中において、自分だけでは法律を取捨できなかったとは、まことに奇妙なことである。また、その節操のなさは何ということであろう。 また思うに、五戒中、竊盗・邪淫・妄語、これらはすでに悪に属す。ただし、殺生・飲酒は、これ無記であって、善・悪いずれでもないものとされる。。殺生しても罪にならないものがあり、飲酒して乱れれば悪である。//五戒は、もともと悪を戒しめることである。絶対に殺生飲酒しないことは、不可能である。功徳鎧が宋の文帝に答えた殺生の意味は、妥当である。楞伽阿跋多羅宝経にもまた云う、「種種の羽目をはずした酒」と。羽目をはずした酒は、不可である。また思うに、増一阿含経にに八関斉法がある。大智度論には、これを分けて九つとし、それぞれの宗派で前後の異同がある。また異部の言である。20260811 |
室娶 第十五 |
室娶 第十五 |
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天竺の四姓。刹利は王種にして、民を治め政をなす者。 婆羅門は法種にして、教えをなし民を導く者。毘舎は商賈、首陀は農甿にして、上の二種のために、治めかつ教へられる者なり。刹利はなほ儒に天子・王公・大夫・士と云ふがごとし。婆羅門は、儒に,ruby>司徒郷の儒師と云ふがごとし。これを治むる者は王公、これを教ふる者は司徒、なほこの方、仏法王法並べ称して、天台仏法を統ぶる者のごとし。婆羅門法に、七歳以上は、家にありて学問し、十五以上は婆羅門法を受け、游方学問し、年四十に至りて、 家嗣の断絶せんを恐れ、帰りて妻を娶り年五十に至りて、山に入りて道を修(麟記)婆羅門は、世世あひ承け、道学をもって業となす。あるひは在家、あるひは出家、多く己の道術を恃んで、我慢の人なり。(肇師)仏もまた教へなし民を導く者、乃ち一種の婆羅門、出家にして妻なき者たるのみ。これ竺土の儒師の習ひ、しかり。独り人を教ふる者にして、室娶なし。闔国の人をしてみな妻なく嗣なからしむるにはあらず。律に云く、「父母聴ざれば、不許出家を許さず」と。これ、見つべきのみ。故に、迦文、はじめ室娶ある者もまたこれのみ。何にかいわんや。迦文、もと刹利王種なるをや。しかるに仏子は多く迦文の妻息あるを忌むなり。あるいは云く、瞿夷は乃ち耶輸なり。あるいは云く、善星堂弟の子、しかるに三夫人の目は、すでに明文ありて、五夢・仏本行・十二游の三経に出ず。善星比丘は、仏の菩薩の時の子と、涅槃経に出づ。これ、見つべきのみ。 |
インドの四姓は、刹帝利(クシャトリア、王族、武人)が王で民を治め政をする。婆羅門は司祭階級で、教えをなし民を導く者、毘舎は商人、首陀は農民で、上の二種に、治められかつ教へられる者である。刹利は、儒教で天子・王公・大夫・士と云うようなものである。婆羅門は、儒教では,司徒郷の儒師と云うようなもの。これを治める者は王公、これを教ふる者は司徒、ちょうどわが国が、仏法と王法を並べ称して、天台仏法を統ぶる者のようだ。婆羅門は、七歳以上は、家にあって学問し、十五以上は婆羅門の教えを受け、諸方に赴いて問し、年四十に至りて、跡継ぎが絶えるのを恐れ帰郷して妻を娶り、年五十に至って、山に入って道を修める(麟記)婆羅門は、世々あひ継いで、道学をもって業となす。あるひは在家、あるひは出家、多く己の道術を恃んで、我慢の人なり。(肇師)仏もまた教へなし民を導く者であり、一種の婆羅門にして、出家にして妻を持たなかっただけである。これはインドの道を説く者の習いである。ただ人を教え導く者のみが、妻を持たなかった。国中の人が妻なく跡継ぎを設けなかったのではない。律に云う、「父母が許さなければ出家は許可されない」と。これを当たって見るがよかろう。だから釈迦は、はじめ妻をめとり家庭をもったのである。まして釈迦は、もと王族の出である。ところが仏弟子は多く釈迦が妻息あったことを恐れはばかっている。あるものは云う、瞿夷が耶輸陀羅(釈迦の正妻)であるとか、あるいは云く、善星は堂弟(釈迦の異母弟)の子であるとか、しかるに三夫人の名はすでに明文にあり、五夢経・仏本行・十二游経の三経に出ている。善星比丘は、仏の菩薩の時の子と、涅槃経に出ている。これは当たって見るがよい。20260812 |
また大善権経に云く、「何の故に、菩薩にして室娶あるや。菩薩は無欲、ゆえに妻息を示現して、人の、菩薩は男にあらず、黄門のみと、懐疑するを防ぐ。故に瞿夷釈氏の女を納れて羅云を生むも、天において変没化生し、父母の合会によらずして育す。またこれ菩薩本願の致す所」と。ああ、これ幻の説なり。もし、われいまだ道を知らざる時、且つ世法に随ひて妻を娶ると謂はば、則ち可なり。しかして云く。「人の黄門たるを疑うを防ぐ」と。何ぞ、その陋の甚だしきや。また云く、「合会によらず」と。これ鬼にあらざれば、則ち怪なり。笑ふべきのみ。涅槃経もまた云く、「迦葉問ふ、「もし、仏すでに煩悩海を度らば、何によりて、また耶輸陀羅を納れて羅睺羅を生む。仏、迦葉に告ぐ、「われ無量劫において、かくのごとき五欲を捨離せり。ただ、世間法に随ふがために、如是の相を示す」」と。これその仏は久劫、すでに道を成して、また室娶あるに嫌ひあり。故に、またその説を幻にして、もってこれを合はす。その実は仮説なり。また按ずるに、「なんじ子あらば出家せしめん」と。この文を閲するに、いまだ出家せざる時は、子なき者のごとし。却後六年、これを生むと<瑞応・普曜>。および、成道の日に生まると。これもまた、久曠胎にあるの理なし、意ふに、仏の妻息は有五年樂行の間、これある者あらん。もってこれを解けば則ち難きことなし。 |
また大善権経に云う、「なぜ、菩薩に妻があるのか。菩薩は無欲であって、そのため妻子があることを示して、人が、菩薩は男ではない、性器不全を疑うものがあるので、それを防ぐために、釈迦族の女をむかえて、 羅睺羅を生んだが、天において変没化生し、父母の情交によらずにうまれたもので、これは菩薩の本願である」と。ああ、これは幻説だ。もし、わたしがまだ道を知らないときに、世間にしたがって妻を娶ったと謂えば、それですむことである。しかし云う、「性器不全の疑いを防ぐために」と。何ぞ、甚だしい狭量であることか。また云う、「情交によらず」と。これは鬼でなければ、奇っ怪なことである。笑ふべきだ。涅槃経もまた云う、「迦葉が問う、「もし、仏すでに悟りをひらかれているに、何によりて、また耶輸陀羅をむかえて羅睺羅を生んだのか。仏、迦葉に答える、「われ無量劫の昔に、かくのごとき五欲を捨離した。ただ、世間の習慣にしたがうために、このような姿を示した」」と。久遠の昔。仏はすでに悟りをひらいているのに、妻があるとの疑いがあり、このため策を講じて、辻褄をあわせたものだ。また思うに、「子どもがあれば出家させよう」と。この文を読んで思うに、出家する前は子どもがないもののようだ。出家後六年たって、子を生む、と<太子瑞応本起経・普曜経>。それにしても悟りの日に生まれているとは。長い年月、胎内いたという道理はない。思うに、仏の妻子は五年有余の悦楽の間に、もうけたのだろう。こう思えば解けないこともないが。2026812 |
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また案ずるに、仏子甚だ女身を疾む。これもと俗を揉むるに出づ。竺の俗、甚だ女子を貴ぶ。司馬遷の史記に云く、「宛より以西、安息に至るまで、女子を貴ぶ。女子の言ふ所、大夫乃ち決正す」と。いま南蛮の俗もなほしかり。紅毛は闔国みな贅壻、女子をもって主となす。意ふに、竺もまた、しかるべし。かつまた、経説中の載する所、母氏の姓字を取りて号となす者多し。富蘭那迦葉・末加黎󠄂拘賖黎󠄂のごとき、みなこれなり。その他、甚だ多し。肇師もまた云く、「天竺は多く母名をもって子に名づく」と。これなり。かつまた、正法念経に四種の恩を説く。「一には母、二には父、三には如来、四には説法法師」と。これまづ、計ふるに母をもってせり。観経もまた云く、「劫初已来、もろもろの悪王ありて、国位を貧ぼるが故に、その父を殺害するもの、一万八千、いまだかって、無道にして母を害するあるを聞かず」と。ここに国俗の母を貴ぶこと、また父に勝れるを知る。われ、これをもって、竺の俗、甚だ女子を貴ぶとなせるなり。 |
また思うに、仏弟子はひどく女性の身を嫌う。これはもと、当時の風習を改めようとすることからはじまったのである。インドの風習では、女性をとても貴んだ。司馬遷の史記に云う、「宛より以西、安息に至るまで、女子を貴ぶ。女子の言うことを、大夫が決正する」と。いまは南蛮(西洋人)の風習がそうだ。西洋の諸国では、男は婿養子のようで、女子が主である。思うに、インドもまたそうだ。また、経説のなかでも、母の姓を取って号となす者が多い。富蘭那迦葉・末加黎󠄂拘賖黎󠄂のように、みなこれである。その他にも、このような例は甚だ多い。僧肇もまた云う、「インドでは多く母名をもって子に名づく」と。これなり。かつまた、正法念処経に四種の恩を説く。「一には母、二には父、三には如来、四には説法する法師」と。これまず、数えるに母を最初にもってくる。観無量寿経もまた云う、「古来、もろもろの悪王があって、国位を貧ぼったため、その父を殺害するもの、一万八千に及ぶが、いまだかって、無道にして母を害したことを聞かない」と。ここに国の習俗で、女性を貴ぶこと、父に勝るを知る。わたしはこれをもって、インドの風習で、甚だ女性を貴んだとするのである。20260813 |
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故に仏出でてこれを斥し、甚だしきは則ち、至云菩薩は女身を離る、仏性を知らざるを、名づけて女人となすと云ふに至る。これみなためにすることあるの言、男子のために気を吐かん欲する者なり。しかるに、その実、物に凸凹あり、人に男女あるは、天地自然の理なり。人の天地間にある、また何ぞ独り女身を疾まんや。また仏の淫を戒むる者は、その、邪淫・羅漢欲あるを戒むるなり。これは則ち在家をもってこれを言ふ。その僧迦にして妻室なき者は、梵行多くこれによりて、もって敗るればなり。故に儒家の言にもまた云く、「目、女色を見ず」と<荀子>。これ則ちこれのみ。故に心において羅漢欲あることなければ、則ち何ぞその妻室あるを疾まん。故に仏もまた云、「狂者は犯せず」と(五分律)「なんじすでに無心、いかんぞ犯すと云わん」と<浄諸業障経>。則ちこれのみ。しかるにまた云く、「もろもろの比丘らの、世俗の人のごとく、嫁娶行媒し、大衆の中において、毘尼を毀謗する、これ法滅の相となすと(摩耶経。「もし沙門ありて、その心念を一にして、声色を顧りみざる、これわが弟子にして、教えに随順する者なり」と。<雑含>、これ則ち迦文の意なり。独り僧伽にして妻室なからんを欲す。僧伽にして妻室なき者は、これをよく迦文の意を守ると謂ふ。しかるに後世往往して梵嫂の目ある者は、これ法滅のみ。また、さきに閲楞厳および観世音陀羅尼経を閲するに、ともに呪ありて、もって犯欲および五辛を解く。後世、梵嫂ある者は、けだし、みなこれを持せり。 |
故に釈尊が世に出てからこれを排斥し、甚だしくは菩薩は女身を離れ、仏性を知らない者を女と名づけた。これはみなためにする言葉で、男子のために気を吐かんしたのである。しかしながら、実際は、物に凸凹あり、人に男女があるのは、天地自然の理である。人が天地の間にあるかぎり、何で女だけを憎むのか。また釈迦が淫乱を戒めるのは、この場合、在家について言っているのである。修行僧で妻室ない者は、清浄な修行がこれによって破られることが多いからである。故に儒家の言にもまた云う、「目に、女色を見ない」と<荀子>。これがまさにあたっている。故に心において阿羅漢の淫欲がなければ、どうして妻室あることを嫌うことがあろうか。故に仏もまた云う、「(欲望のない)狂者は犯せず」と(五分律)「あなたはすでに無心、どうして罪を犯すと云おうか」と<浄諸業障経>。すなわちこれに尽きる。ところが云う、「さまざまな比丘たちが、世俗の人のように、仲人をたて婚姻し し、大衆の中において、律を謗っているが、これれは法の滅びる様相である<摩耶経>。「もし,沙門があり、心を統一して、女性の色香を顧みず 修行に励むなら、これはわが弟子にして、わが教えに随順する者であるり」と。<雑阿含経>、これが釈迦の本意である。ただ教団のなかで妻をもたないことを欲したのである。教団のなかで妻をもたない者は、釈迦の本意をよく守ったと謂う。しかし後世、往往にして、僧の妻をして梵嫂のと呼ぶのは、法の滅亡の兆候である。また、さきに万行首閲楞厳経および観世音陀羅尼神呪経を見たとき、ともに呪があって、これで犯欲および五辛を解いたのだろう。後世、梵嫂ある者は、けだし、みなこれを唱えたのだろう。20260816 |
肉食 第十六 |
肉食 第十六 |
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仏、殺を戒め肉遠ざくる者は、 なほ儒のごとく、しかり。およそ血気あるの属ひを、君子はみづから践さず、禹が飲食を薄うし、旨酒を悪むは、これは則ちこれのみ。故に十誦律に、三浄肉あり。涅槃に九浄肉あり。みなこれを食ふを開す。楞伽もまた云く、「われ時ありて五種の肉を遮し、あるいは十種を制すと説く」と。見つべし、食肉は制に取捨ありて、独り浄肉を開すを。これ、そのもとなり。後来、これを戒むること益々厳なり。楞伽に云く、「縛象と大雲と央堀利魔羅(みな経名)およびこの楞伽経に、われことごとく断肉を制す」と。ここに知る。従前の契経もこれを開せる者あるを。涅槃もまた云く、「今日より始めて声聞弟子は肉を食ふを聴さず」と。ここに知る、有宗は食肉を開せるを。楞伽に列する所の十七縁、多くはその、臭穢を疾むにあり。独りその第一にありては、則ち云く、「一切衆生、もとより以来、展転因縁、かって六親となる。親想をもっての故に、肉を食うべからず。楞伽また云ふ、「人をもって羊を食ふ。、羊死して人となり、人死して羊とたり」と。明教師もまたこの意を受けて云く、「人物を食ひ、物は人を食ふ。むかしあひ負ひて、いま、あひ償ふ。業の致、しかり。然、物の自然と謂はば、天何ぞ頗なる。また云く、「いまの牛羊を視るに、ただ恐らくは、そのむかしの父母の精神の来る所ならんを。殺を戒めて、一微物をも暴はしめざるは、親を懐ふに篤ければなり」と。 |
仏が、殺生を戒め肉を遠ざけるのは、 儒教と同じである。およそ生気のあるものを、君子はみづから殺すことはしない。禹王が飲食を少なくし、酒を遠ざけたのは、道心の衰えを懸念したしたのであり、これが理由である。故に十誦律に、三種の浄肉が説かれ、涅槃経に九種の浄肉が見られるのであって、これに限って食うことを許したのである。楞伽経もまた云う、「わたしはある時は五種の肉を禁じ、ある時は十種の肉を止めるように説いた」と。よく見なさい、食肉は時に取捨があるが、浄肉を許したものであると知らなければならない。これが基本である。後来、これを戒むること益々厳しくなった。楞伽経に云う、「縛象と大雲と央堀利魔羅(みな経名)およびこの楞伽経において、わたしは一切の肉食を禁じた」と。ここに知る。従前の経のなかに肉食を許していたものがあるのを。涅槃経もまた云う、「今日より以後、小乗の弟子たちに肉食を禁じた」と。これで分かるのである。有を主張する宗派では食肉を許していたのを。楞伽経にあげる十七種の条件は、多くは臭く穢れている肉を避けるためである。十七の条件の第一に、こう云っている、「一切衆生は、原初から輪廻転生し、かっては肉親であったかもしれぬ。親を思う故に、肉を食べない。楞伽経にまた云う、「人をもって羊を食ふ。、羊死して人となり、人死して羊となる」と。明教師もまたこの意を受けて云く、「人は物を食い、物は人を食ふ。むかし互いに負い、いま互いに償う。これが業の致すところ。しかり。人が物を食べることが天地自然の理であれば、天はなんと偏頗であることか。「今の牛羊は、ただ恐らくは、そのむかしの父母の精神のよって来る所であったかも知れぬ。殺生を戒めて、小さな生き物の命もそこなわないのは、親を思う気持ちが厚いからである」と。20260817 |
ああ、甚だしいかな。その説に惑へることや。人をもって物を食ふ。天の頗たらば、則ち穀菜もまた、物にあらずや。もし有智をもってこれを別かたば、仏何ぞ頗なるや。父母あるいは牛羊たらば、則ち独り穀菜たらざらんや。外道婆吒の計に云く、「十方草木は、みな情意あり。人と異なることなし。草木も人たり。人死して、還って十方草木となる」と。これもまた何ぞしかるにあらざるを知らん。楞伽もまた云く、「清浄比丘および諸菩薩は、岐路において行くに、生草を踢まず。いはんや、手をもって抜くをや」と。荘厳論もまたその比丘草のために縛せられ、戒を犯さんことを恐れ、挽絶を得ざるを述ぶ。ああ、穀菜もまたあに草にあらずや。いま、踢みかつ抜くことを得ず。しかしてまた、食ふを得とは、 これ何ぞ特操なき。いま、穀菜を食ふを開して、独り肉を遮す。ああ、仏菩薩もまた、何ぞ偏頗なる。故に知る、仏の肉食を禁ずるは、意ここにあらざるを。また報応経に云く、「七衆は肉葷辛を食ひを得ず。病あれば開す」と。これ、あに病ありて食へば、則ち肉もまた父母たらざるが故にこれを開すとなさんや。これ不通の論なり。故に知る、仏の肉食を禁ずるは、意ここにあらざるを。楞伽に云く、「修行者をして慈心を生ぜざらしむるが故に、肉を食ふべからず。諸呪術をして成就せざらしむるが故に、肉を食ふべからず。令口気をして臭からしむるが故に、肉を食ふべからず」と。また、この理あり。しかるに、仏の肉を戒むる者は、意もと殺生にあるなり。殺生を戒める者は、仁慈を傷ればなり。楞伽は、ここに出を知らず。いたづらに十七縁を説くはそもそもまた末なり。楞厳に云く。「まさに世間五種の辛菜を絶つべし。熟食せば婬を発し、生啖せば恚を増す」と。仏は五辛を疾む。これ真なり。 |
ああ、なんとはなはだしいことか。その説の混乱ぶりは。人が物を食べる。天の偏頗なこと、それでは穀菜もまた、物ではないか。もし智慧をもって分別すれば、仏こそ何と偏頗であることか。父母があるいは牛羊であれば、どうして牛羊はなって穀菜はならないのか。外道婆吒の説に云う、「十方草木は、みな情意あり。人と異なることなし。草木も人である。人死して、還って十方草木となる」と。これもまたなんでそうではないといえよう。首楞伽経もまた云う、「清浄比丘およびもろもろの菩薩は、路を行くに、道端の生草をも踏みつけない。いはんや、手をもって抜くなんて」と。荘厳論もまたその比丘が草で縛せられたため、戒を犯すことを恐れ、引きちぎることをしなかったと述べている。穀菜もまたまた草ではないか 。踏みかつ抜くことはできない。まして食うなどと。どうしてこう節操のないことか。いま、穀菜を食ふことを許して、肉だけを禁じるとは。ああ、仏も菩薩もまた、何と片手落ちなことか。だから分かるのである、仏の肉食を禁じる意図は、ここにないことを。また報応経に云う、「出家であれ在家であれすべての仏弟子は肉葷辛を食べてはならない。病あれば許す」と。病気の者が食えば、肉もまたかって父母ではないので、これを許すのか。まったく筋の通らない話だ。これで分かるのである、肉食を禁ずる意図はここにはないのを。楞伽経に云う、「修行者をして慈心を起こさなくするために、肉食を禁じたのである。呪術の効き目をなくするので、肉食を禁じた。息を臭くするから、肉食を禁じた」と。こうした理由もあろうが、仏が肉食を禁じたのは、本来は、殺生にあるのである。殺生を戒めるのは、仁慈の心を損なうからである。楞伽経は、本意がここにあるのを知らず、いたづらに十七縁を説いたのは、それ自体瑣末なことである。首楞厳経に云う。「まさに世間で用いる五種の辛菜を絶つべきである。煮て食べると婬欲を起こし、生でかじると怒りの心を起こす」と。仏が五辛を嫌ったのは、これが真意だったと思われる。20260818 |
有宗第十七 |
有宗第十七 |
大論に云く、仏後百年、阿輸迦王、般闍于闍大会を作す、諸大法師、論議異なる故、別部の名字あり」と。これ大天乖諍のことを言ふ。これよりさき、仏法、一味和合して、いまだ異執あらず。その始めて異執ある者は、実に仏後百十六年なり。その後二百年ないし四百年、おのおの分別して二十一部となり、五百年また五百部となる。これみな小乗、三藏の学者、有をもって宗となせる者にして、この時いまだ大乗の言あらず。その始めて大乗の言ある者は、実に仏後五百年なり。 |
大智度論に云う、仏後百年して、阿育王が五年会を開催した。幾多の大法師たちの議論に異同があり、異部の説が行われていた」と。これは大天による異説のことを云っているのである。これ以前は、仏法は一味和合して、いまだ異説はなかった。始めて異説をとなえた者は、実に仏後百十六年のことである。その後二百年ないし四百年、おのおの分別して二十一部となり、五百年後には五百の学派になった。これらはみな小乗で、有をもって宗としていた。この時にはまだ大乗の語はなかった。始めて大乗の語が現れたのは、実に仏後五百年であった。20260818 |
大論に云く、仏法、過五百歳を過ぎて後、おのおの分別して、五百部あり。これより以来、諸法決定を求むるをもっての故に、みづからその法に執して、仏、解脱のための故に法を説くを知らずして、堅く着語言に着す。故に、般若の諸法は華畢竟空なるを聞きて、刀の、心を傷るがごとし」と。また、諸大乗経にいはゆる五百歳の語、みな見つべし。 |
大智度論に云う、仏法、五百年を過ぎて後、おのおの分別して、五百学派になった。これより以降、諸法の真実を求めるに執着して、仏が、解脱のために法を説いたのを忘れ、強く言葉にとらわれるようになる。それ故、般若経が、すべてのものは空であると説くのを聞いて、刀で心臓を傷つけられたように思った」と。また、さまざまな大乗経にいはゆる五百年の語がある。見てみるがよい。 |
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しかして、律は則ち分れて五部となれり。大集経の列する所、見つべし。曇無徳<法密>・薩婆多<一切有>・迦葉遺<数論>・弥沙塞<不著有無観>・婆蹉富羅<犢子>・摩訶僧祇<大衆>、これなり。経に云く、「広博に徧く五部の経書を覧る。魔訶僧祇と名づく」と。これ、いはゆる兼部。徧く五部を合わせて、これを兼合する者。大集の作者みづから命ずるなり。しかして後世これを知らず。誤って犢子律本をもって僧祇律本となせり。僧祇兼部は五部律をもって、その所学となす。あに、別に律本あらんや。法顕将来の僧祇律は乃ち婆嗟富羅津にして、命ずるに僧祇をもってする者は、誤る。この誤は、もと遺教三昧経に出づ。三昧経列する所、曇無屈多迦・薩婆多・迦葉遺・弥沙塞・魔訶僧祇、これなり。これ魔訶僧祇ありて婆嗟富羅なし。意ふに、後世矞宇の徒、一時、大集を誤見して、これを綴緝すること、しかるのみ。かつその五部をもって、すでに仏世にありとなせる者も、またその妄、知るべし。またその文殊問経および部執・宗輪・十八部の三論も、みな部執を列して、あるいは十八部となし、あるいは二十部となし、あるいは二十一部となす。その命名・次序・年数もみな異あるがごとき、みな異部の名字にして、おのおの相伝の説、必ずしもその開会を求めずして、可なり。後世これを知らず、種種牽強して、必ずこれを合はさんを求め、また、あるいは二十部をもって訳の失となせる者は、固なりと謂ふべし。また、その三蔵流伝、あるいは五部律について、十八部を分かつ者のごときも、また一部の所伝、その異を怪しまず。また、その五分律が優婆毬多の五弟子に出づとおもへる者のごときも、また恐らくは、必ずしもしかざらん。案ずるに、婆蹉富羅は乃ち犢子なり。大論に云く、「仏在世の時、舎利弗仏語を解す。故に阿毘曇を作る。のち犢子道人ら読誦し、ないし、いま名づけて舎利弗阿毘曇となす」と。真諦もまた云く、「羅怙羅はこれ舎利弗の弟子。可住子はこれ羅怙羅の弟子、舎利弗阿毘曇を弘む。この部は可住子の弟子なり」と。これをもってこれを推すに、犢子はこれ舎利弗の流のみ。薩婆多はこれ迦多衍尼子の流。曇無徳は、これ目連の弟子、真諦の説、徴すべし。弥沙塞、有無に著せざるは、乃ち車匿の流。迦葉遺は、乃ち数論。みな各別に当あり。これまた、いまだ信ずべからず。 |
しかし、律は分れて五部になった。大集経に挙げているところを、見るがよい。曇無徳<法密>・薩婆多<一切有>・迦葉遺<数論>・弥沙塞<不著有無観>・婆蹉富羅<犢子>・摩訶僧祇<大衆>、これらである。経に云う、「広く遍く五つの学派の経や論書を見ているから、魔訶僧祇(大衆部律)と名づける」と。これが、いはゆる(大小二乗を兼ねた)兼部である。あまねく五部を合わせて、これを兼ね合せているから、大集経の作者がみづから名づけたのである。しかしながら後世の人これを知らず。誤って犢子部の律本をもって僧祇律本とした。僧祇兼部は五部律をもって、その所学としているから、別に律本があるわけではない。法顕が将来した僧祇律は, 婆嗟富羅津であって、これを僧祇とするのは誤りである。この誤謬は、遺教三昧経から出たものである。三昧経が挙げている、曇無屈多迦・薩婆多・迦葉遺・弥沙塞・魔訶僧祇がこれである。これ魔訶僧祇があって婆嗟富羅がなし。思うに、後世、世を惑わす欺瞞の徒が、一時、大集経を誤読して、このように綴り集めたのであり、かつその五部をもって、すでに仏が世にあったとき存在していたとする、その妄説を知るべしである。。またその文殊師利問経および部執異論・異部宗輪・十八部論の三論にいずれも学派の異執を挙げて、あるいは十八部となし、あるいは二十部となし、あるいは二十一部となしている。その学派の名称・成立順序・年代がみな異なっているなど、それぞれが相伝であって、必ずしも辻褄を合わせる必要はない。後世の人、これを知らず、さまざまな無理な解釈をして、筋道を立てようとしたり、あるいは二十部をもって訳の誤りとするなど、頑迷と謂うべきだろう。また、その三蔵流伝、あるいは五部律について、十八部に分かつ者も、また一部の所伝であって、異とするにたりない。また、五分律が優婆毬多の五弟子から出たと思っている者もあるが、これは違うだろう。思うに、婆蹉富羅は犢子であろう。大智度論に云う、「仏、在世の時、舎利弗は仏の言葉を理解していた。故に諭書を作った。のち犢子部の僧たちが読誦し、そうしていま今日名づけて舎利弗阿毘曇論と名づけたのである」と。真諦もまた云う、「羅怙羅はこれ舎利弗の弟子である。可住子はこれ羅怙羅の弟子であり、舎利弗阿毘曇を広めた。この部は可住子の弟子である」と。これをもってこれを推察するに、犢子はこれ舎利弗の流である。薩婆多はこれ迦多衍尼子の流れ。曇無徳は、目連の弟子であり、真諦の説に証しを求められる。弥沙塞、有・無に執着しないのは、車匿の流れであり、迦葉遺部は、数論学派である。それぞれ個別に当てはめるものもあるが、信用できない。20260822 |
空有 第十八 |
空有 第十八 |
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空有の説久し。迦文の時、いまだこれあらざるなり。何ぞや。これ、実理に乏しければなり。その、これありとなせる者も、またこれに託するなり。小乗二十部は、みな有をもって宗となし、大乗文殊の徒は、般若を作りて、空をもって宗となし、深密・法鼓・法華氏の徒は、みな不空実相をもって宗となし、摩訶迦旃延の徒は、則ち昆勒論を作りて、亦空亦有をもって宗となし、車匿の徒は、則ち離有無経を作りて、非空非有をもって宗となせり。この二宗は、漢に伝わらず。空有の説、けだしここに至りて極まる。その実みな実理に乏し。諸家互に無き所を言ひて、もってあい圧するのみ。大論に云く、悪口の車匿、心に濡伏せば、まさに刪陀迦旃延経を教ふべし。即ち得道すべし」と。また云く、「摩訶迦旃延は、仏在世の時、仏語を解し昆勒を作る。秦に篋蔵と言ふ。乃ちいまに至って南天竺に伝ふ」と。また云く、「摩訶迦旃延は分別修多羅第一」と。これをもってこれを観れば、けだし、また一部の魁なり。その漢に伝わらざるは、惜しむべし。大論にまた云く、「方広道人も、また空をもって宗となす」と。見つべし。空有の説は、諸家これによるを。 |
空・有の説は、久しい以前からあったが、釈迦在世の時はこの説はまだなかった。何故か。実理に乏しかったからである。釈迦在世時からあったと説くものも、この説に仮託しているのである。小乗二十部は、みな有をもって前提とし、大乗の文殊の徒は、般若経を作って、空をもって宗となし、解深密経・大法鼓経・法華経を奉ずる徒は、みな不空実相をもって宗となし、摩訶迦旃延の徒は、昆勒論を作って、空でもあり有でもあるをもって宗となし、車匿の徒は離有無経を作って、非空非有をもって宗とした。この二宗は、中国に伝わっていないが。空有の説は、思うに、中国で極まったようである。その実、みな実理に乏しく。諸家が互にありもしないものを説いて、もって相手を圧倒しようとしたのである。大智度論に云う、もし悪口の車匿が、他説に心服するとすれば、まさに刪迦旃延経を説いていたことであろう。それで成道しただろう」と。また云く、「摩訶迦旃延は、仏在世の時、仏語を理解し昆勒論を作った。昆勒とは中国では篋蔵と言う。今も南インドに伝わっている」と。また云く、「摩訶迦旃延は経を分別することには第一者である」と。これをもってこれを見れば、思うに、またこの部派の魁であったろう。中国に伝わらなかったのは残念である。大智度論にまた云う、「方広道人の徒も、また空をもって宗となす」と。空有の説は、さまざまな学派が勝手に自説を主張しているのである。20260824 |
しかるに、これみな実理に乏し。何をもってこれを実理に乏しと謂ふ。これを、儒家に性の説あるに譬ふ。世子云く、「性に善あり悪あり」と。告子云く、「性に善なく、不善なし」と。孟子云く、「性は善なり」と。荀子云く、「性は悪なり」と。楊子云く、「性は善悪混ず」と。韓子云く、「性に三品あり」と。蘇子云く、「性にいまだ善悪あらず」と。性、善悪の説は、けだしここに至りて極まる。しかるに、その実はみな空言なり。何ぞや。いやしくもその身において善をなさば、則ち可なり。また何ぞ性の善悪を択ばん。いやしくも、その心において悪なければ、則ち可なり。また何ぞ理の空有を察せん。いたづらにこの説をもって互相に喧豗する者は、ことみな無用に属す。故に曰く、その実、実理に乏しと。性あひ近し、習あひ遠し。これ真の孔子の説にして、性の善悪は、この時いまだこれあらざるなり。諸悪莫作、衆善奉行、みづからその意を浄む、これ諸仏の教へと。これ、真の迦文の教へにして、理の空有は、この時いまだこれあらざるなり。このこと、誠にあひ類す。もって譬ふるに足れり。 |
ところがに、これらはみな実理に乏しいのである。何をもってこれを実理に乏しいと謂う。これを、儒家の性の説に譬えよう。世子が云う、「性には善と悪がある」と。告子は云う、「性には善なく、不善もない」と。孟子は云う、「性は善である」と。荀子は云う、「性は悪である」と。楊子云く、「性は善悪が混在している」と。韓子は云う、「性には三つの品がある」と。蘇子云く、「性にまだ善・悪はない」と。性、善悪の説は、思うにここに至って極まる。しかるに、その実はみな空言である。何故か。いやしくも、その身において善を行えば、それでよいのである。どうして性の善悪をきめようとするのか。いやしくも、その心において悪がなければよいのである。またどうして空有の理を考える必要があろう。いたづらにこの説をもって互いにやかましく争うのは、すべて無用である。故に、その実、実理に乏しいと。生まれたときは似たり寄ったり、その後の環境で変わる。これ真の孔子の説であって、性の善悪は、この時まだないのである。悪いことをせず、善い行いを行い、自らの心を清めること。これが諸仏の教えである、と。これ、真の釈迦の教へであって、空有の理は、この時いまだない。このこと、誠によく合致する。よって譬えとしたのである。20260825 |
また案ずるに、般若空言と法華不空とは、もとよりその帰を異にす。しかるに竜樹は大論を作り、もって般若を解して云く、「実般若波羅蜜は三世諸仏の母と名づく。よく一切法実法を示す」と。しかしてまた華厳を命ずるに不共般若をもってす。これは則ち異宗を合はす。その実、これを失せり。しかるにその中論を作りてもって八不を明らかにす。誠に法性の宗とする所、道法加上の極なり。法性は乃ち清弁の始むる所、智光の述ぶる所、全く般若空言を宗とする者なり。三藏伝に云く、「無着、夜、 覩史陀天に升りて、慈氏の所において、瑜伽師地論、荘厳大乗論、中辺分別論を受け、昼は則ち天を下り、衆のために説法す」と。これ、そのことを高尚にして、しか云ふ。その実、喩伽・荘厳の諸論は、みな無著みづから造るところ、これを之慈氏に託するにあらざれば、則ち人信ぜざればなり。 |
また思うに、般若の空の言葉と法華の不空(実相)とは、もとよりその帰するところが異なる。しかるに竜樹は大智度論で、般若を解釈して云う、「般若波羅蜜は、過去・現在・未来の三世の諸仏の母である。よく一切法実法を示している」と。しかし華厳経を解して、不共般若(声聞・縁覚には説かず、菩薩を対象に説いている)とした。これは異宗を合わせたもので、その実、そうではない。しかし中論を書いてもって八不(なににも偏らない中道)を明らかにす。これは法性の宗とするところで、加上の極みである。法性は清弁が始めて、智光が推進したもので、全く般若の空言を宗としている。三藏伝に云う、「無着が、夜、 兜率天にのぼって、弥勒菩薩の処で、瑜伽師地論、荘厳大乗論、中辺分別論を受け、昼は天を下り、衆生のために説法した」と。これは、権威付けるために、このように云っているのである。その実、喩伽師地論・大乗荘厳経論の諸論は、みな無著が自らつくったのであり、それを弥勒菩薩に託さなければ、人が信じないからである。20260826 |
呂子の博志篇に云く、孔丘・墨翟、昼日は諷誦し、業を習い、夜は親しく文王・周公且を見て、問ふ」と。このことまたあひ類す。 |
呂子春秋の博志篇に云う、孔子と墨子は、昼日は諷誦して、学業を習い、夜は親しく文王・周公且を夢見て、教えを問うた」と。このこともまた先のことと同じ類すである。 |
その意は、全く法華・楞伽・深密を承けて、不空唯識の理を述ぶ。これを名づけて法相宗となすも、またおのおの一家を立ててあひ争ふ者なり。礼師云く、「並びにこれ有相・無相と云ふ者は、これことごとく染礙。太虚の空にして、一物なきがごとくにあらず」と。岳師云く、「無相・不相、小乗はなほ、太虚の生理なきがごとし、大乗はなほ明鏡の像をするがごとし」と。あるいは云く、「三千即ち空・仮・中」と。あるいは云く、「三千唯仮、何ぞ空・中と謂はん」と。弁争一ならず。要はみな六竜の舞のみ。余、かってこれを蔽して曰く、一家空を称すれば、実もみな空なりと謂ふ。一家不空を称すれば、これを棄てて空なし。その実、特に言を立てて、もってあい拗するのみと。その色具の可否を争う者も、またしかり。何となれば則ち、色を棄てて空なく、空を棄てて色なし。山川楼閣も、もと空中のもの、またこのものなければ、空もある所なし。これを空と謂ふも可なり。これを不空と謂ふも、可なり。空・不空はみな人の命ずる所、大道は泛焉たり。大論に云ふがごとく、無明の指のごとし。「また長、また短。中指を観れば則ち短、小指を観れば則ち長」と。長短は、みな実、有説・無説も、またかくのごとし。これ、もってこれを解くに足れりと。余、またかってこれを蔽して曰く、「空有の説久し。みな仏意にあらずして、みな理あり。仏意を妨げずと。仏は内外中間の言を説き、つひに即ち入定すぅ。時に五百の羅漢あり。おのおのこの言を釈す。仏出定の後、同じく世尊に問ふ、誰か仏意に当たると。仏言ふ、並びにわが意にあらずと。また仏に白して言ふ、すでに仏意に当たらず。はた罪を得ることなからんやと。仏言ふ、わが意にあらずといへども、おのおの正理に順ふ。正教となすに堪えたり。福ありて罪なしと。このこと成実論に出づ。これ則ちこれに似たり。大論もまた云く、「問うて曰く、上の種種の人、般若波羅蜜を説く。いづれを実となすやと。答へて曰く、ある人言ふ、おのおの理あり。みなこれ実なりと。経に説くがごとし。五百の比丘、おのおの二辺および中道の義を説く。仏言ふ、みな理あり。これをもってこれを観れば、このこと、もと経説なり。しかるに知らず、これ何の経説ぞ。出定の義、実はここに出づ。 |
これら諸論の内容は、法華経・楞伽経・解深密経を継承して、不空・唯識の理を述べたもので、これを名づけて法相宗とした。またおのおのが一家を立てて競っているのである。知礼法師云く、「これらはいずれも有相(姿形を備えた状態)と云い、無相(姿形がない)と云い、それぞれが煩悩に汚染されているのである。(空と云っても)、天空のようにまったくなにもないのではない」と。仁岳法師は云う、「無相・不相について、小乗はなほ、天空に生命なきもののようだ、大乗はなほ明鏡に像を映すがごとしだ」と。あるいは云う、「三千世界は、即ち空・仮・中である」と。あるいは云う、「三千世界はただ仮である、なんで空・中と謂うのか」と。論争は一様ではない。要はみな六竜の舞であり、空理空論である。余、かってこれを評して曰う、誰かが空を称すれば、そのとおり皆空であると謂う。誰かが不空を称すれば、空を棄て、空はなくなる。その実、言を立てて、もって相手をくじこうとしているに過ぎない。存在の可否を争うのも、またそうである。何となれば則ち、色を棄てて空なく、空を棄てて色はなし。山川楼閣も、もと空の中のもの、またこれがなければ、空もない。これを空と謂うも、よし。これを不空と謂うも、よし。空・不空はみな人が自説を主張したもの、大道は渺渺として、変わることなく常に存在している。大智度論に云うように、無明はくすり指のごときもの。「長くもあり短くもある。中指と比べれば短く、小指と比べれば長い」と。長短は、いずれも本当で、有の説も無の説も、これと同じである。これで理解できる。わたしは、またかってこれを評して曰う、「空有の説が論じられて久しい。仏の真意ではないが、みな理があって。仏の真意を妨げずと。仏は内にも偏らず外にも偏らず中道の道を説いて、つひに入定した。時に五百の羅漢あり。おのおのが釈尊の言を解釈する。釈尊が出定の後、同じ問いを仏に問ふ、誰が仏の真意に当たるかと。釈尊は答える、どれもわたしの真意ではないと。また釈尊に白して言う、すでに仏意でないとすれば、罪になりますかと。釈尊は言う、わたしの真意ではないが、それぞれ理にかなっている。正しい教えとしてよい。福はあっても罪はないと。このことは成実論に出ている。すなわちこれに似ている。大智度論もまた云う、「問うて曰く、上のいろいろな人が、般若波羅蜜を説いたが、どれが正しいかと。答へて曰く、釈尊は言う、おのおのに理あり。みなこれ正しいと。経に説くがごとし。五百の比丘、おのおの二辺の極端と中道のについて説く。仏言ふ、みな理あり。これをもってこれを観れば、このこと、もと経説にあったのである。しかし何の経説かは分かっていない。わたしがつけた「出定」の意味は、実はここから出ているのである。20260829 |
南三北七 第十九 |
南三北七 第十九 |
菩提留支の一音数を立つるや、その言に曰く、「如来は一円音教、衆生は根に随ひて解を異にす」と。これ害なき者のごとく、しかり。しかるに、その「八年、法華を説き」、および「利根の人、般若において法界に入る」等の語を見れば、また法華の文のために誤らるる者のみ。また誕・遠二師は、漸・頓二教を立て、光統律師は三種教を立て、大衍は四宗教を立て、護身は五種教を立て、耆闍は六宗教を立て、南岳・天台は四教を立て、敏法師は二教を立て、雲法師は四乗教を立て、玄奘三蔵は三種教を立て、法蔵師は五教を立つるがごとき、みな、その諸経、撰を異にして、おのおの払戻するを難しとして、乃ち、この差異あるを致せるなり。その原は、みな法華年数の説に起こる。故に曰く、「古今の十大徳、みな法華に転ぜらる」と。この謂ひなり。天台大師は法華真実の語を信じて、法華をもって経中一王となし、もってそのいはゆる四教を建つ。誠に衆教の選べるなり。また法蔵 国師華厳の二七託高の説を信じて、華厳をもって経中の一王となせり。また一層を出でて、その宗旨を立つ、また誠に衆教の選べるなり。しかしてこの二家は、その諸蔵において合わざる者あれば、天台は則ち通別の言を立て、法蔵は則ち生熟の言を立てて、もってこれが異を合わせ、誠に密如たる者のごとくしかり。けだし、天台の解に云く「部帙を定めず、但し二酥中、三乗ともに学ぶ者を通となし、ただ菩薩のためにして二乗を聞かざるを、別となす」と。いま就いてこれを求むるに、わが説をもってすれば、則ちみな錯然たり。また、何ぞ通別の解を用ひん。 |
菩提留支が一音数を立てた。その言葉に、「如来は常に同じ音声で説いたが、衆生はその機根の違いで各自異なった理解をする」と。この程度では害はないように思われるが、しかるに、それが「八年間、法華経を説いた」、および「利根の人は、般若経を聞いて法界に入った」などの言葉を見ると、また法華経の文に導かれて誤まったと思われる。また誕・遠の二法師は、漸・頓の二教を立て、光統律師は三種教を立て、大衍寺の曇隠は四宗教を立て、護身寺の自軌は五種教を立て、耆闍寺の安稟は六宗教を立て、南岳の恵思・天台の智顗は四教を立て、法敏法師は二教を立て、法雲法師は四乗教を立て、玄奘三蔵は三種教を立て、法蔵は五教を立てているが、みなその撰述者を異にして、おのおの整合するのが難しかったので、そのまま差異が生じたのである。その源は、みな法華年数の説に起因している。故に曰う、「古今の十大徳、みな法華に躓き、法華に転じたのである」と。天台大師は法華経が初めて真実を説いたという語を信じて、法華経をもって最高の経典とし、もってそのいはゆる四教の説を立てた。誠に諸説を選び分けたものである。また法蔵国師は華厳経に二七託高の説(成道後14日目に朝日がまず高山を照らすように華厳を説いた)を信じて、華厳経をもって最高の経典とした。また一段と高くして、独立した宗派を立てた。諸説のなかでうまく選んだものである。そしてこの二宗派は、その諸蔵において矛盾を解消し、天台は、通教・別教の理屈を持ち出して、法蔵は機根の生・熟(衆生の機根の程度)の説明をつけて、もってこれが矛盾を解消し、手の込んだ手段をつかったのである。思うに、天台の解釈に云う「どこにどの経典ということは定めない、ただし二酥のうち、三乗ともに学ぶ者を通としたのである、ただ菩薩ために説かれた二乗を聞かないのを、別教とする」と。いまこれについて考えるに、わたしに言わせるなら、錯然とし混乱している。どうして通別に分けて解釈する必要があろうか。20260831 |
いまかつ試みにこれを挙ぐるに、大品に十地ある者は、これ別に名を立てて、もって三乗を語るも、もって通を語るにあらず。三獣河を渡るは、徳王品と獅子吼品とを合わせて、もってこれを立つるも、もとこの義あるにあらず。仏、実相に三種ありと説く。声聞法・大乗・辟支仏<中論観法品>は、これ、ただ四諦・十二因縁・六度を言ふ。また別にこの説あるにあらず。大品に云く、「十地は仏のごとし」と。楞伽に云く、「遠行・善慧・法雲地は、これ仏種性、余はことごとく二乗種性」と。華厳・仁王は、かへって菩薩のこととなすも、また異部の名字しかり。何ぞ必ずしも和会せん。これをもってこれを解けば、われその有塞を見るなり。また法蔵の解に云く、「衆生の根性、不定」と。あるいは、「仏は始終ただ小乗を説く」と見、あるいは、「仏、はじめ小乗を説きのち大乗に転ず」と見、あるいは「仏、はじめ小乗を説き、なかに空教を説き、のち不空を説く」と見、あるいは、「言説の教へは、なほ究竟にあらず。仏、初後は一字も説かず」と見、あるいは、「仏は終始ただ三乗を説く」と見、あるいは、「三乗の法は、みな一乗教によりて起る」と見る」と。もって、これをその、いはゆる華厳別教なる者に属せり。また、已むを得ざるの説なり。 |
いま試みにその混乱ぶりをあげると、大品般若経に十地が述べられているが、とくに名をあげて三乗を語ろうとしたのであって、通を語っているのではないし、三匹の獣が河を渡る譬えは、徳王品と獅子吼品とを合わせて立ったもので、もともと三乗の意味があるわけではない。仏は、実相に三種あり、と説く。声聞法・大乗・辟支仏<中論観法品>というが、これは、ただ四諦・十二因縁・六度の三を云っているのであって、特別こうした説がここにあるわけではない。大品般若経に云う、「十地は仏のようなものである」と。楞伽経に云う、「遠行・善慧・法雲地は、これ仏の悟りを開くための素地で、その他はすべて(声聞・縁覚)二乗の素地である」と。華厳経・仁王般若経では、かへって十地すべてを菩薩のこととしており、これまた異部の名字である。どうして辻褄合わせをする必要があろうか。これをもってこれを解けば、ここは筋が通らない。「衆生の資質・能力はひとそれぞれである」と。あるいは、「仏は、いつもただ小乗を説いていたのだ」と見、あるいは、「仏は、はじめ小乗を説きのち大乗に転じた」と見、あるいは「仏は、はじめ小乗を説き、なかに空教を説き、のち不空を説いた」と見、あるいは、「言葉で説かれた教えは究極のものではない。仏は、初めから最後まで一字も説かなかった」と見、あるいは、「仏は、終始ただ三乗を説いた」と見、あるいは、「三乗の教えは、みな一乗教から起こったものである」と見る」と。もって、これをその、いはゆる華厳の別教に所属させたが。やむを得ない説である。20260831 |
余をもって試みにこれを論ずるに、また何ぞ、もって衆教を概して説をなすに足らん。これ、その説、衆生の根性不定なるが故に、仏の所説は則ち同じうして、所見は異なると以へり。しかるに、その所説は則ち同じうして、所見は異なるとは、これ幺麼の事物、一二の疑似の際にありては、もとよりまさにしかるべし。そのはじめ小乗を説き、のちに大乗に転じ、なかに空教を説き、にちに不空を説く等は、乃ち世尊如来の転法輪、天下の大事、これより大となるはなうして、きま諸弟子、同じく聴席にありて、その見聞を誤る者は、誠に怪しむべし。もしあるいは謂ひて、衆生の根性不定なるが故に、仏ために法を説くも、また差別ありと云ふは、なほ、これ可なり。また、ここに出づるを知らずして、いたづらに云云する者は、その惑を見るなり。かつ、その三乗の根性定まるとは、仏、はじめより即ち三乗を説くと見ると云ふ者、もっとも説をなし難し。これ一人に約してこれを説くとなさば、無量の衆生は羅漢果を得ず。また、多人に約してこれを説くとなさば、もとより小乗者と異ならず。その実、ここに至りて窮す。古人すでにこれを論ぜり。何にかいはんや、前後差別、また絶えてかくのごとくならざるをや。 |
わたしの見解では、どうして諸々の教えから選んで、優劣をつけられようか。しかし、仏の所説は同じでも、衆生の根性不定のため、聞く人によって違いが生じる。所説は同じでも、聞く人によって違いが生じることは、些少のことがらでは、考えられよう。しかしそのはじめ小乗を説き、のちに大乗に転じ、なかに空教を説き、後に不空を説くなど、世尊如来の転法輪の重要な大事にあって、さまざまな弟子たちが、同席して聞いていて、その見聞を誤るということは、誠に疑わしい。もし、衆生の根性不定のために、仏が、そのために法を説いて、差別があると云うのは、あり得るだろう。しかし、このような事情から説かれているのを知らずに、いたずらに自説を主張するものは、結局混乱することになる。かつ、その三乗の根性定まる(三乗という菩薩に対する説法を聞くに値する)とは、仏が、はじめより即ち三乗を説いたという説は、もっともありえない説である。一人のためにこれを説けば、無量の衆生は羅漢果の悟りを得られない。また、多数の衆生に向けて説くとすれば、もとより小乗と異ならない。実際、この説は行き詰っている。古人はすでにこれを論じている。何にかいはんや、仏の説法における前後に分別するやり方は、行き詰る。20260901 |
禅家祖承 第二十 |
禅家祖承 第二十 |
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迦葉一・阿難二・商那和修三・末田地四・麴多五・提多迦六・弥遮迦七・難提八・密多九・脇比丘十・夜奢十一・馬鳴十二・摩羅十三・竜樹十四・提婆十五・羅睺十六・僧佉十七・耶舎十八・鳩摩羅十九・闍夜多廿・槃駄廿一・摩拏羅廿二・鶴勒那廿三・師子廿四、これ付法蔵経に載する所の次序なり。迦葉一・阿難二・優波多掬多三・尸羅難陀四・青蓮華眼五・牛口六・宝天七・馬鳴八・竜樹九、これ、摩耶経に載する所の次序なり。迦葉一・阿難二・末田地三・舎那婆私四・優婆笈多五、これ舎利弗問経に載する所の次序なり。また、禅経もまた九人を載せて、名は同じからず。第八を達磨多羅、第九を般若密多となす。しかして僧裕の三藏記には、伝律の祖承を載せ、第五十三人はまた達磨多羅たり。これみな異部相伝の説、信を取るに足らざる者なり。唐の僧智矩は宝林伝を作りて、いはゆる二十八祖を載す。迦葉一・阿難二・商那和修三・優波毱多四・提多迦五・弥遮迦六・婆須密七・仏陀難提八・伏駄密多九・脅十・富那夜奢十一・馬鳴十二・迦毘摩羅十三・竜樹十四・迦那提婆十五・羅睺羅多十六・僧伽難提十七・伽耶舎多十八・鳩摩羅多十九・闍夜多廿・婆修盤頭廿一・摩拏羅廿二・鶴勒那廿三・獅子廿四・婆舎斯他廿五・不如密多廿六・般若多羅廿七・菩提達磨廿八、これその次序なり。しかるにこれ契経にいまだ経見せざる所、古人、あるいは謂ひてもって智矩の偽作となす。婆舎斯多・不如密多は、みな他処に出ているが、いはゆる帽を買ひ頭を相する者。達磨多羅・般若密多は、ただ老胡の知るを許して、老胡の会するを許さず。また極めて顢預となすと。要するに、また異部に伝ふる所の説にして、いまだ信を取るに足らざるなり。 |
(仏教の継承者の順序は)、迦葉一・阿難二・商那和修三・末田地四・麴多五・提多迦六・弥遮迦七・難提八・密多九・脇比丘十・夜奢十一・馬鳴十二・摩羅十三・竜樹十四・提婆十五・羅睺十六・僧佉十七・耶舎十八・鳩摩羅十九・闍夜多廿・槃駄廿一・摩拏羅廿二・鶴勒那廿三・師子廿四、これは付法蔵経に記載された次序である。迦葉一・阿難二・優波多掬多三・尸羅難陀四・青蓮華眼五・牛口六・宝天七・馬鳴八・竜樹九、これは摩耶経に記載された次序である。迦葉一・阿難二・末田地三・舎那婆私四・優婆笈多五、これは舎利弗問経に記載された次序である。また、達磨多羅禅経も九人の名を載せているが、名前は同じではない。第八を達磨多羅、第九を般若密多としている。また僧裕の出三藏記集には、律を伝えた相承を載せ、第五十三人はまた達磨多羅になっている。これみな異部相伝の説で、信用できない。唐の僧智矩は宝林伝を作って、いはゆる二十八祖を記載した。迦葉一・阿難二・商那和修三・優波毱多四・提多迦五・弥遮迦六・婆須密七・仏陀難提八・伏駄密多九・脅十・富那夜奢十一・馬鳴十二・迦毘摩羅十三・竜樹十四・迦那提婆十五・羅睺羅多十六・僧伽難提十七・伽耶舎多十八・鳩摩羅多十九・闍夜多廿・婆修盤頭廿一・摩拏羅廿二・鶴勒那廿三・獅子廿四・婆舎斯他廿五・不如密多廿六・般若多羅廿七・菩提達磨廿八、これが順序である。ところがこれはどの経典にも載っていない、古人は、これは智矩の偽作だと云っている。婆舎斯多・不如密多は、みな他処にも出ているが、いはゆる、帽を買ってから頭の形を見る手合いに似ている。達磨多羅や般若密多は、ただ「老胡(達磨)が知ること」だけは認めたが、「老胡が悟って理解したこと」までは認めなかった。また、その理解はきわめて曖昧で、いい加減なものだとした(ChatGPT)要するに、また異部の説で、信用するに足りない。20260903 |
しかるに、法をもってこれを言ふに、心は則ちわが心なり。法は則ちわが法なり。わが心をもってわが法を証す。何ぞかの祖承を用ひん。おのれみづから七仏たりといへども、たれかまたこれを咎めん。しかるに天下滔滔としてその祖承を誇る者は、みなこれなり。われをもって菩提達磨を観るに、決して、その、人に衍ふに祖承に誇る者の徒にあらず。そののちも、また云ふ、「われ法のために来る。衣のために来るにあらず」と。この徒といへども、また決してその徒にあらず。禅家、祖承を制する者は、あに後世、知矩に昉まるにあらざること、なからんや。後世、儒氏もまたこれを知らず。おのれ独りこれなきを愧ぢて、乃ち云く、「堯は、これをもってこれを舜に伝え、舜はこれをもってこれを兎に伝え、もって孔子・孟軻に至る」と。これ、その道統の伝、出づる所、笑ふべし。独り菅為長の円爾に答へざるは、一黙雷轟くと謂ひつべし。また奇ならずや。 |
しかるに、仏法の精神から言うと、心はわたしの心であり、法(真理)はわたしの悟った法である。わたしの心でわたしが悟った法を証明するのである。どうして祖承の権威づけなどが必要だろうか。自分で自分を七仏だといっても、誰も咎めるものはないだろう。しかるに世にはその祖承を名乗る者たちがあふれている。わたしが観たところでは、菩提達磨は決して師資相承をもって、人に衍うような人物ではない。その後も、達磨自身云っている、「わたしは仏法のために来た。衣のために来たのではない」と。この後の輩もまた、また決して相承を衒うような徒ではない。禅家で祖承を始めたのは、知矩に始まったとはいえないだろう。後世、儒教もまたこうした事情を知らず。儒教だけに系譜がないことを恥じて、云い始めるのである、「堯は、これをもってこれを舜に伝え、舜はこれをもってこれを兎に伝え、相承して、孔子・孟子に至った」と。これは笑うべきである。独り菅為長が円爾に答えなかったのは、一黙雷轟くと云うべきである。爲長はこの愚問に答えなかった。20260906 |
われ、これを林氏中甫に聞く。曰く、「達磨の支那に入る者は、その意は、けだし謂ふに、竺土の仏法、すでに像季に属して、事みな萎爾として、またともに語るべき者なし。これ支那は絶遠にして、教法いまだ及ばず、事なほ草昧に属す。よろしくこの時において、誘ふにわが道をもってすべし。直示の旨、また了解する者あるべし、と。乃ちその意を決して来れるなり。しかるに、そのはじめて梁の武帝を見るや、乃ち問ふに、功徳および朕と対するをもってす。ここにおいて、磨、乃ち謂ふ、またわが竺土の仏法のごとしと。帝、契はざるにあらず、乃ち磨の契はざりしのみ。輙ち払衣して去り、少林において九年壁観してもって終ふ。その人あるいは云く、「振かつ機熟す」と。これ、大いにしからず」と。基をもってこれを観るに、これあるいはしからん。その帝に言ひて、帝、契はず。ついに人のために毒されて、死す。これ何ぞ、その機熟すとなせるにあらん。分明に、これ後徒の飾辞なり。ああ、達磨、その道法のために、遠く遼絶の地に入り、もってこれを播めんと欲するに、その言至って高く、また、人の信受する者なくして、つひに極悪闡提小人の手に死す。われ達磨をもって天下古今一人可憐の者となせるなり。しかるに、後来その道大いに興こり、天下の衲僧跳不出なるに、泥裡土塊を洗ひて、直ちに迦文とあひ抗衡するに至る。またもとよりその所なり。その徒の、いはゆる機熟すとは、これをもってしか云ふ。しかるに、もってこれをそのは初に命ずる者は、非なり。われ達磨をもって天下古今一人可憐の者となせるなり。 林氏中甫、名は師良、先子の友なり。いま現在す。 |
わたしはこのことを、林中甫氏に聞いた。氏の曰く、「達磨が中国に来たその意図は、思うに、インドの仏法が、すでに末期に入って、なにもかもが衰退し、またともに語るべき者もなかった。中国は遠い、わが仏法がいまだ及んでいない。衆生は開かれていない。よろしくこの時において、わが道をもって導こう。心から心へ伝える直示の主旨も、また了解する者があるだろう、と。こう決意してきたのである。しかるに、初めて梁の武帝と会見して、武帝が問ふに、(わたしは仏教を手厚くほごしてきた)その功徳はいかほどになるか、および朕と向かい合っているあなた誰か。これに対し、達磨は、わがインドと同じだと思った。武帝が達磨を理解できなかったのではなく、達磨の法が武帝のレベルに合わせられなかったのだ。すなわち、払衣して去り、少林寺において、九年面壁して修行して、世を去ったのである。それから、「機が熟した」という人がいるが、そうではない」と。仲基これをが観るところでは、それはそうかも知れない。達磨が武帝に言ったことが、帝に理解されず、ついに達磨は属殺されて死んだのである。これが、何で機が熟すと云えようか。明らかに後世の徒の付けたしの言葉である。ああ、達磨、その仏道のために、遠く遠隔の地に入り、もってこれを広めようと欲したが、その言葉は高邁で、また、信受する者もなく、つひに極悪非道の小人の手にによって殺されたのである。わたしは達磨をもって天下古今もっとも不憫な人と思っている。しかし、その後、達磨の仏道は大いに興こり、天下の凡僧たちが、悟りに入ろうとして跳躍してできず、無駄な修行を重ねるなかで、達磨の宗派だけは、釈迦と拮抗するまでになったのである。それは、当然のことであろう。その徒が云う、いはゆる機熟すとは、これをもってこう云ったのであろう。しかし、このことを達磨がやって来たその当初を指すのは、誤りである。わたしは達磨をもって古今を通じて最も気の毒な人と思う。 林氏中甫、名は師良、亡父の友なり。いまも存命である。20260907 |
曼荼羅氏 第二十一 |
曼荼羅氏 第二十一 |
曼荼羅氏、字輪を持するは、もと大品に出づ。華厳も、またこれによる。所説、ともに四十二字なり。涅槃・文殊問・金剛頂も、これによる。これは則ち五十字にして、大日経は則ち四十九字なり。その義、あるいは同じく、あるいは異なる。また、異部の名字、しかり。曼荼羅氏云く、「般若・華厳は所説末なり。涅槃はこれ本母といへども、ただ浅略の義を説く」と。これ曼荼羅氏みづから重んじて、しか云ふ。曼荼羅氏は、全く字輪をもって専門とす。故に字輪の説は、つひに曼荼羅氏の有となれり。その実は、もと大品に出でて、諸部みなあり。その、阿字をもって一切の種子となせる者は、一なり。何ぞや、みな、これを本不生に託すればなり。また、守護経は ॐ 唵字をもって、為一切陀羅尼の首となせる者は、また曼荼羅氏の一部、必ずしも和会せずして、可なり。 |
曼荼羅を奉ずる宗派が、字輪を保持するのは、もと大品般若経より出たものである。華厳経もまた、またこれによる。説くところ、ともに四十二字の梵字である。涅槃経・文殊師利問経・金剛頂経もこれによるが、字数は五十字であり、大日経は、四十九字である。これら梵字の意味は、あるものは同じく、あるものは異なる。また、異部の名字である。曼荼羅の宗派は云う、「般若経や華厳経の説くところは末梢である。涅槃経は勝れて基本的なものであるが、初歩的な教えである」と。これ曼荼羅の宗派が、自派を重んじて、こう云っているのである。曼荼羅氏は、全く字輪をもって専門とする。故に字輪の説は、つひに曼荼羅氏の専有となった。実際は、もと大品般若経から出ていて、どの宗派にもあるのである。その、阿字をもって一切の種子とするのは、みな同じである。何ぞや、みな、阿字を本不生に託しているからである。また、守護国界主陀羅尼経は ॐ 唵字をもって、一切の陀羅尼の初めとするのは、また曼荼羅宗派の一部の説で、必ずしも他説と整合させる必要はない。20260907 |
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また胎蔵・金剛両部の曼荼羅のごとき、おのおの、その次序方面を異にす。また異部の執しかり。胎蔵現図は、善無畏が金粟塔下において写す所。金剛現図は、竜猛が開塔の時現ずる所。またおのおのその伝承を張りて、しか云ふ。後世の学者これを合はする者は、非なり。また案ずるに、竜猛が鉄塔中に得る所の者は、金剛頂経なり。ことは不空の義訣に見ゆ。後世の学者は、崇奉の至り。大日経を并せて塔中の蔵となせる者は、非なり。また案ずるに、毘盧遮那の号は、華厳に出ず。もと仏を讃するの言。合はすに大日もってする者は、曼荼羅氏の新意なり。また桉ずるに、秘密の名は、もと法を讃するの言。有宗は毘尼をもって秘蔵となし、法華に如来秘密神通之力、涅槃に秘密の蔵如来の密語あり。またおのおの珍愛するの言。大日経に云て、勝上大乗の句、心続生の相は、諸仏の大秘密なり」と。諸部、みな秘密ありて、独り秘密をもって宗となせる者は、曼荼羅氏なり。他をもって小密となし、大密みづからをる者は、曼荼羅氏の専門なり。また案ずるに、竜猛・竜智・不空・慧果と、これその相承の次序、所経わづかに五、六世にして、その年紀は則ち千有余年なり。けだしその説に云く、「玄奘法師は、竜智を南印磔迦国菴羅林中に見る。時に年七百余歳。弘法大師入唐の時、なほ現在せり」と。これはなはだ奇怪。あに託する所あるか。しかりといへども、天地の際、何事かあらざらん。また、何ぞその相承の少なうして、年紀の多きを怪しまんや。救世の大菩薩は寿量久遠、天地とともに終始すといへども、また可なり、また何ぞ、その七百余歳を怪しまん。 |
また胎蔵・金剛両部の曼荼羅にしても、おのおの、その順序と分野を異にしている。また異部のこだわりである。胎蔵現図は、善無畏が金粟塔下で写し取ったもの。金剛現図は、竜猛が塔を開いたときに現れたもので、それでおのおのその伝承を拡大解釈してこう云うのである。後世の学者がこれを結びつけるのはよくない。また思うに、竜猛が鉄塔のなかで得たのは、金剛頂経であって、このことは不空の金剛頂経義訣に見えている。後世の学者は、崇敬のあまり、大日経も一緒に塔のなかに蔵していたとするのは誤りである。また思うに、毘盧遮那の仏名は、華厳経に出ており、もと仏を賞賛する言葉で、大日を付けたのは、曼荼羅の宗派の新しい発想である。また思うに、秘密の名は、もと法を賞賛する言葉で、有を主張する宗派は、律(毘尼)をもって秘蔵とし、法華経には如来秘密神通之力、涅槃経には秘密の蔵如来の密語ということが説かれている。それぞれが珍愛する言葉である。大日経に云う、「最勝にして無上の大乗の句は心続生の相であり、諸仏の大秘密である」と。それぞれの宗派に秘密があるが、ただひとり秘密をもって宗旨とするのは、曼荼羅の宗派である。他の宗派を小密とけなし、自らを大密とするのは、曼荼羅氏の専門である。また思うに、竜猛・竜智・不空・慧果と相承する宗派の順序で、わずか五、六代にして、その年数は千有余年にわたる。けだしその説に云く、「玄奘法師は、竜智を南印の磔迦国の菴羅林中に見る。時に年七百余歳。弘法大師入唐の時、なほ現在せり」と。これはなはだ奇怪である。根拠があるのだろうか。しかしこの天地の際に、何が起こるかわからない。また、相承者が年数に比して少ないことをもって怪しむことはない。救世の大菩薩はは寿量が久遠で、天地創成とともに生起するとしても、驚くにあたらない。どうして、その七百余歳を怪むことがあろうか。20260909 |
また案ずるに、曼荼羅氏の業はまったく観相禁呪にあり。竺土の風を存する者は、ただ曼荼羅氏のみ。漢、つとにその伝を失し、この方、独りこれを伝ふ。また奇ならずや。その人云く、「大日本国と。しかること、あることなくんば、則ちまた、しかることあることなからん。また案ずるに、楼閣経に云く、真言はこれ諸仏の母、成仏の種子、もし真言なければ、ついに無上正覚をなすことあたはず」と。また、「三藏経も、ことごとく陀羅尼より出づる所」と。大乗荘厳宝王経に云く、「諸仏もまた神呪を求む。何にかいわんや、凡夫にして持誦せざらんや」と。六度経に云く、「契経は乳のごとく、調伏は酪のごとく、対法は生蘇のごとく、般若熟蘇のごとく、 摠持門は醍醐のごとし」と。十住論に云く、「六度をもって自力となすも、その巧遅し。念仏等を他力となすに、その巧疾し。真言中には、ひそかに自他二力を具す」と。これみな曼荼羅氏の自重の説なり。 |
また思うに、曼荼羅氏の業はまったく、観相と禁呪に限られている。インドの風習を残しているのは、曼荼羅の宗派のみである。中国ではその伝承が絶え、わが国にのみ伝わる。これもまた奇怪なことだ。曼荼羅の宗派の人は云う、「日本とは大日の本国ということ。こういうことでもなければ、日本だけが伝えていることにはならなかったであろう。また思うに、広大宝楼閣善住秘密陀羅尼経に云う、「陀羅尼(真言)はこれ諸仏の母、成仏の種子であって、もし真言がなければ、ついに無上正覚をなすことはできないであろう」と。また、「小乗の三藏経も、ことごとく陀羅尼から始まった」と。大乗荘厳宝王経に云う、「諸仏もまた陀羅尼(神呪)を求めた。まして凡夫にして持誦しないことはありえない」と。大乗理趣六波羅蜜多経に云う、「経は乳のごときものであり、調伏(律)は酪のごときもので、論(対法)は生蘇のようなものであり、般若は熟蘇のごときものであり、陀羅尼(摠持門)は醍醐のようなものである」と。十住毘婆論に云う、「六度をもって自力の行とすれば、その巧は遅い。念仏等を他力とすれば、その巧は疾い。真言のなかには、ひそかに自力・他力がそなわっている」と。これみな曼荼羅の宗派が、自派の勝れていることを説いているのである。20260909 |
外道 第二十二 |
外道 第二十二 |
外道の数は、けだし九十六なり。大論に云く、「九十六種の外道、一時に和合して仏とともに諍議せんとほっす。薩婆多律に云く、「外道の六師は、おのおの十五種を出だす。合はせて九十六」と。これなり。大集経は則ち云く、「三宝中において、心、敬信を得るは、一切九十五道に勝る」と。分別功徳論もまた云く、「九十六道の中、仏道、もってその最となす」と。これ仏を合わせて九十六となすも、また異部の言しかり。楞伽経にまた百八部の邪見あり。その目、ともに詳らかならず。富楼那迦葉・末伽黎拘賖梨子・刪闍夜毘羅胝子・阿耆多翅舎欽婆羅・迦羅鳩駄迦旃延・尼犍陀若提子、これ維摩経に載せる所の外道六師なり。自餓・投淵・赴火・自坐・寂黙・牛狗、これ、涅槃経の載する所の六苦行の外道なり。我者・衆者・寿者・命者・生者・養者・衆数者・人者・知者・見者、作者、使作者・起者・使起者・受者・使受者、これ大論に載する所の十六知見なり。因中有果論・従縁顕了論・去来実有論・計我実有論・諸法皆常論・諸因宿作論・自在等因論・害為正法論・諸法辺無辺等論・不死矯乱論・諸法無因論・七事断滅論・因果皆空論・妄計最勝論・妄計清浄論・妄計吉論、これ、楞伽論に載する所の十六異論なり。時・地等の変化・楞伽我・建立浄・不建立無浄・自在天・流出・時・尊貴・自然・内我・人量 ・遍厳・寿者・補特伽羅・識、阿頼耶・知者・見者・能執・所執、内知・外知・社怛梵・若摩奴闍・摩納婆・常定生・声・非声、これ、大日経に載する所の三十種外道なり。小乗外道論師・方論師・風仙・韋陀・伊賖那・倮形・毘世・苦行・女人眷属・行苦行・浄眼・魔陀羅・尼犍・僧佉・魔醯首羅・無因・時・服水・口力・本生安茶・これ、外道小乗涅槃論の載する所の二十種小乗外道なり。これ、みなその梗概にして、いまだ九十六の数を塡むるにおよばざるなり。その、いはゆる四囲陀典の経書は伝はらず。その人も、また漢に入らず。その説の是と非と、いま、あに得てこれを詳らかにせんや。 |
外道の数は、九十六あるようである。大智度論に云う、「九十六種の外道が、一時談合して仏教に異議申し立てしようとした。薩婆多律に云う、「外道の六師から、おのおの十五種を出す。合はせて九十六」と。これである。大方等大集経に云う、「三宝のいづれに対しても、敬信の心を得るときは、一切九十五道に勝る」と。分別功徳論もまた云う、「九十六道ののうち、仏道、もってその最となす」と。これ仏道を合わせて九十六としており、また異部の言である。楞伽経には、また百八部の邪見があるとされるが、名称は詳らかではない。富楼那迦葉・末伽黎拘賖梨子・刪闍夜毘羅胝子・阿耆多翅舎欽婆羅・迦羅鳩駄迦旃延・尼犍陀若提子、これらは維摩経に記載された外道六師である。断食したり、投淵に身を投げたり、火中に赴き、巌上に座り、静かに黙って立ちつづけたり、牛や犬のまねをしたり、これらは涅槃経に記載する六苦行の外道のようすである。また、あるいは、我者・衆者・寿者・命者・生者・養者・衆数者・人者・知者・見者作者・使作者・起者・使起者・受者・使受者とあり、これは大智度論に記載する十六知見である。また因中有果論・従縁顕了論・去来実有論・計我実有論・諸法皆常論・諸因宿作論・自在等因論・害為正法論・諸法辺無辺等論・不死矯乱論・諸法無因論・七事断滅論・因果皆空論・妄計最勝論・妄計清浄論・妄計吉論とあり、これらは楞伽論に載する十六異論である。また、時・地等の変化・楞伽我・建立浄・不建立無浄・自在天・流出・時・尊貴・自然・内我・人量 ・遍厳・寿者・補特伽羅・識、阿頼耶・知者・見者・能執・所執、内知・外知・社怛梵・若摩奴闍・摩納婆・常定生・声・非声、これらは、大日経に記載する三十種外道である。また、小乗外道論師・方論師・風仙・韋陀・伊賖那・倮形・毘世・苦行・女人眷属・行苦行・浄眼・魔陀羅・尼犍・僧佉・魔醯首羅・無因・時・服水・口力・本生安茶とあり、これらは外道小乗涅槃論に記載された二十種小乗外道である。これらは、みなその大略であり、いまだ九十六の数を塡むることはできない。その、いはゆる四囲陀典の経書は伝わっていない。その人も、また中国に来ていない。その説の是と非と、いまは、とても詳らかにはできない。20260909 |
法顕の伝に云く、「この中国に、九十六種の外道あり。みな知る今世おのおの徒衆あるを。また、みな食を乞ふ。ただし鉢を持せず」と。また云く、「調達も、また衆のあるあり。過去の三仏を供養す。ただ釈迦文仏のみを供養せず」と。また云く、「羯羅拏国は邪正かね事ふ、別に三寺あり。乳酪を食はず。これ、調達部の僧なり」と。これ見つべし、外道も、また伝へてのちに至るを。もし外道にして仏の所言のごとくならば、則ちその伝へてのちに至るも、また、ここに至らんや。迦毘羅外道は、金七十論を造り、立二十五諦を立つ。その書、今に具存す。また一家言を立つる者、傑なりと謂ひつべし。秦の時、獅子国の婆羅門、その書を駄して関中に至り、弁論を乞ふ。釈子道融、方便をもってこれを伏して、しかしてその道熄む。惜しいかな。その説、いかん。いま、あに必ず、その説の不是を保せんや。唐の時、波斯国の蘇魯支、末尼大祅教を伝へ、払多誕、二宗教を伝ふる者、これ、その矞宇なる者なり。その矞宇なる者をもって、その他を概せば、不可の甚だしきなり。 |
法顕伝に云う、「このインド中央部には、九十六種の外道がある。今日まで、それぞれの徒がいるのはみな知っている。また、みな乞食の行を行う。ただし鉢を持たない」と。また云う、「 提婆達多の徒も衆をなしている、過去の三仏は供養するが、ただ釈迦牟尼仏だけは供養しない」と。大唐西域記には「羯羅拏国では邪教もあり正教もある。別に三寺あり。乳酪を食はず。これ、提婆達多の宗派の僧であった」と。これによって知れる、外道もまた伝承されて当時まで伝わっていたのである。もし外道で、仏教が非難するようなものであれば、それが伝わってここまで至ることはなかったであろう。迦毘羅外道は、金七十論を造り、立二十五諦を立つ。その書、今に現存している。また一家言を立てた者に相応しく、勝れたものである。秦の時代に、セイロンのバラモンが、この書をラクダに載せて関中の地に来て、弁論を申し出た。釈子道融が、手を講じてこれを退かせて、この教えは伝わらずに終わった。惜しいことをした。その教説はどうであったか。いま思うに、その説が間違っているとは必ずしも云えないのではないか。唐の時代に、ペルシャの蘇魯支が末尼大祅教を伝へ、払多誕が、二宗教を伝えたが、これはまさに人を欺くものであった。こうした人を欺く教えをもって、他の教えをはかるなら、大へんな間違いである。20260911 |
しかるに、いま以仏書に言ふ所をもって、これを推すに、外道の帰は、けだし生天に過ぎずして、その行も、また苦楽二行を出でず。曰く大梵天はよく万物を生ずるもとなり。これに違へば、則ち生死を受く。これに順へば、則ち解脱を得」と。曰く、「夢想天は真実の涅槃なり、夢想定を修め、ここに生まる」と。曰く、「五浄居は魔鶏首羅天王処にあり。これを造化のもととなす。これに帰すれば、則ち解脱を得」と。これその生天を説く者のためなり。また、天竜八部および水・火等はみな外道の事ふる所。普門品に云ふ、「応以天・竜・夜叉・乾闥󠄂婆・阿修羅・迦楼羅・緊那羅・睺羅伽・人・非人等の身をもって得度すべき者は、即ちみなこれを現じて、ために法を説く」。および迦葉、火竜に事ふるがごとき、みな見つべし。大論また外道の行を述べて云く、「灰をもって身に塗り、躶形恥づるなく、人の髑髏をもって糞を盛りて食ひ、頭髪を抜きて刺上に臥し、倒懸して鼻を熏べ、冬は則ち水に入り、夏は則ち火炙す。果菜・草根・牛屎・稊稗・水衣、を食ひ、一月ないし二月に一食し、あるいは風を噏ひ、水を飲む」と。けだし主意行作も、またかくのごときに過ぎず。 |
ところが、いま仏典の言うところによって推察するに、外道の帰するところは、思うに、天に生まれることであり、その行も、また苦・楽の二行を出でないといったところである。曰く、大梵天はよく万物を生ずるもとである。これに逆らえば、生死の苦を受ける。これに従えば、解脱を得る」と。曰く、「夢想天は真実の涅槃である、夢想定を修めて、夢想天に生まれる」と。曰く、「五浄居天は魔鶏首羅天王の処にあり。これを天地創造の根本となす。これに帰するとき、解脱を得る」と。これは天に生まれることを説く者の説である。また、天・竜・八部衆や水・火などは、みな外道が敬っているものである。法華経の普門品に云う、「天・竜・夜叉・乾闥󠄂婆・阿修羅・迦楼羅・緊那羅・睺羅伽など人・非人などの身をもって得度した者は、みなこれと同じ姿を現じて、それらのために法を説く」。なお、迦葉は火竜に仕えていたという、確かめて見るがよい。大智度論にはまた外道の行を述べて云う、「灰を身体に塗り、裸体を恥じることもなく、人の髑髏に糞を盛って食い、頭髪を抜いて針に伏し、逆立ちして鼻を燻し、冬は冷水に入り、夏は火で体をあぶる。果菜・草根・牛糞・稊稗・青苔を食べ、一月ないし二月に一度食して、あるいは風を吸い、水を飲む」と。思うに 、考えることも行うことも、この程度のものだったのだろう。20260912 |
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ここにおいて迦文は乃ち、これが一層を出て、斥するに生死をもってして曰く、「上の二界は、死時・退時、大懊悩を生じて、下界より甚し。譬へば極処より堕して摧けて砕爛するがごとし」と<大論>。また、その大梵天王をもって昇天して住するところとなし、自在天王を邪魔と呼び、および釈尊が諸天勧請を説くがごとき、その実、みなこれを破るの説。故に大論に云く、「外道は梵天に事ふ。梵天みづから請へば、則ち外道心伏す」と。また云く「衆生は常に梵天を識る。もって祖父となせるが故に。故に梵天を説く」と。これなり。また、その六年、苦行に従ふ者のごとき、またもって、外道の心を伏するなり。故に大論に云く、「譬へば釈迦牟尼仏のごとし。みづからもし、まづ六年苦行を行わずして、非道と呵言せば、人の信受するなし。故にみづから苦行を行なひ、余人に過ぐ」と。西域記にもまた云く、「太子、至理を思惟し、苦行外道を伏せんがために、麻米を節し、もって身を支えること六年」と。これなり。因果経は則ち云く、「太子みづから念じ言ふ。われいま苦行を修して六年に満つるになんなんとす。もし、羸身をもって道を取らば、まさに言ふべし。自餓はこれ涅槃因と。まさに食を受けて、しかしてのち道をなすべし」と。これ見つべし。迦文、苦楽の二行を行ふ者は、もって外道の心を伏するなり。しかしてそのいわゆる中道をを説く者は、またこれが一層を出づるなり。中含に云く、「二種の行あり。五欲と苦行と。この二辺を離る。これを中道と名づく」と。これなり。 |
ここにおいて釈迦は、そのひとつ上に出て、外道を排するに生死をもってして曰う、「上位の二界は、死ぬ時やそこから退出する時、大きな苦しみが生じて、その苦しさは下界より甚しい。。譬へば極めて高いところから落ちて砕けて粉々になるようなものだ」と<大智度論>。また、その大梵天の宮殿を逝官と呼び、自在天王を邪魔と呼び、また、釈迦覚醒後に諸天勧請を説くようすも、その実、みな外道を破るための説である。だから大智度論に云く、「外道は梵天を敬っているから、梵天みづから釈迦に請うたといえば、外道は釈迦に心伏するだろうから」と。また云く、「衆生は常に梵天を知っていて、それぞれ祖先としているから、梵天を説いたのだ」ということになる。また、釈迦が六年間、苦行を行ったことが、またもって、外道の心を説得するのである。故に大智度論に云く、「譬へば釈迦牟尼仏のように、みづからもし、六年の苦行を行わずして、苦行は非道と批判すれば、人は信受しないだろう。そこで、まず人より過酷な苦行を行なったのである」と。西域記にもまた云う、「太子、真理を思惟して、苦行する外道を心伏させんがために、食を節して、もって身を支えること六年」と。これなり。過去現在因果経は云う、「太子みづから言っている、われいま苦行を修して六年に満つるになんなんとす。もし、やせ衰えたこの身で正覚を得れば、人はいうであろう、飢え苦しむことが涅槃への道だと。だから食の供養をうけて、その後に正覚を得なければならない」と。これ見つべし。釈迦が、苦楽の両方を行ったのは、もって外道の心を心伏させるためである。しかしてそのいわゆる中道をを説く道は、またこれまたひとつ上を行くためである。中阿含経に云う、「二つの道がある。五欲と苦行と。このどちらも離れる。これを中道と名づける」といっている。20260913 |
また案ずるに、道家に有西昇化胡の経あり。老子、西のかた関を出で、胡俗を化して、仏をもって侍者となす等のことを言ふ。これ論 なし。その意は全く在上仏氏に上するにありて、偽造せるなり。しかるに老子、西のかた胡に入りて、その教へを播めし者は、則ちけだしこれあらん。史記、老子の伝に云く、「西のかた関に至り書を著はして去る。その所終を知ることなし。漢書、襄󠄂楷の伝に云く、「老子、夷狄に入りて、浮屠の教へをなす」と。事、説蔽に詳らかなり。これをもってこれを推すに、意ふに、老子もまた外道の中の一なり。自然外道とはあにこれか、またあに仏をもって、侍者となせるにあらざることなからんや。 |
また思うに、道家には老子西昇経がある。老子は、西のかた関を出で、蛮族を教化して、仏を侍者としたことが伝えられている。論ずるまでもなく、道教の徒を仏教の上に置こうとするための偽造である。しかし老子が西方の蛮族の地に入って、その教へを広めようとしたことはありうるだろう。史記の老子の伝に云う、「西のかた関に至り書を著はして去る。その終焉の地はわからない」後漢書の襄󠄂楷の伝に云う、「老子は、夷狄の地に入って、仏の教へを説いた」と。このことは、説蔽に詳しい。これをもって推察して思うに、老子もまた外道の中のひとつである。万物が自然に生ずると説いた学派(自然外道)がこれだとはいえない。仏を侍者としなかったとは、云えないだろう。20260913 |
仏出朝代 第二十三 |
仏出朝代 第二十三 |
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仏出の朝代、年紀沓邈、尼羅蔽荼もまた、これを伝ふることなく、諸説、けだし紛紛如たり。西域記に云く、「仏涅槃より、諸部異議あり」と。あるいは云く、すでに九百を過ぎ、いまだ千年に満たず。<赧王の時に当たる>。あるいは云く、一千二百余年<霊王の時に当たる>。あるいは云く、一千三百余年と<恵王>。あるいは云く、一千五百余年と<平王>、鷲嶺聖賢録に云く、「仏生の時を説くに、およそ八別あり。一、夏傑の時。二、商末武乙時<法顕の議>、三、西周昭王の時<法本内伝>。四、穆王の時、五、東周平王の時<王玄策>、六、桓王の時<道安>、七、荘王の時<王簡栖>、八、貞定王二年甲戌<趙伯休の衆聖点記>、基をもってこれを観るに、諸説すでに依憑なく、みないまだ信ずべからず。ただし、趙伯休の衆聖点記は、もって徴するに足れり。これ、あるいはその真ならん。 |
釈迦の出生の年代は、遠くはるかでよくわからない。、インドの記録官史誥にも記録がなく、諸説が紛々としてある。大唐西域記に云う、「仏の涅槃より後、諸部に異議が生じた。」と。あるいは云う、すでに九百年を過ぎて、千年に満たない、<赧王の時に当たる>という。あるいは、一千二百余年<霊王の時に当たる>という。あるいは、一千三百余年と<恵王>の時といい、あるいは云く、一千五百余年と<平王>という。鷲嶺聖賢録に云う、「仏の在世年次を説いて、およそ八種ある。一、夏傑の時。二、商末武乙時<法顕の議>、三、西周昭王の時<法本内伝>。四、穆王の時、五、東周平王の時<王玄策>、六、桓王の時<道安>、七、荘王の時<王簡栖>、八、貞定王二年甲戌<趙伯休の衆聖点記>という。わたしの見るところ、諸説に根拠とすべきものなく信じるに足るものはない。ただし、趙伯休の衆聖点記は、信じるに足るものがある。これが、あるいは真実かもしれない。20260913 |
隠士趙伯休は、廬山において律師弘度に遇うて、衆聖点記を得たり。云く、「仏滅後、優婆離が律蔵を結集する。その年の七月十五日をもって自恣し竟り、律蔵の前において、便ち一点を下す。年年かくのごとし。波璃以後、師師あひ付して、僧伽跋陀羅に至る。律蔵と広州に至る。斉の永明七年七月十五日、自恣し竟るに当たりて、即ち一点を下す。その年およそ九百七十五点を得たり。伯休問ひて曰く、「永明七年ののち、いかんぞ点せざる」と。度の曰く、「已前はみな得道の人、手みづから点を下す。わが徒凡夫、ただ奉持すべきのみ」と。伯休、点記によりて、推して大同のはじめに至る。およそ一千二十年」と。これ独り依憑あり。もって証となすべし。かつまた、大抵仏氏の意は、みな迦文の出、孔老二子に先なるを欲す。しかして、これかへって、これに後るること幾百年、ますますもって、これ信ずるに足れ。冢墓因縁経に云く、「閻浮提のうち、振旦国あり。われ三聖を遣はしてうちにあらしむ。人民を化導す」と。清浄法行経に云く、「光浄菩薩は、かしこに孔子と称す。迦葉菩薩はかしこに老子と称す。月光菩薩はかしこに顔回と称す。 |
隠士趙伯休は、廬山において律師弘度に会って、衆聖点記を得た。その書に云う、「仏滅後、優婆離が律蔵を結集する。毎年七月十五日をもって夏安居が終わり、律蔵の書に、一点を下す。毎年これをやった。波婆璃以後は師師相伝えて、僧伽跋陀羅に至る。僧伽跋陀羅は律蔵を持って広州に来る。その年、斉の永明七年七月十五日、夏安居の終わる日に当たり、即ち一点を下す。その年で、およそ九百七十五点だった。伯休が問うた、「永明七年ののち、点をしてないのはどうしてか」と。弘度が答える、「以前はみな得道の人、みづからの手で点を下していた。わたしのような凡夫は、ただ護持するだけです」と。伯休は、点記から推定して、大同のはじめまで、およそ一千二十年になる」と。これだけが確かだ。有力な根拠だ。かつまた、大抵仏教徒は本当は、みな釈迦の出現は、孔老二子より先になるのを欲している。だがかえって、この推定によると、孔老に遅れること幾百年になる。ますますもって、これは信じるに足るだろう。冢墓因縁経に云く、「このわたしたちの住む世界のなかに、中国がある。わたしは三聖を遣わして、衆生を教化した」と。清浄法行経に云う、「光浄菩薩は、そこで孔子と呼ばれている。迦葉菩薩はそこで老子と呼ばれている。月光菩薩はそこでで顔回と呼ばれている。20260914 |
本起経は、則ち云く、「末法一万年、月光菩薩出振旦国に出でて、説法五十二年」と。合はない。これが、あるいはもとの説かもしれない。 これみな漢土の頗類、仮託する所。劉学士の平心録に、これを非る者は、得たり。 |
仏五百弟子自説本起経には、云う、「末法一万年に、月光菩薩出が中国に現れて五十二年間説法する」とあり、合はない。もしかすると、これが本の説かもしれない。 これみな中国の公平を欠いた者が仮託したものである。劉学士の三教平心録に、これを否定しているのは正しい。 |
われ、独り趙伯休の点記をもって正となす。また、その周書異記に載する所の蘇由・扈多の問答の数事の者のごとき、みな不経の造言、懸空に出だす所。みな証するに足らず。あるいは云く、「周書に書せざるは、異を避くるなり」と。<輔数>、笑ふべし。独りその室利房の来りて秦皇を化する者は、これ影似あり。史記の五行志に云く、「秦皇廿六年、大人あり、長け五丈、みな夷狄の服、およそ十二人、臨洮に見ゆ」と。これ、他なし。,ruby>長狄喬如・鴻池送璧の類のみ。しかして云く、「十八異僧、秦に如く」と<輔数>。また、笑ふべし。また、烈子に孔子の語を載す。云く、「西方に聖人あり、仏と曰ふ」と。いま伝うる所の列子は、これ唐後の人、他書を綴緝して作る所、別に考あり。故に、法苑珠林に、また周書異記をもってこれを引く。見つべし。これ、これを取るのみ。また、いま「曰仏」の二字なし。けだし作者忌んでこれを省けり。およそかくのごときの類、 甚だ多し。みな取るに足らず。また按ずるに、漢書の霍去病の伝に、休屠の天を祭る金人を収む」と。顔師古云く、「いまの仏像、これなり」と。仏氏、多く引きて、もって仏の漢に入ること、実に明帝に先だつを証す。しかるに、これ筏蘇盤豆の像のみ。仏像にはあらず。法盈記に云く、「竺土自在天を祠る。黄金を身となし、頗梨を眼となす。この天像を号して、筏蘇盤豆となす」と。これなり。 |
わたしは、ひとり趙伯休の点記をもって正しいとする。また、その周書異記に記載する蘇由や扈多との問答のごとき、みな出鱈目の作りごとで、証拠とすることはできない。あるいは云く、「周書にこのことが書かれていないのは、異記の説を避けたのである」と。<輔数>、おかしなことである。ただ室利房がやって来て秦の始皇帝を教化したというのは、似た記録があって、史記の五行志に云う、「秦の始皇帝の廿六年に、背の高い人がいて、身長は五丈、みな夷狄の服を着て、およそ十二人、臨洮に現れた」と。これは他でもない、長狄・喬如・鴻池送璧の類にすぎないのである。また、「十八異僧、秦に如く」<輔数>というのもおかしなことである。また、烈子に孔子の語を載せて、「西方に聖人あり、仏と曰ふ」と。いま伝うる所の列子は、これ唐後の人が他書を見て作ったもので、別に意図があったのだろう。だから、法苑珠林にも、また周書異記によってこれを引用しているのである。よく見るがよい。列子はこれから取ったのであるが、「仏の曰」の二字なし。思うに作者忌んでこれを省いたのだろう。このような類のことが、実に多い。みな取りに足りない。思うに、漢書の霍去病の伝に、休屠王が天を祭ったときに金人を手に入れた」と。顔師古は云う、「いまの仏像である」と。仏教徒は、多くこれを引いて、もって仏教が中国に渡ったのは、実に明帝に先だつことの証拠である。ところがこれは、世親(筏蘇盤豆))の像であって、仏像ではなかった。法盈記に云う、「インドでは自在天を祠る。黄金を身となし、水晶で眼を作る。この天の像を号して、筏蘇盤豆と呼んでいる」と。こんなわけである。20260915 |
三教 第二十四 |
三教 第二十四 |
三教の争ひあること久し。これ、何をか争ふや。儒はその名数を守り、道はその衛生を修め、仏はその生死を離る。またおのおのその言を立てて、もって道を説く者なり。いま、こころみにこれを蔽するに、儒の淫する所の者は文、仏の淫する所の者は幻にして、しかして、道の、天をもって宗となし、あるいは海外に神仙の居ありと謂ふも、また幻をもって進む者にして、乃ち竺土外道の類なり。その称道も、また最も汚下、もとより儒仏の列にあらず。その経説もまたみなのちに出づ。西昇化胡・三十六天・大羅天帝の居も、要するにみな幻にして、仏に加上する者なり。この方、伝わらず。いま論ぜざる所。静斉劉学士、平心録を作りて三教を論ず。余、執りてこれを読むに、全く幻をもってのその優劣を定む。また、ある人、三教の優劣を李士謙に問ふ。曰く、「仏は日なり。道は月なり。儒は星なり」と。時をもって至論となす。しかるに、これその実は当たる所なし。われ、何の意なるかを解せず。何ぞその至論たるにあらん。これ、みな小輩、何ぞ大道を知らん。 |
儒・仏・道の三教が争うようになって久しい。何を争っているのか。儒教はその四書五経を守り、道教はその不老長生の術を修め、仏はその生死を離れることを説く。またおのおのが自説を立てて、道を説いている。いま、試みに判断するに、儒教は文飾にふけり、仏教は幻に淫し、道教は天をもって宗とし、あるいは海外に神仙の住まいありと謂ったり、これもまた幻説を推し進めて、インドの外道の類である。道教は説く道も、また最も劣っており、もとより儒仏と同列には置けない。その経説もまたみな儒・仏の後に出たものである。老子が西に赴して蛮族を教化したということや、三十六天とか大羅天帝の住居も、要するにみな幻にであって、仏教に加上したものである。日本には、伝わっていないので、これ以上は論じない。静斉と号した劉学士は、平心録を作って三教を論じた。わたしは、手に取ってこれを読んだが、全く幻をもってのその優劣を定めており、また、ある人が三教の優劣を李士謙に問うたその答えに曰く、「仏は日なり。道は月なり。儒は星なり」と。当時はこれを最も優れた所論とした。しかし根拠は何もない。わたしは、なんの意味か分からない。何で優れた所論なのか。この人たちはつまらない人たちだ。どうして大道知ることができようか。20260916 |
ある人、仏を竜門王子に問ふ。曰く「聖人なり」と。「その教へいかん」と。曰く、「西方の教へなり。中国は則ち泥す」と。これ、これを得たり。その、中国は則ち、泥する者は何ぞ。貴ぶ所、幻にあればなり。ある人、儒を余に問ふ。曰く、「聖人なり」と。「その教へいかん」と。曰く、「西方の教へなり。この方は則ち泥す」と。この方は則ち泥する者は、何ぞ。、貴ぶ所、文にあればなり。それ言に物あり。道、これがため分かる。国に俗あり。道、これがために異なり。儒の教へは、かつ、この方にありては則ち泥す。何にか言わんや、仏の教へ、西方の西方にあるをや、故に仏の淫する所は幻にあり。儒の淫する所は文にあり。これを捨てて則ち道に幾し。むかし何承天達生論を作りて、仏道を詆る。顔延之また書を作りてこれを折く。また僧慧琳 |
ある人が、仏のことを竜門王子に問うた。王子曰く「聖人である」と。「その教へはどんなものか」と。答えて、「西方の教へである。中国はそれを泥した」と。これはまことに当を得ている。中国が汚してしまった、とはどんな意味か。インドでは貴ぶところが、幻だからである。ある人が、儒教とは何か、と余に問うた。余は答える、「聖人です」と。「その教へはどんなものか」と。答える、「西方の教へです。日本はそれを汚しました」と。日本が汚した、とはどんなことか。中国では貴ぶところ、文飾にあったからである。そもそも、言葉にはその背景につながる道理がある。道は、このために分かれる。国には独自の風俗がある。道は、これがために異なるのである。儒の教へは、かつ、わが国では汚すのである。まして、仏教は、西方の西方にあって、仏の傾向は幻にあり、儒の傾向は文飾にある。これらを捨てれば、道に近づくことができる。むかし何承天が達生論を表して、仏道を批判した。一方、顔延之は書を書いて、これを論難した。また僧の慧琳が白黒論を著わし、宋詆がこれを論難した。これが儒仏の争である。趙宋の時になって、欧陽修が本論を作って、石守道は怪説を作り、胡寅が>崇正弁を作り、いずれも仏教を排斥した。時に明教大師契嵩が出て、輔教編を作ってこれに答える。また儒仏の争ひになる。わたしは、手に取ってこれを読んだが、要するに、またその幻説と文飾が争っているに過ぎない。20260916 |
明教の言に云く、「仏の道は、何ぞ天下国家を外にせん。ただその所出は、吏よりしてこれを張らず。また(内に隠れている、外から見えにくい)化の理なり。隠れて見難し。故に、世は得てことごとく信ぜず」と。また云く、「仏は神道をもって教へを設け、その内を感ず」と。これその隠れて見難しと云ひ、神道はその内を感ずと云ふ者は、みな因果報応の理を言ふのみ。これ、いはゆる幻にして、仏の真にはあらざるなり。明教はこれを知らず。惜しむべし。かつ、仏はこれ婆羅門の一種、民の教えを掌る者、儒に云ふ司徒郷の儒師のごとし。国家天下は、乃ち刹刹王種の治る所、竺土の俗しかり。明教は、いま何外の言をなす。これその俗に幷せて知らざる者、また惜しむべし。 |
//*明教の言に云う、「仏の道は、何ぞ天下国家を論じないのか。その所出は、治世の立場で、それを主張しない。説くところは、隠れて見えずらい。それ故、世人はこれをすべて信じるということにはならない」と。また云く、「仏は心の道(神道)によって教へを設け、人の心の内を感じとる」と。このことが、隠れて外から見えづらいと云い、心の道によって人の心のうち」を感じると云っているのは、みな因果報応の理を言っているのである。これは、いはゆる幻説であって、仏の真意ではない。明教はこれに気づいておらず、惜しいことである。その上、仏は婆羅門の一種であって、民衆の教化をつかさどる担当で、儒に云う文教を担当した司徒郷の儒師のようなものだ。国家天下は、王種が治めるわけで、これがインドの風習である。明教は、いま的はずれのことを言っている。これはインドの習俗をも知らないものの弁で、また惜しいことだ。//* 20260917
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