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インドの東北部、ヒマラヤ山脈の南、ネパールの南端に広がるタライ平原に、シャカ族の小国があった。王都はカピラ城(カピラヴァストゥ)といわれていた。釈尊はその王家の長子として、ルンビニで生まれた。国は、コーサラ国に従属していた。シャカ族がなんの人種であったか、蒙古系かアーリヤ系だったか、よく解からない。 「釈迦族は一般ネパール人とは異なって、アーリア人であったのではないか、とも考えられる」1※
実名は、ゴータマ・シッダルタ。王宮で何不自由なく育ち、妃を迎え、子ももうけたが、物思いにふけって樹下に坐ずこともあったという。「善なるものを求めて」1※29歳で王宮を出て出家し、6年の修行を経て35歳で、ブッダガヤの菩提樹の下で覚醒し、その後80歳で入滅するまでの45年間遊行し教えを説いた、とされる。
釈尊の出家した所以はなんであったか。
そのときわたくしはこのように思った、-なにがゆえにわたくしは生まれものでありながら、生まれることがらを求め、みずから老いるもの、病むもの、憂うるもの、汚れたものでありながら、老いることがら、病むことがら、死ぬことがら、憂うることがら、汚れたことがらを求めるのであるか?さあ、わたくしはみずから生まれるものではあるけれども、生まれることがらのうちに、患いのあるのを知り、不病・不病・不死・不憂・不汚である無上の安穏・ニルヴァーナを求めよう5※(『マッジマ・二カーヤ』)
「それは、いうまでもなく、生老病死によって代表される苦なる人生をいかに脱するかということであった。」※3
出家して、釈尊は師として二人の仙人を訪ねるが、すぐに師の域に達した。アーラーラ・カーラーマの処では、無所有の域に達しこれはジャイナ教徒も理想の境地とした処であり、ウッダカ・ラーマプッタの処では、非非想の域に達した。いずれも正しい修行のあり方ではないと思い、師の元を去り、山林に入って、過酷な苦行をした。五人の比丘仲間も釈迦と共にした。釈尊はやがて苦行が適切な方法ではないことに気づき、山を下りた。
「かくてわたしは善なるものを求め、無上の絶妙なる静寂の境地を求めて、マガダ国の中を遊歩しつつ、ウルヴェーラーのセーナー聚落に入った。そこに愛ずべき地域、うるわしの森林、流れゆくネーランジャラー河、よく設けられた美しい提、四圍豊かな村落を見た。・・・そこでわたしはそこに坐した」1※
菩提樹の下で結跏趺坐する釈尊に、敷き藁の供養がありまた村娘のスジャータから乳粥の供養があり、釈迦は段々体力を回復して、ついに大悟し解脱して正覚を得た。それから七日間悟りの楽しみを享受して坐していたという。この地はブッダガヤであった。
釈尊のさとりの瞬間の状況は、次のように説かれる。
まことに熱意をこめて思惟する聖者に/ かの万法のあきらかとなれるとき/ 彼の疑惑はことごとく消えさった/ 縁起の法を知れるがゆえである」3※「(『ウダーナ』自説経)
釈尊は、「縁起の法」に覚醒したといわれる。「これあればこれあり、これ生ずればこれ生ず」3※といわれる認識のはじめが縁起の法です。二本の稲(蘆)束が相依って立つ、譬えで語られる。世に存在し生起するものは、すべて相依性の状態にあり生起しているというものです。
釈迦は大悟した後、その内容を一時師事した二人の旧師に伝えようと思ったが、二人とも逝去したことを知ると、一緒に修行した五人の修行者に話すべく、サルナートにある鹿野苑に向かった。途中アージーヴィカ教のウパカという遊行者に出会い、師はだれかと問われてこう答えている。
われは一切にうち勝った者、一切を知る者である。/ 一切のものごとに汚されていない。/ すべてを捨て、妄執を持たず、解脱している。/ 自ら知ったのであるから、誰を(師と)たのもうか。/ われに師はいない。/ われに似たものはいない。/ 神々をふくめた世界のうちに、われに比肩しうる者は存在しない。/ われこそは世間において尊敬さるべき者である。われは無上の師である。/ われは唯一の正覚者である。われは清涼となり、やすらぎに帰している。/ 法輪を転ぜんためわれはカーシー(ベナレス)に向かう。/ 盲闇の世に不死の鼓を打とう。※1(『マッジマ・ニカーヤ』)
覚醒した釈尊の言葉も、ウパカの心を動かすことはできなかった。ウバカは「そうかもしれない」と言って首をふりながら、去って行ったという。釈迦は最初の説経に失敗したのである。サルナートまで300キロ余ほどあり、歩いて10日程の行程であったろう。そこは宗教上の聖地で「仙人の住む地」とも言われていた。
釈尊は、「耳を傾けよ。不死が得られた。わたくしは教えるであろう。法を説くであろう」と語りはじめ、五人の修行者の教化に成功したといわれる。この経典に相応するサンスクリット文の経典には、「そのときじつに世に五人の尊敬さるべき人(阿羅漢)あり、世尊を第六とする」とつけ加えられている。初期の仏教教団では、ブッダも「尊敬されるべき人」であり、ほかの修行者と区別されていません。またゴータマがウルヴェーラーにあってさとり開いた境地と、五人のビクが到達した境地とは同じ文句で説かれている。ゴータマを含めて六人とも安らぎ(ニルヴァーナ)に到達したとされている。そこにはいかなる区別もない。後になってブッダを神格化し、別格扱いしてゆくのです。
ブッダが伝導した地方は、ガンジス河中流域の、おおよそのところマガダ国の首都ラージャガワとコーサラの首都サーヴァッテイ(サヘート・マヘート)を中心とする楕円形の地域で、北はカピラヴィットゥ、南はコーサンビーを都とするヴァンサ国に及んだ。教団の根拠地としては、そのほかマガダの北のヴェーサリー(毘舎離)やカーシー(パーラーナシー)があるが、もっとも重要な拠点だったのはラージャガハの竹林精舎と、サーヴァティの祇園精舎であった。釈尊はこれらの地方を弟子たちを連れて遊行し、毎年夏の雨期の間は根拠地のいずれかに安住して(安居・あんごという)、弟子たちを修行につとめさせた。三十五歳から八十歳にいたる四十五年間について、ブッダの事績で特定の年時と結びつけられた事績はほとんど伝えられていない。しかし経典や律蔵の描くところから見れば、以上のような生活のくりかえしであったと思われる。 4※その後は八十で入滅するまで、遊行し教えを説いて、クシナガラの地で生涯を終えた。最後の説法を懇願する阿難に、釈迦は次のように説いた。
「アーナンダよ、わたくしに何を期待しているのか。わたくしは内外の隔てなしにことごとく理法を説いた。弟子に隠すような握拳は、存在しない。・・・アーナンダよ、わたしはもう老い朽ち、齢をかさね老衰し、人生の旅路を通り過ぎ、老齢に達してわが齢は八十になった。アーナンダよ、譬えば古ぼけた車が革紐の助けによってやっと動いて行くように、わたしの車体も革紐の助けによってもっているのだ。・・・アーナンダよ、この世で自らを島とし、自らをよりどころとして、他人をよりどころとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他人をよりどころとせずにあれ」これが最後の説法といわれる。 原語ディーパという単語の読みによって「自洲法洲」(洲というのは川の中洲または島を指す)「自灯明法灯明」「自帰依法帰依」の教えとして後世いわれています。最後の文は感動的である。ブッダは最後まで自分で托鉢していたのだ。
そうして尊師は午前に下衣を著け、衣鉢を取って、托鉢のためにヴェーサリーに入って行った。※6(『大パリニッバーナ経』)
悟りの内容については、増谷文雄氏の 釈尊のさとり をご覧ください。 同じく関連でこちらの経も参照してください。
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